大好きな「名曲探偵アマデウス」でブラームス交響曲第一番が取り上げられていました。先日も触れましたが、この番組、平易に楽曲の成立史や楽曲分析を取り上げられますので、充実した気分で観ることができます。
毎回演奏映像が取り上げられますが、今回は1992年のサイトウキネンの映像でした。小澤征爾氏があまりに若くて驚きました。18年前ですか。時が過ぎるのは早すぎます。
というわけで、ブラームスの交響曲第一番を聴いてみよう、ということで選んだのがチェリビダッケ。発売は1998年頃でしょうか。私がまだ独身でまだインターネットストリーミングなんてない時代でしたので、喜び勇んでチェリビダッケボックスを買ったのでした。
私がチェリビダッケを知ったのはおそらく1998年だったと思います。何度もブログに書いていますが、渋谷のタワレコで「展覧会の絵」がかかっていたのですね。それも「キエフの大門」が。身震いするほど衝撃を受けました。いやあ、これはすごい、と。あの遅いテンポが作り出す圧倒的破壊力。
それで、チェリビダッケのCDが、生前の彼の意図に反して(まあ、息子さんのイオアン・チェリビダッケ氏の言い分──海賊版に対抗するため──というのもわかりますけれど)、次々と発売されるのを、網にかかる魚のようにどんどん買っていった次第。ブルックナー全集の巨大ケースも買いました。あはは。
それで、今日の久々のブラームス。やはり遅いのですが、それがもう感動的というか衝撃的というか。甘さなんてこれっぽっちもない厳しさ。昔、チェリビダッケがミサ曲第三番のリハで、マーガレット・プライスを詰めている恐怖の映像を思い出しました(「気を悪くしましたか?」とチェリもプライスにその後気を遣うのですけれね)。ここまで遅いのに失速しない高揚力は感動的です。なんだか若い頃を思い出してきました。
さて、週末は飛ぶように去り、また明日から仕事ですが、なかなか休憩所が見つかりません。でも、頑張ります。
ところで、本日時点の読書状況ですが、目標達成ということになりそうです。雑誌数を加算すると、雑誌一冊0.25冊換算で、ちょうど9冊を突破したというところでしょうか。明日から読む本も決まっています。楽しみ。
数年ぶりのチェリビダッケのブラームス
レオンハルト、プティットバンドのミサ曲ロ短調
なんともかんとも忙しい一週間でした。私の仕事の進め方に問題があるのかしら……。まあ、仕事に限らない話ですが、うまく生きると言うことは、やらないことを決めることである、とどなたかがおっしゃっているのを聴いたことがあります。それから、岩波文庫の解説に、良い読書家は悪書を読まないと言うことである、ということが書いてあったのを覚えています。高校時代の私は、ああ、これは岩波文庫だけを読め、ということなのだな、と勝手に解釈していましたが、結果は岩波文庫ばかり読むわけはなく、ハヤカワ文庫に走っていたんですけれど。これ、今でも変わらないです。岩波文庫を最後に読んだのはいつだろう。社会人になってから「ワイマールのロッテ」を読んだのが最後かもしれない。。。
ともかく、今日は朝早く目覚めました。やはり早朝となると、バロックでしょうかね。単純にNHK-FMの「朝のバロック」の影響ですが。
中学生か高校生の頃、合唱音楽にはまったことがありました。モーツァルトのレクイエム、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲、バッハのヨハネ受難曲などなど、鬼気狂ったことがありました。私は残念ながらキリスト者ではありませんが、それでもミサ曲の醸成する荘厳で神々しい空気には畏怖を感じていました。キリスト教についての基礎知識もないまま、キリエとか、クレドとか、オッフェルトリウムなんていうラテン語の輝きだけが印象深かったのを覚えています。
バッハのミサ曲ロ短調も、やはり中学生の頃に聴いたのが初めてでしたでしょう。90分のカセットテープに録音しました。演奏はどなただったか、忘れてしまいました。しかし、この曲も大好きな合唱曲の一つになりましたね。
そういうわけで、先だって入手したグスタフ・レオンハルト、オランダ・コレギウム・ムジクム・バッハ合唱団、ラ・プティット・バンドの演奏を聴いております。
古楽演奏のテンポは速めに設定されることが多いように思いますが、この演奏も私の印象よりも少し速いテンポで展開していきます。録音は高音ののびが美しく、清澄な空気をよく伝えてくれています。バロック音楽は基本的にはインテンポな音楽ですが、この演奏ももちろんこれにならったもの。
ジャック・ルーシェが、バッハの音楽をジャズに編曲して演奏していますが、あれは、インテンポなバッハだからこそできたものだと思っています。ジャズも基本的にはインテンポな音楽ですので、そういう意味で両者はきわめて親和性が高いのです。
この演奏ももちろんインテンポですが、冷静な演奏は実にすばらしいものです。私のデフォルト印象よりも速いテンポで展開していくのでそのイメージがとても面白くて、個人的にはスリルさえ感じます。
今週は本当にヘトヘトで、どうしようか、と思ったぐらいでしたが、こうして早起きしてバッハを聴くと、なんだか心現れる気分。週末の開放感もあいまって、いい気分になってきました。申し訳ありませんが、土日は仕事を忘れてリフレッシュすることにします。そんな甘いことを言っている場合ではないかもしれませんが。
コケティッシュなロットが聞ける「インテルメッツォ」のDVD
先だって購入した、シュトラウス「インテルメッツォ」DVD、前半部分を観ました。先だってNHKホールで上品で高貴な伯爵夫人マドレーヌを演じたロットが、「インテルメッツォ」でどんなパウリーネ、いやいや、クリスティーネを演じてくださるのか、どきどきしていましたが、いやあ、ロット、コケティッシュな風を演じていますが、上品さは失わないませんね。
それにしてもこのパフォーマンスを再生したとたんに、また感動しました。シュトラウスの音楽のすばらしさによるのはもちろんのこと。このオペラはたしか2004年の夏に新国中劇場で観たのですよ。釜洞さんのソプラノ、多田羅さんのバリトン、そして指揮は若杉さん。あのときの「インテルメッツォ」の楽しさを思い出して、なおいっそうのロットのクオリティの高さに驚き感動したわけです。冒頭の朝の場面でロベルトとクリスティーネがちょっとした諍いをする場面にでさえ、なぜか涙ぐみそうになるという状態でした。
このオペラは、サヴァリッシュ盤があって、そこではルチア・ポップとディースカウが歌うというすばらしいキャスティングが聞けるのですが、それに負けず劣らずのすばらしさ。
それからもう一つ驚きが。このDVDのパフォーマンスはグラインドボーンの映像(おそらく1983年)なのですが、歌詞が英語なのですよ。私は数分間気づきませんでした。それほど、英語の訳詞が音楽にマッチしていた驚き。英語だと気づいたのは、サブタイトルを表示させたからわかったという有様でした。ですが、どうしてこんなに音楽とマッチするのか。やはり英語の祖先はドイツ語ですからね。おそらくは単語の発音の長さなどが似ているのではないか、などと思いました。
「インテルメッツォ」の音源で簡単に入手できるのがサヴァリッシュ盤だけだっただけに、このフェリシティ・ロットのDVD(指揮はグスタフ・キューンです)は貴重です。
音楽か、言葉か、演出か?
昨日のトスカ、まだ忘れられません。演出も実に秀逸でした。
昨日も少し書きましたが、第一幕最後のテ・デウムのところの豪華さは比類のないもののように見えました。
それから第二幕の最後。あそこがすごかったです。
トスカがスカルピアの胸にナイフを突き立てる。
「これがトスカの接吻よ!!」。
スカルピアは驚愕し呻きうろたえ、そのまま床に身を横たえ息を失う。
トスカはスカルピアの胸にもう一度ナイフを突き刺そうとするがいったん逡巡する。われに返ると、書類机にいってスカルピアに書かせた通行許可書を探す。書類が何枚も舞い散らばるのだが、通行許可書はない。
トスカはスカルピアの右手に通行許可証が握られているのに気づき、もぎ取ろうとするのだが、スカルピアの握り締められた右手がなかなか開かない。
ここ、秀逸すぎる!
通行許可証を手に入れると、机上の燭台の吹き消そうとするのだが、なかなか消えずに手で払ったりするのだが、一本だけ消えないまま残される。
トスカは書類机から火の灯った燭台2本を持ってきて倒れたスカルピアの両肩のあたり、床の上に置く。
トスカが部屋を出ようとするのだが、2本の燭台からの光を浴びて、背面にトスカの影が揺らめいている……。
あの2幕最後の一連の舞台、あまりの緊張感でした。唾を飲み込むのを忘れるぐらい食い入るように見てしまいました。
こういう一連のアクションが、プッチーニの織りなす、不安を一杯孕んだ音楽とともに演じられると、化学反応が起こったように爆発的な効果を生み出すようです。いつもはiPodで音楽だけ聴いて感動していますが、やはり実演やDVDで視覚でも観ないとダメですね。
「カプリッチョ」では、オペラにおいて言葉が先か、音楽が先か、という問題提起があります。あの場では二択のようにも思いますが、実はもう一つ演出が先か、と言うのもあります。登場人物的に言うと、
- フラマン=作曲家=音楽
- オリヴィエ=詩人=言葉(=台本)
- ラ・ロッシュ=舞台監督=演出
という感じです。もしかしたら、1940年台、シュトラウスがカプリッチョを作曲した時点では、演出面の重要性は余り高くなくて、戦後バイロイトに始まった新バイロイト様式以降、演出の重要性が増してきたとも言えますので、現代オペラでいうと、ラ・ロッシュの役割が高まっているのでしょうね。
オペラは総合芸術と言われますが、昨日はよりいっそうその意味が分かってきた一日でした。
このパフォーマンスが東京で、なんて恵まれている。新国立劇場「トスカ」。
新国立劇場の「トスカ」行って参りました。最近、だいぶんと追い込まれているのですが、なんとか、という感じ。しかし、ここまで凄いとは思いもよりませんでしたよ。
ちょっと箇条書き風で。
トスカ役のイアーノ・タマーはグルジア出身の実力ソプラノ。憂愁を帯びた深い色のソプラノ。パワーと迫力も兼ね備えている。場数を踏んだ方だけが見せることの出来る揺るぎない自信を感じました。パワフルといっても、ワーグナー歌いとはちょっと違うのでしょうか。それは甘みとかふくよかさがあるから。でもこの方は、ブリュンヒルデ的ソプラノのはまり役といわれるトゥーランドットもちゃんと歌えると思います。アムネリスなんかがはまり役かしら。遠目に見た雰囲気がカラスに似ていて少し驚きました。
カヴァラドッシ役のカルロ・ヴェントレはウルグアイ生まれのイタリア人。ドミンゴを彷彿とさせる歌い回しに冷たい情熱を帯びた力強さ。この方のロングトーンには感動しました。ビブラートが実に綺麗。第一幕から飛ばしていて、冒頭部ではピッチに少し苦労していたけれど、暖まるにつれて安定感を取り戻していました。
スカルピア役のジョン・ルンドグレンはスウェーデンの方。僕のスカルピアのイメージは痩身で冷酷なイメージ。でも、この方のスカルピアは恰幅がよくてギラギラとした欲望をいくつも侍らしたような人間味のあるスカルピアでした。声質には幾分か甘みがある感じ。ピッチは終始良好だったと思います。
いずれにせよ、三人とも終始安定していらして不安感を感じることもありませんでした。この三人の強力な牽引力が大きな感興を読んだことは間違いありません。この方々が東京にいらしたことが凄いことなのだ、と思いました。
特筆すべきは、音楽を引っ張った指揮のシャスラン。額の形がグスタフ・マーラーにそっくりなのですが、作り出す音楽は迫力とパワーに満ち満ち溢れています。「トスカ」のスコアに含まれるうま味を十全に引き出すシェフ的職人芸だと思いました。シノポリが振る「トスカ」も相当凄いと思いましたが、実演でのシャスランの指揮はこれを上回る圧力でして、僕はもう最後まで圧倒され続けました。幸せな体験を今日もさせてもらいました。
今日初めて気づいたのですが、新国の「オペラパレス」の音は結構デッドですね。シノポリの「トスカ」のリヴァーヴ感が気持ちよかったのですが、今日の演奏の音は実にストレートに感じられました。昔からリヴァーヴ大好きな人間ですので、ちと物足りないかも。シノポリの「トスカ」は、ロンドンのAll Saint’ Churchです。教会のリヴァーヴは本当に素敵。
2003年に観たときは、左側のバルコニー席だったのですが、このときは舞台の右端しか見えない感じでした。カヴァラドッシが描いているマグダラのマリアも見えずじまい。第一幕の最後のテ・デウムの場面も全く見えませんでした。今日は二階の正面でしたので(しかも最前列! S席ではないですけれど)、舞台の様子がよく見えました。これは本当にお金のかかった舞台だと思いました。 当時のブログ。しかし生意気な記事で、赤面です。
http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/2003/11/09232044.html
テ・デウムの場面、キリスト教の祭式をゴージャスに再現していて、これはもうただただ凄かったです。舞台装置もローマの建築をイメージしていてなんだか郷愁を覚えました。またローマに行ってみたいのですが、いつになることか……。
しかしこのパフォーマンスを日本で観ることが出来るのは本当に幸福なことかも知れません。この幸福が将来も約束されたものではないがゆえに、なんともいとおしい経験となりました。
シノポリのトスカって!
今月の新国は「トスカ」、ということで、予習中です。「トスカ」は、ほかのプッチーニオペラのなかでも実はあまり好みではないなあ、などと不遜なことを思っておりましたが、先日から意見が変わりました。シノポリ盤の「トスカ」はすごすぎる。このオケの歌わせ方は、私が2003年ごろからお世話になっているシノポリ盤「マノン・レスコー」と同じく、甘く切なく流麗で豊かな音作りで、大感激です。
実は、トスカは某有名指揮者と某有名テノールの演奏を聴いていただけだったのですが、ここまで違うとは本当に思いませんでした。不明に恥じ入るばかり。 ともかく、シノポリのオケの歌わせ方はうまいです。緩急のつけ方が絶妙。全体的にはテンポは抑え目なのですが、心情にグサリと刺さってくるような感じがしてなりません。っつうか、あの有名なアリアもこんなに感動的だったっけ? みたいな再発見な状態です。
カラヴァドッシはドミンゴで、トスカはフレーニです。私の知っているドミンゴはもっと甘みを感じていたはずですが、この録音では甘みは感じられず、あれ、これは本当にドミンゴだろうか、と疑ってしまいました。 フレーニは、私のオペラ体験の最初期に、カラヤンの「ラ・ボエーム」でミミを歌っていましたが、この方は私のデフォルト・ソプラノですよ。この方が私にとってオペラの路を開いてくださった方のひとりなのです。もう一人はドミンゴでけれど。
これで、実演がいっそう楽しみになりました。
さて、このところ、以前より帰りが遅くてちとへこたれてまして、歳食ったなあ、ってかんじ。もっと体が丈夫だといいのですが。毎週ヨガに通っていますが、肩やら肩胛骨が痛くて痛くて。これって○十肩かなあ。。。
つれづれなる──ベルク「抒情組曲」
アクシデントはなかなか収束しない。ウチの組織に属する某課長が「仕事というのはどれだけ他人にボールを持たせるかなのだ」と滔々と語っているのだが、 現場組織から来た男は「仕事というのは、三遊間に飛んできたボールを以下に拾うか、なのだ」と言っている。はて、どちらが正解? どちらも正解? 少なくとも今は後者に従っているけれど、自分のポジションに飛んできた球を落としそうになっている予感。そろそろスタンスを前者に変えようかなあ。
人の記憶は余りに儚い。っつうか、どうとちころんで、ショルティのばらの騎士でキリ・テ・カナワが歌っている、という記憶になったのでしょうか。クレスピンじゃないですか。申し訳ありません。間違いました。
いつもお世話になっている「さまよえるクラヲタ人」さん。いつも素晴らしい記事で、勉強しております。新国の「ヴォツェック」のレポート、素晴らしくて、私も思い起こしながら読んでいた次第。この数日、ベルクを取り上げておられまして、私も刺激されてベルクを聴いています。
抒情組曲。この曲は元々は弦楽四重奏のために作曲された曲。念のために書き添えると、もともとはツェムリンスキーに捧げられていて、曲名の「抒情」は、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」から引用されています。これも有名な話しですが、ベルクは当時ハンナ・フックスという女性と不倫関係にありました。ハンナ・フックスは、アルマ・マーラーがマーラーの死後に再婚したフランツ・ヴェルフェルという文学者の姉に当たる人で、プラハ訪れたときに知り合った仲でした。
この、ハンナ・フックスとベルクの間に交わされた書簡が刊行されておりまして、英語版ですが私も購入しました。当たり障りのない挨拶が、急に深刻で切々とした愛の告白に変わってしまうという恐ろしさを味わいました。もっとちゃんと読まないといけないのですが。
wikiに載っていた第一楽章の音列ですが以下の感じ。冒頭のファンファーレ的なフレーズのコード進行と合致しているのがわかります。最初の音は、Fで、最後の音はHです。つまり、これはハンナ・フックスの頭文字と一致するわけです。
この音列、最初がハ長調で調性的で、後半はかなり外れてきます。こういうセンス、実は僕にとってはなじみ深くて、結構ジャズジャイアント、特にマイケル・ブレッカーなんかだと、こういう感じで調性から無調への飛躍をうまく取り入れておられると思います。
→こちらで聞けますよ。Lyrische Suite_1.mid
ルルの音列も、調性と和を結んだ十二音音楽ですので、美しいのに実は十二音だったという籠絡のされ方が気持ちよいわけですね。
この曲、1年前ほどに、何十回と繰り返し聞いていたのですが、何度聞いても新鮮です。今日も昼休みはずっと抒情組曲。何度聞いても飽きがこない。それだけ僕には難しいのですが。。
シルマーとキリ・テ・カナワの思い出~シュトラウス「カプリッチョ」
今日から久方ぶりに仕事。三連休もあるとなまってしまいますが、がんばります。
今日は朝から、「カプリッチョ」終幕の場面ばかり聞いています。とりあえず通勤中はシュヴァルツコップ、昼休みはキリ・テ・カナワ。
実は、今までカナワのよさが巧く理解できていないところがあったのです。マノン・レスコーをドミンゴと歌ったDVDとか、ティーレマンが振った「アラベラ」でおなじみのはずなのですが。ところが、このウルフ・シルマーが振った「カプリッチョ」のカナワはとても良いです。柔らかく包容力があって、豊かな倍音を含んだ慈愛に満ちた声でしょう。それから、"Bruder" を「ブルーデル」、"Oper"を、「オーペル」と発音されたり、"Der"を「デル」と発音される感じが、ちょっと面白い。ヤノヴィッツはそれぞれ、「ブルーダー」、「オーパー」、「デア」と発音しているように聞こえます。ヤノヴィッツの発音のほうが学校で習った発音に近いです。
ウルフ・シルマーは、思い出深い指揮者です。これまで新国に何度も登場していらっしゃいますが、一番すばらしかったのはエレクトラでした。あれはもう欧州級のパフォーマンスだと確信できた演奏でした。それから、2001年のブレゲンツ音楽祭で「ボーエム」を振っておられるはず。あのときの映像、VTRに撮ったのですが、演出も刺激的で若手歌手もみなすばらしく、感動したのを覚えています。
それから、これも何度も書いたかもしれませんが、また書いちゃいますと、私が生まれて二回目に観たオペラは「影のない女」でして、見た場所はなんとバスティーユです。そして指揮はウルフ・シルマー。今から思えば贅沢極まりない光り輝く演奏だったはず。ですが、仕事疲れに時差ぼけが重なり、昼間の間お土産探しに走り回った所為で、陥落してしまいました。意識を失う三幕の間。。。なんてもったいない。穴があったら入りたい。まあ、当時は「影のない女」なんていう難しいオペラを理解できていたとは全くいえませんでしたし。なにより、幕が下りてから、バスティーユから、夜中のバスティーユ広場をつっきって安宿屋へ無事に帰れるか、ということのほうが心配で心配で仕方がありませんでした。
話がそれました。ともかく、ウルフ・シルマーの隙のないスタイリッシュで雄弁な音楽は大好きですので、このCDもたちまち気にいってしまいました。まず最初にチェックするのは月光の音楽なのですが、結構ゆったりとしたテンポでホルンを歌わせています。感動。溶けてしまいたい。
シルマーは、来春「パルジファル」を振りますが、いまからとても楽しみです。
それにしても月光の音楽て、なぜあんなに美しいのでしょうか。僕はそのひとつの理由は頻繁な転調にあると思います。短三度ごとにフレーズが転調しながら高揚へと向かう部分。あそこはこの曲の白眉だと思います。以前のように譜面を書いて考えてみたり、MIDIファイルをおけるといいのですが。
やられた、泣いた、驚いた。二期会「カプリッチョ」
行って参りました、二期会の「カプリッチョ」。
結論。泣けます。泣けました。演出の読み替えには白旗をあげましょう。やられましたよ。
日生劇場に行ったのは恥ずかしながら初めてでした。本当は「ルル」や「エジプトのヘレナ」など、行くべき公演はあったのですが、いけずじまいでしたので。60年代の日本がまだまだ成長するという進歩史観が有効だった時代で、建築も実にやる気に満ちあふれています。劇場内部は様々な曲線が織りなす不思議な空間で、俄然雰囲気を盛り上げてくれます。
「カプリッチョ」の実演は二回目でして、一回目はなんとドレスデンのゼンパーオーパーにてペーター・シュナイダーの指揮でみるという幸運。何度も書いたと思います。しかし、あのときはその凄さを十全に理解しているとはいえませんでした。繰り返しになりますが、「カプリッチョ」はいまや僕の宝物のような作品ですので、楽しみでならなかったのです。
今回の公演、演出の読み替えがすごかったのです。もういろいろなブログでも取り上げられていると思います。時代設定は作品が実際に作られた1942年当時でして、舞台は不明ですが、おそらくはドイツ占領地域でしょう。
冒頭の六重奏では、ダビデの星を胸につけたフラマンとオリヴィエが登場します。この二人がユダヤ人であるという強烈な読み替え。ダイニングホールとおぼしき部屋は椅子やテーブルが倒れ、シャンデリアが床に転がっています。二人はそこでソネットの楽譜を見つけ、女性の肖像画、おそらくは伯爵夫人マドレーヌの肖像だと思います。すると窓の外から自動車のヘッドライトが差し込んでくる。入ってきたのはナチスの兵士たち。おそらくは親衛隊でしょう。フラマンとオリヴィエは逃げていきます。親衛隊は、テーブルを起こし、シャンデリアを天井に上げ、椅子を片づけます。ここで時間が遡行したのに気づくわけですね。
整えられた部屋では、フラマンとオリヴィエがチェスを打ち、演出家のラ・ローシュはソファで眠りこけている。ここからは、特別な読み替えはなく舞台は進んでいきます。演出面で面白いのは、幼い女の子のバレリーナたちが現れるところ。彼女たち、切り分けられたチョコレートケーキを本当に食べていたのは微笑ましかったです。
後半の最後が圧巻でして、みんなでオペラの題材を決めて、じゃあ帰ろうか、みたいな雰囲気になったところで、さっきまで執事だった男や召使いたちが親衛隊に成り代わって登場する。さっきまで床をはいたり窓を磨いたりしていた年老いた老人が黄色いダビデの星をつけたコートを着せられて連行されようとしている。ラ・ローシュは親衛隊に渡された黒い革コートを来ていて、鈎十字の腕章をつけている。ラ・ローシュは、まさに親衛隊かゲシュタポの一味だったという読み替え。
親衛隊達は、フラマンとオリヴィエにも、ダビデの星のついたコートを着せる。互いに、詩の方がすごい、とか、音楽の方がすごいとか言うシーン、普通の演出だと、予定調和的な平和なところなのに、ここではあまりに切迫している。伯爵夫人は、フラマンとオリヴィエにかけよろうとするのだが、伯爵がそれを止める。泣きながら階段を昇って行く伯爵と伯爵夫人の兄妹。ラ・ローシュは、それでも、フラマンとオリヴィエを逃がしてやるのだが、その後は……、おそらくは冒頭のシーンに戻り、そのうちにナチスに捉えられ死に至るはず。
それからがすごいですよ。月光の音楽で、舞台には群青色の光が差し込む。昼間部に登場するバレリーナが再登場。ドイツ軍兵士(男性バレエダンサー、もしかしたらドイツ軍兵士ではなくワルシャワ条約機構軍の兵士かもしれない)に銃を突きつけられるのだが、そのうち一緒に踊り出す。すると、テラスに杖をつく老婆が。これが、年老いた伯爵夫人マドレーヌなのでした。つまり、あれからもう何十年も経った戦後に舞台は移っている。
伯爵夫人は床に落ちていたフラマンとオリヴィエのソネットを取り上げるんだけれど、埃が積もっているので、手で払い息で吹き飛ばしたりする。このトランスクリプションがすばらしい。執事の歌は舞台裏で歌われている。これはあたかも伯爵夫人マドレーヌの幻聴である。伯爵夫人がフラマンか、オリヴィエか、と迷い歌うのだが、このトランスクリプションの中にあっては、悔恨の思いで歌っているとしか思えない。あのとき、なぜ決断しなかったのか、なぜ救えなかったのか、という思い。なぜか、歌詞を読むとそういう心情にフィットしていて、驚きました。
これはですね、もう20代の若者にはわからないだろうなあ、と思います。「ばらの騎士」の最終部で、マルシャリンが時のはかなさを歌うけれど、それよりももっと残酷で過酷で厳然とした時間の非遡行性への嘆息。これは30代過ぎないとわからない。歳をとればとるほど切実なはずで、だからこそ、年配の観客が比較的多かった場内で涙の音が聞こえたといえましょうか。私も涙が出ましたですよ。年をとればとるほど涙腺ゆるみます。涙を流すというカタルシスはある意味心地よくもありますので。
一緒に行ったカミさんは厳しくて、そんなに評価してくれなかったけれど、僕の心にはかなり響きました。
ただ、最後に舞台装置を壊してしまったのは残念。伯爵夫人マドレーヌのシルエットを強調したいために、セットを取り払ったのだけれど、なんだかちぐはぐに思えてしまいました。演出面で言うとそこだけです。
指揮とオケもすばらしかったですよ。指揮は沼尻竜典さんで、演奏は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。ちょっとした疵はいくつかありましたが、うねるような波がいくつも押し寄せるような演奏で、弦楽器の音も豊かで暖かく、演奏だけでも涙したシーンがありましたし。特に第七場最終部の間奏曲的部分はすばらしかった。月光の音楽ももちろん、です。ただ、月光の音楽のところ、演出に気をとられ驚いていたもので、少々上の空だったかもしれません。
すばらしかったのは、ラ・ローシュを歌われた山下浩司さんでして、声は鋭く張りがある感じで、ピッチも終始安定しておられまして大変安心して聴くことができました。あのラ・ローシュの大演説の部分もすばらしかった。歌だけではなく演技もそれらしくて、大変良かったです。この方、新国の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも出ておられたのですね。
ともかく、またカプリッチョの実演に居合わせることができたのは大変幸福でした。これも一生の思い出になるのでしょうね。
次は、12月の新国メニューの「トスカ」です。トスカは久しく聴いていないですね。ま
刺激と毒に満ちあふれた濃密な美的世界-新国立劇場「ヴォツェック」
行って参りました。新国立劇場のベルク「ヴォツェック」公演。スマートで格好良く、刺激と毒に満ちあふれ、片時もよそ見や上の空を許さない濃密なパフォーマンスでした。全三幕十五場を約100分のあいだ、ぐるぐるとヴォツェック世界のなかで振り回され、駆け回され、最後に一人舞台に取り残された子供の姿を見て思わず涙が出てしまうといった案配でした。なんでこんなに面白くて興味深いのでしょう。
水の張られた黒々とした舞台。立方体の部屋が上下し、場面によってはゆらゆらと揺られていて、劇中人物の不安定さを表しているようにも思えます。水に倒れ込んだり、ジャガイモや金にむらがる黒服の男達の姿はドブネズミかゴキブリのよう。黒服の男達は黒子のように舞台の上を動き回り、ヴォツェックにナイフを渡したり、倒れたマリーを舞台外に運び出したり、楽団を背中に乗せて現れたり、と言う感じ。
アップライトピアノが水面を滑るように現れるのには驚くばかり。水面の反射が舞台上に波紋を映し出したり、ナイフの反射光がヴォツェックを舐め回ったりと、光の効果も秀逸すぎる。クリーゲンブルク氏のセンスは抜群で、僕のツボにがっちりはまってくる感じでした。未知なものなのに見知ったもののように思える瞬間が不思議すぎます。抽象画を観るスリリングな感じと、調性を外れながらも美しさを保っている不安定で安定した音楽、両者の融合が産み出したキメラ的美と恐怖、といったところでしょうか。
実に重々しく堂堂たるヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーですが、第一場の"Jawohl, Herr Hauptmann"と歌った途端にすげーとうなってしまう。演技も歌も素晴らしいマリーは、ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンでして、終始安定した歌唱で、低めの倍音を吹くんだ豊かなメゾソプラノで僕の好みの声。ビブラートもそんなにきつくない感じです。鼓手長のエンドリク・ヴォトリッヒは少々遠慮がちかしら。昨シーズンの新国「ワルキューレ」でジークムントを歌ったときのほうが調子が良かったかも。大尉のフォルカー・フォーゲルは、第一場ではちょっと抑え気味でしたが、その後は安定的。医者役の妻屋秀和さんですが、もうこの方なしには新国の舞台は成り立たないのではないか、と思うぐらい新国登場回数が多い方です。歌も演技も凄く良かったです。声の質がいつもより少し硬質に聞こえました。
ヘンヒェンの指揮は、私が聴いたどのヴォツェックの演奏(アバド、バレンボイム、ケーゲル、メッツマハーだけですが)よりもテンポを落とす場面があって新鮮でした。マリーを殺害した跡のB音(H音?)のロングトーンの破壊力はすさまじかったですし、最終場へ向けた間奏曲の高揚感と不条理感にも心揺れる思い。世の中、現実、社会の冷徹さ。東フィルは、最初の方はムラがあったような気がしましたが、進むにつれて気にならなくなる感じでした。
カーテンコールでは、当然ですが水の張られた舞台に歌手達が登場するわけですが、指揮者のヘンヒェン氏は、長靴を履いて出てきました。ちょっと面白いです。
最近、仕事でトラブル多発でして、仕事が入るかも、と行けるかどうか危ぶんでいたのですが、何とか観ることが出来まして本当に感謝感激でした。
舞台がはけてホワイエに出ると、次期芸術監督の尾高忠明さんのお姿がありました。意外に小柄に見えてびっくりしました。
次は、明後日に二期会の「カプリッチョ」を聴きます。こんなにオペラ通いしてもいいのでしょうか。