Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

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今日も嵯峨野明月記です。光悦の言葉を引用してみたいと思います。

人間の所業はすべて、この一定の宿命という手箱の中に入れられているのだ。それは透明な、眼に見えぬ玻璃の手箱なので、気がつかないというだけなのだ。人間の所業は、野心も功業も恋も悩みも裏切りも別離も盛衰も、すべて、この手箱の中にあり、そのなかで永遠の廻転を繰り返しているにすぎないのだ。(中略)私は、その手箱の外に立って、その手箱を眺めているのだった。(中略)そのとき私は突然、あの志波左近の自在な生き方を思い出したのである。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、164頁

浮世が玻璃の手箱に閉じこめられているのを見ているような気がした。そこにあるのは、左近のいう心意気──ただひたすらにその瞬間に打ちこんで生きる気組み──といったものだけだった。それは一種の自在さと静謐さを持った境地だった。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、165頁
人生を玻璃(ギャマンというふりがなが振ってあります)の手箱になぞらえるあたり、いかにもニーチェの永劫回帰思想とでもいうようなものを感じさせます。辻文学においてニーチェの影響を直接的に見ることができるのは『小説への序章』においてですが、ここにもその影響が見られると思います。
ニーチェの永劫回帰においては、人間の人生というものは、それ自体完結し永遠に回帰しつづけるとしています。「私」の生きている人生、生まれてから死ぬまでを、何度も何度も繰り返すというのです。仏教における輪廻転生よりも厳しい思想です。なぜなら、人間の力で人生を変えることは能わず、どんなに不満足な人生であってもそれを未来永劫に繰り返さなければならないからです。ニーチェにおける永劫回帰思想の克服は、どんなに不満足な人生であってもそれを肯定するということにあります。
手箱の外に出て、つまり人生を客観的に見つめ、それをそれとして受け容れて、浮世や所業の上を「舞う」こと。それが、光悦なりの人生に対する省察なのです。ニーチェ的な人生の克服の仕方といえないでしょうか?
さらに、第二部の冒頭で、光悦はこう語ります。

やはり真に生きるとは、たえず不安、危懼、懸念に心がゆすぶられ、日々を神仏に祈りたい気持で過すことでなければならぬ。不動心を得たいというのは、誰しもが念願することではあるけれど、高齢になって世の名利の外に立ち、常住平静の心境に立ちいたってみると、若い迷妄の時こそが、生きるという、この生臭い、形の定まらぬものの実態であったと思い知るのである。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、196頁
この一文は『人間が幸福であること』にも引用されている文章です。ここだけ時間軸が下がっていて、人生の晩年において光悦が語っているわけです。土岐の女との愛憎、加賀での志波左近との出会い、手箱の思想の獲得などを、後になってから思い起こして、光悦がこう語っているわけです。老いの境地から見た若さを見遣るときに感じる面映ゆさや眩しさを感じ取ることができます。老いの入り口が見える向きには本当に泣けてきます。
小説を読むということは、自分の人生を小説の中に投影して見ると言うことでもあると思うのですが、そうしてみると、迷妄の時こそ生きるということなのだ、という辻文学の語りかけに、勇気を与えられたと思います。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
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嵯峨野明月記、今日は読むことができました。カーラビンカさんに先日コメントを頂いた部分、早速出てきてうれしかったです。おそらくこの一文ではないでしょうか?

だが、それがどんなことであれ、そのなかに浸りきらぬことだな。およそこの世のことで、おれたちがそれに頭までどっぷり浸かりきるようなものはあり得ない。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、154頁
志波左近という若い武士が光悦に語るシーンです。志波左近は前田家に仕える武士ですが、それまでに宇喜多直家、別所長治、毛利家、丹羽長秀、織田信長、徳川家、前田家と主君を縷々と変えた武士で、苦労も多いながらも、明るく、男らしく、清爽とした生き方をしている男として描かれています。現世に媚びることもなく、また離れることもない生き方が、愛憎の中で苦しんだ光悦の心を解きほぐしていったように描かれています。
志波左近のような、現実世界からつかず離れずの男を魅力的に描くということは、辻文学が決して芸術至上主義ではなかったと言うことの現れだと思います。エッセイといった随所に市民的生活の重要性が示されていることからも明らかなことだと思います。市民的生活の中にあってなお美的世界とのつながりを保つバランス感覚が重要なのだ、といっているように思えてならないのです。
※私事ながら、こうしたバランス感覚を保つことの難しさを、この数年来感じつづけています。まだまだ探求は続くということだと思います。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
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今日も嵯峨野明月記を読みました。今日はこの部分を引用してみたいと思います。

「貝絵も描きやした。燈籠の絵つけも致しやした。押型も一日に何枚となく描きやす。でも、そりゃ絵ではねえですよ。いずれ、坊にもわかりやすがな、絵とは、心のなかの震えを表わすものでやしてな。誰にも心が震えるものがありやすよ。それを絵師は描くのでしてな。草花を描くのでもなく、鳥獣を描くのでもねえんですよ。ところが狩野永徳や永達の絵をみますとな、この心の震えがねえですよ。巧みに描いてありますしな、よく見、よく写してはおりますがな。それだけでやすよ。六曲の大画面をただ埋めているだけでやすよ。」

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、121頁

幼い俵屋宗達のに話しかける職人与三次郎の言葉です。この言葉を受けて、辻先生は宗達に「心の震えを絵筆にのせて描くのだといった言葉が、なにか人魂でも燃えているような光景を呼びおこした」と語らせています。これも絵だけではなく芸術一般に対して当てはまる言葉として解釈しても良いと思います。ここにも辻先生の文学に対する気概が感じられてなりません。

Tsuji Kunio


辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
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年が改まってから嵯峨野明月記を読み始めました。この本の文体の美しさは、辻作品の中でも特に絶品です。本当によく醸成された文体だと思います。日本語の美しさを味わいを愉しむことができます。
今日は、海北紹益が絵画について語る部分を引用してみたいと思います。

「だが、絵は違うのだ。絵は、このような地上の権勢に奉仕するようであってはならぬ。画品とは天なるものの謂に他ならぬ。(中略)それはいかに眼に見えるものに似ているかが問題ではなく、いかに眼に見えぬものを表わすかが問題だということを、よく納得しなければならぬ。それはただものを見るだけでは駄目だ。物を見て、その物のもつ清浄な香りにまで達せねばならぬ。物の奥にあるかかる香りに眼識が達してはじめて、わしらは地上のものをこえることができる。絵とは、その清浄な香りをうつすものなのだ。それが天なるものなのだ。この清浄な香りは、地上の財も権勢もついに達することのできぬ境涯である。そこにはわしの心を救いだす何かがある。わしはそれを求め、それを描き出すのだ」

辻邦生「嵯峨野名月記」1990、中公文庫、76ページ
「絵」という言葉を「小説」や「芸術」や「美一般」に置き換えてみたくなる衝動を覚えます。おそらくは辻先生の気迫が表出している部分だと思えてならないのです。しかし、この文章を読んだだけで、辻文学が芸術至上主義であるかのように思ってはいけないと思います。辻文学にとっての美とは芸術にはとどまらず、たとえば通勤途中に感じる朝の太陽の光のあたたかさに感じる幸福感といった美意識をも指すのですから……。

Tsuji Kunio

辻邦生全集〈8〉 辻邦生全集〈8〉
辻 邦生 (2005/01)
新潮社

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「風越峠にて」を大晦日に読みました。昨年の読み納めでした。この短篇を読むのは5年ぶりぐらいになると思いますが、いつ読んでも、気品と情熱を感じる薫り高い短篇だなあ、と思いました。また、今回もまた新たな発見をいろいろとした次第です。

今回は、この短篇に登場する土地について考えてみたいと思います。

風越峠のモデルは?

風越峠は全国に点在しているようです。以下の県にその地名が見られるようです。

  • 宮城県
  • 福島県
  • 長野県
  • 静岡県(二つ)
  • 愛知県

「日本の峠一覧」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2006年12月31日 (日) 07:10 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

辻先生は旧制松本高校に通っていらしたので、おそらく松本市北部にある風越峠が、辻先生にインスピレーションを与えたのではないか、と想像します。こちらに写真が載っていました。

軟弱派峠道紀行(2007年1月1日アクセス)

「私」と谷村が泊ったホテルは?

文中には「東山に近い」ホテルに泊ったと在ります。以下の理由から、これは現在の「ウェスティン都ホテル京都」ではないかと思われます。ホテルのロビーには外国人が居るという描写があることから、比較的規模の大きいホテルではないかと想像されます。また、「私」と谷村は再会の夜、南禅寺近くの料亭で食事をしています。南禅寺はウェスティン都ホテルのすぐ傍ですので、自然と近くの料亭で食事をとることになったのでしょう。
地図のAの地点がホテルです。ホテルの北東に南禅寺があります。
「ウェスティン都ホテル京都」は、かつて「都ホテル」という名称でしたが、ウェスティンホテルの系列下に入り現在の名称となりました。おそらく二人が泊った頃は「都ホテル」という名称だったのでしょう。

「私」と谷村が乗った電鉄とは?

間違いなく近鉄京都線だと思います。京都から奈良へのアクセスは近鉄とJR奈良線の二通りが考えられますが「電鉄にゆれられ、いくつか乗り換えをし」という言葉から、近鉄を使ったのではないかと想像されます。JR奈良線を使ったのならば、電鉄ではなく国鉄と表記をしたのではないでしょうか?
二上山の麓の駅は、近鉄南大阪線の二上神社口駅と思われます。ここから1時間30分山を登ったところに大津皇子陵があります。したがって、以下のような旅程だったのではないでしょうか?

●京都
|  8:40発
|    近鉄京都線(急行)41分
↓大和西大寺
|    近鉄橿原線(急行)26分
| △9:50着
○橿原神宮前
|  9:55発
|    近鉄南大阪線(普通)22分
| △10:17着
■二上神社口

二上神社口駅は「にじょうじんじゃぐち」と読みます。駅と大津皇子陵の位置関係はこちらの地図・航空写真の通りです。

先日も書きましたが、僕が「風越峠にて」を初めて読んだのは近鉄京都線の車中でした。京都駅から京田辺市へ向かうために乗っていたのです。これも一つのシンクロニシティと言えるのではないかと思った次第です。

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Tsuji Kunio

見知らぬ町にて (1977年) 見知らぬ町にて (1977年)
辻 邦生 (1977/07)
新潮社

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辻邦生作品の今年の読み納めを何にしようか迷っています。
僕が初めてかった辻先生の文庫である「見知らぬ町にて」のなかから選んでみたいと思います。
そうですね、今年の読み納めは「風越峠」にしてみようかな、と思います。この短篇、とても気に入っています。初めて読んだのは15年ほど前の近鉄京都線の車中にて。人間を揺さぶるどうしようもない運命性に心を動かされたのを覚えています。それから何度となく読み返しました。僕の中では辻作品のトップテンに入る作品です。また新しい発見が在るかもしれません。明日から短い休暇が始まりますので、読書時間もすこし取ることが出来そうです。楽しみですね。

Tsuji Kunio

今日も「人間が幸福であること」から。

自分にあったものしか受け入れられず、合わないものに適合できなくなってゆくのは、老化の兆候である。若いときはどんなものにも適応してゆけるものだ。老人が保守的になるのは当然だ。彼らは慣れたものが心地いいのだ。変化を嫌うのだ。だが、ぼくにいま必要なのは、この変化に適合してゆく柔軟な能力だ。そのしなやかさがなければ、これからあとの仕事が豊かに独創的に生まれて来まい。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、82ページ

これは常々思っていたこと。最近変化を厭う気持ちが出てきたような気がしていたところでした。そう思った途端に老け込んでしまった気がするのです。いけませんね。新しいことに常に挑戦していくこと、改革とまでは行かずとも、慣れきったことを変えていく力を持つこと、これが大事だと思いました。大事だと思うだけでなく、実行していかなければならないですね。

Tsuji Kunio

今日も「人間が幸福であること」から数節を…。

<今>を掛けがえなく生きるとは<今>がもたらす<楽しさ>を十全に味わうことだ。逆に言うと<楽しさ>を感じることが、<今>を本当に生きるということなのだ。花の世話をして楽しかったら、そのとき<今>を生きていたのだ。仕事に夢中になって楽しかったら、それも<今>を生きていたのだ。このようにして蓄積してゆく<楽しさ>こそが生の内容にほかならない。この<楽しさ>の濃さが生の本当の意味なのだ。<楽しさ>のないまま、ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。いかにすべてを<楽しみ>の中に取り戻すか──それが<今>に生きる鍵であるに違いない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、124ページ

ぼくたちが本当の幸福を見いだしたいと思ったら、とにかく不必要なものを棄てなければならない。そして人目など気にせず、夢中になって好きなことに生きることだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、134ページ

幸福な人は、わざわざ幸福だとは感じない。ただ夢中になって時を経過したと思うだけだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、135ページ

特に

ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。

の部分が心にしみいります。現代は「効率化」の世の中で、「効率的」組織の中に組み込まれてしまっている僕自身としては、複雑な気持ちです。もっとも「仕事に夢中になって楽しかった」数年間が僕にもあったと考えられるようになってきたので、少しは前進かもしれませんが…。いまはそうじゃないんですけれどね…。

Tsuji Kunio

人間が幸福であること―人生についての281の断章 人間が幸福であること―人生についての281の断章
辻 邦生 (1995/02)
海竜社

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最近体調が悪く本を読むことが出来ません。そんな中でもなんとか辻先生の作品を読もうとしているのですが、いくら辻先生の作品が好きとはいえ、体調の悪さに打ち克つことが出来ず、苦しんでいるところです。

とはいえ、断章ぐらいは読むことができよう、と思い「人間が幸福であること」を手に取ってみました。この本は辻作品の中から281のフレーズを取り出して、テーマごとに並べた本です。以下のようなテーマが並んでいます。

  • 人生の豊かな実りのために
  • 死を通って生へゆく道
  • 生のさなかにあって
  • 「いま・ここ」を生きる幸福
  • 生きることに夢中になる姿
  • 生への共感と愛着
  • 暮しを楽しむ・暮しを想像する

まずは、ぱっとページを開いてみて、断章を読んでみるのですが、まるで今の自分のために書いてあるかのような文章にぶつかるのが不思議に思えてなりません。たとえば…

この世にはどうにもならぬ悲劇がある。だが、それは途方もない幸運と同じように、それで人生がどうなるものというわけではない。どうかなったと思うのは、その大きさによって眼がくらまされているからなのだ。人間の上には同じように日が昇り、日が沈む。この一日一日をいかに耐え、見事に充実させるか──それのみが人間の仕事なのだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、70ページ

もう一度やりなおしてみるべきだよ。誰だって、過失はある。そのたびに何もかも投げだしたら、一生かかっても人はなにもできやしない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

災難が降ってきたときは、人間は、ただじっと忍耐してそれを遣りすごすより他ないんだ。災難はかならず過ぎてゆくものだから。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

昨日何気なく開いたページと、今日何気なく開いたページが同じページだったのも不思議ですが、そこに書かれていたことが、今の自分にとって価値あるものと思えるのも不思議なことです。

Tsuji Kunio

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夏の海の色 夏の海の色
辻 邦生 (1992/04)
中央公論社

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<夏の海の色:赤い場所からの挿話 IX>「夏の海の色」

夏の海の色から「夏の海の色」を読む。


あらすじ

主人公の「私」は中学受験に失敗している。浪人しようか、第三志望の中学にいこうかと悩んでいるのだが、叔母の妹である咲耶は第三志望の中学校に入った方が良いと言うのだった。

「私も学校のことにこだわる人、嫌いよ」咲耶は私を慰めるつもりだったのか、極端な言い方をした。「いい大学を出たって、駄目な人は本当に駄目なのよ。学校のことにこだわる人ほどろくな人はいないわ。」

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、105頁

こうして「私」は第三志望の中学に進むことになった。中学校では剣道にいそしむ毎日。入学試験に失敗したことを得意な剣道に打ち込むことで癒されていくのだった。

咲耶から家に遊びにおいでと誘われるのだが、二年生になってやっと行くことが出来る。咲耶の住む街は古い城下町なのだった。

都市の中央に石垣と、青く水を湛えた堀割の残る城址があり、石垣に囲まれた三の丸、二の丸から本丸にかけて、樟の繁る影の濃い公園になっていて、夏の昼下がりには、行商人が荷を置いて、その木陰で昼寝をしている姿をよく見かけた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、108頁

私は、城下町を歩きまわって、歴史を楽しむのだった。剣道も朝と夕方に素振りをしていたのだが、咲耶が気を利かせて地元の中学校の剣道部に練習にいけるように手配をしてくれたのだった。武井という男と親しくなる私。ただ、武井が咲耶と親しいことに少しいらだちを感じている。

剣道部の練習に行くと言うことで、土蔵の中から剣道具を運び出そうとする咲耶と私。私は土蔵の中で、咲耶とその子供と思われる写真を見つけるのだった。だが、なにか触れてはならないことのように思えてならないのだった。

地元の中学の剣道部の練習に参加する私。やはりここでも剣道の旨さで一目を置かれるのだった。そのうちに合宿を海辺の街で行うことになったのだという。参加しようとする私だが、咲耶は行っても良いが絶対に海で泳いではならないという。

「私ね、あなたに海で泳いでほしくない──それだけなの。わけは訊かないで頂戴。でも、これだけは約束して」
 私は咲耶の切迫した表情を見ると、いやと言うことは出来なかった。
「絶対に泳ぎません。誓います」
 私がそういうと──私は今もそれを眼の前に見るような気がするが──咲耶の眉の間から、何か凍りついていたどす黒いものが、見る見る溶けて流れ落ちていった。それはいかにも安堵の思いが顔に拡がってゆく、という感じだった。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、127頁

海辺の街で剣道の練習に勤しむ私。だが、武井の唆しにも関わらず、咲耶との約束は決して破らず、海で泳ぐことはなかった。合宿も終わろうとする頃、咲耶から電報が届く。合宿が終わってもそのまま宿舎の寺に残るように、とのことだった。

数日後、咲耶が現れる。寺の住職と話をしている。私に一緒に浜まで出てくれないかという咲耶。浜辺には船頭が船を準備して待っていた。船に乗り込むと、沖合の赤いブイのあたりまで船をすすめるのだった

「典ちゃん、お母さまが来たわよ」咲耶はそういって、船縁から身を乗り出すようにして波の底を見つめていた。
「いいのよ。そんなに無理に笑わないでも。お母さまは、あなたがそうして許してくれるって言うだけで、もう十分なのよ」
 彼女は長いこと両手をあわせて船縁に蹲っていた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、132頁

咲耶は城下町の出身で東京の良い大学をでた男と結婚していた。だがその結婚は望んだ結婚ではなかったのである。10年目に子供をおいて離縁したのだが、その子供はこの海で、ちょうどブイのあたりで溺れ死んだというのだった。


この城下町のモデルは、辻先生が高等学校時代に過ごした松本市であると言われています。それでは、合宿をした海辺の街はどこなのでしょうか?想像ですが、僕は湯河原ではないかと思うのです。こんなシーンがあります。

 そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上がっていて、波が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光の中に浮び上るのが見えた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、129頁

この文章から、月は海上にあがりはじめたと読むことができます。「上がっていて」という文章は、寝る前には月は上がっておらず、夜中になってみると月が上がっていた、ということになります。月は太陽と同じく東からのぼり西へ沈みます。したがって、この月はおそらく東から南にかけて上っていたことになります。もしこの海辺の町が日本海側にあるとすると、東から南にかけては山になりますので、この描写は不可能です。ということは海辺の町は太平洋側にあるのではないか、と考えられます。さて、なぜ湯河原なのかというと、ここからは少し僕の個人的な感情や経験が入ってきます。辻先生は終戦界隈に湯河原に疎開しています。

湯河原での日々は、時間を失ったような不思議なノスタルジーに満ちたものでした。徒歩で十国峠へ登り、芦ノ湖に出てみたり、熱海で映画を見たり、吉浜に疎開していた獅子文六に会ってフランス演劇の話を聞いたりしました。

辻邦生「松本 わが青春」『言葉が輝くとき』文芸春秋、1994年、306頁

小田原から湯河原にかけて、夜半前の時間に海沿いの道路を走ったことがあります。湯河原に向かう道路の左手には滔滔とした相模湾のうねりがあって、その上に銀色の満月がギラギラと輝いていて、うねりのある柔らかい海面に月の光が反射していてまぶしいほどの美しさだったのを覚えています。辻先生の文章を読むと、この夜の湯河原への記憶が甦ってきたのでした。辻先生もきっと湯河原で海面に映る満月の光を見たに違いない、と思うのです。