Classical

プーランク。本当に不思議な音楽を作ります。軽妙洒脱。それでいて豪華で端正。ドイツや北欧などの生真面目さはありませんが、しっかりした曲作り。

今日聴いたのは《オーバード》という曲。ピアノ協奏曲のようですが、小規模な管弦楽は、管楽器が多い小規模変則的なものです。弦楽器はヴァイオリンはありませんが、ビオラ、チェロ、コントラバスのみ。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット。《六重奏曲》にもにた響きで、違和感なく没頭しました。どうやら舞踏の伴奏に作曲した楽曲のようです。ドラマティックなのはそのせいかとおもいます。

オーバードAubadeというのは夜明けの歌で、まあ、夜明けに別れる恋人の歌ということみたいです。セレナードの逆、と辞書には書いてあります。オーバードは、中世の吟遊詩人がよく歌ったらしいです。
こういうのがオーバード。ロミオとジュリエットの夜明けの別れのシーンだそうです。

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DickseeRomeoandJuliet" by Frank Dickseehttp://www.odysseetheater.com/romeojulia/romeojulia.htm. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

そうか。《ばらの騎士》の冒頭もオーバードになるのでしょう。夜が明けて、ナーバスになるオクタヴィアンを元帥府人がなだめるシーンがありました。「なぜ昼なんだ? 昼なんて欲しくない」的なセリフです。

※ あれって、《トリスタンとイゾルデ》のパロディではないかと思います。「あの陰険な昼を、あの最も手強い敵を、 憎み、非難しよう!」っていうトリスタンのセリフがありました。

演奏はこちら。ジョルジュ・プレートル。プーランクの音源はこの方のものを多く持っている気がします。きっとこの方の演奏が端正なので、プーランクがそういう風に聞こえるのかも。

Les Biches / Pastourelle / Aubade & Les Animaux
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今日も涼しい一日。いろいろ追い込まれてます。いつも追い込まれている気がしますが、なんとか乗り切るのです。

みなさまもお身体にお気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。

Japanese Literature

今日も東京地方は涼しい一日だったようです。一日中仕事場に居ました。今年の東京地方は残暑がないですね。日本全国同じでしょうか。ようやくセミの声も聞こえなくなってきた用に思います。

先日、モンマルトル日記の一節を書きました。小説家など芸術家が思う生と死が一つのテーマだと思いましたが、岡本かの子の「鶴は病みき」のワンシーンを思い出しました。

「鶴は病みき」は、芥川龍之介がモデルの麻川という文士と主人公が対話する小説で、10年以上前に読みました。ただ鮮明に覚えているのは、生死の問題でした。

麻川=芥川は、「たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな」というのですが、葉子=岡本かの子は「死後に全々消失する個性的な自己というものに、なんの関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……」とかなり即物的なことを言います。で、麻川=芥川は、ずいぶん寂しいことをいいますね、と半ば呆れながら、葉子=岡本かの子と皮肉合戦を繰り広げるというシーン。

そんなことを思い出しました。芸術家というのは、おそらくは自分の生きた痕跡を残したいのだと思いますが、それは誰しもあることなんですが。ですが、冷静に考えると岡本かの子の言うとおりなんですよね。死後の自分を語ることはできない。語りえぬものを語ってはならない。

それにしても、いま少しばかり目を通した「鶴は病みき」。怖ろしい小説です。ほとんど実話なのだと思いますが、これが本来的な日本文学なのでしょう。

それではおやすみなさい。

Alban Berg,Miscellaneous

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なんだか、また戦時中のような感覚に戻ってしまいました。

今日の地震をうけて、なんだかそんな気分になりました。

2011年、あの震災直後の状況は、いわば戦時下のような事態だったなあ、といま思い出しています。

私なんて、関東西部に居て、そんな大きな被害は受けていませんので、なんだかんだいう資格はないのかもしれません。

ですが、信号機の灯が落ちて、真っ暗闇の交差点を車が恐る恐る走っていく様を観たり、翌日の電車の運行状況を駅で必死に調べたり、灯りの落ちた仕事場でデスクライトの灯りを頼りに書類を読んだり、なんていう経験をしました。

あの頃は異常が通常で、人間というものはこんなにも簡単に異常に慣れるものなのか、と半ば驚いたりもしました。

というか、あれは本当に戦争だったのかも、と思います。自然からの戦争に当然負けてしまったわれわれ、という感じ。

で、そうしたこともこの東京地方では、ずいぶんと前のことと思っていましたが、今日の少し大きめな地震で我に返った気がします。

あの時のそこはかとない不安。晴れた昼下がり、青空とさんさんと降り注ぐ太陽の光をみながら、でも、すでに昔のような牧歌的な気分にはなれないのだ、という、大きな喪失感のようなものを感じたりしたことを思い出しました。

今日の地震は、私の部屋も損害を蒙りまして、エレピの上にアンプが落ちてくる、という惨事でした。エレピには深い傷が。。ですが、音は鳴ってくれましたので、なんとかかんとか、というところです。

まさか、あの重いアンプが落ちてくるとは。そして、そのアンプ受け止めながらもエレピが壊れなかったという幸運に感謝している状況です。

世界が平和でありますように。

今日の一枚。なぜか、この心情には「抒情組曲」を聴きたいと思いました。冷たい織物の向こう側に救いはあるのでしょうか。この曲、実はベルクの不倫相手アンナ・フックスのイメージが隠されています。想像するに、そこはかとないアンバランスがここにはあるはず。安定しないのが世界というもので、常に先への不安が存在するわけですが、そういう気分が、根拠なき不安と通じるのでしょうか。

この全集の2枚目に収められています。ラサール弦楽四重奏団による演奏です。アルバン・ベルク弦楽四重奏団の師匠筋です。

Alban Berg Collection / Varrious (Coll)
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ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

はじめに

曇り空の一日。

どうやら最近働き過ぎのようですので、休息日としましたが、キーボードを叩くのが辛く(肩こりで)、ひいひいいいながら一日過ごしました。痛み止めを飲んで、長風呂につかって、という感じ。夜になって少し落ち着きました。辛いのはキーボードもそうですが、ペンを持つのも辛いですし、本を持つのも辛いということです。なんだか、ちょっとどうにかなりませんかね、と思います。

モンマルトル日記

ですが、一日家で過ごしたおかげで、いろいろと読みなおすことが出来ました。限られてはいますが、今日読んだのがこちら。
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辻邦生歴史小説集成第十二巻に収められた「モンマルトル日記」のなかから、おそらくは有名な部分。1968年11月30日のところ。

このところ、ずっと自分が死んで、いなくなることを考える。信じられぬようなことだが、それは必ずくる。そのときになってあわてず、自分の生をいきることだ。今まで自分の好きなように、思いのまま、力いっぱいの仕事をしてきた。これからも同じように全力を尽くして、人間と、芸術について考えぬくことだ。真に考えぬき、真実に生きたことだけが人間をうち、人間をうったものだけが人間の遺産となる。自分の仕事を完全に成熟させるための距離と、自由をつねにもつこと。

辻先生が43歳の時の言葉ですね。ちょうど「嵯峨野明月記」を書きつつ、「背教者ユリアヌス」の構想が始まる頃のことです。この後「背教者ユリアヌス」が書かれ、「春の戴冠」が書かれ、「ある生涯の七つの場所」が書かれ、「西行花伝」が書かれるわけです。

なんというか、言葉が見当たらないです。まあ、これは誰もが思わなければならないことであり、かつ誰もが思いたくないことで、私もそんなことは思わないです。いつもは。

ですが、昨今はこういうことが心に響くようになりました。人の一生を様々なかたちで見ようとしているからなのだと思います。

今日の一枚。

レヴァインの《パルジファル》。来月開幕の新国立劇場の《パルジファル》もリハが始まっている頃と思います。私もチケットを取りましたが、所用のため行けるかどうかわかりませんが、とにかく聴かないと、ということで。

私は第一幕のアンフォルタスのモノローグが大好きです。あれほど人間らしい慟哭はないのではないか、と思います。このアルバムではジェームス・モリスが歌っています。すこし英雄的なアンフォルタス。

Parsifal
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※パルジファルでググっていたら、あまりに面白い記事がたくさん出るので止まりません。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

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昨夜は、ジャム・セッション。大泉学園のIn Fにおじゃましました。通算4回目の参加になります。ありがたく参加いたしました。

今回は、最近FBでつながった15年ぶりの友人K君も一緒に。K君のドラムは昔から変わっておらず、律儀でタイトで演奏しやすかったです。ボンゴもバッチリ叩いていました。ずっと続けていたそうで、やはり楽器はやめちゃいけないんだ、と思いを新たにしました。

ちなみに、私の方は、昔から変わらずフュージョンみたいなのやりたいんだね、と言われました。ごめんなさい。

今回は大人気ない演奏で、ご迷惑かけまくり。ついつい熱くなって走ってしまいました。あとは、音がいまひとつでした。もう少しエッジを効かさないと。

それから、メンツが若い方ばかりで、いい刺激をたくさんもらいました。若いっていいっすね。まだ夢も可能性もたくさんあるし。これは、能力云々というのもありますが、それよりむしろ残りの人生の長さのことです。

まあ、残りの人生の時間というのはあくまで相対的なものですから、その場その場で全力を尽くすのが吉です。私も最近そう思うようになりました。

来月は難しそうですが、またいかないと。その時に備えて練習します。

それではみなさま秋の夜長をお楽しみください。グーテナハト。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

先日、哲学科の先輩と話した時のこと。いわゆる倫理というものも、実は相対的なものであり、たとえば、西欧における倫理観と中国やイスラムといった別の文化圏における倫理は違うのではないか。というような話をしました。ですが、先輩は、それは倫理の問題ではなくイデオロギーの問題であり、すり替えてはならない、ということをおっしゃいました。

そのことを最近はずいぶんと考えています。

辻邦生先生の「遥かなる旅への追想」のなかに、バルテノン体験について書かれている場面があります。そのなかで、まさに辻文学のテーゼが書かれています。

遥かなる旅への追想
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辻 邦生
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私は、ギリシアの神殿がそこにあるということのなかに、私達の人間が人間であろうとすること、つまり自然放置の状態のままでなく、よりよい状態に人間を導いいていくことが、人間にとって本質的なことなのだ、と思わせる根拠があるに違いないと思えてきたのです。

辻邦生「遙かなる旅への追想」139ページ

だが、これは西欧偏重ではないか、という疑問を思わざるをえないのです。歴史の終わった現代においてなお、ギリシア、ヘレニズムのを典拠とする意味があるのか、という問いです。

ですが、それはやはり、現代の世界の基本思潮となる、フランス革命以来の基本的人権というものが、ひとつの拠り所になるのだ、という気がしています。

パリに行った理由の一つは、我々が考えている自由・正義・愛といった言葉は、日本で考えると、いかにも「観念」にすぎないものに見える。しかしヨーロッパ的風土のなかではぐくまれ、それを我々が継承しているとすれば、本場に行って考えたなら、それは決して単なる「観念」というものではないのではないか。

辻邦生「遙かなる旅への追想」138ページ

うーむ。現代の価値相対主義的時代において、この価値観をどこまで保持できるのか。当初書いた「イデオロギー」の違いだけで解決できるのか。

さしあたりこの問題と、iPhone6を買うべきか否かを考えながら、今日は休もうと思います。

それではおやすみなさい。

Miscellaneous

Photo

昨夜、書こうかと思った矢先に仕事場に呼び出されました。

雨がしとしとと降るなか、仕事場に向かいましたが、土曜日の夜、人通りの少ない街の雰囲気がなんだかかっこよくて、少し感動しました。雨に濡れた街路が光を反射して、こういう都会もいいなあ、と思いました。そういえば、辻邦生先生も雨の都会が好きだったとか。前世は都会のホームレスだったのではないか、なんてことを書いておられたのを思い出しました。

ようやく涼しくなりましたが、体調など崩されないよう。

おやすみなさい。

Symphony

去りゆく夏に。

Instagramで慌ててとったセミ。

ブルブル震えていたので少しボケてしまいました。あるいはピントがずれたのか。

このセミ、本当に一生懸命泣いていていじらしいぐらいでした。時折こぶしを効かせて歌うので、ああ、日本のセミはいじらしい、と感情移入してしまいました。

彼もそろそろその長い人生を終えて永遠の休みにつくということになります。はかなさもありますが、お疲れさまともいいたくなります。

今日の一枚

サン=サーンス:交響曲第3番
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ジャン・マルティノンによるサン=サーンスのオルガン付き交響曲。第1楽章第2部の静謐とした感覚が、この静かに去りゆく夏の風情を表しています。暑い盛りの夕方、暮れなずむ太陽、きらめく水面。いつか、夏の南フランスに行って、狂ったように光を浴びたいものです。

みなさまも残暑と秋をおたのしみください。

それではおやすみなさい。

Chamber,Classical

最近つれづればかり。アウトプットばかりでインプットしていないからですかね。。

最近聞いているのはこちら。

Pfitzner: Piano Trio, Op. 8 & Violin Sonata
Musikproduktion Dabringhaus und Grimm (2013-08-09)

このCDは、うちのカミさんがジャケ買いしました。で、ジャケットに違わず素晴らしいアルバムだったというわけです。カミさんのジャケ買いはかなりあたります。

このCDのには、ヴァイオリン・ソナタとピアノ三重奏曲が入っていますが、なにしろヴァイオリン・ソナタが素晴らしいです。特に第三楽章。最後のロマン派と呼ばれたプフィッツナーですが、本当に祝祭的で、華々しく、幸福に満ちた音楽です。この曲、私の結婚式の時のBGMに使いました。

たしかに、最終部にかけてなにか座りが悪くなるのです。つまりブラームスの室内楽のような調和はなく、なにか美しさを誇張するというか、無理やりふくらませているような居心地の悪さがあります。それが個性なのかもしれません。

プフィッツナーというひとは結構な曲者のようです。ナチスと関係を持ちながらも、戦後はナチとの関係を否定したりと、一貫性がないような状況。ですので、その価値もなかなか定まらずというような状況だそうです。ウィキペディアによれば、反ユダヤ的な言動があったようで、最近もベルリン・フィルで彼の楽曲を取り上げようとしたところ、批判にさらされたとか。

ジャケットは1905年にハインリヒ・フォーゲラーによって描かれた「夏の夕べ」です。2001年に東京駅で展覧会があり、私も見に行きましたが、ずいぶん大きい絵で迫力があったのを覚えています。ドイツの夏の夕暮れのアンニュイな雰囲気が漂ういい絵でした。たしかに、プフィッツナーのヴァイオリン・ソナタは、この絵の印象とぴったりあいます。

この絵は現存するこちらの建物の玄関です。ニーダーザクセン州のヴォルプスヴェーデというところです。リルケも滞在したことがあるようですね。

東京地方はいよいよ秋の風情で、実に涼やかな一日でした。ずっと仕事場の中にいたので実のところはよくわかりませんけれど。

それではみなさまもよい秋の夜長をおすごしください。おやすみなさい。

Tsuji Kunio

目白駅。辻邦生ゆかりの地です。

先週もですが、今週もまた目白に来ました。目白駅の階段を登りながら、20年前、きっと辻先生もここをのぼりおりしておられたんだろうなあ、と思いました。たしか山手線で福永武彦と文学談義をしていた、というエピソードがあったと思います。一緒にこのホームに立っていたこともあったのでしょうかね。

で、気迷いのころは、この本に必ず戻ってきます。私の座右の書にしてバイブル。嵯峨野明月記。毎度毎度取り上げていて、飽きてしまうこともあると思います。申し訳ないです。

嵯峨野明月記 (中公文庫)
辻 邦生
中央公論社
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この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生れるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。<中略>だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受け入れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。<中略>おれはまだまだ描きつくすものがある。絵師とは、ただ絵を乾坤の真ん中に据えて、黙々と、激情をそのあかりとして、絵の鉱道を掘りすすむ人間だ。くそっ、こんなところで、おれが足踏みしてたまるか。おれという人間なぞ、どうでもいいのだ。風神雷神の前で、おれなど、いったい、何だろう……おれなど、この俵屋宗達という男などは……。

辻邦生「嵯峨野明月記」

俵屋宗達の最終場面のモノローグです。これまでここで取り上げたのは、この世の背理を哄笑する、という場面だけに着目してそこから先まで取り上げていませんでした。哄笑するだけでは先に進まないこともありますが、ここでは哄笑し、自分を自覚する、とあります。ですが、その最後、自作の風神雷神像の前で自分がなくなっているように思います。つまり、自作のまえで自我が極小かしているわけです。おそらくは風神雷神の中に自我が溶け込んだような境地と言いましょうか。

このあと取り上げられる本阿弥光悦のモノローグにおいて、「太虚」の境地が出てきます。この中では「私」が太陽や空や花と同じものになる、とあります。

つまり、芸術作品のような自己の創造的営為により、まるで禅の悟りのように世界と一体化し、そこには主客がない状態になっている、という風に感じられます。

引用で「お前さん」として登場するのは、又七という絵師です。彼はこの世の不条理を呪詛するがごとく、極彩色の毒々しい絵を書き連ねているわけです。

そうした世の不条理も笑い飛ばせ、というわけです。

これは、この笑いは、もともとはニーチェではないかと考えています。

哄笑する者のこれらの王冠、バラの花を編んだこれらの王冠、これらの王冠を、私の兄弟たちよ、私はあなたがたに投げかける。哄笑をわたしは聖なるものと宣言した。あなたがた、高人たちよ、学べ──哄笑することを。

このあたりは継続調査ですね。

ただ、最近わからないのは、哄笑し続けることで生きることができるのか、ということです。あまりに実践的なといで、同じレベルで考えることができるものではないのはわかっていますが……。なんだかまとまりのないつぶやきのようなエントリーになりました。この間違った世界を笑い飛ばしてそのあとどうする?という疑問の回答は人それぞれで、それは一生かけて答えを出していくものなのだと思います。私にも私なりの答えがあるはずなんですがまだ見つからないです。見つからないのが当たり前です。

すこし時間がかかりました。もうすっかり秋の夜長になってしまいました。もうすぐ9月。名実ともに秋となります。みなさまも良い秋をお過ごしになれれますように。

それではおやすみなさい。