Japanese Literature

拷問蔵―公事宿事件書留帳〈3〉 拷問蔵―公事宿事件書留帳〈3〉
澤田 ふじ子 (2001/02)
幻冬舎

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公事宿事件書留帳シリーズ第3巻「拷問蔵」です。
NHKのドラマ「はんなり菊太郎」は先週終ってしまいましたが、本は5巻までありますからね。まだまだ楽しめそうです。澤田ふじ子さん、文章も巧いですし、構成も巧みです。主人公の田村菊太郎さん、相変わらずスーパーヒーロー的立居振舞で、読者の心を鷲掴みです。前にも書いたと思いますが、女性だからこそ書ける理想の男性、だと思います。時代考証や、時折あらわれる蘊蓄もばっちり。興味をそそられるものばかり。隙がありません。

Japanese Literature

会社帰りに途中駅のカフェで読みかけの本を読みました。とても面白い本。ストーリー展開が妙で、ページをめくる速度がついつい速くなってしまいます。

それで、読み終わりました。分厚い上下巻本でしたので、読み応えも十分。 よくぞここまでの長編を完成させたなあ、という大きな感歎。

しかし、なぜかその後襲ってくる虚無感。なんなんだ、これは! と言う感じ。

確かにストーリー運びは巧いし、史実を紹介しながら展開していくので、興味をひかずにはおられない。描いているテーマも大きいもの。理想を求めて変革しようとする若者達の辛苦に満ちた試みとその挫折が描かれています。 しかし、何かが物足りない。

そう自問自答しながら、雨に吹きさらされて帰ってきました。

辻邦生さんの文学も、理想と現実の隔絶や、それを乗り越えようとする意志、そして乗り越えられない現実を突きつけると言う感じで、構造としては似ているのですが……。

やはり、辻文学にくらべると、描写にムラがありました。また、現実と明らかに乖離している部分、誤っている部分が分かってしまうのでした。

これだけの長さのものを完成させるのは並大抵ではないです。しかし、それを一分の隙もなく完成させるのはもっと難しい。そう言う意味では、辻文学はより完成に近づいているなあ、とあらためて思うのでした。

Japanese Literature

最近、読書の話題がないのですが、本を読んでいないというわけではありません。
先週は、文芸誌を図書館から借りて読みふけっていました。辻邦生さんの本ばかり読むのも少々偏っているかな、と思ったと言うのもあります。
文芸誌自体、読むのは久しぶり。大学の頃ちらりちらりと読んでいたとき以来ですね。
オペラで言ったら、ガラ・コンサートみたいなもので、沢山の作家さんの色とりどりな小説を読むことが出来るというのは刺激的でした。そういえば、あの芥川賞作家もあの直木賞作家も読んだことなかったなあ、と言う感じで、新鮮な感動が沢山でした。松本清張や井上靖の短篇もたまたま読むことが出来て、読む愉しみを堪能することが出来ました。
今週は後半に本に戻ってきました。それについては明日書くことにいたしましょう。

Japanese Literature

Verdi: La forza del destino Verdi: La forza del destino
Giuseppe Verdi、 他 ()
Emi Classics

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 今日も会社の行き帰りにオペラの予習をしました。ムーティが振る「運命の力」です。強力ですね、ムーティ氏。序曲だけでもうお腹一杯という感じ。力を入れるところ、抜くところがしっかりしていて、何を言いたいのかがよく分かります。まずは聞き込んで旋律を暗記しないといけません。
 

木戸の椿―公事宿事件書留帳〈2〉 木戸の椿―公事宿事件書留帳〈2〉
澤田 ふじ子 (2000/12)
幻冬舎

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 先日もご紹介した澤田ふじ子さん「公事宿事件書留帳の二巻「木戸の椿」を読んでいます。澤田さんのプロットは独特です。起承転結ではなく、起承転……という感じで、結を仄めかしたり、読者の想像に任せたりという感じで、不思議な余韻を感じさせてくれます。主人公の田村菊太郎は、頭も切れて、腕っ節もあって、それでいて浪人もので気ままに居候などを決め込んでいる、男性から見ても女性から見ても理想的な男性です。女性だからこそ描けるヒーローなのかもしれません。それでいて平板さや冗長さがないのには驚きます。もっとも、男性が作者なら少し弱点を持ったヒーローにするのではないでしょうか……。舞台は京都なので、京言葉が台詞に登場しますが、これがまた良い味を出しています。昔京都に住んでいたものとしては懐かしい限りです。女性が京言葉を話すときの婀娜っぽさと言ったら! と言う感じです。

Japanese Literature

さぶ さぶ
山本 周五郎 (1965/12)
新潮社

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闇の掟―公事宿事件書留帳〈1〉 闇の掟―公事宿事件書留帳〈1〉
澤田 ふじ子 (2000/12)
幻冬舎

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「江戸切絵図貼交屏風」を読んでからと言うものの、時代物小説に少しく興味が湧いてきています。澤田ふじ子「公事宿事件書留帳」シリーズは、NHKの木曜時代劇で放映していることもあって読んでみることに。まずは第一巻「闇の掟」。京都弁が洒脱で、読んでいる最中は、会社で関西弁使っていました。プロットの作りも申し分なし。面白い。
それから古典である山本周五郎「さぶ」を再読。いやあ、こんな話だったかなあ、と言う新鮮な驚きと感歎。これはビルドゥングスロマンですね。今も昔も変わることのない人間社会を、透徹としたまなざしで見遣るあたりが凄い。歳をとってから読むと若いときと違う思いを抱くものですね。

Tsuji Kunio

黄昏の古都物語 黄昏の古都物語
辻 邦生 (1992/07/31)
有学書林

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「黄昏の古都物語」を読みました。前奏曲、間奏曲、終曲と題された掌編と五つの幻想的な短篇の世界です。この短篇は、「芸術新潮1984年9月号」でアール・ヌーボー特集が組まれた際に、田原柱一氏の写真と並べて掲載されたとのことです(あとがきより)。
幻想的な作風は、「天使の鼓笛隊」を想い出させます。それにしても、「幻想特急」が牧草地の真ん中に、レマン湖畔に、セーヌの河底に停車している姿が美しすぎて言葉になりません。正直言って、ヤラレた!と心のなかで叫んでしまったほどです。全編に通底するアール・ヌーボーの愁いを帯びた気怠い美しさの表現や、揺らいだ時間の表現が実に見事です。

美に魅入られるとは、その奴隷になることです。でも、それは、官能の甘い酩酊ゆえに、すべてを売り払った疚しさに似た気持を感じさせます

辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、214頁

「詩人というのは二重の存在さ、生れつきね。曖昧なところがあるから、健全な人たちには煙たがられる。ところが、詩人ときたら、大人のくせに子供。知っていて、何も知らない。泣いていて、笑っている」

辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、258頁
それにしても、セーヌの河底に列車を沈めるとは、なんという想像力なのでしょうか! 感歎してやみません。
それから、この短編集に収められた「サラマンカの手帖から」は、何十回と読み直している短篇ですが、今日もまた読んでしまいました。いつ読んでも、思うところがあります。僕にとって理想の短篇と言ってもいいと思います。「サラマンカの手帖から」については、また書いてみたいと思います。

Tsuji Kunio


江戸切絵図貼交屏風
江戸切絵図貼交屏風

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辻 邦生
文藝春秋
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三度目の「江戸切絵図貼交屏風」に、予想以上に強い感傷を抱かざるを得ません。「江戸切絵図貼交屏風」には、藩の犠牲になった男と女の哀切な物語が収められています。藩は、人間の集合する組織なのですが、一方で非人間的な側面を持つ組織なのであり、その存立のためには犠牲をも厭わない非情な側面を持っています。そうした側面は、現代社会においては国家組織や企業において、まるで合わせ鏡のようにみることが出来ます。「江戸切絵図貼交屏風」において、組織に翻弄された男と女は、心中を図り、仇討ちを果たすがために放浪を続けます。現代社会では、仇討ちは禁止されていますし(江戸時代は国家公認の制度でしたが……)、心中などという話も、あまり聞くことはありませんが、それでも、家族を舞台にした殺人事件や、DVなどには、硬く無機質な社会や組織に弄ばされ、傷ついた人々の哀切な叫びが隠されているような気がしてならないのです。「江戸切絵図貼交屏風」で繰り広げられる哀憫な物語は、現代を写す鏡なのであって、だからこそ、一編一編を読み終わった後に訪れる憂愁な気分がアクチュアルな意味を持ってくるのです。

Tsuji Kunio


江戸切絵図貼交屏風
江戸切絵図貼交屏風

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辻 邦生
文藝春秋
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「モンマルトル日記」から「小説への序章」へ向かい袋小路に入りました。今週は、気を取り直して「江戸切絵図貼交屏風」を読んでいます。この短篇連作を読むのは3度目になると思うのですが、読むたびに違った驚きを覚えます。今回は物語のおもしろさを味わうことが出来ています。それ以上に驚異的な描写の美しさに舌を巻いています。

それでも長雨に打たれる宿場風景は貞芳の絵心を惹いた。紅殻色の唐傘、青い雨合羽、塗れて色の濃くなった屋根瓦、黒い壁地に斜め井桁に漆喰を白く塗った旅籠の海鼠壁、蓑傘姿の旅人達、海沿いの松並木などが小止みなく垂直に振る雨に包まれて、どこか鮮明な色と形を取り戻していたあたかも木も家も道も石も雨の衣を着たために、ふだんの緊張が緩んで、ふと、自分のなま身をさらけ出している──そんな寂寥とした孤独な表情が雨の風景のなかに見てとれるのだった。

辻邦生『江戸切絵図貼交屏風』文春文庫、1995年、46頁
品川宿の描写なのですが、読んだ瞬間表象が浮き上がってくるのを感じました。小説を読む醍醐味です。

Tsuji Kunio


モンマルトル日記 (1979年) モンマルトル日記 (1979年)
辻 邦生 (1979/04)
集英社

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「モンマルトル日記」の世界にのめりこんでしまい、出てこられなくなってしまいました。苦戦を強いられています。というより、この作品のおもしろさに捉えられてしまい、出てこられなくなっていると言う感じです。気になるところにつけ始めた付箋は、いまやハリセンボンのようにいくつもいくつも本から飛び出しているような状態。もっとも、そう簡単に近づけるものではないという予測はありましたが、案の定でした。もちろん私の力不足という面もあるのでしょうが……。
とにかく「嵯峨野明月記」の「太虚」の境地を探求しようとしていたのですが、「モンマルトル日記」に生々しく描かれる、作品を産み出す作家の舞台裏の苦悩に引き込まれてしまいました。
引用文をいくつか書き抜いてみたり、コメントをつけてみたりしたのですが、引用文を選択したり、コメントすればするほど、本来の目的から離れていく様な気がしています。どれも重要で興味深い主題なのですが、日記と言うこともあり、論理的に読もうとする試みはことごとく弾かれてしまい、散文詩のように読んでみると、ますます却けられてしまうような気がしてしまいます。
そんななかですが、今日はいくつか選んだ引用文のなかからこの詩を選んでみたいと思います。

通り過ぎるのは時であり
「私」ではない
「私」は時の外に立ち
時は「私」に抱かれる
「私」は老いることなく
「私」はすでに永遠である

辻邦生『モンマルトル日記』集英社文庫、1979年、136頁
「太虚」の境地につながると思われる詩です。特別なコメントはありませんので、辻先生の詩作だと思います。まずはこの詩に限らず、辻作品を味わいつくすことが重要です。まるで経文を唱え続け肉化させることで、その内実の理解に近づいていくように……。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

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モンマルトル日記 (1979年) モンマルトル日記 (1979年)
辻 邦生 (1979/04)
集英社

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詩と永遠 詩と永遠
辻 邦生 (1988/07)
岩波書店

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「モンマルトル日記」のなかから、「嵯峨野名月記」において述べられた「太虚」の境地を理解するための示唆を探し求めています。モンマルトル日記を読んでいると、作家が作品を生み出す舞台裏をのぞいているような感じを強く受け、それ自体大変興味深いのですが、その点についてはまた別の機会に書いてみたいと思います。
ともかく、今明らかにしたいと願っているのは、太虚と言う概念の指し示す意味なのです。
「モンマルトル日記」から引用してみます。

もう一度チャールズ・ラムの I am in love whith this green earth. (わたしは緑の大地が大好きなのです)に戻ってくる。この生命への執着、礼賛こそが、この生命の「よろこび」こそが芸術の本源に他ならない(中略)しかも
この「生のよろこび」はただ死を媒介としてのみ、永遠のものとなり、あらゆる面において輝きだす。(中略)死が永遠ではなく、この「生のよろこび」が死があるおかげで、永遠の輝く甘美さにつらぬかれるのだ。時のうつり、死、病気がなかったら、この「生のよろこび」は亡くなるだろうし、日々は砂を口口噛むような繰りかえしにすぎなくなる。

辻邦生『モンマルトル日記』集英社文庫、1979年、50頁
「詩と永遠」では、この死と充足の関係をモンマルトル日記において執拗に考えたとあり(179ページ)、以下のように述べられています。

<生きている>ことをそれだけで<喜ばしい>と感じるためには、何よりもまず<生きている>ことを重病人のように、銃殺直前の男のように、強く激しく乞い願わなければならないのです。(中略)私は、それを、不満な現状を慰める口実とするのではなく、あくまで不満そのものを通り越し、不満を無効にするような<生>のレヴェルに達すること、と理解しています。

辻邦生「語りと小説の間」『詩と永遠』岩波書店、1988年、179頁
さらには、この「喜ばしい感じ」と禅の境地との関連も示唆されています。文学創造のインスピレーションが<存在への驚き>であったり、<生きていることの恩寵感>であり、世界と私が一体となる透明な昂揚感である、とも述べられています。
整理してみると、
(1)死を意識する。<生>を剥奪された状態に身を置いたと仮定する。
(2)死を意識することが媒介となって、生きていることを恩寵として感じる
(3)喜びの感情にとらわれる。
(4)不満な現状を越え、不満を無効にするレヴェルに達する。
(5)このとき世界と私は同一となっている。
もう一度「太虚」の部分を引用してみます。
(A)

<死>も実は藤の花が散り、雲が流されることに他ならぬ、と感じられた瞬間、それが一挙に溶け、流れ出ていたことに気がついたのだった。歓喜の念は、この<死>の突如とした解消から生まれていたのである。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、430頁
(B)

私が太虚を感じたのはそのときである。だが、それは何という豊かさを浮べた虚しさであるのだろう──私は、その瞬間そう思った。まさしくこの生は太虚に始まり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命を取り戻すのだ。(中略)私は太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事が残されていようか。私が残したささやかな仕事も、この太虚を完成させることに他ならないのだ。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、430頁
まず、(A)の引用で、死を意識し、死が解消して生を感じ、歓喜の念に達します。(1)、(2)、(3)のレベルまではここまでです。
次に、(B)の引用で、世の虚しさを悟りますが、この虚しさは豊穣な虚しさであるとされます。世の中は「背理」であり(宗達の独白)、汚辱にまみれた世界ですが、そうしたパースペクティブを越えて、太虚という境地に達します。ここで、(4)、(5)のレベルに達します。
補足が必要です。この引用の前の部分で、すでに前回までに引用していますが、以下の部分で私が世界と同一になっていることが指し示されています。
(C)

私は、私を取りまいている太陽や空や花と同じものとなり、その中に突然解き放され、それと同じ資格で、そこに存在しているのだった。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、428頁
(C)の引用で、(5)の世界との合一が直観されています。そして、光悦は「自らの仕事」──つまりは、芸術的創造へと自ら進んでいくのです。
この太虚の境地においては、何が起きるのでしょうか。作家である辻先生は、この昂揚感において文学的創造をなすとしています。昂揚感により美的価値が受胎し、芸術作品の創造へとつながっていくという訳なのです。
我々はどうでしょうか。喜ばしい感情を持つことでその先はどうなるのでしょうか? 辻先生の場合であれば、文学的創造へと進みますが、我々にとって見れば、こうした昂揚感を得ることで、この汚辱と悪弊満ちあふれた世界を生きていく原動力を得るのである、とでもまとめるべきなのでしょうか。
まだ、探求を続ける必要がありそうです。また次回以降も続けていきたいと思います。