Opera,Richard Strauss

来年は「ばらの騎士」イヤーでもあります。「ばらの騎士」は1911年1月26日にドレスデンにて初演です。マーラーは「ばらの騎士」を聞いたでしょうか?
シュトラウスとマーラーというと、仲がよさそうにも見えるし、悪そうにも見える。アルマ・マーラーの回想録では、エコノミカルな面に腐心するシュトラウスの姿が批判的に書かれていました。もっとも、アルマ・マーラーの回想録自体どこまで真実に近づいているかはよくわからないのですが。
いずれにせよ、二人は同年代ですし、互いを意識していたんだろうなあ、というのは音楽を聴いていてもわかります。特に「影のない女」では数箇所、マーラー的な場所が驚いてびっくり。たとえば赤い鷹のモティーフ、マーラー的に聞こえるのは私だけでしょうか。
話を戻して、来年が初演100周年となるばらの騎士をハイティンク@ドレスデンで聞いてみましょう。ハイティンクを好きになったのはこの一年ですので、この「ばらの騎士」も一箇所を除いては大変すばらしい演奏だと思います。私なんて、第一幕冒頭のっけから、平伏しましたし。
今日はばらの騎士を聞いて心を落ち着かせましょう。
そうそう。今週の土曜日は大学の先輩後輩のジャズライヴがあるので、遠出(っていても錦糸町ですが)します。久々のジャズライヴで楽しみ。私も参加したいぐらい。EWIがんばろう!
あ、明日、iPad、運がよければ家に届くかも。。。

Gustav Mahler,Symphony

なんだか、虚脱状態に陥りっぱなし。やけに忙しいぞ。
さて、今年はマーラーイヤー(生誕150年)で、来年もマーラーイヤー(没後100年)ですね。
マーラーは1860年7月7日に生まれ、1911年5月18日に亡くなっています。中学生の頃、命日の5月18日にしんみりしていたりしてましたなあ。懐かしい思い出。
というわけで、図書館にはマーラーコーナーが設営されていまして、所蔵するマーラー録音が一堂に会している状態。ですので、ちと何枚か物色しています。
この二年間、ほとんどマーラーは聞いておりませぬが、私の強烈なマーラー体験は、小学6年生に小澤征爾がジェシー・ノーマンなんかとボストン交響楽団を振った復活の最終部の映像をみてからです。
NHKでドキュメンタリーが放映されたのですね。詳しいことは覚えていないのですが、二箇所だけ覚えています。
なんだか小澤征爾が神経質な面を見せる場面があったのですが、それを見ていた父が「芸術家のこういう芸術家ぶったところが嫌いだ」と言っていたことと、小澤征爾の子供達が庭で遊ぶシーン、「復活の最終幕」です。
この「復活」の最終部を聴いてから、マーラーのエアチェックを始めたわけです。
で、苦手だったのが、交響曲第五番でした。マゼール盤を聴いていたのですが、第四楽章以外は全く理解できませんでした。ある種恐怖症状態。
ですが、その呪いを解いてくれたのが、ラトル&BPOのライヴ盤でした。映像も見ましたね。ああ、この曲はこんなに面白いのだ、と得心。第三楽章でホルン協奏曲状態になるのをみて、すげー、と感心したり。
で、今日は、ショルティ盤交響曲第五番を聴いております。
先日来、バーンスタインのマーラーを少しばかり聴いておりましたが、ショルティはスマートになんでもやってのける感じ。そこが、賛否両論があるところなのかもしれませんが、くたびれた体には、ショルティのようなすっきりとした味わいもまた格別でした。虚脱状態の私にはちょうど良いカンフル剤的状況でした。第四楽章が意外と遅いテンポで、ショルティらしくないなあ、とも思ったり。逆にその方が良いんですけれど。
さて、先だって注文していた新しいノートPCが届きました。Windows7に初めて触れましたが、なかなか好感が持てます。私は、MSの戦略にはまらぬよう、メインPCは未だにXPですが、食わず嫌いも良くないなあ、とちょっと反省しまし

Opera,Richard Strauss

はじめに

「影のない女」から一夜明けた今日、なんだか、虚しさ覚える、虚脱状態とでもいいましょうか。
オペラを総合芸術に仕立て上げたのはリヒャルト・ヴァーグナーですが、以降のオペラは、音楽面だけではなく、文学面や美術面においても評価されなければならなくなってしまいました。そのうちどれかが欠けても難しい。
昨日の「影の女」は、残念ながらひとつだけ欠けたところがあったと思うのです。それは私の理解の足りなさという面もあるかもしれませんが、やはり演出面だけは釈然としません。
シュトラウスとホフマンスタールが作り上げた天才的奇跡的な音楽だけに、それをさらに高みへとあげるのは困難なはずですが、それにしても、という歯軋りをする思い。三人のヒロイン達がすばらしかっただけに、残念な思い。
最初に舞台装置に「疵」というか「矛盾」を見つけてから、視覚的違和感が常につきまってしまうのです。
これ以降、書くこと自体躊躇するところがあります。私の理解不足や、体調の不備、天候の悪さなどが影響しているかもしれないからです。ですが、やはり、ここは一足飛び超えて書かないと行けない、という覚悟で書きます。それが、新国にとっても良いことだと思うので。ご批判は覚悟の上。なにかあればコメントを。

違和感

私が違和感を感じ始めたのは第一幕のバラクの家のシーンから。
舞台全部には白い平たい板、白い底面が引いてあるのですが、それは、家々が地面に投げかける白い影で、家の窓枠に対応する形で、床が切り取られているのですが、一つだけ対応していない場所があるのを見つけてしまったのです。
神は細部に宿りますので、そうした細かい疵に気づいてしまってからなんだか気が抜けたソーダ水を飲んでいるような気分になってしまいました。
で、この平たく白い底面は、全幕通して置かれっぱなし。皇帝の居室であろうと、バラクの家であろうと、霊界であろうと、いつでも。これはちょっと違和感がある。
それから、舞台装置の移動は、黒い服を着た男達が劇中にお構いなしにあらわれて移動してくる。日本風に言えば黒子なんですが、顔もあらわで、いわゆる日本的な黒子ではないのです。「影のない女」の難しい舞台転換を安易な方法で解決したとしか思えない。
確かに「ヴォツェック」でも、黒子的な男達が現れたけれど、ちゃんと衣装を着て、ちゃんと演技しながら舞台装置を動かしていたんです。ですが、今回は演技すらしない。本当にスタッフがやっていて、劇空間がめちゃくちゃに破壊されてしまう。
それから、鷹や馬、オオカミなどの動物たちは、動物の形をしたワイヤーアートを持った方々が出てくるのですが、このワイヤーアートが見えにくくて仕方がない。これ、あらすじを知らない方がごらんになったら、赤い鷹の重要性を全く理解できないと思います。
それから、舞台装置がチープに思えてしまう。家をかたどったオブジェはベニヤ板が張られているのが見えてしまったり、石垣のように石が積み上げられた壁は安くて弱々しい。
乳母が死ぬ場面も、なんだか予定されたように舞台下にせり下がっていくというありがちなパターン。

背景は何か?

でも、本当にこれは演出家だけの問題なのだろうか、とも考えたのです。ほかにも原因はあるのではないか、と。
よく考えますと2010年度になってから二回目の新制作ですよね。もしかしたら予算が相当削られていたのではないか、とも思えるのです。まだ新国立劇場自体の22年度予算はウェブ上で確認することができないのですが、そうした背景もあるのではないか、とも。
先日の「ジ・アトレ」6月号に書かれていたのですが、予算は年々縮減傾向にあることは間違いないようです。そうした影響が出ているのかもしれません。
それから、このシーズンでは指環の後半である「ジークフリート」と「神々の黄昏」をやっている。バックステージツアーで舞台監督の方がおっしゃっていたのですが、再演とはいえ、やはり経済的な負担は大きかったようです。ですので、「影のない女」の予算が削られてしまったのではないか、とも思える。

まとめ

いずれにせよ、すこし寂しい思いをした公演でした。私も少し気張りすぎていて、期待が大きすぎたので、その落差に戸惑っているという面も少なからずあるとは思いますし。
次のシーズンでは、「アラベラ」や「トリスタンとイゾルデ」の新制作もあります。演出家の方も大変だと思いますが、予算担当の方も相当大変なはず。
私にできるのは、チケットを買って、劇場に足を運んで、公演の模様をブログで取り上げて、頑張ってくださいと申し上げる、ということぐらいしかないので……。
ともかく、今後も、日本唯一の常設劇場を持ったオペラカンパニーとしての新国立劇場を応援していきたいと思います。

Opera,Richard Strauss



行って参りました、「影のない女」@新国立劇場。
あいにくの雨模様で、少々気が滅入っていたのかもしれませんし、昨週は相当忙しかったので、体調が万全ではなかったということはだけは最初に申し上げておいた方が良いかもしれません。

驚きの再会──ジェーン・ヘンシェル

しかし、驚いたことが一つあります。
このオペラで最初に口を開いて歌を歌うのは乳母役のメゾソプラノ。始まったとたんに身震いしたんです。凄いパワーなのですよ。
声の大きさも十分で、倍音を豊かに含んだ声。技術的にも凄いと思ったのは、伝令とともに、「皇帝は石化する」と歌うところ。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
ここ、相当低い音まで出さなければならなくて、CDで聴いていたとき、この部分をメゾが歌うのは、ピッチコントロール含めて、かなり大変そうだな、と思っていたのです。
ところが、この方は難なく最低音域に到達しピッチも狂うことなく、音楽的な価値を保っている。
このメゾソプラノのお名前はジェーン・ヘンシェル女史。
で、わたし、デジャ・ヴに襲われたのです。ヘンシェル女史の姿、お顔や体型など、どこかで見たことがあるな、と。
もしかして、あの悔い多きバスティーユ・オペラでの「影のない女」で乳母を歌っていたのがこのヘンシェル女史ではないか、と。
家に帰って、ごそごそと当時のプログラムを見つけて見てみると……。
やはり!
2002年の冬といいますから、もう9年半前になりますが、当時、ウルフ・シルマーが振ったパリ・バスティーユオペラでの「影のない女」の公演で乳母役を歌っていたのは、間違いないくジェーン・ヘンシェル女史! まじですか! 凄い偶然というか運命というか。
この方のパワーで、この公演の音楽的部分は下支えされていたはず。相当なものでしたから。もう8年半前経っていて、かなりお年を召した感じなのですが、バイタリティ溢れておられる。体力的にもきわめて大変なはずの乳母役であるというのに。平伏します。

強力なヒロイン──皇后のエミリー・マギー

まずは、皇后を歌ったエミリー・マギーさんについても書かなければ。
この方、の高音の伸びは凄かった。ピッチコントロールを保ちながら、かなり高い音域でパワー全開で歌っている。テオリン様よりも高めの倍音を含んでいる感じ。容姿も端麗でいらして、皇后の持つ霊界の玄妙さと人間的な苦悩をうまく演じておられました。しかし、ハイトーンが凄かったです。新国には何度かいらしているようですが、またいらして欲しい方です。

もう一人のヒロイン──バラクの妻のステファニー・フリーデ

そして、もう一つの感動が、バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデさん。この方を聴くのは「西部の娘」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に続いて三度目です。
しかし、ここまで凄い歌唱を聴かせてくれたのは今回が初めてだった気がします。バラクの妻は、エヴァ・マルトンのようなブリュンヒルデを歌えるドラマティック・ソプラノの役柄なので、相当なパワーを要求される役柄。
フリーデさんは、少し語弊があるかもしれませんが、咆吼とでもいえる凄まじいパワーを見せてくれました。ピッチで若干揺れたところもありましたが、バラクの妻の切実な苦悩がストレートに伝わってきました。特に第三幕の冒頭部分から、バラクとの二重唱にかけての部分の迫力は衝撃的。凄かったなあ。

しかし残念なことが。

しかし、今回のパフォーマンス、どうにもしっくりこない。なぜなのか。
雨が降っていたこと、私の体力が十分でなかった、という事実はありましょう。
しかし、それを吹き飛ばすだけのものがなかったのかもしれない。
それは、音楽的な面ではなく、演出面を私が理解できなかったからではないか、と書かざるを得ない苦悩。これ以上、書けるかはわかりません。一日頭を冷やして考えてみます。

Opera,Richard Strauss

いよいよ迫る新国「影のない女」

さて、本題。
今週末に迫ったリヒャルト・シュトラウス畢竟の大作、歌劇「影のない女」新国立劇場公演に向けて準備を進めています。今朝から聞いているのはショルティのDVD盤をiPodにいれたもの。この曲は、この一ヶ月間に数えられないほど聞き込んでいますが、第三幕が素敵だな、と思うようになりました。
なんだか、マーラーの皮肉を交えた牧歌的な音楽が聞こえてきたり、ベルクやマーラーのトーンクラスター的な和音が聞こえてきたり、ヴォツェックのフレーズがでてきたり、と、このオペラが受けた影響、逆に及ぼした影響の大きさを体感しました。あと、明らかに「ツァラトゥストラはかく語りき」とおぼしきフレーズも出てきます。
こういうの、ちゃんと譜面に起こして説明したいところですが。。
それから、バラクの妻が三幕冒頭で歌うアリア的なところ、私の今聞いているDVD盤ですと、エヴァ・マルトンでして、もうこのブリュンヒルデ歌いの全力疾走状態で、鬼気迫るものがあります。
その後のバラクと妻の二重唱のところ、泣けますねえ。3月ごろ、感情が不安定で、西田敏行になっていたのですが、最近は現実の厳しさのほうが激しくなって、泣く余裕がないんです。なので、今はまだ泣けない。週末に泣けるといいんだけど。
ここではバラクの旋律が一度提示され、その後もう一度歌われるバラクの旋律に、バラクの妻の旋律が対位法的に絡み合ってくる。このあたりのフレージングのすばらしさは、シュトラウスならでは、の神業とでもいえましょうか。
あと、一番大好きなのが、乳母が「カイコバート!」と叫んだあとに、女声合唱がエコー(こだま)を歌うんですよ。エフェクター的にいうとディレイをかけた感じで、
乳母「 %{font-size:16px;}カイコバート!% 」
女声合唱「 %{font-size:11px;}カイコバート!% 、 %{font-size:9px;}バート!% 、 %{font-size:7px;}バート!% 、 %{font-size:5px;}バート!% 」
という感じを再現している。こんな思いつき、シュトラウスが初めてじゃないと思うけれど、初めて聞いたときはのけぞりました。その後、荘重な音楽とともにカイコバートの伝令が現れるというかっこよさ。たまらんです。
ショルティの指揮も、いろいろ言われていますが、この録音に関して申し上げればまったく違和感ありません。ショルティというと力技でスピード感があって、というイメージなのですが、意外と重々しいんです。第一幕の冒頭のカイコバートの動機もかなりゆっくりと、低音域を強調してますので。
ショルティのCD盤のドミンゴのドイツ語が残念なだけ。歌はうまいのですが、子音の鮮烈感がたらないのですよね。。。ドミンゴにそれを求めるのが恐れ多いことではありますが。
それから、DVD盤のほうは、ライヴ収録盤なので疵が相当あるのは否めない。ウィーンフィルとはいえ、かなりアンサンブルにばらつきが感じられたりします。そこがちと残念
日曜日には泣けるように頑張ります。

Opera,Richard Strauss

オペラトークで紹介されたライトモティーフを、こちらでもご紹介します。

ライトモティーフとは

日本語訳では、示導動機と訳されます。ワーグナーが本格的に使用を始めましたが、それ以前にウェーバーなども似たような試みをしていますのでワーグナーの発明というわけではありませんが、ワーグナーの積極的な使用によりその後の作曲家にも大きな影響を及ぼしました。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおけるライトモティーフの重要性はもちろんのこと、私はプッチーニオペラにおいてもその影響が見て取れると思います。
ようは、旋律に、各種の意味を持たせたものです。それは登場人物を喋々するものであったり、概念を象徴するものであったりといろいろです。オペラという劇空間の中では、ライトモティーフは台詞を伴う場合もありますが、伴わない場合もあります。台詞を伴わない時の効果は絶大で、この場面で何が起きているのか、このフレーズに隠された真の意味は何なのか、といった重要な要素を示唆するものとなります。
ライトモティーフを覚えてからオペラを見に行くと、聞き覚えのあるライトモティーフがでてきたときに、ちょっと嬉しくなります。

カイコバートの動機

カイコバートは作品には登場人物として登場することはありませんが、このフレーズによって何度も何度もその存在を我々に明らかにします。きわめて重要なフレーズ。第一幕冒頭、最初のフレーズがこのカイコバートの動機であると言うことことからも、その重要性は明白です。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%91%EF%BC%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

皇后の動機

この動機も実に美しいもの。少し愁いに満ちながらも、気位の高さや品位何度を感じさせるフレーズです。

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!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%92%EF%BC%89%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

石化の動機

皇帝は、皇后が三日以内に影を手に入れないと石になってしまいます。伝令が、乳母に、「皇帝は石になるぞ!」と告げるときに相当低い音まで下がってこの不気味なフレーズを歌います。

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今日で今週の仕事はおしまいですが、週末は週末でいろいろやることがありますので、気が抜けません。

Opera,Richard Strauss


いつぞやの新国の写真。休憩中のベランダ。新国の屋内は禁煙なので、喫煙者はベランダに出てたばこを吸っておられます。私はたばこは吸いませんが、外の空気に当たりたいので休憩中はいつもベランダに出てカシオの本社やらオペラシティの高層建築を眺めたり、ガラス張りのホワイエの中の人々を観察したりして過ごしています。
さて、「影のない女」のオペラトークの三回目です。
オペラトークの模様は新国立劇場のページにもアップされてます。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001048.html
今回のオペラトークのご報告ですが、田辺先生がおっしゃったことに、私の主観がかなり混ざっていますので、そのあたりはご容赦ください。

時代的意味

このオペラが書かれたのは1911年から1916年にかけてです。時代は第一次世界大戦にさしかかったところ。オーストリア皇帝といえば、もちろんあの謹厳実直なフランツ・ヨーゼフ一世で、皇后はバイエルンお受け出身の美貌のエリザベート。ご存じの通りエリザベートとフランツ・ヨーゼフ一世の結婚生活はあまりうまくいっていませんでした。そうした故事がこのオペラにおける皇帝と皇后の関係にも投影されていると言えましょうか。

アクチュアリティ

このオペラはエゴイズムとヒューマニズムのせめぎ合いとも捉えられましょう。「影」を奪い取ろうとする乳母の利己性と、奪い取ることについて良心の呵責を覚える皇后の心情。この対比はまさに人間の欲望と理性のせめぎ合いとして捉えることができましょう。
皇帝と皇后はメルヒェンの世界でいわば引きこもり状態で暮らしている。だが、「影」を奪うために、どろどろとした人間社会の中に降りてゆく。これはいわば人間の社会参加に他なりません。
ホフマンスタールは、ご存じの通り早熟の天才です。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
代表作は「チャンドス卿の手紙」です。いつぞやこのブログで書いたことありますね。
"
https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php":https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php
彼自身、オタク的とも言える早熟の天才知識人でしたので、社会との関わりについていっそうの意識を持っていたのかもしれません。
「チャンドス卿の手紙」では、文学表現の限界性が述べられているのですが、そうしたホフマンスタールがオペラ台本を手がけるということについては、これまでも奇異なイメージを抱いていました。当時のオペラは、今で言えば映画のようなもので、貴族や大衆に向けられたものでしたので、純粋文学からオペラ台本を手がけるという方向転換は、ホフマンスタールのの立場の変化は大きいものだと思いました。
明日は音楽面について。ああ、ライトモティーフ打ち込まないと。頑張ります。

Opera,Richard Strauss


月影もあらわになるほどに青空に映える三日月。影は常に寄り添うもの。
「影のない女」オペラトークの2回目です。終わるまでにはちょっと時間がかかりそうですね。初日は5月20日だそうですので、新国の舞台裏は今は大変なことになっていると思います。大丈夫でしょうか、みなさま。楽しみにしております&応援しております。

影とは何か?

「影のない女」の影とは何か? 詳しくは述べられませんでしたが、「影」とは、人間の生殖能力のことを指していると解釈されます。皇后は霊界出身であるがゆえに、真の人間ではないため、「影」を持たない。だから、真の人間になるべく、バラクの妻の「影=生殖能力」を奪うのである、という、実に陰惨な物語でもあります。
皇后は、影を得て子供を得たいのだが、皇帝は妻にはお構いなく、狩りに興じて家を留守にしている。一方バラクの妻は現実の生活につかれきってバラクに愛想を尽かしていて、子供なんて欲しくない。
二組の夫婦は、それぞれ子供を得ることができないという状態に置かれた不安定なもの。そこにこのオペラのひとつのモティーフがあるわけです。

バラク夫妻

よく知られているように、シュトラウスには暴露趣味があります。以下の三つは有名でしょう[1]。
* 英雄の生涯:シュトラウス自身を英雄になぞらえたもの
* 家庭交響曲:シュトラウス一家を描いた実に奇天烈で美しき交響曲
* インテルメッツォ:シュトラウス夫妻の間に起こった愉快な勘違い夫婦喧嘩をオペラに仕立て上げた。
で、バラク夫妻もやっぱりシュトラウス夫妻のメタファーになっているそうです。バラクは実直な男として描かれていますが、バラクの妻は、癇癪もちで、夫に愛想を尽かしているような女性なんです。
シュトラウスの妻であるパウリーネは歌手でしたが、結婚してからは、癇癪もちでヒステリックな悪妻だったようです。とはいえ、分かれるようなことはなかったんで、本当は互いに愛し合っていたんでしょうけれど。
これは、私がどこかで聴いた話なのですが、自宅への来客に、シュトラウスはこういったんだそうです。
「君、帰る時間を遅くして、もう少し我が家にいてくれないか。君が帰ったとたん、カミさんは、僕に『早く仕事(作曲)しなさい!』と癇癪を起こすだろうからね」
確かこんな内容。パウリーネがいてくれたおかげで、僕らはシュトラウスの音楽に恵まれているという面もありそうです。

世界観

このオペラには三つの世界があります。その間を行ったりきたりするわけです。
# 霊界:カイコバート、乳母、伝令が属する世界。妖精の世界。皇后は霊界出身である。
# メルヒェン世界[2]:皇帝と皇后が属する世界。
# 人間界:バラク夫妻の属する世界
霊界を、ホフマンスタールは神秘的なユートピア世界、神話的世界と捉えていました。「リング」のヴァルハラのようなイメージでしょうか。
fn1. 「エジプトのヘレナ」でもやはりシュトラウス夫妻をモティーフにしたと思われる夫妻が登場するそうですが、不覚にも「エジプトのヘレナ」が数年前に上演したとき、落としていますので、大変残念。
fn2. オペラトークでは「メルヒェン」という言葉は使われませんでした。

Opera,Richard Strauss

なんだか、久々のつれづれでご勘弁を。オペラトークの後半は、ちょっとお待ちください。いろいろ面白かったんですが。

これ、なんだか分かります?
カプリッチョの譜面なんです。この部分、右下のところに台詞が書かれていますが、ここは、伯爵とクレロンがソネットの詩を朗読し合うところです。
シュトラウスの譜面は本当に難しいです。本当はちゃんと譜面に起こして書きたいところですが、ちょっとだけさわりを。
なのであえて題名には「その1」と書いてあります。「その2」以降でもう少し考えていく予定です。
先だって書いた以下の記事にYoutubeの映像を埋め込んであります。フレミングが歌っているもの。泣けます。
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/20071815.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/20071815.php
最終幕で伯爵夫人マドレーヌが歌うソネットの部分ですが、譜面では四分の三拍子で書かれております。
で、この部分、聞いているだけじゃ、三拍子には聞こえないんです。
普通の拍節じゃないんですよね。四拍子でも三拍子でもない。おそらく、途中で何度も拍子を変えているんだろうなあ、と思って、譜面をみたら、単純に四分の三拍子だったというわけ。
でもですね、一つのソネットの歌詞が五小節に当てはまっている。なので、聴いている側とすると、五拍子的なフレージングに聞こえるというわけです。
もちろん、歌詞の内容と、三拍子という拍節は全くリンクしていません。なので、歌詞の意味と拍節の同期を取ろうとすると、拍子が変わっているように思えるんですね。
すごいですね、シュトラウス。半端なく難しい。
やっぱ、譜面みながら聴くと、いろいろと発見があって面白いです。著作権が切れた譜面はIMSLPというサイトでpdfで見ることができます。
“IMSLP":http://imslp.org/
「ばらの騎士」とか「サロメ」は、ダウンロードできるんですが、カプリッチョは日本からだとダウンロードできない。まあ、ブラウザの設定を変えたりプロキシを使えば何とかなるんでしょうけれど。
さて、わたくし事ですが、7年半にわたってお世話になったThinkpad X30の液晶バックライトがとうとう光らなくなりました。外部ディスプレイにつないで、USBキーボードつないで使ってますけれど。
長い間お疲れさんでした。
第二の人生はウェブサーバーかしら、と思っています。

Opera,Richard Strauss

連休あけて、すぐに土日に突入ですが、土曜日は会社で仕事するより忙しい感じ。午前は都心に出かけて所要を済ませ、地元にとって返してジムに行って、イギリス人としゃべって、帰宅して、夕食を作るというパターン。まあ充実しているんで苦ではないですけれど。

オペラトーク

新国立劇場5月の演目は、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「影のないの女」です。というわけで、ジムはお休みして行って参りました。
今日のオペラトークでは、一橋大学院教授の田辺秀樹さんのレクチャーと、カバー歌手の方々による聴き所の紹介がありました。これまでのオペラトークですと、指揮者と演出家の方がお話しされるのですが、今回はそういった趣向はなくて残念でした。演出のエーリッヒ・ヴェヒター氏とドニ・クリエフ氏の話も聞きたかったなあ。でも、いろいろもやもやとしていたものがクリアになって、個人的には有意義なレクチャーでした。

総論

まずは、このオペラの位置づけについて。シュトラウスは全部で15曲のオペラを書いておりますが、そのうち「影のない女」は7曲目に位置するオペラです。シュトラウスのオペラ最高傑作と言われていて、シュトラウス自身も相当気合いを入れて書いたとのこと。故若杉弘さんは、シュトラウスオペラのなかでこの曲が一番好きだったとか。だから、なおさら、「影のない女」を今シーズンの演目に入れたのだと思います。本来なら若杉さんがタクトをとるはずだったわけですが、残念ながらお亡くなりになってしまったという感じ。
ともかく、このオペラは非常に難しい。理由は、やはり天才ホフマンスタールが、彼のあらゆる文学知識を総動員してリブレットを作ったというところにあるでしょうし、文学的才能に恵まれていたシュトラウスも、シュトラウス自身、ホフマンスタールが書いたリブレットを大変鷹評価し、その難解さを咀嚼して、音楽的技術的にも彼のもてる力を最大限に投入して作られたオペラであるから、ということにありましょう。

ストーリーの要約

田辺先生のストーリーの要約には少し驚きました。それは以下のようなもの。
*二組の不幸な夫婦が試練を通じて真の幸福に達する*
なるほど、最大限に要約するとそうなりますね。
二組の不幸な夫婦とは
# 皇帝と皇后
# 染物師バラクとその妻
となります。
なるほど。簡潔にまとめるとこうなりますか。確かにそうですね。
皇帝は、利己的な男で、皇后の愛なんかより自分の大好きな狩猟に明け暮れるような世間ずれした男です。バラクの妻は、現世に疲れ切っていて、夫のバラクにも愛想を尽かしているような女。二組ともうまくいっていないのです、。

ストーリーをちょっと。

というわけで、ちょっとストーリーにおつきあいを。以下のリンク先の人物相関表も見ながら読んでいただくと良いかもしれません。
“https://museum.projectmnh.com/2010/05/02104406.php":https://museum.projectmnh.com/2010/05/02104406.php
皇后は霊界の出身。霊界の王カイコバートの娘で、いろいろな動物に姿を変えることができたのですが、牝鹿に化けていたときに皇帝に射止められてしまい、皇帝と結ばれることになります。
皇后は霊界の出身であり、「影」を持っていません。「影」とは、要は子供を作る能力を象徴しているわけです。皇帝と皇后が結ばれてから1年経って「影」を手に入れてないとなると、皇帝は石になってしまうという呪いがかけられていますので、皇帝を愛する[1]皇后は、影を手に入れなければならない。そういうわけで、皇后に使える乳母の手引きで人間界に降りていき、バラクの妻から「影」=子供を産む能力を手に入れようとします。(第一幕)
これはすなわち、バラクの妻が子供をもうける、という幸福を、皇后が取り上げると言うことに他なりません。乳母は冷徹なメフィストフェレス的な存在でして、バラクの妻を色仕掛けやら装飾品やらで釣って、「影」を奪おうとするわけです。皇帝は皇帝で、皇后と乳母が人間界に出かけているのを良くは思っておりません。[2]バラクの妻は、乳母の策略にはまって影を失いかけてしまうのですが、バラクは怒り、妻を殺そうとします。その瞬間、バラクとその妻は大地に飲み込まれてしまいます。(第二幕)
そこで、互いへの愛情の重要さを再認識して、歌う二重唱が実にすばらしいところ。皇后の方は、石化した皇帝の姿を見せつけられ、湧き黄金の水を飲めば、バラクの妻の「影」を手に入れることができ、皇帝の石化も溶けるのだ、と告げられる。しかしそれは、バラク夫妻の幸福(=子供ができる)を奪うことに他ならない。そこで、皇后の良心は以下の決断を下します。
「私は、それを望みません! (Ich will nicht!)」ここが、このオペラの最高点の一つ。
すると、石化した皇帝は元に戻り、皇后は影を得ることとなる。バラクの妻も影を奪われることなくバラクとの愛を確かめ合い、二組の夫婦は幸福な結末に達し、めでたしめでたし、ということで幕となります。
(第三幕)
本日はここまで。明日に続きます。
fn1. なぜ、皇后が皇帝を愛しているのかが不明。
fn2. ここの皇帝の歌は、第一幕の歌唱とともに実にすばらしいです。