
今朝は、昨晩からいくばくかの大仕事がありまして、徹夜明け。おかげで5時の朝焼けを見ることができました。あざやかな色で、驚きました。仕事柄、徹夜には慣れていましたが、最近、所属が変わって徹夜勤務もめっきり減りましたので、昔より辛い感じ。歳というのもあるのか…。
10月になって秋本格と言いながら、日中は随分と日差しが強い1日でした。これから秋の良い季節にどんどんなっていきそうで楽しみです。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生


今朝は、昨晩からいくばくかの大仕事がありまして、徹夜明け。おかげで5時の朝焼けを見ることができました。あざやかな色で、驚きました。仕事柄、徹夜には慣れていましたが、最近、所属が変わって徹夜勤務もめっきり減りましたので、昔より辛い感じ。歳というのもあるのか…。
10月になって秋本格と言いながら、日中は随分と日差しが強い1日でした。これから秋の良い季節にどんどんなっていきそうで楽しみです。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

それは単なる、おぼろげな、誤謬に満ちた一老学徒の記憶を紡ぎ出していった世界に過ぎない。しかしそれが書きとめられ、絶えず描かれた形で呼び戻されるということは、未来永劫に闇の中に沈む存在に較べると、なんと確かな存在感を持つのだろう。私が夜更け何にもかかわらず、思わず回想の中にのめり込んで行き、筆を執らずにいられなかったのは、この回想録こそが、虚無の闇に浮かぶ光の島のように思われたからである。この世の空無感が強くなればなるほど、回想録は、伝説に出てくる花咲く浮島のように、虚無の闇の中にくっきりと漂い始めるのである…。
辻邦生「春の戴冠」新潮社、1996年、761ページ
今日は本当に良い天気でした。1ヶ月ぶりぐらいに感じます。ですが、家で黙々と掃除などをしていました。ふとした拍子に本棚から1996年に出た「春の戴冠」を取り出し、おそらくは10年ほど前に読んだ時につけた付箋に手をかけたら、こちらの文章が出てきました。
これを読んで思い出したのが、私が芸術というものを私なりに初めて理解したと思えたときのことでした。理解したと思えたときのことでした。いつかも書いたかもしれませんが、書いてみます。
こちらは、イタリアルネサンス後期の画家ヴェロネーゼの「カナの結婚」という作品です。この作品をいつぞや、ルーヴル美術館で見る機会がありました。この巨大な絵画を眼前にして、真実在という言葉が出てきたのでした。おそらく、西田幾多郎の文脈における真実在という言葉だったと思います。
もちろん、それは正しく西田哲学のタームとしての真実在という言葉に当てはまるものであったかどうかはわかりません。ただ、その時の真実在という言葉には、何か肉感的な生々しい、手に触れることのできるような温かみさえ持つような感覚だったと思います。
この「カナの結婚」の中に描かれている数多の人の姿は、当然のことながらヴェロネーゼの手による創作であるわけです。ですが、それは創作という人間の頭の中でなされたものを超えて、本当にこういう風景があった、という真実味を帯びていたと思うのです。本当に、こういう宴が、こういう場所で開かれていて、楽器を弾く人もいれば、ワインを注ぐ人もいれば、品定めをする人もいれば、ということが、ありありとした真実味を帯びて感じられたのです。それまでは、おそらくは、絵画というものは、何か作られたもの、と、いう感覚を持っていたのですが、この時からそれが変わりました。芸術作品にある真実味というものは、現実世界とは全く関係なく、真実としてそこにある、ということが直感的にわかった、ということなのだと思います。
これは、もう、語れば語るほど、書けば書くほど、そうした意味合いから離れていくのだと思います。ですが、書くとしたらそういうことです。
それで、この辻邦生「春の戴冠」に書かれていることも、やはりそういうことなのだ、と思うのです。回想録、つまりこの「春の戴冠」に描かれていることに他ならないのですが、それが現実という虚無の世界からはなれて、「確かな存在感」を持ち「闇に浮かぶ光の島」となるほどの存在になるということです。現実を超え現実と離れて、描かれたことが「真実在」となる、ということ。これは美術作品もそうですが、文学作品もやはり真実在として、そこにありありとした真実味を帯びて現前している、ということなのだと思うわけです。
そこで思い出したのが同じく辻邦生「言葉の箱」。
言葉によって世界を作り、その箱の中にあらゆる世界を積み込めるんだという信念
82ページ
フィクションの架空の出来事、場所、人物は、実際に小説の中以外にありえない、つまり、現実のどうかに探しに行ってもありえない。
77ページ
辻邦生の授業で語られたことを聞いたことがあります。辻邦生が言っていたことは、小説の舞台に読者が行ったが、そこは小説の世界とは違っていて、読者は驚いていた、という趣旨のことだったと記憶してます。それをさも笑い話であるかのように話しておられたのでした。
つまり、小説世界と現実世界の断絶について話をされていたわけです。断絶というよりも、小説世界が現実世界をさらに超えたものとして浮島のように光り輝き現存している、という感覚なのかもしれません。確かに、作品のイメージとして、小説の舞台に行くのはおもしろいことなのかもしれませんが、それは作品とは断絶している、ということを言っていたのだと理解しています。
「春の戴冠」の語り手であるフェデリゴは、ある意味辻邦生の分身であり、フェデリゴが書く回想録というものは「春の戴冠」のテクストそのものであると言ってもいいわけですが、その「春の戴冠」は、実際のフィレンツェやボッティチェルリとも離れた、一つの真実在として、それそのものが大きな価値として光り輝く浮島のようにこの世界の上に存在している、ということで、それがゆえに、フェデリゴ=辻邦生は、メディチ別邸での宴をこと細かく描写し、それはもちろん実際にあったものではないのですが、それでもフェデリゴ=辻邦生が真実在として言葉によって世界を作り出し、それを読者は真実在としてありありと生々しく感じている、ということなのでしょう。
辻邦生「言葉の箱」では、小説に大切なものは、「詩」、「根本概念」、「言葉」である、と書かれています。
小説を書く場合、(中略)世界を超えてしまうか、世界を拒否しているかで、何もない無の世界にいる。そして、言葉によって新しい世界を、新しい人物を作っていくわけです。この感覚がないと、強い作品は生まれません。
162ページ
まさに、先に言葉があって、そこから新しい世界を作るという、素朴な意味での、認識の対象と主体の逆転のような事態が起きています。西田幾多郎の哲学で純粋経験という概念があって、最初に主体も客体もない、経験そのものがあって、そこから世界が立ち現れる、というような趣旨なのですが、それに近いものを感じるという意味では、最初に出てきた西田哲学用語の「真実在」というもあながち間違ったものでもないのでは、と思います。
今日は長々としたものになってしまいました。最近、なかなか書く時間が取れませんでした。ですが、やっと9月末でひとつ山を越えました。次の山も半月後にあって、山ばかりなんですが、どうしたものでしょうか。もう少しタスクは選んだようが良いかも、と思ったりもしております。
それではみなさま、おやすみなさい。
先日、とある機会があり、全寮制の男子校(高校)の側を通りました。寮の前のグラウンドで、サッカーに興じる生徒たちと、それを寮生たちが2階から身を乗り出して眺めていて、声援を送っていました。一階にはその様子を眺める女性教師がいて、という感じ。なんだか、旧制高校みたい。といっても旧制高校をみたことはありませんけれど。
旧制高校の特別な空気のようなものは、辻邦生の小説(特に「風越峠にて」など)で、その雰囲気がよくわかります。そういう空気はきっともう無いと思っていましたが、意外にもあるのかも、などと。
一昨日の秋分の日に、NHKで放送されている「らららクラシック」の再放送を見ました。エリック・サティの回で、ジャズミュージシャンの菊地成孔さんが出てました。成孔さんは、実は大学時代のサークルにゆかりがあって、一度だけお会いする機会があってセッションしたことがあります。成孔さんのサックスが壊れたのだが、レコーディングに使わなければならず、当時私がとある方からお借りしていたカイルスベルスのテナーを使われる、ということで取りにいらした時でした。今はもう遠い方ですけれど。
番組の中で、サティは、モンマルトルで音楽を書いて、みたいな話のつながりで、成孔さんは「自然のなかでは落ち着かない。歌舞伎町のような街中でないとだめ」という趣旨のことをおっしゃっていました。逆に、自然の中でないとだめな方もいるわけで、番組では、「人間の芸術と自然の芸術のふた通りがある」という話になりました。
以前にも聴いたことのあるようなコンセプトだったりしますが、辻邦生はどうだったのだろう、と思ったり。たぶん両方だったのだろう、と。
辻文学は、自然描写も凄まじいですが、人間を見入る力も凄まじいです。
私にとって忘れられない自然描写は、おそらくは、「背教者ユリアヌス」の冒頭、霧の中から城さいが現れるシーンでしょう。それから、人間を見る目、という意味でいうと、「ある生涯の7つの場所」に出てくる女性たちが忘れられず、エマニュエル、朝代、咲耶と言った女性たちは、時代設定は古いですが、何か新しい時代を自由に生きる人間の姿を感じさせ(女性の姿ではなく、人間の姿、です)、忘れることはできないです。それから、雨の都会が好き、というフレーズを何度となく読んだ記憶があります。確か、「言葉の箱」だったかと記憶しています。
ですが、もう1つ。辻邦生の場合、「本の芸術」、というのもあるな、と思いました。以前にも書いた気がしますが、菅野昭正さんが、週刊朝日百科で、辻文学を「本の小説、小説の本」と称していたはずです。
https://museum.projectmnh.com/2016/03/21225416.php
歴史小説とは、歴史という「本」からインスパイアされるものである以上、辻文学は「本の芸術」という側面もあるのではないか、ということだと理解しています。歴史だけではなく、多くの哲学書を読まれていて、それらを活かしたというのも、やはりまた「本の芸術」といえるのではないか、と思います。
こうして、辻文学は、「人の芸術」でもあり「自然の芸術」でもあり、「本の芸術」でもある、なんてことを勝手に思いついてしまったというわけです。
自分のことに翻ってみると、芸術家ではないにしても、個人的にはやはり自然が好きなんだろう、と思います。街の喧騒も嫌いでありませんが、静かな山奥でひっそりと過ごすことにも憧れます。育った場所や、親の記憶、自分の記憶などがそうした志向を形成しているのだと思いました。
あとは、やはり本も。昔読んだ子供向けの西欧小説の記憶も。「若草物語」「家なき子」「パール街の少年たち」「ゆうかんな船長」「ロビンソン・クルーソー」「海底二万海里」「十五少年漂流記」などの記憶は薄れることなく、あのような世界に立ち返りたいという欲求は抑えがたいものがあります。辻邦生の小説、特に西欧を舞台にした小説に共感するのも、こうした記憶があるからではないか、と考えています。
今日、9月24日は辻邦生の誕生日です。1925年生まれということですので、91年目ということになります。
それではみなさま、良い1日を。
昨日少し触れましたが、今、吉田健一の「金沢」を読んでいます。
きっかけは、辻邦生のエッセイに登場したから。吉田健一と辻邦生の交流がかかれているのですが、辻邦生が吉田健一論を書きたいと思ったが、そこまで至っていない、という趣旨のことが書いてあり、読んで見ることにしました。辻邦生以外の日本文学については不勉強なわたくしは、名前は存じていましたが、作品を読むのは初めてでした。
で、読み始めると、この息の長い文章のリズムが、本当に素敵で、長い文章のリズム感、あるいは波のようなうねりに身体が乗ると、とても心地が良いのです。ある意味辻邦生の文体にも似ている、と強く思いました。
これを手にとってみて、あ、ゴルトベルク変奏曲を、聞かないとと思ったのも、静謐さを感じたから、ということもあるでしょうし、音楽的なリズムのようなものを感じたというのもあるのかも。
秋雨ということで、雨が続いていますが、こういう雨の風情を感じる余裕がもう少しあれば、と残念です。
それでは。
いや、これはほんとうにいいですね。シモーネ・ディナステインのゴルトベルク変奏曲。
2007年にこのゴルトベルク変奏曲をリリースしてブレイクしたようです。
この曲を何故聞いたのか?
ブラームスの交響曲第2番を聴きながら、吉田健一の「金沢」を読んでいたんですが、どうも雰囲気が違うなあ、とおもい、ゴルトベルク変奏曲がぴったりと思ったのです。で、AppleMusicで検索するとグールドとディナースタインのアルバムが登場。聴いたことのなかったディナースタインを選んだら、これはすごい、と。
まずはタッチが柔らかく、端正です。グールドもよいなあ、と思っていた頃もありましたが、このアルバムを聴くと、まるで軒先から滴る水滴のような音で、しばらく聴き入ってしまいました。
それにしても、これまであまりゴルトベルク変奏曲をきくこともありませんでした。記憶にあるのは、グールドと、アンソニー・ニューマンぐらい。
アンソニー・ニューマンのゴールドベルク変奏曲は構築美に横溢する演奏です。
私が持っているのは1987年に録音されたバージョンで、小学生の頃両親が買ってきてくれたものと記憶しています。
このCDのライナーは黒田恭一さんが書いておられるのですが、黒田さんらしい素敵な愛情に満ちたライナーで、幼いながらにすごいなあ、と思いました。アンソニー・ニューマンが若い頃に録音した演奏と見違えるような演奏になっていたのを「お帰りなさい、アンソニー・ニューマンさん、すっかり大人になられて、はじめはあなたとわからないほどでした」というコメントを書いているのですね。ただ、当時の私には演奏の違いを聞き分ける耳はあるわけはなく、そのコメントは全く理解できませんでしたけれど。
ちなみに、若い頃に録音されたゴルトベルク変奏曲はこちら。こちらは未聴です。このライーナーのデザインについても黒田さんは書いておられました。曰く、「今ならこのようなデザインは選ばないだろう」と。
Youtubeに上がっていたのはピアノ版で、こちらも素敵でした。
秋の夜長に、こうして文章を書けるのは、ありがたいことです。今日新聞を読んでいたら、やはり毎日かくことが大切、みたいなことを読みました。このブログも毎日書いていたこともありました。昨年も9月22日から半年ほど、ほぼ毎日書いていたみたいです。また頑張ってみようか、と思います。
ではみなさま、お休みなさい。グーテナハトです。
いろいろ仕事の山が続いていて、といっても個人的なものなので、そんなに大きなものではないのですが、そうはいっても、大変なことは大変なので、差し当りの無事を神頼み。
まあ、この歳にもなると、自分のやっていることは、別に自分がやっているわけではない、という気分になってきてまして、うまくいくのもうまくいかないのも単なる巡り合わせに過ぎない、という感じになってきました。なので、怒られても褒められても、なんだか他人事のような感じです。なので、さしあたりは、自分ではない何かに思いを託すということなのだと思います。特に日本は災害が多いので、最終的には神頼みになってしまうのかなあ、なんてことを思います。
で、今日はこちら。
相変わらず聞いているブラームスの交響曲第2番。今回はサバリッシュがロンドンフィルを振ったものです。正統的で高潔なブラームス。すこし癒されました。
先日イタリアで地震がありましたが、ドイツやフランスあたりでは地震はあまり少ないと聞いたことがあります。文化と自然環境は関係しているのかなあ、なんてことを思いました。
それではみなさま、よい連休を。
今日はジュリーニのブラ2。録音は1991年で、ウィーンフィルとの演奏。ジュリーニらしい重みとともに、軽やかさを兼ね備えた、絶妙な演奏です。ロスフィルとの演奏もあるようです。そちらも聴いてみたいです。
私の中では、ジュリーニといえば、ブル8でして、あの第一楽章の圧倒的な高揚感が懐かしいです。あれがきっかけで、ブル8を何枚も買い込んで聴き比べたものです。
そういう意味で言うと、ジュリーニのブラ2もブルに聴こえてもいいはずで、確かに第一楽章の展開部のあたりは、確かに対位法的構築美がブルっぽい感が横溢しています。第二楽章もやはりどこかブルックナーような空気で、深い森の中に沈んでいく感覚。
まあ、それにしても、本当に本当に遠くまで来てしまったものです、なんてことを考えながら、聴いてしまいました。
珍しくもありませんが、気がつくと40年以上も生きているわけで、本当に遠いところまで来てしまいました。それも思いもよらぬところへ。そしてなお、違うところへ向かおうとしているのではないか、ということ。
それはしかし、よいこともあれば悪いこともあり、適応という言葉で語られることもあれば迎合という言葉で語られることもあり、捉えたり受け止めたりするのは難しいものです。
しかし、咀嚼や理解や諦観のような気分でもあり、昔のようななにか定めることなくとも良くなった気もします。
こうやって人は齢を重ね重ねるのか、と思いつつ、はて、今度はどこへ連れて行かれるのか、または、どういうふうに旅が終わるのか、と想像しながら過ごしていました。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
Celibidache: Sacred Music & Opera
夏も終わり、秋めく毎日。残暑はありますが、空の表情も本当に変わりました。セミに変わって虫の声が聞こえる日々です。すこし寂しさを感じます。
変なタイトルですが、なんか面白いので、あえてこのタイトルにしてみました。つまり、チェリビダッケがミュンヘン・フィルを振ったプラームスの交響曲第2番は、まるでブルックナーのような響きがする、ということです。
第二楽章なんて、ほとんどブルックナーの何かの交響曲の緩徐楽章のように聞こえます。9番とか7番とか。ゆっくりとオケを歌わせるので、そんな感じに聞こえます。
もちろん、ミュンヘンフィルとガスタイクで録音したブルックナーの交響曲のサウンドが記憶にありますので、そういう印象をうけてもおかしくないのですが、それでもやはり、ほかの指揮者のブラームスとは印象が違います。弦のうねりはもちろん、金管の咆哮が、ブルックナーの交響曲に出てくるワーグナーチューバに聞こえてくるのです。
そんなことを思いながら何度も何度も聞いてしまいました。
仕事の山は、高かったのですが、なんとか超えた気がします。ですが油断は禁物。次の山が迫ります。
どの山に登るのか、という問題もあるかも。
それではみなさま、よい1日を。
先日からのブラームス交響曲第2番ばかりきくプロジェクト。先日以降、カラヤンとバーンスタインを聴きました。
特に感銘を受けたのがバーンスタイン。
これも先日書いたバーンスタインの田園の件と同じく、これも恍惚としたブラームス。緩徐楽章の恍惚とした美しさに酩酊してしまいます。この曲はブラームスの田園交響曲と呼ばれていますので、そういう共通性を、感じても不思議ではありません。深い悲しみとそれを咀嚼する静かな諦念のような境地。この曲を聴きながら、遠くに見える山を眺めていたい気分。まあ、若いときだと違うように聞こえるのかもしれません。
録音はウイーンフィルとのもの。もちろんAppleMusic にて。録音はおそらく1982年。
次回はチェリのブラ2を書こうと思います。
今日は朝から晩まで頭を使いました。明日も明後日も盛りだくさん…。
それではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。