Opera,Richard Strauss

行って参りました、二期会の「カプリッチョ」。

結論。泣けます。泣けました。演出の読み替えには白旗をあげましょう。やられましたよ。

日生劇場に行ったのは恥ずかしながら初めてでした。本当は「ルル」や「エジプトのヘレナ」など、行くべき公演はあったのですが、いけずじまいでしたので。60年代の日本がまだまだ成長するという進歩史観が有効だった時代で、建築も実にやる気に満ちあふれています。劇場内部は様々な曲線が織りなす不思議な空間で、俄然雰囲気を盛り上げてくれます。

「カプリッチョ」の実演は二回目でして、一回目はなんとドレスデンのゼンパーオーパーにてペーター・シュナイダーの指揮でみるという幸運。何度も書いたと思います。しかし、あのときはその凄さを十全に理解しているとはいえませんでした。繰り返しになりますが、「カプリッチョ」はいまや僕の宝物のような作品ですので、楽しみでならなかったのです。

今回の公演、演出の読み替えがすごかったのです。もういろいろなブログでも取り上げられていると思います。時代設定は作品が実際に作られた1942年当時でして、舞台は不明ですが、おそらくはドイツ占領地域でしょう。

冒頭の六重奏では、ダビデの星を胸につけたフラマンとオリヴィエが登場します。この二人がユダヤ人であるという強烈な読み替え。ダイニングホールとおぼしき部屋は椅子やテーブルが倒れ、シャンデリアが床に転がっています。二人はそこでソネットの楽譜を見つけ、女性の肖像画、おそらくは伯爵夫人マドレーヌの肖像だと思います。すると窓の外から自動車のヘッドライトが差し込んでくる。入ってきたのはナチスの兵士たち。おそらくは親衛隊でしょう。フラマンとオリヴィエは逃げていきます。親衛隊は、テーブルを起こし、シャンデリアを天井に上げ、椅子を片づけます。ここで時間が遡行したのに気づくわけですね。

整えられた部屋では、フラマンとオリヴィエがチェスを打ち、演出家のラ・ローシュはソファで眠りこけている。ここからは、特別な読み替えはなく舞台は進んでいきます。演出面で面白いのは、幼い女の子のバレリーナたちが現れるところ。彼女たち、切り分けられたチョコレートケーキを本当に食べていたのは微笑ましかったです。

後半の最後が圧巻でして、みんなでオペラの題材を決めて、じゃあ帰ろうか、みたいな雰囲気になったところで、さっきまで執事だった男や召使いたちが親衛隊に成り代わって登場する。さっきまで床をはいたり窓を磨いたりしていた年老いた老人が黄色いダビデの星をつけたコートを着せられて連行されようとしている。ラ・ローシュは親衛隊に渡された黒い革コートを来ていて、鈎十字の腕章をつけている。ラ・ローシュは、まさに親衛隊かゲシュタポの一味だったという読み替え。

親衛隊達は、フラマンとオリヴィエにも、ダビデの星のついたコートを着せる。互いに、詩の方がすごい、とか、音楽の方がすごいとか言うシーン、普通の演出だと、予定調和的な平和なところなのに、ここではあまりに切迫している。伯爵夫人は、フラマンとオリヴィエにかけよろうとするのだが、伯爵がそれを止める。泣きながら階段を昇って行く伯爵と伯爵夫人の兄妹。ラ・ローシュは、それでも、フラマンとオリヴィエを逃がしてやるのだが、その後は……、おそらくは冒頭のシーンに戻り、そのうちにナチスに捉えられ死に至るはず。

 それからがすごいですよ。月光の音楽で、舞台には群青色の光が差し込む。昼間部に登場するバレリーナが再登場。ドイツ軍兵士(男性バレエダンサー、もしかしたらドイツ軍兵士ではなくワルシャワ条約機構軍の兵士かもしれない)に銃を突きつけられるのだが、そのうち一緒に踊り出す。すると、テラスに杖をつく老婆が。これが、年老いた伯爵夫人マドレーヌなのでした。つまり、あれからもう何十年も経った戦後に舞台は移っている。

伯爵夫人は床に落ちていたフラマンとオリヴィエのソネットを取り上げるんだけれど、埃が積もっているので、手で払い息で吹き飛ばしたりする。このトランスクリプションがすばらしい。執事の歌は舞台裏で歌われている。これはあたかも伯爵夫人マドレーヌの幻聴である。伯爵夫人がフラマンか、オリヴィエか、と迷い歌うのだが、このトランスクリプションの中にあっては、悔恨の思いで歌っているとしか思えない。あのとき、なぜ決断しなかったのか、なぜ救えなかったのか、という思い。なぜか、歌詞を読むとそういう心情にフィットしていて、驚きました。

これはですね、もう20代の若者にはわからないだろうなあ、と思います。「ばらの騎士」の最終部で、マルシャリンが時のはかなさを歌うけれど、それよりももっと残酷で過酷で厳然とした時間の非遡行性への嘆息。これは30代過ぎないとわからない。歳をとればとるほど切実なはずで、だからこそ、年配の観客が比較的多かった場内で涙の音が聞こえたといえましょうか。私も涙が出ましたですよ。年をとればとるほど涙腺ゆるみます。涙を流すというカタルシスはある意味心地よくもありますので。

一緒に行ったカミさんは厳しくて、そんなに評価してくれなかったけれど、僕の心にはかなり響きました。

ただ、最後に舞台装置を壊してしまったのは残念。伯爵夫人マドレーヌのシルエットを強調したいために、セットを取り払ったのだけれど、なんだかちぐはぐに思えてしまいました。演出面で言うとそこだけです。

指揮とオケもすばらしかったですよ。指揮は沼尻竜典さんで、演奏は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。ちょっとした疵はいくつかありましたが、うねるような波がいくつも押し寄せるような演奏で、弦楽器の音も豊かで暖かく、演奏だけでも涙したシーンがありましたし。特に第七場最終部の間奏曲的部分はすばらしかった。月光の音楽ももちろん、です。ただ、月光の音楽のところ、演出に気をとられ驚いていたもので、少々上の空だったかもしれません。

すばらしかったのは、ラ・ローシュを歌われた山下浩司さんでして、声は鋭く張りがある感じで、ピッチも終始安定しておられまして大変安心して聴くことができました。あのラ・ローシュの大演説の部分もすばらしかった。歌だけではなく演技もそれらしくて、大変良かったです。この方、新国の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも出ておられたのですね。

ともかく、またカプリッチョの実演に居合わせることができたのは大変幸福でした。これも一生の思い出になるのでしょうね。

次は、12月の新国メニューの「トスカ」です。トスカは久しく聴いていないですね。ま

Alban Berg,Opera

行って参りました。新国立劇場のベルク「ヴォツェック」公演。スマートで格好良く、刺激と毒に満ちあふれ、片時もよそ見や上の空を許さない濃密なパフォーマンスでした。全三幕十五場を約100分のあいだ、ぐるぐるとヴォツェック世界のなかで振り回され、駆け回され、最後に一人舞台に取り残された子供の姿を見て思わず涙が出てしまうといった案配でした。なんでこんなに面白くて興味深いのでしょう。

水の張られた黒々とした舞台。立方体の部屋が上下し、場面によってはゆらゆらと揺られていて、劇中人物の不安定さを表しているようにも思えます。水に倒れ込んだり、ジャガイモや金にむらがる黒服の男達の姿はドブネズミかゴキブリのよう。黒服の男達は黒子のように舞台の上を動き回り、ヴォツェックにナイフを渡したり、倒れたマリーを舞台外に運び出したり、楽団を背中に乗せて現れたり、と言う感じ。

アップライトピアノが水面を滑るように現れるのには驚くばかり。水面の反射が舞台上に波紋を映し出したり、ナイフの反射光がヴォツェックを舐め回ったりと、光の効果も秀逸すぎる。クリーゲンブルク氏のセンスは抜群で、僕のツボにがっちりはまってくる感じでした。未知なものなのに見知ったもののように思える瞬間が不思議すぎます。抽象画を観るスリリングな感じと、調性を外れながらも美しさを保っている不安定で安定した音楽、両者の融合が産み出したキメラ的美と恐怖、といったところでしょうか。

実に重々しく堂堂たるヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーですが、第一場の"Jawohl, Herr Hauptmann"と歌った途端にすげーとうなってしまう。演技も歌も素晴らしいマリーは、ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンでして、終始安定した歌唱で、低めの倍音を吹くんだ豊かなメゾソプラノで僕の好みの声。ビブラートもそんなにきつくない感じです。鼓手長のエンドリク・ヴォトリッヒは少々遠慮がちかしら。昨シーズンの新国「ワルキューレ」でジークムントを歌ったときのほうが調子が良かったかも。大尉のフォルカー・フォーゲルは、第一場ではちょっと抑え気味でしたが、その後は安定的。医者役の妻屋秀和さんですが、もうこの方なしには新国の舞台は成り立たないのではないか、と思うぐらい新国登場回数が多い方です。歌も演技も凄く良かったです。声の質がいつもより少し硬質に聞こえました。

ヘンヒェンの指揮は、私が聴いたどのヴォツェックの演奏(アバド、バレンボイム、ケーゲル、メッツマハーだけですが)よりもテンポを落とす場面があって新鮮でした。マリーを殺害した跡のB音(H音?)のロングトーンの破壊力はすさまじかったですし、最終場へ向けた間奏曲の高揚感と不条理感にも心揺れる思い。世の中、現実、社会の冷徹さ。東フィルは、最初の方はムラがあったような気がしましたが、進むにつれて気にならなくなる感じでした。

カーテンコールでは、当然ですが水の張られた舞台に歌手達が登場するわけですが、指揮者のヘンヒェン氏は、長靴を履いて出てきました。ちょっと面白いです。

最近、仕事でトラブル多発でして、仕事が入るかも、と行けるかどうか危ぶんでいたのですが、何とか観ることが出来まして本当に感謝感激でした。

舞台がはけてホワイエに出ると、次期芸術監督の尾高忠明さんのお姿がありました。意外に小柄に見えてびっくりしました。

次は、明後日に二期会の「カプリッチョ」を聴きます。こんなにオペラ通いしてもいいのでしょうか。

Alban Berg,Opera

いよいよ今週末に迫ったヴォツェックですが、予習中であります。昨日はバレンボイム盤、今日はケーゲル盤です。
昨日、かみさんと懐かしい話をしました。そもそもヴォツェックを初めて聴いたのは大学を卒業したからでした。きっかけはかみさんが大学で、ヴォツェックの原作となったビュヒナーの「ヴォイツェック 」を読んでいたからでした。昨日、そういえば原作を読んだことがないなあ、と思って、邦訳を探したのですが、見当たらない。図書館にもアマゾンにもない感じです。かみさんに聞くと、当時から邦訳がなくて、ドイツ語で読んだのだそうです。まあ、そういう事情もあってかみさんからこの曲を教えて貰った感じでした。
当時はブラームスやシューマンの室内楽ばかり聞いていたのですが、このヴォツェックの第一幕第三場のマリーが歌う子守唄のこの世離れした妖しい美しさに卒倒したものです。

今聴いているケーゲル盤ですが、録音がいい感じです。若干SN比が高めですが、音のコントラストがくっきりしていて聞きやすいです。演奏のほうもケーゲルらしい鋭く研がれたガラス細工のようなかんじで、純粋すぎてかえって畏れを抱かないといけない気分です。レコメンドです。そういえばこのCDはドレスデンの免税レコード屋で買ったのでした。
今日は携帯からエントリーしました。また次回まで。
 

Alban Berg,Opera

一週間ご無沙汰しました。言い訳はいたしませぬ。と言うわけで、先日に続いて、ヴォツェックのオペラトークについてです。

 


ともかく、このオペラにおいては、ヴォツェックもマリーも、完全に貧困の袋小路に入り込んでいる。ここから逃れる術は全くないわけです。だからマリーは、鼓手長の中に貧困から抜け出す微かな可能性を求めているわけですが、冷静に考えると、鼓手長なんて言うのは、軍隊の中での階級はたかがしれている。結局逃れられないということです。しかも、それは自分たちの子供にも波及してしまう。きっとヴォツェックとマリーの息子も貧困の中で成長し貧困から逃れられないという現実。

(これは、まさに現在の日本がないしは世界が抱えている問題にも直結いたします。でもどうしようもないという無力感。自分がずり落ちないように支えるのが精一杯という現実)

クリーゲンブルク氏の演出の意図についての話し。(少々ネタバレですが、)

舞台装置は四角く、床には水が張ってあるそうです。それから黒い服を着た人物が何人も。登場人物はこの世ならぬ姿格好をしているわけですが、これはすべてヴォツェックから見た世界を表しているのです。ヴォツェックは、医者の実験台になり、抑圧されていて自分を見失い、精神的に崩壊しつつあるわけで、ヴォツェックの見る世界は常人あらざるものになっているわけです。まともに見えているのは、マリーと息子だけ。

舞台に水が張っているのは以下の三つの理由があるそうです。

一つは、ヴォツェックのいる世界が居心地の悪いと言うことを示している、と言う点です。じめじめしていて足下が濡れているという居心地の悪さ。特にドイツ人に取ってみれば湿気は日本人よりも嫌うでしょうし。

もう一つは、音響的な効果を狙っていると言うこと。ベルクの複雑な音楽に水音が加わることで、水音という我々にとっては身近な音が、ベルクの音楽世界をより現実に近いとことへと引き寄せよう、という意図があるのだそうです。これは実際にパフォーマンスに接してみないと分からない効果です。

さらには、視覚効果でして、水底が深淵であるように見せたり、あるいは水面の反射などの視覚効果を狙っているとのこと。こうした視覚効果から非合理的、非現実的な世界を表現しようとしているようです。

(少し面白かったのですが、舞台に水が張ってあることを、長木さんが「最近の新国ではやっていますが」といったことをおっしゃると、聴衆が笑ったこと。先日の「オテロ」の舞台でもやっぱり水が張ってあって効果的だったのですが、そのことを指しているのか、あるいは、劇場正面の水が張られた光庭を指しているのか)

この作品で重要なことは、ヴォツェックもマリーも良き人になろうとしていること。それに対して、大尉も医者もモラルから自由になっている。ヴォツェックもマリーも貧困といった現実社会の厳しさに直面して良き人であろうとしてもなかなかそうはなれない。特にマリーは鼓手長と関係を持ってしまい、罪悪感を覚えるわけです。このオペラの中でもっとも静寂なのはマリーが神に祈るシーンなのですが、その後ヴォツェックはマリーを殺してしまう。

なぜヴォツェックはマリーを殺したのでしょうか。クリーゲンブルク氏はこうおっしゃいました。非常に悲しいことに、マリーの殺害は、ヴォツェクが初めて自分でした決断だったわけです。それはヴォツェックの持つ怪物的な側面、それは貧困や境遇や人体実験によるものな訳ですが、そうした側面が表に出てしまったということなのです。

最後に一言ずつ。演出のクリーゲンブルク氏からは、この上演にてヴォツェック世界に入り、上演が終わりそこから去る時に、何かを持って帰って欲しい、という言葉が。指揮のヘンヒェン氏からは、この上演を故若杉弘芸術監督に捧げたい。本来なら若杉さんが振られる予定だったわけですが、残念ながらそれは叶わぬわけです。それからヴォツェックを「恐れずに」聴いて欲しい、とも。難解晦渋な現代音楽ではなく、実にエモーショナルな後期ロマン派音楽として不安を持たずに聴いて欲しいとのことでした。

せっかく書いたのですが、新国立劇場のウェブに全文載っておりますね。(#1, #2)ショック。せっかく頑張ってノートをとったのに……。

 

Alban Berg,Opera

昨日は、午前中に都内某所での所用を終えて、新国に向けてダッシュ。何とかオペラトークに間に合いました。

オペラトークの内容ですが、復習をかねて少しずつアップします。必ずしもお言葉通りには書かないと思います。お話しの順番や、やりとりの整合性が私がご報告するにあたって少々やりにくいところがあったり、私の所感が混ざったりします。すいません。

司会は長木誠司さんで、近頃東大の准教授から教授になられたとかで、「教授になっても仕事は増えるばかりで、給料は上がらない」とぼやいておられました。大学の先生がいかにもおっしゃりそうなお言葉で、大学の頃を思い出しました。懐かしい感じです。演出はアンドレアス・クリーゲンブルク氏、指揮はハルトムート・ヘンヒェン氏。

まずは、念のためあらすじ。近頃、「ヴォツェック」のあらすじを、他の方に説明する機会が何度かあったのですが、言えば言うほど陰鬱で暗い感じ。

兵士のヴォツェックは上官の大尉に虐げられ、軍医の実験台になって小銭を稼いでいる。内縁の妻マリーとの間には息子がいるのだが、マリーは軍楽隊の鼓手長と関係を結んでしまう。ヴォツェックはマリーの不義を見て取って池の畔でマリーを殺してしまう。酒場でヴォツェックの袖についた血を見られ、慌てて池に戻るのだが、ヴォツェックも池に溺れて死んでしまう。池から死体が上がったとの知らせに、遊んでいた子供達は池の方に向かうのだが、ヴォツェクとマリーの息子はただ木馬遊びを続けるだけだった。

「ヴォツェック」は1925年にベルリンでエーリッヒ・クライバーによって初演され、一定の成功を収めました。構成としては、三幕構成でそれぞれ5つの場があります。全部で15場からなる安定した構成となっています。 あらすじにも書いたように、社会の底辺とも言うべき貧困という現実を描いたオペラな訳ですが、これは当然ながら、19世紀半ば以降のイタリアのヴェリズモ・オペラに由来するものなわけです。「道化師」とか「カヴァレリア・ルスティカーナ」、あるいは「ボエーム」や「蝶々夫人」もその範疇でしょうか。 ベルクはこのオペラの原作であるビュヒナーの「ヴォイツェック」を29歳の時に見ています。直後に第二幕のスケッチを始めるなど、強い衝撃を受けオペラ化への強い意欲を持ったようです。もっとも、師匠格のシェーンベルクには「書くのなら、妖精が登場するオペラを書いた方が良い」と言われ、落ち込んだりもしたようですが。

ベルクはこのオペラで伝統的な技法も用いていまして、それはパッサカリアであり、フーガであったりします。また引用も非常に多く、冒頭部にはベートーヴェンの田園交響曲冒頭フレーズがモーティフとして使われていたり、シューマンからの引用、シュトラウスの「サロメ」のコントラバス部分と似た部分、マーラーの「高い知性の歌」(子供の不思議な角笛)など、様々な要素が取り入れられています。

(私が最近聴いている限りでは、マーラー的要素は随所に見られまして、交響曲第三番のフレーズがよく現れるような気がいたします。また、軍楽隊の部分もマーラー的だと思います)

つづく

 

Chamber,Johannes Brahms

久々にブラームスを聞きたくなりました。というわけで、ピアノ三重奏曲第一番を。 ブラームスの室内楽には16年前から本当にお世話になりました。

今の私の嗜好はオペラ、大オーケストラに向いていますが、当時はほとんどブラームスの室内楽を聞き続けるという日々でした。きっかけは大学の助手の先生から借りたアマデウス弦楽四重奏団の室内楽曲全集でした。クラリネット五重奏曲と弦楽五重奏曲に耽溺していました。 それから、指揮がどなたか忘れてしまったのですが、シェーンベルクがブラームスのピアノ四重奏曲を編曲したオケ版を聴いたことがあって、あれ以来、ピアノ四重奏曲が気になって仕方がなく、たしかルビンシュタインがピアノを弾いたピアノ四重奏曲のCDを死ぬほど聴いていました。当時、ルコント監督の「仕立て屋の恋」を観たのですが、あの映画で第四楽章の気欝な感じの甘いフレーズが効果的に使われていたのに感動したのを覚えています。

当時は、まだサクソフォーンをバリバリに吹いている頃でした。当時の僕にとって見れば、室内楽の音のつくりとジャズコンボの音のつくりが多少似ているところがある、と思っていたらしいのですね。おそらくは、リズムを合わせる緊張感とか、音楽全体を構成する要素が数人規模であるところとか。ずいぶんと共感を覚えていたと思います。

少し話はそれますが、私は1995年から1999年頃まで、今思っても大変な幸福な出来事だったのですが、偉大な先輩方と一緒にバンドを組んでライヴをやったりしておりました。当時で言う「ホームページ」なるものを作りまして、いろいろと貴重な体験をしたわけですが、その時代が、ちょうど私が室内楽を聴いていた時代と重なるわけです。あのバンドでは、楽譜もまともに読めず、リズム感も音程も悪い私を良く拾ってくださったと思っています。

まあ、そういう淡い思い出的な要素もあって、今日聞いたピアノ三重奏曲はすてきでした。演奏はもちろんピリスとデュメイの黄金コンビ。私は、もうこの演奏でメロメロです。甘みのある倍音を含んだヴァイオリン、柔らかい雨だれのようなピアノ。まあ、ショパンの夜想曲をピレスで聞いていたからそう思うのだと思うのですが。この曲、何度か実演で聞いたことがありますが、やはりここまでの完成度に達した演奏は聴いたことがないです。

このお二方が演奏するフランクのヴァイオリンソナタも名盤中の名盤でして、そういえば、私の結婚式のBGMに使いました。

Opera,Richard Strauss

ハイティンクの「ばらの騎士」。タワレコで4000円強で売っていて、買おうかどうか迷った末に、あきらめて帰宅。アマゾンを覗いたら、なんと2000円弱で売っている!(マーケットプレイスですが)即購入しました。なんとアルゼンチンからの国際郵便で送られてきました。あけてみると新品でした!

マルシャリンはキリテ・カナワ、オクタヴィアンはアンネ・ゾフィー・オッター、ゾフィーはバーバラ・ヘンドリクス、オックスはクルト・リドル。オケはSKD(シュターツカペレ・ドレスデン)で、ルカ教会での録音ですよ! これはもう期待するしか。

第一幕を再生した途端に驚愕しました。ホルンがすごい。それから、SKDの弦楽器の音がまた良いですねえ。ルカ教会の残響と巧く融合した、少しざらつきのある高音域の倍音が豊かで、きっとこれは来世の音です。夢心地です。

クルト・リドルのオックスは、2007年のザクセン州立歌劇場引っ越し公演の「ばらの騎士」で聴いて、今年の新国「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしい歌を聴いたのですが、やっぱりこの音源でも確固とした存在感を示しています。クルト・モルのオックスも大好きですが、クルト・リドルのオックスもいいなあ。キリ・テ・カナワは、ティーレマンのDVD「アラベラ」で聴いたり、シルマーの「カプリッチョ」でもお目にかかっていますが、最近つとに気に入ってきています。柔らかさにうっとりします。

さしあたり、冒頭部、ばらの献呈の場面、最後の三重唱をきいてみましたが、ハイティンクってすごいのですね。テンポは割りと抑え気味で、じっくりと歌わせているわけですが、それがこの輝き煌くSKD+ルカ教会ですので、浄福の境地でございます。第二幕のオックスのワルツも、入りのテンポが遅くて、それが徐々にスピードを増していくなだらかな稜線が見え始めるという具合で、実に面白いのです。ハイティンクのセンスのすばらしさ、というところでしょうか。 とはいえ、若干ピッチに不安を覚える場面もあるのですが、それは目を瞑ることが出来ます。全体にすばらしいので。

今日は1幕から聴き始めています。またお気に入りの「ばらの騎士」が増えました。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかまたご無沙汰、と思いましたが、28日にベルクを聞いていたのですね。なんだか時間の感覚が変な感じで、一週間前のことが、ずっと前にも思えますし、つい最近のようにも思えます。

今日は新国にて「魔笛」を観てきました。先週書いたように予習は主にデイヴィス盤でした。シュライアーのタミーノが素晴らしくて感激していたのですが、今日の演奏も実に立派でして随分堪能しました。

全体的にまとまりのあって疾走感のあるアンサンブルでした。ザラストラの松居さんは、新国の「さまよえるオランダ人」で聞いたことがありましたが、あのときと同じく安定した歌でして、甘みのある倍音を含んだ声はゴージャスでした。パミーナのカミラ・ティリングも立派な声でした。「ばらの騎士」ゾフィーもレパートリーと書いてありましたが、さもありなむ。 夜の女王の安井陽子さん、デイヴィス盤のルチアーナ・セルラに遜色のないコロラトゥーラ。しかし、この歌が18世紀にはもう歌われていたという先進性には圧倒されます。

全体的にレベルが高くて安心して聞いていられたと思います。初めて新国でオペラをみたのはちょうど七年前になりますが、あのころと比べると隔世の感があります。その分値段も高くなりましたが。ノヴォラツスキーが監督になってから、値段が上がったと記憶していますがそれだけのことはあったのではないでしょうか。そういえばその前はダブルキャストで、キャストの格で値段が変わり、チケットの確保のし安さも全然違いました。

次回の新国は、前にも書いたように、「ヴォツェック」です。個人的には、やはりオペラはワーグナー以降、プッチーニ以降が好みらしく、明日からの予習が楽しみでなりません。来週はオペラトークで勉強してきます。

Alban Berg,Chamber

最近本が読めなくなったということを書いたことがあったでしょうか。7月、8月と私は30冊近く読んだのですが、9月中旬頃から読めなくなってきました。とある人には、本を読めるだけの余裕がなくなってきたからじゃない? と言われましたが、確かにそうかもしれないです。仕事やらなんやらでちょっとばたばたしていますので。

というか、おそらくは11月は怒濤のような一ヶ月になる見込み。まあ、ヴォツェックとカプリッチョをみるのも大変な事件ですが、仕事的には、大きな案件を二つ抱えて、細かい案件を二つ三つ、それに突発的インシデントが三つほど。くわえて、組織の社内教育担当に任命されていて、難しい調整をいくかこなさないとならない。まあ、このご時世で忙しいというのはある意味ありがたいことでもあります。

さて、こんなどんよりした一日にぴったりなのがアルバン・ベルクでしょう。何ヶ月ぶりかに聴く「抒情組曲」は最高! もちろん演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団という正統派であります。以前に何度も書いていますが、私はアルバン・ベルクの人生そのものに強い興味を覚え続けていまして、もし時間ができたら色々と調査したり研究したい、と思っています。定年後の手すさびになるかもしれませんが。ハンナ・フックスとの不倫愛とか、どうしてマノン・グロピウスのためのレクイエム的ヴァイオリン協奏曲を書いたのか、とか、虫さされで死ぬという今で考えればある意味不気味な最期とか。 時間はなくても、せめてモティーフだけでも維持できるように努力しないといけませんね。これもがんばります。

当の抒情組曲は、昨年の秋冬にひたすら聞き込んでいまして、結構記憶の中に残っていますので、聴いていて心地よささえ感じます。私は、「カプリッチョ」の透徹とした美しさも好きですが、「抒情組曲」のような、ある意味一般的で感情的な用語においては、美しいとは評価されないであろう、こうした曲も大好きです。まあ、私は美学も音楽学もさぼっていますのであまり難しいことはかけませんが、美というものの定義付けは現代においては実に複雑で困難な仕事になるようですので、このあたりでとめるしかありません。

しかし、何故、僕が「抒情組曲」を好むのか、自分なりに反省してみてもいいのかもしれません。 一般的には不協和音とされるであろう激しい弦楽器のぶつかり合いとか、一度聴いても覚えられないですし、鼻歌混じりに髭をそることもできないほど複雑な旋律群。それらが四方八方から飛びかかってくるのを一つ上のレベルから眺めている感じ。これが僕がこの曲を聴くときに感じているものらしいです。抽象画をみるときに感じるスリルと同じといえましょうか。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

やっと昨日書けました。今日ももかけるかも。仕事のほうがいろいろ忙しくて時間的な余裕がなくなっているのかも。残業制限で早く帰れるようになりましたが、その分効率を上げないといけない。仕事量は変わらんないのですよ。当然ですが。無限残業のころと今を比べると、大変さはあまり変わらないですねえ。

今日も魔笛を。私はもう、クルト・モルとペーター・シュライアーがすばらしくてこの盤をしばらく手放すことが出来ないでしょう。図書館に在籍していて本当に良かったです。 「魔笛」は実演に接するのは初めてです。雰囲気は映画「アマデウス」で知っているぐらい。曲は以前からiPodに入っていましたので、折に触れて聴いていましたが。そういえば、「アマデウス」では、チェレスタを弾いていたモーツァルトが倒れてしまう、というエピソードがあったような。あの場面は鮮烈に覚えています。

それにしても、あらすじはいつ読んでも難しい。フリーメイソンの影響といわれるわけですね。ちなみに、ザラストロって、ツァラトゥストラに似ていて、さらにさかのぼって、ゾロアスターに似ている。ネットで調べてみると、やっぱり同じことをおっしゃっていることがいました。

http://blog.goo.ne.jp/traumeswirren/e/8e35e41cace8a00a388d124f325b81b2

神秘思想ですか。知らないといけないことはたくさんありますが、何一つ知っている気がしません。。無限地獄。Wikiによれば、ゾロアスターはザラスシュトラとも言われるようで、そうすると完全にザラストロと一致します。奥深すぎる。

とりあえず、今週はこの盤で突っ走る予定で、11月1日の魔笛@新国を目指します。翌週2日からは、ヴォツェック@新国を目指して、ヴォツェックを聴き込まないと。その合間に、パルジファルの予習も必要だなあ。聴く課題がたくさんあって楽しいです。