Alban Berg,Opera

いよいよ今週末に迫ったヴォツェックですが、予習中であります。昨日はバレンボイム盤、今日はケーゲル盤です。
昨日、かみさんと懐かしい話をしました。そもそもヴォツェックを初めて聴いたのは大学を卒業したからでした。きっかけはかみさんが大学で、ヴォツェックの原作となったビュヒナーの「ヴォイツェック 」を読んでいたからでした。昨日、そういえば原作を読んだことがないなあ、と思って、邦訳を探したのですが、見当たらない。図書館にもアマゾンにもない感じです。かみさんに聞くと、当時から邦訳がなくて、ドイツ語で読んだのだそうです。まあ、そういう事情もあってかみさんからこの曲を教えて貰った感じでした。
当時はブラームスやシューマンの室内楽ばかり聞いていたのですが、このヴォツェックの第一幕第三場のマリーが歌う子守唄のこの世離れした妖しい美しさに卒倒したものです。

今聴いているケーゲル盤ですが、録音がいい感じです。若干SN比が高めですが、音のコントラストがくっきりしていて聞きやすいです。演奏のほうもケーゲルらしい鋭く研がれたガラス細工のようなかんじで、純粋すぎてかえって畏れを抱かないといけない気分です。レコメンドです。そういえばこのCDはドレスデンの免税レコード屋で買ったのでした。
今日は携帯からエントリーしました。また次回まで。
 

Alban Berg,Opera

一週間ご無沙汰しました。言い訳はいたしませぬ。と言うわけで、先日に続いて、ヴォツェックのオペラトークについてです。

 


ともかく、このオペラにおいては、ヴォツェックもマリーも、完全に貧困の袋小路に入り込んでいる。ここから逃れる術は全くないわけです。だからマリーは、鼓手長の中に貧困から抜け出す微かな可能性を求めているわけですが、冷静に考えると、鼓手長なんて言うのは、軍隊の中での階級はたかがしれている。結局逃れられないということです。しかも、それは自分たちの子供にも波及してしまう。きっとヴォツェックとマリーの息子も貧困の中で成長し貧困から逃れられないという現実。

(これは、まさに現在の日本がないしは世界が抱えている問題にも直結いたします。でもどうしようもないという無力感。自分がずり落ちないように支えるのが精一杯という現実)

クリーゲンブルク氏の演出の意図についての話し。(少々ネタバレですが、)

舞台装置は四角く、床には水が張ってあるそうです。それから黒い服を着た人物が何人も。登場人物はこの世ならぬ姿格好をしているわけですが、これはすべてヴォツェックから見た世界を表しているのです。ヴォツェックは、医者の実験台になり、抑圧されていて自分を見失い、精神的に崩壊しつつあるわけで、ヴォツェックの見る世界は常人あらざるものになっているわけです。まともに見えているのは、マリーと息子だけ。

舞台に水が張っているのは以下の三つの理由があるそうです。

一つは、ヴォツェックのいる世界が居心地の悪いと言うことを示している、と言う点です。じめじめしていて足下が濡れているという居心地の悪さ。特にドイツ人に取ってみれば湿気は日本人よりも嫌うでしょうし。

もう一つは、音響的な効果を狙っていると言うこと。ベルクの複雑な音楽に水音が加わることで、水音という我々にとっては身近な音が、ベルクの音楽世界をより現実に近いとことへと引き寄せよう、という意図があるのだそうです。これは実際にパフォーマンスに接してみないと分からない効果です。

さらには、視覚効果でして、水底が深淵であるように見せたり、あるいは水面の反射などの視覚効果を狙っているとのこと。こうした視覚効果から非合理的、非現実的な世界を表現しようとしているようです。

(少し面白かったのですが、舞台に水が張ってあることを、長木さんが「最近の新国ではやっていますが」といったことをおっしゃると、聴衆が笑ったこと。先日の「オテロ」の舞台でもやっぱり水が張ってあって効果的だったのですが、そのことを指しているのか、あるいは、劇場正面の水が張られた光庭を指しているのか)

この作品で重要なことは、ヴォツェックもマリーも良き人になろうとしていること。それに対して、大尉も医者もモラルから自由になっている。ヴォツェックもマリーも貧困といった現実社会の厳しさに直面して良き人であろうとしてもなかなかそうはなれない。特にマリーは鼓手長と関係を持ってしまい、罪悪感を覚えるわけです。このオペラの中でもっとも静寂なのはマリーが神に祈るシーンなのですが、その後ヴォツェックはマリーを殺してしまう。

なぜヴォツェックはマリーを殺したのでしょうか。クリーゲンブルク氏はこうおっしゃいました。非常に悲しいことに、マリーの殺害は、ヴォツェクが初めて自分でした決断だったわけです。それはヴォツェックの持つ怪物的な側面、それは貧困や境遇や人体実験によるものな訳ですが、そうした側面が表に出てしまったということなのです。

最後に一言ずつ。演出のクリーゲンブルク氏からは、この上演にてヴォツェック世界に入り、上演が終わりそこから去る時に、何かを持って帰って欲しい、という言葉が。指揮のヘンヒェン氏からは、この上演を故若杉弘芸術監督に捧げたい。本来なら若杉さんが振られる予定だったわけですが、残念ながらそれは叶わぬわけです。それからヴォツェックを「恐れずに」聴いて欲しい、とも。難解晦渋な現代音楽ではなく、実にエモーショナルな後期ロマン派音楽として不安を持たずに聴いて欲しいとのことでした。

せっかく書いたのですが、新国立劇場のウェブに全文載っておりますね。(#1, #2)ショック。せっかく頑張ってノートをとったのに……。

 

Alban Berg,Opera

昨日は、午前中に都内某所での所用を終えて、新国に向けてダッシュ。何とかオペラトークに間に合いました。

オペラトークの内容ですが、復習をかねて少しずつアップします。必ずしもお言葉通りには書かないと思います。お話しの順番や、やりとりの整合性が私がご報告するにあたって少々やりにくいところがあったり、私の所感が混ざったりします。すいません。

司会は長木誠司さんで、近頃東大の准教授から教授になられたとかで、「教授になっても仕事は増えるばかりで、給料は上がらない」とぼやいておられました。大学の先生がいかにもおっしゃりそうなお言葉で、大学の頃を思い出しました。懐かしい感じです。演出はアンドレアス・クリーゲンブルク氏、指揮はハルトムート・ヘンヒェン氏。

まずは、念のためあらすじ。近頃、「ヴォツェック」のあらすじを、他の方に説明する機会が何度かあったのですが、言えば言うほど陰鬱で暗い感じ。

兵士のヴォツェックは上官の大尉に虐げられ、軍医の実験台になって小銭を稼いでいる。内縁の妻マリーとの間には息子がいるのだが、マリーは軍楽隊の鼓手長と関係を結んでしまう。ヴォツェックはマリーの不義を見て取って池の畔でマリーを殺してしまう。酒場でヴォツェックの袖についた血を見られ、慌てて池に戻るのだが、ヴォツェックも池に溺れて死んでしまう。池から死体が上がったとの知らせに、遊んでいた子供達は池の方に向かうのだが、ヴォツェクとマリーの息子はただ木馬遊びを続けるだけだった。

「ヴォツェック」は1925年にベルリンでエーリッヒ・クライバーによって初演され、一定の成功を収めました。構成としては、三幕構成でそれぞれ5つの場があります。全部で15場からなる安定した構成となっています。 あらすじにも書いたように、社会の底辺とも言うべき貧困という現実を描いたオペラな訳ですが、これは当然ながら、19世紀半ば以降のイタリアのヴェリズモ・オペラに由来するものなわけです。「道化師」とか「カヴァレリア・ルスティカーナ」、あるいは「ボエーム」や「蝶々夫人」もその範疇でしょうか。 ベルクはこのオペラの原作であるビュヒナーの「ヴォイツェック」を29歳の時に見ています。直後に第二幕のスケッチを始めるなど、強い衝撃を受けオペラ化への強い意欲を持ったようです。もっとも、師匠格のシェーンベルクには「書くのなら、妖精が登場するオペラを書いた方が良い」と言われ、落ち込んだりもしたようですが。

ベルクはこのオペラで伝統的な技法も用いていまして、それはパッサカリアであり、フーガであったりします。また引用も非常に多く、冒頭部にはベートーヴェンの田園交響曲冒頭フレーズがモーティフとして使われていたり、シューマンからの引用、シュトラウスの「サロメ」のコントラバス部分と似た部分、マーラーの「高い知性の歌」(子供の不思議な角笛)など、様々な要素が取り入れられています。

(私が最近聴いている限りでは、マーラー的要素は随所に見られまして、交響曲第三番のフレーズがよく現れるような気がいたします。また、軍楽隊の部分もマーラー的だと思います)

つづく

 

Chamber,Johannes Brahms

久々にブラームスを聞きたくなりました。というわけで、ピアノ三重奏曲第一番を。 ブラームスの室内楽には16年前から本当にお世話になりました。

今の私の嗜好はオペラ、大オーケストラに向いていますが、当時はほとんどブラームスの室内楽を聞き続けるという日々でした。きっかけは大学の助手の先生から借りたアマデウス弦楽四重奏団の室内楽曲全集でした。クラリネット五重奏曲と弦楽五重奏曲に耽溺していました。 それから、指揮がどなたか忘れてしまったのですが、シェーンベルクがブラームスのピアノ四重奏曲を編曲したオケ版を聴いたことがあって、あれ以来、ピアノ四重奏曲が気になって仕方がなく、たしかルビンシュタインがピアノを弾いたピアノ四重奏曲のCDを死ぬほど聴いていました。当時、ルコント監督の「仕立て屋の恋」を観たのですが、あの映画で第四楽章の気欝な感じの甘いフレーズが効果的に使われていたのに感動したのを覚えています。

当時は、まだサクソフォーンをバリバリに吹いている頃でした。当時の僕にとって見れば、室内楽の音のつくりとジャズコンボの音のつくりが多少似ているところがある、と思っていたらしいのですね。おそらくは、リズムを合わせる緊張感とか、音楽全体を構成する要素が数人規模であるところとか。ずいぶんと共感を覚えていたと思います。

少し話はそれますが、私は1995年から1999年頃まで、今思っても大変な幸福な出来事だったのですが、偉大な先輩方と一緒にバンドを組んでライヴをやったりしておりました。当時で言う「ホームページ」なるものを作りまして、いろいろと貴重な体験をしたわけですが、その時代が、ちょうど私が室内楽を聴いていた時代と重なるわけです。あのバンドでは、楽譜もまともに読めず、リズム感も音程も悪い私を良く拾ってくださったと思っています。

まあ、そういう淡い思い出的な要素もあって、今日聞いたピアノ三重奏曲はすてきでした。演奏はもちろんピリスとデュメイの黄金コンビ。私は、もうこの演奏でメロメロです。甘みのある倍音を含んだヴァイオリン、柔らかい雨だれのようなピアノ。まあ、ショパンの夜想曲をピレスで聞いていたからそう思うのだと思うのですが。この曲、何度か実演で聞いたことがありますが、やはりここまでの完成度に達した演奏は聴いたことがないです。

このお二方が演奏するフランクのヴァイオリンソナタも名盤中の名盤でして、そういえば、私の結婚式のBGMに使いました。

Opera,Richard Strauss

ハイティンクの「ばらの騎士」。タワレコで4000円強で売っていて、買おうかどうか迷った末に、あきらめて帰宅。アマゾンを覗いたら、なんと2000円弱で売っている!(マーケットプレイスですが)即購入しました。なんとアルゼンチンからの国際郵便で送られてきました。あけてみると新品でした!

マルシャリンはキリテ・カナワ、オクタヴィアンはアンネ・ゾフィー・オッター、ゾフィーはバーバラ・ヘンドリクス、オックスはクルト・リドル。オケはSKD(シュターツカペレ・ドレスデン)で、ルカ教会での録音ですよ! これはもう期待するしか。

第一幕を再生した途端に驚愕しました。ホルンがすごい。それから、SKDの弦楽器の音がまた良いですねえ。ルカ教会の残響と巧く融合した、少しざらつきのある高音域の倍音が豊かで、きっとこれは来世の音です。夢心地です。

クルト・リドルのオックスは、2007年のザクセン州立歌劇場引っ越し公演の「ばらの騎士」で聴いて、今年の新国「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしい歌を聴いたのですが、やっぱりこの音源でも確固とした存在感を示しています。クルト・モルのオックスも大好きですが、クルト・リドルのオックスもいいなあ。キリ・テ・カナワは、ティーレマンのDVD「アラベラ」で聴いたり、シルマーの「カプリッチョ」でもお目にかかっていますが、最近つとに気に入ってきています。柔らかさにうっとりします。

さしあたり、冒頭部、ばらの献呈の場面、最後の三重唱をきいてみましたが、ハイティンクってすごいのですね。テンポは割りと抑え気味で、じっくりと歌わせているわけですが、それがこの輝き煌くSKD+ルカ教会ですので、浄福の境地でございます。第二幕のオックスのワルツも、入りのテンポが遅くて、それが徐々にスピードを増していくなだらかな稜線が見え始めるという具合で、実に面白いのです。ハイティンクのセンスのすばらしさ、というところでしょうか。 とはいえ、若干ピッチに不安を覚える場面もあるのですが、それは目を瞑ることが出来ます。全体にすばらしいので。

今日は1幕から聴き始めています。またお気に入りの「ばらの騎士」が増えました。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかまたご無沙汰、と思いましたが、28日にベルクを聞いていたのですね。なんだか時間の感覚が変な感じで、一週間前のことが、ずっと前にも思えますし、つい最近のようにも思えます。

今日は新国にて「魔笛」を観てきました。先週書いたように予習は主にデイヴィス盤でした。シュライアーのタミーノが素晴らしくて感激していたのですが、今日の演奏も実に立派でして随分堪能しました。

全体的にまとまりのあって疾走感のあるアンサンブルでした。ザラストラの松居さんは、新国の「さまよえるオランダ人」で聞いたことがありましたが、あのときと同じく安定した歌でして、甘みのある倍音を含んだ声はゴージャスでした。パミーナのカミラ・ティリングも立派な声でした。「ばらの騎士」ゾフィーもレパートリーと書いてありましたが、さもありなむ。 夜の女王の安井陽子さん、デイヴィス盤のルチアーナ・セルラに遜色のないコロラトゥーラ。しかし、この歌が18世紀にはもう歌われていたという先進性には圧倒されます。

全体的にレベルが高くて安心して聞いていられたと思います。初めて新国でオペラをみたのはちょうど七年前になりますが、あのころと比べると隔世の感があります。その分値段も高くなりましたが。ノヴォラツスキーが監督になってから、値段が上がったと記憶していますがそれだけのことはあったのではないでしょうか。そういえばその前はダブルキャストで、キャストの格で値段が変わり、チケットの確保のし安さも全然違いました。

次回の新国は、前にも書いたように、「ヴォツェック」です。個人的には、やはりオペラはワーグナー以降、プッチーニ以降が好みらしく、明日からの予習が楽しみでなりません。来週はオペラトークで勉強してきます。

Alban Berg,Chamber

最近本が読めなくなったということを書いたことがあったでしょうか。7月、8月と私は30冊近く読んだのですが、9月中旬頃から読めなくなってきました。とある人には、本を読めるだけの余裕がなくなってきたからじゃない? と言われましたが、確かにそうかもしれないです。仕事やらなんやらでちょっとばたばたしていますので。

というか、おそらくは11月は怒濤のような一ヶ月になる見込み。まあ、ヴォツェックとカプリッチョをみるのも大変な事件ですが、仕事的には、大きな案件を二つ抱えて、細かい案件を二つ三つ、それに突発的インシデントが三つほど。くわえて、組織の社内教育担当に任命されていて、難しい調整をいくかこなさないとならない。まあ、このご時世で忙しいというのはある意味ありがたいことでもあります。

さて、こんなどんよりした一日にぴったりなのがアルバン・ベルクでしょう。何ヶ月ぶりかに聴く「抒情組曲」は最高! もちろん演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団という正統派であります。以前に何度も書いていますが、私はアルバン・ベルクの人生そのものに強い興味を覚え続けていまして、もし時間ができたら色々と調査したり研究したい、と思っています。定年後の手すさびになるかもしれませんが。ハンナ・フックスとの不倫愛とか、どうしてマノン・グロピウスのためのレクイエム的ヴァイオリン協奏曲を書いたのか、とか、虫さされで死ぬという今で考えればある意味不気味な最期とか。 時間はなくても、せめてモティーフだけでも維持できるように努力しないといけませんね。これもがんばります。

当の抒情組曲は、昨年の秋冬にひたすら聞き込んでいまして、結構記憶の中に残っていますので、聴いていて心地よささえ感じます。私は、「カプリッチョ」の透徹とした美しさも好きですが、「抒情組曲」のような、ある意味一般的で感情的な用語においては、美しいとは評価されないであろう、こうした曲も大好きです。まあ、私は美学も音楽学もさぼっていますのであまり難しいことはかけませんが、美というものの定義付けは現代においては実に複雑で困難な仕事になるようですので、このあたりでとめるしかありません。

しかし、何故、僕が「抒情組曲」を好むのか、自分なりに反省してみてもいいのかもしれません。 一般的には不協和音とされるであろう激しい弦楽器のぶつかり合いとか、一度聴いても覚えられないですし、鼻歌混じりに髭をそることもできないほど複雑な旋律群。それらが四方八方から飛びかかってくるのを一つ上のレベルから眺めている感じ。これが僕がこの曲を聴くときに感じているものらしいです。抽象画をみるときに感じるスリルと同じといえましょうか。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

やっと昨日書けました。今日ももかけるかも。仕事のほうがいろいろ忙しくて時間的な余裕がなくなっているのかも。残業制限で早く帰れるようになりましたが、その分効率を上げないといけない。仕事量は変わらんないのですよ。当然ですが。無限残業のころと今を比べると、大変さはあまり変わらないですねえ。

今日も魔笛を。私はもう、クルト・モルとペーター・シュライアーがすばらしくてこの盤をしばらく手放すことが出来ないでしょう。図書館に在籍していて本当に良かったです。 「魔笛」は実演に接するのは初めてです。雰囲気は映画「アマデウス」で知っているぐらい。曲は以前からiPodに入っていましたので、折に触れて聴いていましたが。そういえば、「アマデウス」では、チェレスタを弾いていたモーツァルトが倒れてしまう、というエピソードがあったような。あの場面は鮮烈に覚えています。

それにしても、あらすじはいつ読んでも難しい。フリーメイソンの影響といわれるわけですね。ちなみに、ザラストロって、ツァラトゥストラに似ていて、さらにさかのぼって、ゾロアスターに似ている。ネットで調べてみると、やっぱり同じことをおっしゃっていることがいました。

http://blog.goo.ne.jp/traumeswirren/e/8e35e41cace8a00a388d124f325b81b2

神秘思想ですか。知らないといけないことはたくさんありますが、何一つ知っている気がしません。。無限地獄。Wikiによれば、ゾロアスターはザラスシュトラとも言われるようで、そうすると完全にザラストロと一致します。奥深すぎる。

とりあえず、今週はこの盤で突っ走る予定で、11月1日の魔笛@新国を目指します。翌週2日からは、ヴォツェック@新国を目指して、ヴォツェックを聴き込まないと。その合間に、パルジファルの予習も必要だなあ。聴く課題がたくさんあって楽しいです。

Concert,Richard Strauss

昨日は少々酔っ払いながら書いたので、なんだか変な文章になりました。どうも最近こっそり夜に飲む癖がついてしまいました。最後のほうの記憶はほとんどなく。私、最近飲むと記憶が飛ぶことが多いのですよ。。飲んじゃダメ、ということなんでしょう。この癖、直さないといけないのですが、まあ色々ありますので。

さて、昨日の続き。今日はプレヴィンの家庭交響曲についてです。テンポを過剰に動かすことなく、またひとつのテンポに安住することもなく。お年を召されると、テンポが緩くなったりするものだと思うのですが、そういう意味では実にアグレッシブな演奏といえると思いました。Twitterにも書きましたが、老成という言葉は当たらないと書きました。なんだか充実した壮年の覇気のようなものを感じました。

しかし、家庭交響曲は、聴くだけではなく、見ることによっても理解が深まりました。ヴァイオリンはおそらくはパウリーネで、チェロがおそらくはシュトラウス自身を示しているわけですが、そのあたりの掛け合いの様子を視覚的にみることが出来て、曲の理解が深まった気がします。この対応関係は「英雄の生涯」と同じでしょう。それから、息子フランツが登場してシッチャカメッチャカにするあたりの描写も実に楽しいです。

それから、第三部の夫婦愛的なところの高揚感はすばらしいです。これぞオーケストラ音楽の醍醐味というところ。迫力、重厚、壮大。夫婦愛の高尚さ、神秘性、神聖性。ここまで高らかに歌い上げられると、圧倒されるばかり。相当感動的な高揚感で、聴いているときは、これはあまりに幸福で贅沢な瞬間だ、と感謝の気持ちで一杯。幸せというのはこういうものを指すんだろうなあ。

終幕部、ティンパニが音階を駆け上がる例の場面近辺も凄い迫力で、私は舌を巻きました。wikiによると、あの音階はウィーンフィルのティンパニ奏者が提案して、シュトラウスの追認があったらしい。ひらめいたんでしょうねえ。ウィーンフィルの奏者ともなれば耳も良ければひらめきもずば抜けているんだなあ。あの場面は、聴いているほうもアドレナリン全開で興奮渦に巻き込まれてしまいます。

そうそう、そういえば、日曜日の演奏にサクソフォーン奏者がいましたでしょうか? どうにも見あたらなかったような。あとでスコア見て確認してみます。

曲が終わると圧倒的な拍手で、プレヴィン氏はやはり足が思うように動かないらしく、楽団員の助けをもらいながら、指揮台を降りて客席に顔を向けてくる。好々爺だなあ。背中もまがって小さくなってしまったイメージ。でもね、ミケランジェロが、大理石から彫刻を救い出したように、オケという無限の可能性の中からこの小柄なご老人が、あの圧倒的な演奏を引き出していると言う事実。

プレヴィン氏の録音盤を聴いていますが、感動はN響のほうが数段上。演奏的にも私は今回の演奏の方が重みがあって好きです。

ともかく、今回も本当に恵まれました。ありがとうございました。

次回は、11月1日に新国で魔笛を見る予定。っつか、11月はオペラ目白押しだなあ。魔笛@新国、ヴォツェック@新国、カプリッチョ@二期会。やばい、また予習しなくちゃ。ヴォツェックのオペラトークにも行きますよ。

 

 

Concert,Richard Strauss

昨日は満を持してNHKホールへ向かいました。N響定期公演、アンドレ・プレヴィン指揮で、ヴォルフガング・リームとリヒャルト・シュトラウスの作品を。すばらしいひとときで、私は我を忘れ続けました。

まずは、ヴォルフガング・リームの「厳粛な歌」。ベルクの「ヴォツェック」や「ルル」を思い出した私は単純でしょうか。ティンパニの打点がどうにも似ていまして。NHKホールの微妙なリヴァーヴ感とあいまってです。今から思えば、アバドの「ルル組曲」を感じていたみたい。ともあれ、奏者の配置も面白くて、弦楽器が右前方、木管楽器群が左前方に向かい合って並んでいました。意外と旋律的でしたが、プロの方はあのテンポ取りでどうやったらあんなにきちんと演奏できるのでしょうか。。私も昔似たようなことをやった記憶がありましたが、相当辛かったですので。 それにしても、イングリッシュホルンのあの方、本当にいい音だすなあ。

さて、二曲目はシュトラウスのオペラ「カプリッチョ」終幕の場面。私は、この曲の演奏をお目当てにチケットをとりました。しかも伯爵夫人マドレーヌは、フェリシティ・ロットとくればなおさら。

月光の音楽が始まりますと、とろけるような甘いホルンのソロから。多少瑕はあったかもしれないのですが、私はもうここでこみ上げてくるものを押さえられなかったです。涙が溢れ、嗚咽に似たものが上へ下へと行きかうのに必至にこらえる感じ。隣に座っていたカミさんに気づかれたのでしょうか? 

ロットの歌いだし、オケがずいぶんとなっていましたので、バランス的に少し声が小さく感じましたが、その後お互いに調整してかなりいいバランスになりました。そして、あのソネットの部分!

Kein andres, das mir so im herzen loht,
Nein schoene, nichs auf diser ganzen Erde,
Kein andres, das ich so wie dich begehrte,
Und Kaem’ von Venus mir ein Angebot.

わが心を 燃え立たせるものなど麗しき人よ
この世にまたとあろうかそなたほど 
恋い焦がれるものは他になしたとえ 
美の神ヴィーナスがきたるとも……

もう何百回(言いすぎですか? でも100回は聴いたと思います)と聴いたカプリッチョ終幕の部分。ヤノヴィッツ、フレミング、シュヴァルツコップ、キリ・テ・カナワ、シントウ……。今日もやっぱり完全に陥落してしまい、涙が頬を伝っていって止まらない。私はこの一瞬のためにも、日々仕事をしている、といっても過言ではありません。

フェリシティ・ロットの歌は、恋焦がれる伯爵夫人というより、慈愛を注ぐ母性的存在であるかのように感じました。これは、もちろん、私がクライバーの「ばらの騎士」でフェリシティ・ロットがマルシャリンを歌い、オクタヴィアンへとゾフィーに注ぐ慈しみの歌を知っているからでしょうか。あるいはロットの今の心情を反映しているのでしょうか。

実は、私はこの曲を2006年の秋にドレスデンのゼンパー・オーパーでペーター・シュナイダーの指揮で聴くという今から思えば信じられないような幸運に恵まれました。ですが、あの時、私はここまでカプリッチョを理解できていたのか? 答えはNeinです。 あの時はサヴァリッシュ盤で予習をするだけでして、しかもモノラル音源でした。そして、旅行の寸前にクラシックロイヤルシートで放送された「カプリッチョ」。ウルフ・シルマー指揮で、伯爵夫人はルネ・フレミングで、クレロンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッターという大僥倖。日本語訳が手に入らなかったので、このオペラを観ながら字幕を全部テキストに起こしました。それを持ってドレスデンに乗り込んだのでした。

あの時、やはり月光の音楽で静謐な美しさに心を打たれましたが、ここまでではなかった。でも、シュナイダーの指揮のうねりとか、演出の美しさ、つまり、白を基調とした舞台の背景が群青色に染め上げられて月光が淡く照らし出す光のイメージが生み出すあまりにあまりに濃縮された美意識、そういったものが複雑に織り込まれていき、このオペラの最終部への理解が深まった気がしています。まあ、ここでいう理解とは何か、という問題はあるのですが。

昨日の演奏のプレヴィンの指揮もすばらしかったです。テンポは少し抑え目に感じましたが、徐々に迫る高揚感への円弧のラインがすばらしかったはずです。「はず」とは何事か、といいますと、正直申し上げて、私はある意味我を忘れておりましたので、反省的な聴き方をあまり出来なかったようだからです。 たしか、月光の音楽はプレヴィンも録音しているはず。いまその演奏を聴いているのですが、これもすばらしい。うねりと高揚感。 ちなみに、隣に座っておられた方は、眠っておられた様子。入り口に待機している係員の女性もやっぱり眠っておられたようです。ある種、それは宝の山を前にしてその価値をわからないという状態。でも、あの方々を責めることはできません。それは、ある種私のかつての姿と同じだからです。

徐々に終幕へと導かれていく音楽。答えのでない問題。それがあるから人生である。フラマンもオリヴィエもきっと伯爵夫人マドレーヌにふられる気がするのは私だけでしょうか。

曲が終わると万雷の拍手で、何度も何度もロットとプレヴィンが舞台に呼び出される。さすがに80歳のプレヴィンは歩くのも少々つらそうですが、あそこまで大きな作品を形作ることができるなんて。

そして、休憩を挟んで次は家庭交響曲。こちらは明日書くことにいたします。