Jazz

苦い思い出があります。今でも覚えています。

ハービー・ハンコックのDis Is Da Drumに収録されているButterflyという曲のことをどなたかと話をしたのですが、そのとき、Butterflyの初出であるThrustに収められたButterflyのことを知らず、きちんと話ができなかったのでした。

その方はDis Is Da DrumのButterflyはあまりいいパフォーマンスではない、とおっしゃったのですが、私はその後を継ぐことができなかったわけです。

その後、何かの折に、ThrustにおさめられたButterflyを聴きましたが、たしかにそちらのほうがよいですね。もっとも、その方が、ThrustのButterflyのほうがよい、ということをおっしゃろうとしていたのかは定かではありませんが。

(iTune では、The Essential Herbie Hancockに件のButterflyが収められています)

今日あらためて聞きましたが、よりジャズ的であり、ハービー・ハンコックののプレイも、よりハービーらいです。特に中盤以降のハービーのソロが絶品。けだるい雰囲気から徐々にピッチアップして、スピード感のあるソロへと移行していくあたりは、さすが、という感じです。

Apple Musicのおかげで、あらためて勉強になりました。

ちなみに、ハービー・ハンコックのアルバムでApple Musicに収められていないアルバムはいくらかはあるようですね。件のThrustというアルバムは、そもそもiTuneストアにもないようです。

Thrust
Thrust

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Herbie Hancock
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今日の東京地方は、少しは涼しい一日だったように思います。明日もそうなりますように。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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先日書いた、フォニイ論争の件。辻邦生を始めとした4名の作家を「フォニイ」とした論争だったようです。

ですが、なにか違う位相で、辻文学は現実と戦っていたのだと私は思うのですがどうでしょうか。

私は文学史はあまり興味がありませんでしたが、すこし調べてみると私小説とは、リアリズムの極地とされているようです。反対に、歴史小説は、現代の現実に則したものではないので、通俗小説と取られるということでしょうか。

よく言及されるトーマス・マンのように現実の市民生活を維持しながら芸術作品を産み出すという立場は、現実と乖離しない立場だと思います。社会的生活を維持しながら芸術を生成するという主人公は、例えば「雲の宴」にでてくる詩人の郡司などがそれにあたりそうです。普通の市民生活を維持しながら芸術を生成するというのは、逆に言うと極めて厳しい道のように思います。

フォニイ論争があった1973年のちょうど同じ頃に発刊された學燈社の「國文學」が辻邦生特集ということで、20年ほど前に古本屋で手に入れました。この中に、フォニイ論争の当事者の一人となった平岡篤頼氏による「辻邦生における異国の意味」という論文があります。

その中に、「生きることと書くこと」の対立という議論が登場します。「生きることは書くことよりも早く経過し、書くことは生きる時間をいちじるしく削減する」とあり、この矛盾が「あらゆる文学の根底に横たわる重大問題」とされます。大概は、生きることか書くことかどちらかを選択することになるのだが、辻邦生は「この二つが対立するものではなく、相関的かつ相補的な関係にある」といいます。

書くこと=芸術活動と、生きること=現実の活動を一つにまとめようとした文学ではなかったか、と思うのです。

また、辻邦生はトーマス・マンの市民的生活を模範として、破滅的な生活ではなく、規則正しい市民生活を送りながら活動をしていたはずです。

そうした意味からも、文学活動の源として、現実世界と向きあうということを課していたのではないか。が故に、大学で教え、サークル活動で学生と交流したのではないか、と思うのです。

(こうした記憶は、20年も前にいずれかのエッセイで読んだものですが、さすがに歳月の流れには抗えず、出典を探すのに苦労します。当時からノートをつけたりカードに記録していればよかったのですが、さすがにそこまではできておらず、というところです。)

先日、NHKの番組で、藤子不二雄Fのドキュメンタリーを見ました。そこでは、常に市民と同じ目線を忘れない、ということをモットーにしているということが語られていました。もしかすると、辻文学もそうした現実世界との密接な関わりを忘れないようなとっかかりが常にあったのではないか、などと思うのです。

辻文学は決して、現実と一切乖離したロマンではなく、現実と対峙するリアリズムなのだ、と私は思っています。

明日からまたウィークデーの始まり。お盆休みの皆様も多いかと思います。きっと、朝の電車は空いていると思います。読むべき本が多いのですが、最近は時事問題もかなり重要で、ついつい電車の中で新聞などを読んでしまいます。まあ、先日も書いたように、大事な時期ですので、そうした新聞を読むことも大切なのですが、通常の読書が進みにくく、難儀です。

それではおやすみなさい。グーテナハト。

Tsuji Kunio

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暑熱に満たされた毎日です。みなさまお元気でしょうか。

4回目のご報告です。今回が最終回です。

私は今日から「西行花伝」を読み始めました。10年以上ぶりになると思います。また、その他の長編、たとえば「廻廊にて」、「安土往還記」、「背教者ユリアヌス」、「春の戴冠」、「フーシェ革命記」なども読み返してみようと考えています。

思うに、どうやらそれらがなにか辻文学自体を象徴した構造を持っているように思えるのです。

学習院大学史料館での展示は昨日終わりました。本当に沢山の気づきを得ることができた大変素晴らしい展示でした。

何人かの方も書いておられましたが、日記の出版の要望はあると思いました。ですが、まだまだ存命の方もいらっしゃると思いますので、「パリの手記」のように、作者ご自身の編集がない限り難しいのでは、とも思いました。

ここに詳しくは書きませんが、今回展示されていた自筆日記にも興味深いことが書かれていたのです。ですが、さすがにこれは出版できないと言われても仕方がないなあ、ということも、書かれていました。
(実際、それはそれで実に勉強になりましたし、辻先生がより身近に思えるものだったのですが)

ただ、私が今回気づいたような、モームに関する考えなど、辻文学を理解する上でも重要なことがいくつもいくつも詰まっているのだろう、とは思います。

アンケートに答えたところ、はがきを頂きました。右下の絵は辻邦生によるものです。可愛らしい絵を書かれるのだなあ、と思いました。さすがに気安く使うことはできませんので、私の手帖に挟んでおくことにしました。

写真 1 - 2015-08-07

今回のシリーズはこれで閉じようと思います。ですが、先に触れたように、あらためて長編などを読み返す必要があることにも気づきました。そちらはまたこちらで取り上げていこうと思っています。

史料館の方に伺ったところでは、来年もなにかしらの展示をされるとのことでした。来年は一体どんな展示になるのか、楽しみです。そして、2025年の生誕100年には大きな展示を行う予定とのことでした。

今年も、9月24日の生誕90年というイベントがありますので、そこに向けて私もできることをやろうかなあ、などと思っています。

明日も暑そうですが、みなさまどうか体調にはお気をつけ下さい。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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暑い毎日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。この数年、冷房にやられることがおおく、必ず上着を来て仕事場に行きます。寒い冷房のなかで上着を持っていると、なにか安心をします。

ですが、さすがに今日は上着をあまり使いませんでした。年々耐熱性が下がります。熱に順応する訓練をしないと。

さて、一昨日、昨日に引き続きです。

それにしても、今回の展示は、なにか私の中の辻文学観のようなものが大きく変わったように思えます。

しばらく前に触れた「フォニイ論争」の件を調べている時に、このような文章を読んだわけです。

日本でも西洋でも、歴史小説は「通俗」の疑いを掛けられがちだし、『背教者ユリアヌス』は、いま読んでも、シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』のような通俗歴史小説に見えるし、その後の辻は、井上靖より薄味な通俗歴史小説を書きつつ、それを純文学として通用させて終わった人だった。

小谷野敦『現代文学論争』筑摩選書 70ページ

この文章を読んで以来、引っかかりを覚えていむした。これは、一つの見解ですので、なにかネガティブな感情を持つということはあまりありません。ですが、このような見解がある、ということはわかっておいたほうがよい、とは思います。

私が調べていたこの「フォニイ論争」は、小谷野さんの『現代文学論争』において詳しく取り上げられており、前述の引用も、「フォニイ論争」の章からのものです。

フォニイ論争というのは、1973年に、評論家の江藤淳が、辻邦生、加賀乙彦、小川国夫の「73年三羽烏」に丸谷才一を加えた4名を、「フォニイ」と評したというものです。

「フォニイ」とは、まがいものであり、「うちに燃えさかる火を持たないもの」、という意味ののようです。

小谷野さんは、『現代文学論争』において、フォニイ論争とは、文壇における私小説をめぐる論争だった、というように捉えておられます。江藤淳は、紆余曲折はあったようですが、純文学を正当な日本文学と捉えていたようです。

つまりは、辻邦生のような歴史小説は通俗であり、私小説こそが本物だ、と捉えられていたのだと思います。リアリズムですね。

私は、あまり文学史のようなものに詳しいわけでもなく、これまではあまり興味もなかったのですが、この「フォニイ論争」を調べて以来、端的ではありますが、やはり文壇のメインストリームから辻文学へ向けられたある種の視線のようなものを感じていたのでした。

ですが、本当に繰り返しになってしまいますが、谷崎潤一郎賞を受賞したということこそが、こうした「視線」に一つの終止符をうったということにならないか。そういう捉え方をしたのでした。辻文学を理解するための史観を理解した、とも言えると思います。

ここに、辻文学の歴史の大きなうねりのような曲線を感じるのです。

今日もここまでです。どうかみなさまごゆっくりお休みください。グーテナハト。

Tsuji Kunio

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暑熱のなかにたたずむ学習院大学史料館の遠景です。昨日に続き、辻邦生──西行花伝展についてです。今日は展示されていた自筆の日記から。

辻邦生が日記を書いていたことはもちろん知っていました。ですが、実物を見たのは初めてでした。

JOURNALという標題がついていて、ローマ数字でナンバリングされていることも初めて知りました。私が見た1990年の日記は、方眼(今風に言うとグリッド)のノートに縦書で丹念に書かれていました。

見開きで展示されていた日記は1990年11月4日(だったと思いますが)でして、「西行花伝」の書き出しに苦心している記述があるもの、と紹介されていました

ですが、私はその前日である1990年11月3日の日記に心が奪われたのです。

ここには、モームが自身の文学を悔恨するセリフが書いてあったと記憶しています。モームは通俗作家として名前が残っています。つまり大衆文学を書いていたということです。日記には「大衆文学は面白さは、文学は真実を求める」と書いてあります。細かい記述までは残念ですが記憶から薄れつつありますが、そうした切り分けについて、大きな問題意識を持っているということが書かれていたはずです。

おそらくは、辻邦生にとって、面白い物語を創るということが、最上だったはずです。「背教者ユリアヌス」も「春の戴冠」も、そうした、ストーリーの面白さが横溢する作品です。そして、そのなかには哲学的とも言える真実の探求が織り込まれているわけです。ちょうど、美しい絵画のなかに、様々なアトリビュートが織り込まれていて、その作品の中の隠された意味が立ち現れるように。

ですが、文壇からはそうは取られていなかった、ということなのでしょう。歴史小説自体が、おそらくはそうした純文学側からは、異色に見えていたのではないでしょうか。(これも出典が不明確で申し訳ないですが)、四半世紀ほど前に、井上靖の「孔子」が、「あれは文学的だが、文学ではない」という評論を読んだことがありました。あれこそが、「純文学」からみた歴史小説観であったのではないか、と想像しているのです。

がゆえに、辻文学の文壇での評価が分かれていたのではないか、と思うのです。純文学において、こうした物語文学が異色であったのは、おそらくは、この「面白さ」というものに対する、違和感のようなものがあったのではないか、ということです。

(歴史とはつまり物語ではないでしょうか。ドイツ語のGeschichteが物語と歴史という両方の意味を持つように)

ですが、私は、この「西行花伝」が評価されたという点において、面白さと真実が結合した、あるいは、面白さと真実の壁を超えた、と、文壇に捉えられた、ということを示唆しているのではないか、と思うのです。がゆえに、昨日書いたように、「廊下に立たされていたが呼び返された」ということになるのではないでしょうか。

なにか、その事実が、「西行花伝」を書き始めた前日の日記に書かれていたということが偶然には思えないのです。

次回も引き続きです。

暑熱が続きますが、どうかみなさまご自愛下さいませ。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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昨日、熱暑でしたが、学習院大学史料館で開催されている「辻邦生──西行花伝展」に行ってまいりました。

白い光が東京を覆っていて、都心へ向かう電車の外には、輝きながらも空虚なコンクリートの建物が、まるで甍の波のようにどこまでも連なっているように思いました。

午前に学習院に到着しましたが、訪れるのは1年ぶりです。

資料館への道すがらは、ちょうど高校生向けのオープン・キャンパスが開催されているということもあり、暑いさなかでしたが、学生たちで溢れていました。テニスコート脇を通ったときには、辻先生がテニスサークルの顧問だったことを思い出し、数十年前にはこの辺りを歩いておられたのか、などと想像するのでした。

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史料館の入り口を入って右手の奥に展示スペースがあります。「西行花伝」をスコープとした展示ですので、そんなに沢山の展示というわけではありません。ですが、逆に言うと、「西行花伝」だけでこのスペース、とも言えるわけです。

それにしても万感の思いでした。

スペースの一番奥の方のパネルに紹介されていた谷崎潤一郎賞スピーチのやりとりを初めて知ったのです。

谷崎賞が、異色作家か中堅作家に与えられるとして、辻邦生を「中堅作家」と言ってしまった丸谷才一の後を受けた辻邦生は、「廊下に立たされっぱなしで、忘れられたと思ったところで、呼び返された」と返したというのですから。
(そのような趣旨だったと思います。メモを取れませんでしたので、記憶で書いております)

フォニイ論争などの経緯があったと思いますが、純文学のメインストリームから外れたように見えた辻文学が、メインストリームに戻ってきた、という文脈で捉えるべきだ、とその時思いました。

何かのエッセイで、辻邦生は批評されないことを嘆いていたように記憶しています。たしか、批判されることの方が、批評すらされないことよりマシだ、といったことを書いておられたように思います。それが、谷崎賞を取ったことで、ようやく帰ってこれた、ということなのだと思います。

辻邦生は、これで、手応えをつかみ、自信を得て、次の作品に取り掛かろうとしたのであり、それが源実朝を主人公とする「浮舟」です。おそらくは「西行花伝」の発展だったはずですが、それは叶わなず、1999年7月29日に終わってしまったのです。次の「高み」を世界は見ることはできなかった、という深い喪失感であり、決して埋めることのできないものであるがゆえに、喪ったものの大きさをあらためて思いました。

実際、私は、涙をこらえることができませんでした。なにか、その無念さのようなものに勝手ながら共感したから、なのだと思います。

その涙の向こう側に、何本もの削った鉛筆や、使われなかったカードが分厚い束となっておかれているのを観ていただけでした。

明日に続きます。本日はおやすみなさい。明日もよい一日でありますように。

Tsuji Kunio

今週、辻邦生のご命日ということで、Kindleであらためて読み返しました。

やはり、人気作品であり、高校の現代文の教科書に採用されたということもあって、素晴らしい作品なのは、これまでも書いてきたとおりです。

「夏の海の色」

特に、夏の白い光の中に静かに沈む城下町の風情は、我々にとっての日本の原風景の一つです。以前も書いたかもしれませんが、自分たちの親の世代の風景が、原風景となるのではないか、と思い、そういう意味では、いま働き盛りの方々にとっては、戦中戦後の風景が原風景になるはずです。

それにしても、この城下町の風情の中には、戦国や江戸の記憶も残っているわけです。剣道の師範の黒川が藩の家老だったり、あるいは、主人公が宿泊する田村家に、天草島原の乱で先祖が褒美として得たというキリシタンの墓石がある、といった故事は、なにかめんめんと受け継がれる日本の歴史をも含んだものなのでしょう。

また、キリシタンという要素は、なにか「天草の雅歌」で取り上げられた問題、つまり、江戸期において、日本のグローバルなうねりが失われたという歴史的経緯を思いおこさせるものです。

また、田村家の当主が元陸軍少佐で、部下に思想犯を出したため退役した、という記載もなにか時代を感じさせるものです。いつもは柔和なのに、ときおり厳しい表情を見せるという描写も、なにか暗い時代の空気や匂いを感じさせるものです。

原風景は原風景として、そこに郷愁はあったとしても、戻るわけには行きません。次の世代は、我々のような働き盛りとは違う原風景があるはずです。そうした良き原風景を作るのが、世代世代の責任なのではないか、と考えています。

さて、明日も全国的に熱暑でしょうか。明日はお昼にかつてお世話になった方々と会う予定があります。個人的には、人生における原風景のようなものをもう一度見ることになるのかもしれません。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

今年も今日という日が参りました。辻邦生のご命日です。

毎年、何度も、当時の思い出を書きましたので、今年はあまり語らないようにします。あれから16年となりますね。早いものです。

「人間であること」を除いたら、いったい何のために生きているのか。太陽を、河波の反映を、雲を、葡萄酒を、通り過ぎる女たちの微笑を、心から楽しまなくて、どうして生きているといえるのか ──

3月にも紹介した一文ですが、何度読んでも心を打たれます。

https://museum.projectmnh.com/2015/03/28235647.php

辻邦生の言葉を読むたびに、真剣に生きるということはどういうことなのか、ということを教えられます。ただ、それは、真に純粋なものであるので、この世界では簡単には得ることのできないものなのだと思います。

ですが、その真剣に生きる、ということも、時代に沿って変わっていくものでもあるのでしょう。

おそらく、ですが、そこにあるのは、一貫して、人間が人間であることの証明としての芸術、ということだったのだと思います。

地球上の存在の中で芸術を作れるのは人間だけです。物を食べ、歩き、呼吸し、争い、会話し、喧嘩をするのは、人間以外でも可能です。が、芸術作品だけは、人間だけしか作れません。がゆえに、芸術作品こそが、人間を人間たらしめているものなのである。芸術作品とは、芸術作品そのものではなく、おそらくは何かを美として認識するそのプロセスにおいてあるものでもある。

(我々がわからないだけで、動物も芸術作品を作っているかもしれませんが、それがないとして、ですけれど)

これが、私の捉えている辻先生のメッセージなんですが、まあ、出典なども不明瞭ですので、多分に私の曲解が入っているんだとは思います。

であるがゆえに、私たちはどうすればいいのか。真剣に生きるということとは、別に社会を投げ出してどうこうすることでもないはずであり、今ここでできる生きることをすれば良い、ということなのです。

が、具体的にはどうすればいいのかは、探すしかないんでしょうけれど。

最近、本が読めないというのは、先日書いたとおりです。少し、頭を冷やしたうえで、生活を乗り越えていかないと。

などというかたちで、今日はここまで。明日からまた頑張ります。

ではグーテナハトです。

Miscellaneous

夏やわー。

しかし、暑い日々が続いています。

昨今は、どうにも時事ニュースばかりが気になる日々で、なかなか読書まで到達できません。活字は常に読んでいるのですが、読書に到達する前に終わってしまうのですね、これが。

そういえば、「超整理法」で有名な野口悠紀雄さんだったと思いますが、「新聞を読まない」という時間創出アイディアを提唱しておられたのを思い出しました。

また、二週間ほど前のNHK-FM「トーキング ウィズ松尾堂」に出演していた谷川俊太郎も、「情報を制限したい」とおっしゃっていて、本当にその通りだなあ、と思います。

Facebookなどには、友人の記事だけではなくフォローしているベルリン・フィルやバイエルン国立歌劇場とか、あるいはプラシド・ドミンゴの記事なども出ていたりします。また、経済情勢や国際情勢の専門家が直接書く記事なども読めるわけです。

すでにFacebookが情報ハブのようになってしまい、様々な事情に配慮する通常のマスコミには出ないようなかなり有用な情報も得られたりするので、チェックしないわけには行かなくなります。

本当に、断捨離しないと、と思うこの頃です。

それにしても、夏こそは、夏休みと思っていましたが、先日、十分休めないまま終わってしまいましたし。グチャグチャになっている頭のなかを整理したいです。

そうこうしているうちに、バイロイト。キリル・ペトレンコの「ヴァルキューレ」は今晩です! ティーレマンの「トリスタン」は聴きたかったですが、後の祭り。再放送があればいいのに。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

Photo

はじめに

夏の日々、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

東京地方もやはり暑く、今日の自宅近辺は35度だったようで、あすはもう少し上がるとの予報です。

こちら、先週撮った夕暮れの写真。秋の空、というにはまだ早いですが、夕陽が美しい日が続いています。

私のストレス解消の方法

さて、この一年、2日に一度ほどのペースで、泳いでいます。ほんの10分から15分ぐらいですが、これがなかなか良いのです。

ところで、先日読んだウェブの記事。

どうやら、ストレスを解消するためには、運動をする、呼吸活動(ヨガ、瞑想、早足散歩)をする、音楽活動をする、ものを書く、という4つが効果的なのだそうです。

http://toyokeizai.net/articles/-/74334?page=4

音楽を聴いたり、ものを書くことはしていましたが、運動と呼吸活動はしていませんでした。

で、泳ぐと、この運動と呼吸活動が埋まる、ということになりそうです。10分程度泳いだことが運動になるかどうかはわかりませんが、まあ体が火照るぐらいにはなるので、おそらくは有酸素運動にはなっているはずです。

また、泳ぐということは、規則的に呼吸をすることになりますし、泳ぎながら心を無にしたり、あるいはぼーっと何かを考えることもできたりします。私の場合、いろいろな発想は、泳いでいる時か、シャワーを浴びたり湯船に使ったりしているときに訪れますし。

ちなみに、おそらく脳内血流がよくなるのか、以前よりもずっと面白い発想が浮かんだり、仕事が捗るようになった気がします。錯覚かもしれませんが、まあそう思っておいたほうがハッピーなので、そう思っておきますけれど。

そのデメリット

ということで、いいことづくめのはずですが問題も幾つか。

つまり、時間がかかるということです。自宅近くにあるとはいえ、一回に45分ぐらい時間がかかってしまいます。週末はともかく、平日は帰宅時間も遅くなり、なかなか自分の時間を作れなくなります。

そうなると、なぜかしわ寄せがものを書く活動に来てしまい、、みたいな状況で、最近、このブログを書く頻度が落ちてしまっているのもこれが原因の一つではないか、と。

(なんだか、キータッチも遅くなり、ミスタッチも多くなってしまっているという状況も。先日のシャットダウンデーがまずかったのか…)

今後は、通勤時間をもう少し活用できるように画策中です。具体的には、通勤時間に活用できるインフラを整えようかと思っています。9月以降までお預けではありますが。

今日も、徒然な感じですが、ここまで。

今日の一枚

今日もこちらを。なんだか毎日聴かないと気分が晴れません。なんですかね、このヒーリング感。アンビエント、ラヴ。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。