Opera,Richard Wagner

うーむ、やっぱり、ニーナ・シュテンメは凄いですね。
iTuneで、何気なく選んだ、昨年の冬に録音したニーナ・シュテンメ、ペータ・ザイフェルト、ダニエル・ハーディングが演奏する、「トリスタンとイゾルデ」の第二幕抜粋版の音源。聴いているのは2009年1月に、ダニエル・ハーディングが振ったウェブ・ラジオ音源。
ニーナ・シュテンメの中低音域に翳りを含み憂いを帯び、それでいて矜持を失わない強さをも含んだイゾルデに甘い痺れを覚えます。この音源、何度か聴いているのですが、こんなに凄かったのか、と改めて感涙。
シュテンメは、ドミンゴとも「トリスタンとイゾルデ」の録音をしていますが、こちらの音源は遙かに緊張感がある気がします。
それは、やっぱりハーディングの音作りによるのかもしれません。ハーディングの指揮は、かなりドライヴしています。速度は少々早めで、妙なアゴーギクを聴かせることなく、アスリートのような引き締まった筋肉質の音作り。いやあ、いまちょうど1時間ぐらいのところなんですが、ハーディングの牽引力は凄いですよ。ぐいぐいと緊張感を引き上げていく。音量のうねりと微妙な速度調整でグルーヴしている。鳥肌が立つぐらい。
トリスタンのザイフェルトも素晴らしいです。倍音域は少々高めで、切迫感があって、追い詰められた男という感じ。
実は、幸いにもニーナ・シュテンメの実演に接しております。2007年の秋にチューリヒ歌劇場の来日公演「ばらの騎士」の元帥夫人がシュテンメでした。あのときは、かなり神経質な元帥夫人を演じていて、演出的に少し違和感を覚えた記憶があります。それから、声の質感の印象もあまり強くないのです。
ですが、その後、「四つの最後の歌」や「サロメ」最終部が納められたCDで感動を新たに。

Four Last Songs
Four Last Songs

posted with amazlet at 10.06.19
Covent Garden Royal Opera House Orchestra
EMI Classics (2007-02-28)
売り上げランキング: 501517

元帥夫人のような包容力のある女性よりも、サロメやイゾルデのような強さを持った役が似合いそう。そういう意味では、ブリュンヒルデを聴いてみたいです。
また日本にいらっしゃらないかなあ。
音楽でゾクゾク来たのは久々かもしれないです。最近、忙しすぎて感動する暇がないんですが、今日は久々に早起きができて、感動する余裕が出てきた感じ。

ニーナ・シュテンメ(ソプラノ)カタリーナ・カルネウス(メゾソプラノ)ペーター・ザイフェルト(テノール)ブリンドレイ・シェラット(バリトン)ダニエル・ハーディング指揮スウェーデン放送響

ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」第1幕への前奏曲と第2幕
(2009.1.24 ベルワルド・ホール)
今日もこれから、都心に出かけて、お昼に地元にとって返して、ジムやら図書館やら。頑張ろう。
しかし、肩こりがひどいな。

iPad,Opera,Richard Wagner

シュナイダー師の「ローエングリン」

今日聴いているのは、ペーター・シュナイダー氏が振っておられるローエングリンです。これは、DVDで発売されているものをAMAZON.UKから個人輸入したものです。海外でDVDを買うときは、言うまでもありませんがリージョンコードにご注意を。
まだ、演奏全体を云々できるほど聴いていませんが、アンサンブルが美しく、速度の微妙なコントロールが絶妙で素晴らしい。シュナイダー師、やっぱり凄いなあ。もっとCDでないかな、と思うのですが、
あ、そういえば、昨年のバイロイトでシュナイダー師が振った「トリスタンとイゾルデ」ですが、画像をiPadに入れました。あの感動を再び、という感じ。こちらも楽しみ。
最近シュトラウスばかり聴いていたのですが、ワーグナーに戻ってくると、なんだか心現れる気がします。シュトラウスはもちろん大好きですが、ワーグナーのほうが愚直なドイツ的精神性が強いように思います。心に直接揺さぶりがかけられる感じ。ワーグナーは凄いのですね。

iPadつれづれ

さすがにここのところiPadが気になります。
今日は所用で都心に出たので、UQ-WImaxの一日プランを試してみようと思ったのですが、上手くいかない。
私の認識では、無線LANに接続し、UQ-WImaxの一日600円プランの申込み画面に遷移したところで申し込み、接続確立となる想定でしたが、無線LANには接続できますが、申込画面に遷移しません。
ポイントは無線LANルータのWM3300Rの挙動でした。WiMAXと書かれたアンテナ型のLEDが赤く光っているのです。どうやらこれはWiMAXの電波は受信しているけれどインターネット接続が出来ていないことを指しているらしい。で、このアンテナ型のLEDが緑になるととりあえずはインターネットに接続出来ていることになる模様なのです。
1) まずは、ルーターのWM3300Rの電源をいれて、以下の写真のようになるのを待ちます。

2) 続いてルータの画面 http;//web.setup ないしは、192.268.0.1にアクセスします。すると、管理者パスワードが出てきますので、入力します。

3) すると、こちらの画面となります。ウェブウィザードの画面ですね。すでに契約はしていると思いますが、右下の
「今すぐ契約」ボタンを押します。

4) すると、ガチャガチャ、動き出すんですが、

私の環境だと以下の「サインアップ中」のままで、無限ループ状態になりいつまで待っても何も起きません。

5) このとき、ルータのWiMAXと書かれたアンテナ型のLEDが緑色になっていることに注目。この時点でウェブにつながっているのです。

6) すかさず、サファリ(ブラウザ)右上の検索ボックスに適当に検索値を入れて、検索してみます。あるいは、ブックマークでヤフーやグーグルなど一般的なウェブサイトに飛んでみるのも良いでしょう。すると、UQ-WiMaxのログイン画面に遷移します。やった!

7)あとは、ユーザー名を入れてログイン

8) 以下の画面に到達するので、利用時間の購入ボタンへと進みます。

9) ゴールです。ここで、利用時間を設定し、「次へ」ボタンを押せば、ネットが開通するはずです。

私の場合、ここでいったん止めました。この先、ちゃんと利用時間が購入できてネットにつなげるはずです。おそらく今週の週末に同じことを試しますので、またレポートします。

Opera,Richard Strauss

来年は「ばらの騎士」イヤーでもあります。「ばらの騎士」は1911年1月26日にドレスデンにて初演です。マーラーは「ばらの騎士」を聞いたでしょうか?
シュトラウスとマーラーというと、仲がよさそうにも見えるし、悪そうにも見える。アルマ・マーラーの回想録では、エコノミカルな面に腐心するシュトラウスの姿が批判的に書かれていました。もっとも、アルマ・マーラーの回想録自体どこまで真実に近づいているかはよくわからないのですが。
いずれにせよ、二人は同年代ですし、互いを意識していたんだろうなあ、というのは音楽を聴いていてもわかります。特に「影のない女」では数箇所、マーラー的な場所が驚いてびっくり。たとえば赤い鷹のモティーフ、マーラー的に聞こえるのは私だけでしょうか。
話を戻して、来年が初演100周年となるばらの騎士をハイティンク@ドレスデンで聞いてみましょう。ハイティンクを好きになったのはこの一年ですので、この「ばらの騎士」も一箇所を除いては大変すばらしい演奏だと思います。私なんて、第一幕冒頭のっけから、平伏しましたし。
今日はばらの騎士を聞いて心を落ち着かせましょう。
そうそう。今週の土曜日は大学の先輩後輩のジャズライヴがあるので、遠出(っていても錦糸町ですが)します。久々のジャズライヴで楽しみ。私も参加したいぐらい。EWIがんばろう!
あ、明日、iPad、運がよければ家に届くかも。。。

Gustav Mahler,Symphony

なんだか、虚脱状態に陥りっぱなし。やけに忙しいぞ。
さて、今年はマーラーイヤー(生誕150年)で、来年もマーラーイヤー(没後100年)ですね。
マーラーは1860年7月7日に生まれ、1911年5月18日に亡くなっています。中学生の頃、命日の5月18日にしんみりしていたりしてましたなあ。懐かしい思い出。
というわけで、図書館にはマーラーコーナーが設営されていまして、所蔵するマーラー録音が一堂に会している状態。ですので、ちと何枚か物色しています。
この二年間、ほとんどマーラーは聞いておりませぬが、私の強烈なマーラー体験は、小学6年生に小澤征爾がジェシー・ノーマンなんかとボストン交響楽団を振った復活の最終部の映像をみてからです。
NHKでドキュメンタリーが放映されたのですね。詳しいことは覚えていないのですが、二箇所だけ覚えています。
なんだか小澤征爾が神経質な面を見せる場面があったのですが、それを見ていた父が「芸術家のこういう芸術家ぶったところが嫌いだ」と言っていたことと、小澤征爾の子供達が庭で遊ぶシーン、「復活の最終幕」です。
この「復活」の最終部を聴いてから、マーラーのエアチェックを始めたわけです。
で、苦手だったのが、交響曲第五番でした。マゼール盤を聴いていたのですが、第四楽章以外は全く理解できませんでした。ある種恐怖症状態。
ですが、その呪いを解いてくれたのが、ラトル&BPOのライヴ盤でした。映像も見ましたね。ああ、この曲はこんなに面白いのだ、と得心。第三楽章でホルン協奏曲状態になるのをみて、すげー、と感心したり。
で、今日は、ショルティ盤交響曲第五番を聴いております。
先日来、バーンスタインのマーラーを少しばかり聴いておりましたが、ショルティはスマートになんでもやってのける感じ。そこが、賛否両論があるところなのかもしれませんが、くたびれた体には、ショルティのようなすっきりとした味わいもまた格別でした。虚脱状態の私にはちょうど良いカンフル剤的状況でした。第四楽章が意外と遅いテンポで、ショルティらしくないなあ、とも思ったり。逆にその方が良いんですけれど。
さて、先だって注文していた新しいノートPCが届きました。Windows7に初めて触れましたが、なかなか好感が持てます。私は、MSの戦略にはまらぬよう、メインPCは未だにXPですが、食わず嫌いも良くないなあ、とちょっと反省しまし

Opera,Richard Strauss

はじめに

「影のない女」から一夜明けた今日、なんだか、虚しさ覚える、虚脱状態とでもいいましょうか。
オペラを総合芸術に仕立て上げたのはリヒャルト・ヴァーグナーですが、以降のオペラは、音楽面だけではなく、文学面や美術面においても評価されなければならなくなってしまいました。そのうちどれかが欠けても難しい。
昨日の「影の女」は、残念ながらひとつだけ欠けたところがあったと思うのです。それは私の理解の足りなさという面もあるかもしれませんが、やはり演出面だけは釈然としません。
シュトラウスとホフマンスタールが作り上げた天才的奇跡的な音楽だけに、それをさらに高みへとあげるのは困難なはずですが、それにしても、という歯軋りをする思い。三人のヒロイン達がすばらしかっただけに、残念な思い。
最初に舞台装置に「疵」というか「矛盾」を見つけてから、視覚的違和感が常につきまってしまうのです。
これ以降、書くこと自体躊躇するところがあります。私の理解不足や、体調の不備、天候の悪さなどが影響しているかもしれないからです。ですが、やはり、ここは一足飛び超えて書かないと行けない、という覚悟で書きます。それが、新国にとっても良いことだと思うので。ご批判は覚悟の上。なにかあればコメントを。

違和感

私が違和感を感じ始めたのは第一幕のバラクの家のシーンから。
舞台全部には白い平たい板、白い底面が引いてあるのですが、それは、家々が地面に投げかける白い影で、家の窓枠に対応する形で、床が切り取られているのですが、一つだけ対応していない場所があるのを見つけてしまったのです。
神は細部に宿りますので、そうした細かい疵に気づいてしまってからなんだか気が抜けたソーダ水を飲んでいるような気分になってしまいました。
で、この平たく白い底面は、全幕通して置かれっぱなし。皇帝の居室であろうと、バラクの家であろうと、霊界であろうと、いつでも。これはちょっと違和感がある。
それから、舞台装置の移動は、黒い服を着た男達が劇中にお構いなしにあらわれて移動してくる。日本風に言えば黒子なんですが、顔もあらわで、いわゆる日本的な黒子ではないのです。「影のない女」の難しい舞台転換を安易な方法で解決したとしか思えない。
確かに「ヴォツェック」でも、黒子的な男達が現れたけれど、ちゃんと衣装を着て、ちゃんと演技しながら舞台装置を動かしていたんです。ですが、今回は演技すらしない。本当にスタッフがやっていて、劇空間がめちゃくちゃに破壊されてしまう。
それから、鷹や馬、オオカミなどの動物たちは、動物の形をしたワイヤーアートを持った方々が出てくるのですが、このワイヤーアートが見えにくくて仕方がない。これ、あらすじを知らない方がごらんになったら、赤い鷹の重要性を全く理解できないと思います。
それから、舞台装置がチープに思えてしまう。家をかたどったオブジェはベニヤ板が張られているのが見えてしまったり、石垣のように石が積み上げられた壁は安くて弱々しい。
乳母が死ぬ場面も、なんだか予定されたように舞台下にせり下がっていくというありがちなパターン。

背景は何か?

でも、本当にこれは演出家だけの問題なのだろうか、とも考えたのです。ほかにも原因はあるのではないか、と。
よく考えますと2010年度になってから二回目の新制作ですよね。もしかしたら予算が相当削られていたのではないか、とも思えるのです。まだ新国立劇場自体の22年度予算はウェブ上で確認することができないのですが、そうした背景もあるのではないか、とも。
先日の「ジ・アトレ」6月号に書かれていたのですが、予算は年々縮減傾向にあることは間違いないようです。そうした影響が出ているのかもしれません。
それから、このシーズンでは指環の後半である「ジークフリート」と「神々の黄昏」をやっている。バックステージツアーで舞台監督の方がおっしゃっていたのですが、再演とはいえ、やはり経済的な負担は大きかったようです。ですので、「影のない女」の予算が削られてしまったのではないか、とも思える。

まとめ

いずれにせよ、すこし寂しい思いをした公演でした。私も少し気張りすぎていて、期待が大きすぎたので、その落差に戸惑っているという面も少なからずあるとは思いますし。
次のシーズンでは、「アラベラ」や「トリスタンとイゾルデ」の新制作もあります。演出家の方も大変だと思いますが、予算担当の方も相当大変なはず。
私にできるのは、チケットを買って、劇場に足を運んで、公演の模様をブログで取り上げて、頑張ってくださいと申し上げる、ということぐらいしかないので……。
ともかく、今後も、日本唯一の常設劇場を持ったオペラカンパニーとしての新国立劇場を応援していきたいと思います。

Opera,Richard Strauss



行って参りました、「影のない女」@新国立劇場。
あいにくの雨模様で、少々気が滅入っていたのかもしれませんし、昨週は相当忙しかったので、体調が万全ではなかったということはだけは最初に申し上げておいた方が良いかもしれません。

驚きの再会──ジェーン・ヘンシェル

しかし、驚いたことが一つあります。
このオペラで最初に口を開いて歌を歌うのは乳母役のメゾソプラノ。始まったとたんに身震いしたんです。凄いパワーなのですよ。
声の大きさも十分で、倍音を豊かに含んだ声。技術的にも凄いと思ったのは、伝令とともに、「皇帝は石化する」と歌うところ。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
ここ、相当低い音まで出さなければならなくて、CDで聴いていたとき、この部分をメゾが歌うのは、ピッチコントロール含めて、かなり大変そうだな、と思っていたのです。
ところが、この方は難なく最低音域に到達しピッチも狂うことなく、音楽的な価値を保っている。
このメゾソプラノのお名前はジェーン・ヘンシェル女史。
で、わたし、デジャ・ヴに襲われたのです。ヘンシェル女史の姿、お顔や体型など、どこかで見たことがあるな、と。
もしかして、あの悔い多きバスティーユ・オペラでの「影のない女」で乳母を歌っていたのがこのヘンシェル女史ではないか、と。
家に帰って、ごそごそと当時のプログラムを見つけて見てみると……。
やはり!
2002年の冬といいますから、もう9年半前になりますが、当時、ウルフ・シルマーが振ったパリ・バスティーユオペラでの「影のない女」の公演で乳母役を歌っていたのは、間違いないくジェーン・ヘンシェル女史! まじですか! 凄い偶然というか運命というか。
この方のパワーで、この公演の音楽的部分は下支えされていたはず。相当なものでしたから。もう8年半前経っていて、かなりお年を召した感じなのですが、バイタリティ溢れておられる。体力的にもきわめて大変なはずの乳母役であるというのに。平伏します。

強力なヒロイン──皇后のエミリー・マギー

まずは、皇后を歌ったエミリー・マギーさんについても書かなければ。
この方、の高音の伸びは凄かった。ピッチコントロールを保ちながら、かなり高い音域でパワー全開で歌っている。テオリン様よりも高めの倍音を含んでいる感じ。容姿も端麗でいらして、皇后の持つ霊界の玄妙さと人間的な苦悩をうまく演じておられました。しかし、ハイトーンが凄かったです。新国には何度かいらしているようですが、またいらして欲しい方です。

もう一人のヒロイン──バラクの妻のステファニー・フリーデ

そして、もう一つの感動が、バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデさん。この方を聴くのは「西部の娘」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に続いて三度目です。
しかし、ここまで凄い歌唱を聴かせてくれたのは今回が初めてだった気がします。バラクの妻は、エヴァ・マルトンのようなブリュンヒルデを歌えるドラマティック・ソプラノの役柄なので、相当なパワーを要求される役柄。
フリーデさんは、少し語弊があるかもしれませんが、咆吼とでもいえる凄まじいパワーを見せてくれました。ピッチで若干揺れたところもありましたが、バラクの妻の切実な苦悩がストレートに伝わってきました。特に第三幕の冒頭部分から、バラクとの二重唱にかけての部分の迫力は衝撃的。凄かったなあ。

しかし残念なことが。

しかし、今回のパフォーマンス、どうにもしっくりこない。なぜなのか。
雨が降っていたこと、私の体力が十分でなかった、という事実はありましょう。
しかし、それを吹き飛ばすだけのものがなかったのかもしれない。
それは、音楽的な面ではなく、演出面を私が理解できなかったからではないか、と書かざるを得ない苦悩。これ以上、書けるかはわかりません。一日頭を冷やして考えてみます。

Opera,Richard Strauss

いよいよ迫る新国「影のない女」

さて、本題。
今週末に迫ったリヒャルト・シュトラウス畢竟の大作、歌劇「影のない女」新国立劇場公演に向けて準備を進めています。今朝から聞いているのはショルティのDVD盤をiPodにいれたもの。この曲は、この一ヶ月間に数えられないほど聞き込んでいますが、第三幕が素敵だな、と思うようになりました。
なんだか、マーラーの皮肉を交えた牧歌的な音楽が聞こえてきたり、ベルクやマーラーのトーンクラスター的な和音が聞こえてきたり、ヴォツェックのフレーズがでてきたり、と、このオペラが受けた影響、逆に及ぼした影響の大きさを体感しました。あと、明らかに「ツァラトゥストラはかく語りき」とおぼしきフレーズも出てきます。
こういうの、ちゃんと譜面に起こして説明したいところですが。。
それから、バラクの妻が三幕冒頭で歌うアリア的なところ、私の今聞いているDVD盤ですと、エヴァ・マルトンでして、もうこのブリュンヒルデ歌いの全力疾走状態で、鬼気迫るものがあります。
その後のバラクと妻の二重唱のところ、泣けますねえ。3月ごろ、感情が不安定で、西田敏行になっていたのですが、最近は現実の厳しさのほうが激しくなって、泣く余裕がないんです。なので、今はまだ泣けない。週末に泣けるといいんだけど。
ここではバラクの旋律が一度提示され、その後もう一度歌われるバラクの旋律に、バラクの妻の旋律が対位法的に絡み合ってくる。このあたりのフレージングのすばらしさは、シュトラウスならでは、の神業とでもいえましょうか。
あと、一番大好きなのが、乳母が「カイコバート!」と叫んだあとに、女声合唱がエコー(こだま)を歌うんですよ。エフェクター的にいうとディレイをかけた感じで、
乳母「 %{font-size:16px;}カイコバート!% 」
女声合唱「 %{font-size:11px;}カイコバート!% 、 %{font-size:9px;}バート!% 、 %{font-size:7px;}バート!% 、 %{font-size:5px;}バート!% 」
という感じを再現している。こんな思いつき、シュトラウスが初めてじゃないと思うけれど、初めて聞いたときはのけぞりました。その後、荘重な音楽とともにカイコバートの伝令が現れるというかっこよさ。たまらんです。
ショルティの指揮も、いろいろ言われていますが、この録音に関して申し上げればまったく違和感ありません。ショルティというと力技でスピード感があって、というイメージなのですが、意外と重々しいんです。第一幕の冒頭のカイコバートの動機もかなりゆっくりと、低音域を強調してますので。
ショルティのCD盤のドミンゴのドイツ語が残念なだけ。歌はうまいのですが、子音の鮮烈感がたらないのですよね。。。ドミンゴにそれを求めるのが恐れ多いことではありますが。
それから、DVD盤のほうは、ライヴ収録盤なので疵が相当あるのは否めない。ウィーンフィルとはいえ、かなりアンサンブルにばらつきが感じられたりします。そこがちと残念
日曜日には泣けるように頑張ります。

Opera,Richard Strauss

オペラトークで紹介されたライトモティーフを、こちらでもご紹介します。

ライトモティーフとは

日本語訳では、示導動機と訳されます。ワーグナーが本格的に使用を始めましたが、それ以前にウェーバーなども似たような試みをしていますのでワーグナーの発明というわけではありませんが、ワーグナーの積極的な使用によりその後の作曲家にも大きな影響を及ぼしました。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおけるライトモティーフの重要性はもちろんのこと、私はプッチーニオペラにおいてもその影響が見て取れると思います。
ようは、旋律に、各種の意味を持たせたものです。それは登場人物を喋々するものであったり、概念を象徴するものであったりといろいろです。オペラという劇空間の中では、ライトモティーフは台詞を伴う場合もありますが、伴わない場合もあります。台詞を伴わない時の効果は絶大で、この場面で何が起きているのか、このフレーズに隠された真の意味は何なのか、といった重要な要素を示唆するものとなります。
ライトモティーフを覚えてからオペラを見に行くと、聞き覚えのあるライトモティーフがでてきたときに、ちょっと嬉しくなります。

カイコバートの動機

カイコバートは作品には登場人物として登場することはありませんが、このフレーズによって何度も何度もその存在を我々に明らかにします。きわめて重要なフレーズ。第一幕冒頭、最初のフレーズがこのカイコバートの動機であると言うことことからも、その重要性は明白です。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%91%EF%BC%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

皇后の動機

この動機も実に美しいもの。少し愁いに満ちながらも、気位の高さや品位何度を感じさせるフレーズです。

"
!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%92%EF%BC%89%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

石化の動機

皇帝は、皇后が三日以内に影を手に入れないと石になってしまいます。伝令が、乳母に、「皇帝は石になるぞ!」と告げるときに相当低い音まで下がってこの不気味なフレーズを歌います。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
今日で今週の仕事はおしまいですが、週末は週末でいろいろやることがありますので、気が抜けません。

Opera,Richard Strauss


いつぞやの新国の写真。休憩中のベランダ。新国の屋内は禁煙なので、喫煙者はベランダに出てたばこを吸っておられます。私はたばこは吸いませんが、外の空気に当たりたいので休憩中はいつもベランダに出てカシオの本社やらオペラシティの高層建築を眺めたり、ガラス張りのホワイエの中の人々を観察したりして過ごしています。
さて、「影のない女」のオペラトークの三回目です。
オペラトークの模様は新国立劇場のページにもアップされてます。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001048.html
今回のオペラトークのご報告ですが、田辺先生がおっしゃったことに、私の主観がかなり混ざっていますので、そのあたりはご容赦ください。

時代的意味

このオペラが書かれたのは1911年から1916年にかけてです。時代は第一次世界大戦にさしかかったところ。オーストリア皇帝といえば、もちろんあの謹厳実直なフランツ・ヨーゼフ一世で、皇后はバイエルンお受け出身の美貌のエリザベート。ご存じの通りエリザベートとフランツ・ヨーゼフ一世の結婚生活はあまりうまくいっていませんでした。そうした故事がこのオペラにおける皇帝と皇后の関係にも投影されていると言えましょうか。

アクチュアリティ

このオペラはエゴイズムとヒューマニズムのせめぎ合いとも捉えられましょう。「影」を奪い取ろうとする乳母の利己性と、奪い取ることについて良心の呵責を覚える皇后の心情。この対比はまさに人間の欲望と理性のせめぎ合いとして捉えることができましょう。
皇帝と皇后はメルヒェンの世界でいわば引きこもり状態で暮らしている。だが、「影」を奪うために、どろどろとした人間社会の中に降りてゆく。これはいわば人間の社会参加に他なりません。
ホフマンスタールは、ご存じの通り早熟の天才です。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
代表作は「チャンドス卿の手紙」です。いつぞやこのブログで書いたことありますね。
"
https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php":https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php
彼自身、オタク的とも言える早熟の天才知識人でしたので、社会との関わりについていっそうの意識を持っていたのかもしれません。
「チャンドス卿の手紙」では、文学表現の限界性が述べられているのですが、そうしたホフマンスタールがオペラ台本を手がけるということについては、これまでも奇異なイメージを抱いていました。当時のオペラは、今で言えば映画のようなもので、貴族や大衆に向けられたものでしたので、純粋文学からオペラ台本を手がけるという方向転換は、ホフマンスタールのの立場の変化は大きいものだと思いました。
明日は音楽面について。ああ、ライトモティーフ打ち込まないと。頑張ります。

Opera,Richard Strauss


月影もあらわになるほどに青空に映える三日月。影は常に寄り添うもの。
「影のない女」オペラトークの2回目です。終わるまでにはちょっと時間がかかりそうですね。初日は5月20日だそうですので、新国の舞台裏は今は大変なことになっていると思います。大丈夫でしょうか、みなさま。楽しみにしております&応援しております。

影とは何か?

「影のない女」の影とは何か? 詳しくは述べられませんでしたが、「影」とは、人間の生殖能力のことを指していると解釈されます。皇后は霊界出身であるがゆえに、真の人間ではないため、「影」を持たない。だから、真の人間になるべく、バラクの妻の「影=生殖能力」を奪うのである、という、実に陰惨な物語でもあります。
皇后は、影を得て子供を得たいのだが、皇帝は妻にはお構いなく、狩りに興じて家を留守にしている。一方バラクの妻は現実の生活につかれきってバラクに愛想を尽かしていて、子供なんて欲しくない。
二組の夫婦は、それぞれ子供を得ることができないという状態に置かれた不安定なもの。そこにこのオペラのひとつのモティーフがあるわけです。

バラク夫妻

よく知られているように、シュトラウスには暴露趣味があります。以下の三つは有名でしょう[1]。
* 英雄の生涯:シュトラウス自身を英雄になぞらえたもの
* 家庭交響曲:シュトラウス一家を描いた実に奇天烈で美しき交響曲
* インテルメッツォ:シュトラウス夫妻の間に起こった愉快な勘違い夫婦喧嘩をオペラに仕立て上げた。
で、バラク夫妻もやっぱりシュトラウス夫妻のメタファーになっているそうです。バラクは実直な男として描かれていますが、バラクの妻は、癇癪もちで、夫に愛想を尽かしているような女性なんです。
シュトラウスの妻であるパウリーネは歌手でしたが、結婚してからは、癇癪もちでヒステリックな悪妻だったようです。とはいえ、分かれるようなことはなかったんで、本当は互いに愛し合っていたんでしょうけれど。
これは、私がどこかで聴いた話なのですが、自宅への来客に、シュトラウスはこういったんだそうです。
「君、帰る時間を遅くして、もう少し我が家にいてくれないか。君が帰ったとたん、カミさんは、僕に『早く仕事(作曲)しなさい!』と癇癪を起こすだろうからね」
確かこんな内容。パウリーネがいてくれたおかげで、僕らはシュトラウスの音楽に恵まれているという面もありそうです。

世界観

このオペラには三つの世界があります。その間を行ったりきたりするわけです。
# 霊界:カイコバート、乳母、伝令が属する世界。妖精の世界。皇后は霊界出身である。
# メルヒェン世界[2]:皇帝と皇后が属する世界。
# 人間界:バラク夫妻の属する世界
霊界を、ホフマンスタールは神秘的なユートピア世界、神話的世界と捉えていました。「リング」のヴァルハラのようなイメージでしょうか。
fn1. 「エジプトのヘレナ」でもやはりシュトラウス夫妻をモティーフにしたと思われる夫妻が登場するそうですが、不覚にも「エジプトのヘレナ」が数年前に上演したとき、落としていますので、大変残念。
fn2. オペラトークでは「メルヒェン」という言葉は使われませんでした。