Apple Music,Music

仕事の追い込みを続ける日々。個人的には、午前中と夜は絶好調ですが、午後に体が動かなくなります。今日も15時を回った途端に体が動かなくなりましたが、17時を回って途端に回復しました。若くはないので、大変です。。

そんな今日の白眉はこれ。「はじめてのプーレーズ」をAppleMusicで聞きました。《春の祭典》や幻想交響曲など、鋭利な演奏で面白かったです。

ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ 春の祭典
ピエール・ブーレーズ、CSO
インディペンデントレーベル (2014-08-03)
売り上げランキング: 3,534

それにしても、ブーレーズらしさ、とか、マゼールらしさ、とか、ショルティらしさ、というものが(いまさらなんですが)、身体的感覚としてわかるようになってきたのは、AppleMusic のおかげなのだと思います。それも、以前とは比べものにならないほど、実感として。かつては、いつも背伸びをしているのではないか、と自分を律しながら、考えていた気がしますが、AppleMusic で何度も何度もいろいろな盤を聴けば、なんとなくひとつの身体的感覚に収斂していくのを感じます。それは、どうやら言語化すると途端に実体を表さなくなるようなものだと思います。なので、身体的感覚のようなもの、と捉えています。
この演奏差異による身体的感覚というのは、本当にジャズとは違うなあ、と思います。ジャズの場合だと、インプロヴァイズの差異、つまり符割の差異という、重大な質的差異があり、その後、そこに付随する様々な差異が現れるわけです。(近代以降の)クラシックを現代において聴くということは、符割の差異は原則なくて(版の違いとか、カデンツァが違うということはありますが)テンポや音色の違い、ニュアンスの違いを語ることになります。それは、なにか、形相と質料の差ほど、違うものではないか、と思うのです。

それを腹の底から感じたの、オーボエを習っていた時に感じたものでした。それまでは平均律とMIDIの世界にいたのに、オーボエといえ音程をコントロールしながら吹くという、アナログでニュアンスに満ちた世界に来てしまったという感覚でした。

まあ、このようなことは、既に何方かが研究しているのだとは思いますが、音楽聞いて30年で、こんなことを思うようになった、ということなのかと思いました。

やはり、ウィークデーはなかなか書けません。が、いつも帰宅の電車で粘ります。粘っていると書くことが出てきて、今日はこうなりました。

それではみなさま、おやすみなさい。

Music

以前にも書きましたが、音楽の嗜好というものは、人それぞれで、決して一致することはないです。

音楽の嗜好の全体を、音楽志向総体、という言葉で表してみます。それは、まるで人を包む大きな球体のようなものです。

たまに、音楽嗜好総体の一部が、他の人の総体と触れ合う時に、そこはかとない歓びを感じるのですが、お互いに話せば話すほど、その触れ合った箇所が互いの総体の中で、ほんのわずかなところだったということに気づき、落胆のような、寂しさのような、複雑な気分を味わうものです。

時に、同じ演奏家や、同じ作曲家がお互いに好みである、ということが分かったとしても、ほかの演奏家や作曲家について話が回らないとか、あるいは、その作曲家の別の作品を互いに知らなかったり、様々な音源を聴いたか聞かないかは、絶対に一致しないのです。

完全に一致する音楽嗜好総体というものは、ありえない理想です。もちろん、論理的にはありえますが、奇跡です。例えば、チンパンジーがデタラメにタイプライターを叩いて聖書を丸ごと打ち出す、というぐらいの奇跡です。

時に、その落胆の中に、相手の音楽嗜好総体の豊かさや大きさへの羨望や、あるいは自分の音楽嗜好総体の小ささへの劣等感や、音楽嗜好総体を膨らますことをおこたった罪悪感に苛まれることがあるのです。

しかし、相手の音楽嗜好総体の全貌を知ることはできません。それは、他者に分かることはないのです。球の全貌を同時に見ることができないように。あるいは、球の中身まで見ることができないように。

かつては、相手の音楽嗜好相対の大きさにおののいたり、自分の音楽嗜好総体が小さいのではないか、と思うことがありましたが、それは幻影のような気がします。常に、相手というものは大きく見えるものです。

などということを、学生のころから知っていればよかったのですが、そうもいきませんでした。

なーんてことを考えながら、仕事場からの帰宅電車を過ごしました。

つれづれのようなエントリー。

今日の東京地方は暑さも一服。法廷深夜時間前までめいいっぱい残業して、なぜか達成感のようなものを感じながら。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日、学習院大学史料館より、こちらをいただきました。写真 1 - 2016-07-05

美しいお葉書です。

それにしても、辻邦生の世界は夢のようです。夢すぎて覚めるのが辛いです。そんな世界です。また夢を見たくなります。

日伊国交樹立150周年記念 園生忌 辻邦生ミニ展示「春の戴冠・嵯峨野明月記」展

春の戴冠と嵯峨野明月記のミニ展示と、7月23日に「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」という講演があります。また、7月29日には「遠い園生」の朗読会があるそうです。

7月15日(金)~8月12日(金)までの開催で、月~土 10:00~17:00が開室時間とのことです。7月31日は日曜日ですが特別開室とのことです。

詳しくはリンク先をご覧ください。

とりいそぎ、おやすみなさい。

Johannes Brahms

先日、コンサートでブラームスの交響曲第1番を聞いたのですが、聴きながら何か、複雑な気分がありました。

ドイツ・ロマン派の真骨頂というべき音楽で、ビルドゥングス・ロマンのような、成長の物語で、まるで、ヘッセのような世界。これも、当時も本当に信じられていて、それが音楽で表現されたのがこの曲ではないか、と思ってしまったのです。

ブラームスの本心はわかりませんが、曲自体を聴くと、本当に純粋で理想へと向かういわゆる人間の成長の物語が聴こえてしまい、ブラームスの純粋さがよくわかったような気がしたのです。

もちろん、ブラームスが本当にそうかどうかはわかりません。ダブルスビークの可能性がありますから。

それでもなお、クララ・シューマンへの複雑な思いを勝手に想像したりして、なにか感慨深いものがありました。

その後、ワーグナー、マーラー、シュトラウスは、(恐らくは)西欧の自壊の前触れを感じとり、音楽自体の崩壊を予感させる作品を生み出し、ロマン派は終焉した、ということなのかと思います。(西欧の自壊:テキストの崩壊=ニーチェ、ユークリッド幾何学の終焉、主体の終焉=フロイト)

しかし、いまでもブラームスが好まれているのは、どこかに近代がなしえたことへの共感が、少しばかりはいまの日本にもあるから、ということなのかも、と思います。どこかへ進歩していこうとする。司馬遼太郎を読むと、それが、危険な方向に行くこともあるとのことですが、逆に日本人らしく「あいまい」に処理できるといいなあとも思います。これも司馬遼太郎の受け売りです。

今日はこちら。
ハイティンクのブラームス交響曲第1番。ロンドン響の弦の響きが力強く、ハイティンクらしい締まった演奏。

Symphonies 1-4 / Double Concerto

Symphonies 1-4 / Double Concerto

posted with amazlet at 16.07.03
London Symphony Orchestra
Lso Live UK (2005-10-11)
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そういえば、日本人の日本人らしさは、様々な文物を吸収するところ、と、司馬遼太郎が書いていたと思います。仏教と神道を融合したり。そうした融合の知恵、「あいまい」に処理できる能力が、もしかすると今でもブラームスを受容しているということと関係があるのかもしれないと思いました。

今日も仕事関係の用事で一日中外出。また明日から早出で働きます。

ではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous


昨日、いろんな方々と会って、日常から離れたものに接したので、少し刺激的でした。今日は、少し泳いで、自転車を1時間ばかり漕いでリフレッシュしました。
明日は仕事関連の集まり。明後日は仕事場の新規配属の方への講習の講師をやります。準備はイマイチ。オーバーワーク気味。だだ、オーバーワークかどうかは、人それぞれ。客観的数値化できないの難しいところ。まあ、また明日から頑張ります。

みなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

なんだかほんとうにつれづれなエントリー。

今日、仕事場を出ると、潮の匂いが漂っていました。

たしかに、この時期な東京は、山手線の中の区域まで潮の匂いが入りこんでくることがありました。大学のころにもやはりそうした経験をしたことがあります。東京が海浜の街だということを感じさせます。

東京に来てからそろそろ四半世紀経ちます。そのうち5年ほどは神奈川西部に住んでいたこともありますが、それ以外は東京住まい。最初の頃は都心に近いところに住んでいましたが、それ以外は郊外暮らし。そのほうが気が休まるようになってきました。

東京に来る前は、大阪にいたこともあれば、九州にいたこともあります。東京の郊外になんねんかすんだこともありました。そんななかで、やはり、いちばん肌に合うのは、両親の故郷の感覚であるとか、両親の子供の頃の風景のようなものなのかも、と思います。結局原風景というのは、両親の子供時代の思い出話においてあるものだからではないか、と思うのです。もちろん、私にとっては、という限定付きではあります。

長い間親しんだものは、それだけで価値があります。昔からの友人や、昔から聞いていた音楽というものもやはりそうです。

それがこちら。

Brahms: Symphony no. 1; Song of the Fates
Deutsche Grammophon (1998-09-15)
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ブラームスって、本当に純粋なひとだったのではないか、と思います。ロマンはの良き時代、というところでしょうか。。

こうした音楽も昔から聞いているもの。新しいものも取り込みながら、旧きよき友人のような音楽も大事にしていきたいです。

きょうはとりいそぎ。おやすみなさい。

Ludwig van Beethoven

今日は、「はじめてのバーンスタイン」というプレイリストを。AppleMusic のレコメンドに現れましたので、聴いてみました。
スクリーンショット 2016-06-30 23.39.30
プレイリストの2曲目が《田園》だったのですが、こらはさすがに懐かしいものでした。懐かしさというより、何か過去へと引き戻される感覚でした。

これも以前書いたかもしれませんが、また書きます。
この音源は、私が音楽を聴き始めた80年代半ばに、父が録音していたカセットテープで何度も何度も聴いたものでした。それは、NHK FMの「名曲の楽しみ」をエアチェックしたものでした。カセットテープは、最初の出だしが少しかけたもので、テープのたるみを拾って、音がユラユラと揺れるところから始まっていたはずです。当時の私の理解では、交響曲の楽章というものは、必ず途切れるものだと思っていましたので、なぜ楽章数が足らないのか悩んだりしたものです。
曲が終わると、吉田秀和のアナウンスが入りました。
「いまのは、ま、言うまでもないんですが、ベートーヴェンのパストラール。レナード・バーンスタイン指揮の、ウィーンフィルハーモニー楽団の演奏でした」
という感じでした。たしか、パストラール、と言っていたと思います。その後、バーンスタインらしい「恍惚とした感じ」と、この演奏を表して、「では、まだ時間があるようですので、もう一度最初から聴いてみましょう」という感じで、また第一楽章がオンエアされる、という感じでした。
小学生の私には、この「恍惚」という言葉がよくわからなかったのですが、おそらく、その後の「恍惚」の理解においては、この演奏がひとつの要素を占めていたのだと思います。
それにしても、今日、この演奏を聴いた時、引き戻された感覚というのは、これが、プルーストのいうマドレーヌ体験のようなものではないか、と思いました。演奏の機微のようなもの身体が覚えていて、まったく違和感を感じません。デフォルト音源です。こういう、演奏がフィットするという感覚は、おそらくは《田園》の他の演奏音源を聴いたために、逆に強く意識するようになったものだと思います、恍惚、というのは置いておいて、たおやかで柔らかく、絶妙な起伏を持った演奏だのあらためて思います。あらためてすごい演奏を小さい頃から聴いていたのだなあ、と思いました。もっともらこの音源を聴いていたから、この音源が素晴らしいと思える、ということもあるのだとは思います。この音源によって耳が形成された、ということです。

まあ、繰り返しになりますが、AppleMusicのプレイリストはいいですね。思いもよらない曲を聴いて、今日のようなセレンディピティが起こります。

さて、今日は、ギリギリまで働いたのですが、なぜか心が落ち着くのです。ざっと、VBAでデータ処理のスクリプトを書いたところ、思いのほか上手く動いて、気分が良かったのかも。

明日は早出です。起きられるか?

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日は、早めに帰宅。あえて。

仕事場でやることはたくさんあるのですが、やむなく。のこって働いたほうが気持ち的には落ち着くのですが。

それでも、定時より後で、仕事場主催の懇親会に参加する場合の帰宅時間より遅い時間なので、たまにはいいかな、と。

でも、罪悪感を感じてしまうのがよくわからないのです。契約された時間以降に帰宅しているので、なんら問題はないわけです。

ただ、仕事は溢れていて、どんなにスピードアップしても契約された時間内で終わらない(当たり前。仕事量は常に労働者の能力を上回るものだから)。裁量で明日以降の〆切にあわせて動けばよい。ただ、タイトなので、長い経験のなかで思うに、少しリスクが高まっている状況。もっとスピードアップして片付けないといけない(そのためには、個人的にスピードアップするか、仕事を減らすかしかない)。

まあ、ある程度裁量で動けるので、比較的ありがたい環境なのかも、と(めちゃ気を使いますが)。ここまで来るのも大変で、運もあったのかも。ただ、先はない。ありがたいと思うから、罪悪感を感じるのか、などとも思います。

あるいは、それは罪悪感などではなく単に不安感だけなのか、とも思います。早く帰ることで、リスクを負っている不安感を罪悪感と捉えているという感じ。

なかなかに難しい問題です。ともかく明日は長めに働かないとタスクがはけなさそうです。

仕事の話は難しいので、この辺りで。

今日は久々にドビュッシー。AppleMusicのプレイリストで楽しみました。

https://itunes.apple.com/jp/playlist/dobyusshito-jianru-meng/idpl.a4e4987e6d564342bfbf5b7b5834ca3d

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

PCを手に入れてから今年で21年。文章を書くツールについては、遍歴を重ねてきましたが、また一つ大きな宝物を手に入れる時期が来たようです。

Macの文書作成ツールとして有名なScrivenerにiOS版が登場しそうなのです。来月手に入れることができるかもしれません。

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Scrivener for iOS: It’s Time to Talk

私は、Scrivenerを使いたいがためにMacに乗り換えたと言っても過言ではありません(Omnifocusを使いたかったのももう一つの理由です)。

Scrivenerは普通の物書きをするにはオーバースペックともいうべき多彩な機能を持っていて、アメリカでは多くの小説家に愛されているようです。アウトラインプロセッサのように、階層構造で文章の構成を考えられたり、目標文字数をグラフで表すことができたり、前述のとおりオーバースペック気味でありながらも、このツールのおかげで、個人的には幾つもの難関をくぐり抜けることができました。例えば、仕事場で書く必要があった論文の骨子をこのツールで作ったことで、構成や文字数配分を整理することができまして、行き詰まりを脱した、ということがありました。

このツール、もちろんMacで使うしかないのですが(Windows版もありますが、Macの方がデザイン的に優れていたような記憶があります)、仕事時間が長くて、なかなか家で時間が取れない身にとっては、使う機会が減ってしまっていたのです。

iOS版が出ることで、おそらくはそうした問題が幾らか解決するのではないか、と思っています。Dropboxを使ったSyncを前提にしているようですが、iOSで外出先で書いて、時間のあるときにMacで整える、というような使い方ができるようになるはずです。

これで、今まで以上に物書きが楽になるのでは、と願っています。

最近、外出中に自分のやるべきことを済まさなければならない機会が多く、プログラミングなどもiOSでPythonの開発ができるPythonistaというツールを使ったりしています。一層、場所に縛られずに仕事を進めることができそうです。

反面、かつてのように、電車の中では、本を読むぐらいしかやることがなかったがゆえに、読書がはかどった、という事実もあります。どちらが良かったのか。贅沢な話ではあります。

 

ちと体がサインを出している模様。気をつけないと。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Miscellaneous,Richard Strauss

Photo

最近、近所を自転車で走っている話は何度か書きました。

今年の冬から、春となり、夏来る、という感じで、同じ場所でも、風景は本当に変わります。

冬枯れの草原が、春になって花が咲き乱れ(本当に咲き乱れるのです)、桜が舞い散り、若葉に満ちるわけですが、最近は、その若葉も色濃くなり、青年の雄々しさを持つようになりました。

それどころか、早咲きのひまわりが、先週はその顔を空へ向けていたのが、今週になると、まるで老年のようにこうべを垂れて、勢いをうしない、人生の晩秋を感じさせたりもします。

あるいは、草原にも立ち枯れた草がすでに目立ち始めました。一方で蝉の鳴き声を聞いたりすると、また新たなサイクルが始まったということも思います。

ともあれ、同じ風景の中に、こうした違いを見出すということは、まるで、同曲異演を楽しむかのような感覚があります。

昨日も書いたように、シュトラウスの最後の四つの歌を、かつては、アンネ・トモワ=シントウで聴いて感激していたのが、昨日はジェシー・ノーマンの声で違う感動を感じる、といったような、そういう楽しみです。

それは、まるで縦糸と横糸を組み合わせるようなものでしょう。

機織りで長く張られた縦糸に横糸を通すと、絢爛な布地が出来上がるかのような。曲をたくさん聴くのが縦糸なら、様々な演奏を楽しむのが横糸。あるいは色々な場所に旅するのが縦糸だとすれば、同じところにとどまって季節の移り変わりを楽しむのが横糸です。

仕事も同じらしく、本来業務と言われる、収益を上げる仕事ばかりやっていてもうまくいかず、周辺事項や視点を変えた仕事も織り込まないといけないようです。

縦糸だけ伸ばしても本質は掴めなさそうです。質料と形相の関係に似ているような気もします。

ただですね、それでもやはり縦糸を伸ばすことに憧れます。理論上は無限に伸びる縦糸ですので。新しい楽曲を聴きたいし、新しい土地にも行きたいですね。それがなくなった時、初めて大人になるということなのかも、と思いました。

今日はこちら。やはりジェシー・ノーマンの(ナクソス島のアリアドネ》。

クルト・マズアの指揮はゆったりとしたもので、ジェシー・ノーマンの深みを十分に引き出しているように思えます。80年代の演奏ですが、冷戦のさなかにアメリカ人のノーマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演するというのは興味深いです。しかし、こう言う演奏の違いがわかるようになって少し嬉しい反面、寂しさも感じることもあります。もっと新しい音楽、つまり縦糸を伸ばすことをやってみたいなあ、と思います。

Strauss, R.: Ariadne auf Naxos (2 CDs)
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