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ソメイヨシノ満開です。

ですが、東京地方は曇り空でした。さらに寒い。だいたい現在12度ぐらいのようですが、まるで冬のような感じです。曇っていることもあり、なんともかんとも。ただ、寒いと桜が散るのが少し遅れることにもなりそうです。

昨日から新年度。いろいろギアチェンジしないと。

きょうはこちら。

ブルックナー:交響曲第7番
バレンボイム(ダニエル)
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バレンボイムがシュターツカペレ・ベルリンを振った交響曲全集から7番を。バレンボイムらしい質実剛健な演奏。これがドイツ的なのかなあ。バレンボイムはドイツ人ではないですけれど。。

それでは。

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今日は振替休日でした。2年ぶりぐらいに川越の喜多院へ。

まったく意識していなかったのですが、行ってみるとなんとしだれ桜が絶好の状況で驚きました。徳川家光お手植えのしだれ桜の二代目という説明です。流れ落ちる滝のように桜が咲いている様子は実に見事です。ヒヨドリが何匹もこのしだれ桜に集まっていて、桜の花びらを食べているようでした。ヒヨドリが枝にとまったり、あるいは飛び立つとき、枝が打ち震え、桜の花びらが幾重にも散る様は、なにか詩的な感興を呼び起こすものでした。

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それにしても、なんだかんだ言って、日本人だなあ、と思いました。こうした風景はもちろんですが、本堂で護摩壇で火を焚きながら読経しているのを見て、本当に心に沁みるものがありました。日本人は本当に不思議です。

音楽的にも面白くて、太鼓のリズムに合わせてお経が読まれているわけですが、護摩壇で仏具を叩く金属音がポリリズムというか変拍子のリズムを叩いているというか、なにか太鼓のリズムに合わないようでいて、実は同期しているというリズム感に興味を覚えたりしました。

ちなみに、一眼レフも持っていたのですが重すぎてあまり使わず、結局きちんと撮れてスピード感をもって使えるのはiPhoneで撮った写真という状況です。コンデジの時代はもちろん終わっているのですが、一眼レフも危ないですね。。もちろん一眼レフの表現力がとてつもないのは言うまでもありませんが、そうだとしてもiPhoneのようなスマホでも、その場で様々な加工をしてスピード感をもってクラウドにアップできるというのは、10年前からするとほとんど信じられない状況です。

さしあたり、すこし癒された感あります。さすがに最近色々ありすぎました。また明日からがんばらないと。

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

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写真は、やはり西行花伝っぽい桜の木。先週の土曜日に撮った写真です。

西行花伝。ずっと読めずにいたのですが、また再開しました。

それにしても、素晴らしい場面に出くわしてしまいました。もちろん、初めて読んだ20年近く前の記憶はかなり曖昧になっています。その後の人生経験のようなものにおいても随分と良い方は変わっていると思います。そういう背景があって、読むのが二度目でありながら、本当に感嘆していまいました。つまり言葉の芸術の極致なのかなあ、と。

それは、女院と義清が出会う瞬間です。この感動は、映像では絶対に表現できません。本当に言語芸術の極致を見た気がします。

語らないことの重要性です。

女院は、それまで鳥羽上皇や白河法皇との関係で登場するのですが、顔についての描写はないわけです。ですので、読み手は義清と一緒に、女院が義清の母であるみゆきの前と似ているという事実に驚くことになるのです。

映像作品であれば、女院と義清の母が似ているということは先んじてわかっているはずです。ですが、言語芸術の場合、語らなければいいわけですね。女院の顔を初めてみた義清の驚きと、我々読者の驚きは、義清に移入していれば、まさに義清と一緒に驚くことになるのですね。

確かに、映像や漫画のような芸術に小説は負けるのではないか、と思うこともしばしばなのですが、何か映像芸術ではない言語芸術のプライオリティを実感した、と思いました。

まだまだ希望はあるのかも、などと。

でも、さすがに最近は色々あるなあ。早く落ち着きたいものです。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

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昼になって晴れました。三春のしだれ桜だそうです。

今日の東京地方、寒い1日でしたが、お昼頃からは日差しが照り、少し暖かくなりました。

近所の公園に行ってみましたが、ソメイヨシノはまだまだ。ですが、しだれ桜は随分と咲いていました。

明日も仕事関連の講習へ。ま、仕事は仕事ですが、仕事をもっと高速化しないと。

音楽の方は相変わらずブルックナーばかり。

Bruckner: 9 Symphonies
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今日は短く。おやすみなさい。

 

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SAKURA2016

東京では月曜日に開花となった桜ですが、本日、振替休日だったこともあり、近所の桜を見に行きました。曇り空だったので、青空にバッチリ映える桜は撮れませんでしたが、日の丸構図ですが、なんか水墨画みたいでいいかも、と勝手に思ったり。iPhoneで急いで撮ったのでピンが少し甘いです。

今日からまたヨッフムのブルックナーの聴き直しを始めました。第1番から順番に。やっぱり、激しい演奏だ。。

Bruckner: 9 Symphonies

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あたためていたものがなんとなく言語化できてきたのですが、それがあまりに壮大すぎて、空恐ろしい。だが、やらないといけないことなので困っています。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

Bruckner: 9 Symphonies

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昨日から、ヨッフム&ベルリンフィルorバイエルン放送管弦楽団のブルックナー全集を聴き続けています。ただ、さすがに全て身を入れて聞いているかといえば、なかなかそうもいかない感じではありますが。

結構、スタイリッシュというか、テンポが早く激しい演奏だなあ、というのが印象でした。確かに、昔聞いたミサ曲第三番なんかもずいぶんスリリングな演奏で、老齢のヨッフムの写真が印象に残っている身にとっては、なんだかお歳を召しているのになんて元気な演奏なんだ、と思った記憶がよみがえりました。

3 Masses

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ブルックナー:交響曲第5番
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先ほど、九番まで聞き終わりましたが、もう一回聞いてみないと、と思ってます。

なんというか、きっとワーカホリックなんやろうなあ、と思いながら、予定時間より3時間も多く働いてしまうという。まったく。。そろそろ考えないと。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

すべての写真-4012

私の記憶では、1998年ごろからだったと思いますが、週刊朝日百科が「世界の文学」と題して、全120巻の世界文学案内のようなものを刊行していました。文学に関する話題を、映画の場面などを使いながら、一望できる画期的なものだったと思います。

その、第100号に辻邦生が取り上げられています。歴史小説に関する評論で、書かれたのは辻邦生の親友だった菅野昭正さんでした。

前半は、ひたすら森鴎外の歴史小説論を書きながら、後半にかけて、歴史が本に記されているものである以上、歴史小説は本の小説であるといいつつ、いわゆる、森鴎外の「歴史其儘」と「歴史離れ」の融合が歴史小説であり、その顕著な実例が「背教者ユリアヌス」である、とします。そうした小説を書くための方法論が、「小説への序章」であり、それがいわば、小説についての本であるがゆえに、「小説の本」というわけです。「本の小説」を書くために「小説の本を書いた」というまとめ方は、辻邦生が創作ノートと哲学ノートの二つを駆使しながら小説を書いたという話が敷衍されているものと思われます。

ただ、菅野昭正さんの文章は、前半の歴史小説に関する論説が少し長いのです。多分、もっと書くべきことはあったのでしょうが、無理やり文字制限に押し込めたのではないか、と思うようにも思えるものでした。きっと、「西行花伝」や「春の戴冠」にも触れたかったに違いないのですが。そのせいか、「西行花伝」について言及されていないにもかかわらず、西行が文章中に突然登場し、「西行と遊女図」という絵が紹介されているという唐突感に気づきました。わかっている人が読めば、「西行花伝」を敷衍したものであることはわかるのですが。確かに欄外に注記などはあるのですけれど。

この第100号は「日本文学の現在」というテーマです。独立して取り上げられている作家は、中上健次、辻邦生、村上春樹、筒井康隆、宮本輝、宮尾登美子、河野多惠子です。その他に、村上龍、高橋源一郎、浅田彰、田中康夫、小林恭二、島田雅彦、吉本ばなな、など。ポストモダンやグローバリズム、といった観点で2000年頃当時の「日本文学の現在」を取り上げられている中で、辻邦生の「背教者ユリアヌス」が取り上げられているというのも、また何か不思議な感覚を覚えます。辻邦生だけが異色に思えるのです。

この号では、辻文学の特性は「高い理想的な何者かを目指す意志を支えとして、日々の現実を生きることに意味を発見する」、「辻邦生の小説は、現在の日本文学にはめずらしい理想主義と崇高な色調にいろどられる」と書かれています。別段、何十年も辻邦生を読んでいる私にとっては何ら不思議ではないことですが、この「めずらしさ」こそが辻文学の変わらぬ価値なんだろうなあ、と思います。

東京では桜咲く。私の近所でも一輪ほど咲いているのを見つけました。昼下がり私の街を1時間半ほどかけて自転車で縦断したときのことです。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

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昨夜トラブルで徹夜。たまにあることなので慣れてます。

先日からブルックナーばかり聞いていたり。

ブルックナー:交響曲第8番(クラシック・マスターズ)
カール・シューリヒト
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でもブルックナーは、きっとダブルスピークではなく、素直に書けたのでしょうけれど、芸術は、おそらくはそこに現れた直接の意味と、その背後の意味と、二つ重ねて考えなくてはならないようになってしまう場合ももちろんあるんだと思います。信用できない語り手、問題。あるいは、作品全体が二つの意味を持っている問題。

音楽評論家の方がどこかで書いておられたのですが、洒脱な音楽を書くプーランクは、現実の凄惨さを踏まえた上で、それを乗り越える意味であえて洒脱な音楽を書いていたという見方があるみたいです。

これ、辻邦生の戦闘的オプテイミズムの考え方と似ています。逆境にあって理想を語るべし、というもの。ただ、がゆえに、歴史小説だったということも言えるのだとも思います。

昨日の徹夜仕事も、疲れた時にこそ真価が発揮されるみたいな感じがあります。あるいは、先日来休みなく働いている時も、そういう時こそきちんとした仕事をしないとみたいなことも言えます。逆境にあってこそ笑みを絶やすな、みたいな。

もっとも、あまり笑ってばかりだと、楽しているのではないか、と疑われるのでほどほどに、とも思います。難しいです。

それではお休みなさい。グーテナハトです。

 

 

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どうも、最近は「変化」をネガティブにとらえがちなのかも。

帰宅しながら、聴いたこちら。

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ヨッフムの振るブルックナーの交響曲第7番。これを聞いて、真っ先に寂しさを感じてしまったのですね。歴史の終わりに際して、ロマン派が大きく花開いた時代に書かれたこの交響曲の大きさとか美しさのようなものが、郷愁と哀愁を帯び散るように思えて。

ただ、歴史はこのブルックナーの交響曲第7番以降何度も終わっているのでした。まずは第一次世界大戦で終わり、第二次世界大戦で終わり。そして、もしかすると、それから何度も何度も歴史は終わっている。つまり断絶しているのだ、と。ただ、それは私がこの交響曲を聴いた30年前スパンで捉えているに過ぎないのだなあ、とも。30年前はまだソ連がありましたが、あれからも何度も歴史は断絶しています。ベルリンの壁が壊れ、9.11があり、数多の戦争があり、3.11があり。断絶という言葉をあえて使いますが、実際には歴史の転換点のようなものであって、その中で、失われるものもあれば、生きながらえるものもあるわけです。そうした生きながらえているものの一つにこの交響曲があるのかもしれませんが、その生き方もやはり変わっているのだとも思います。

今日この交響曲を聴きながら思ったのは、不協和音の多さやめくるめく転調でした。当時はおそらくはとても画期的なことだったのではないかと思うのです。ですが、同時代のフランス近代音楽や、その後のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンなどによって、その画期性は陳腐化したのでしょう。それでもなお、生き残っているのは、特定の領域に受容されるそれ自体の美しさのようなものがあったり、あるいはその時代時代で新たなパースペクティブを持っていたからでしょう。

ですが、私には、まだその新たなパースペクティブのようなものがわからず、もしかすると(私の勝手な想像ではありますが)、教授の職を得ようと、唯ひたすらに作曲に没頭し、ヴェルデヴェーレ宮殿の庭師の小屋に住むブルックナーの姿と、それを取りまく、フランス革命後の自由の気風とそれに対する反動の戦いが見えてしまい、それがどういったアクチュアルな意味を持つのかというのがよくわからず、ただただ、美しいという感想しか思い浮かばないのです。私はこの曲をドイツ旅行からの帰路、夕刻のシベリアで沈みゆく太陽が雲海を金色に染める風景を見ながら聞いたことがあります。あの神々しい風景がおそらくはこの曲と結びついていて、何かイデアールなものを想起させてしまうわけです。

私はこの文章を書く前に、寂しさを覚える、とまで思いました。歴史の終わりにあって、この美しさはすでに失われたのではないか、という思いからです。ですが、それは間違っているとも思いました。ただ単に、それは経験に左右されるものであったり、極度に19世紀ロマン派の考え方に拘泥しているからに違いないのです。確かにこの曲の実在のようなものは今ここにあるわけで、それが「歴史の終わり」のようなものを何度も何度も通り抜けながらもここまで至っていて、時折この極東の国でも演奏会にかけられるような状態にあるということは、「歴史の終わり」に際しても、この曲に美しさや力がのこっているだけではなく、「歴史の終わり」は「終わり」ではなく、次の「歴史の終わり」への道程に過ぎないということなのでしょう。

この曲はおそらくはこの後もしばらくは美しいものを表出し続けるでしょう。ただ、文化文明というものが本当に儚いということも我々は知っています。良いという価値が相対的であることも知っています。昨今、イタリアでは文化予算を増やしているようです。その理由が何であるにせよ、彼らは重要性をわかっているということも改めて思いました。また、日本人の我々が、この曲を聴いているということに対する疑問もやはりなお残ることは言うまでもありません。

 

 

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頑是ない歌

http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/files/219_33152.html

夜、帰宅の電車の中から、車両基地が見えた時、ふと思い立った言葉が「思えば遠くに来たものだ」でした。

誰の言葉だっけ、と探してみたら、中原中也でしたか。吉田秀和が「中也が」と呼び捨てにしているのをテレビで見て、驚愕したのが懐かしいです。

ま、みな思うことは一緒ですね。思えば遠くに来たものだ。だが、ここは思った場所ではなかったのだ、と。12歳の時のことを30歳で思うというも、何か合点が行くような。

ちなみに海援隊も「思えば遠くに来たもんだ」と歌にしているようですが、私は海援隊は聞いたことはありません。多分、高校の時に読んだんでしょう。

歳をとると誰しも思う言葉なんでしょうけど、「畢竟意志の問題」なんでしょうね。

今日はこちら。

ブルックナー: 交響曲第9番(クラシック・マスターズ)
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シューリヒトを初めて聴いた時の鮮烈な感覚を思い出しました。確かに、今聴くと、技術的にはいくらかのキズはあるのです。しかし、なにか清冽なうねりのようなもの、エッジの効いた輝きのようなものが確かにあるなあ、と。ただ、それが17年ほど前の記憶とすこいばかり形を変えていることに驚きます。時間。記憶。移ろいゆくもの。が、考えるのはあまり意味がないのかも。中原中也が言うように、

なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

でも、やっぱり

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

というわけで、また明日。おやすみなさい。グーテナハトです。