Dresden2006,Opera,Richard Strauss

昨日も今日も実に良い天気です。近所の早咲きの桜は、もう満開に近い状態です。あと二週間で4月ですね。近所の学校は今日が卒業式でして、スーツやら袴を着込んだ学生達が街に溢れています。

今日からはしばらく「カプリッチョ」とドレスデンのことを書いていこうと思います。というのも、昨日のフレミングのアルバムの「カプリッチョ」に触発されて、NHK-BSで録画したフレミングの「カプリッチョ」映像をiPodに取り込んだから。今日一日で書き終わる予定でしたが、あまりにもむくむくといろんなものがわき上がってきて止めどがないのです。このオペラ、凄く思い出深いのですよ。

っていうか、来週は新国で「神々のたそがれ」なんで、そっちも考えないといけないんですけど。まあ、とりあえず続けましょう。

「カプリッチョ」を初めて聴いたのは、2006年だったと思います。それまで知らなかったのはお恥ずかしい限り。サヴァリッシュ盤をタワレコ新宿店で買いました。伯爵夫人マドレーヌはシュヴァルツコップ。若き日のフィッシャー=ディースカウやニコライ・ゲッダ、ハンス・ホッター、クリスタ・ルートヴィヒも参加しているEMIの歴史的名演です。ただし、モノラル録音ですけれど。

この曲、最初はよく分からなかった。今なら大泣きしてしまう「月光の音楽」だって、まだよく理解できず、ただただホルンの美しい旋律に心が反応しただけ。

それで、ネットで「シュトラウス&カプリッチョ」と検索してみると、旅行会社のウェブページにたどり着きました。なんでも、ドレスデンでの上演を見るツアーがあるとのこと。なんとまあ。それで、突然ドレスデンに行こうと思い立ちました。

奥さんはたまっていたマイルで行くことにしていたのですが、僕の仕事とあいているフライトの日程が合わなかった。それで、一日早く奥さんだけドレスデン入りしたんですね。

僕は翌日のルフトハンザでミュンヘン経由でドレスデンに向かいました。隣に座った方は僕より少し若い男性で、ドイツ語が堪能な方。コットブスに行くんだ、とおっしゃっていました。ミュンヘンまではエアバスA340にて。長さ的にはA340-300型と思われます。


ミュンヘンでの待ち時間は2時間ほど。で、空港のバーで(医者に禁止されてたけれど)ビール飲んで本を読んでいたんですが、なかなか時間にならない。

いつ見ても18時10分。ちなみにボーディングは18時55分。まだまだ時間あるや、と思っていたんですが、ふと気付いたら、時計が止まっていたんです。。。祖父の形見のロードマーヴェルだったんですが、ねじを巻き忘れていたんですね.

慌てて、Palmの時計を見ると18時55分。危なかった。それで、真っ暗なエプロンに降りて、ドレスデンと書かれたバスに乗せられオープンエプロンへ。4発のイギリス製コミュータージェットのBAe146アヴロRJに乗り込みました。

機体は、ミュンヘンからほとんど変針せずにドレスデンへ一直線へ飛んだのだと思います。おそらくはチェコ領空を通過したはず。シェンゲン条約というか、EU加盟国だからなのか。ジェットルートを調べてみると、やっぱりチェコ領内をかすっているみたい。

(なんで、こんな画像、僕が持ってるんですかねえ。秘密です)

まあ国内線とはいえ国境は関係ないんだなあ、と思った次第。

で、ドレスデンに到着。

なんだか、ドレスデン旅行記になってきました。それはそれでいいか。

それではまた明日。

カプリッチョについては、こちらも。
“https://museum.projectmnh.com/2009/10/19214851.php":https://museum.projectmnh.com/2009/10/19214851.php

Opera,Richard Strauss

わたしは、もうだめっすよ。
今週は「ばらの騎士」聴いて泣きっぱなし。何でこんなことになっちゃったんでしょう。西田敏行化計画は完全に成功しています。
奥さん曰く、「疲れてるんじゃない」。
まあ、この数ヶ月、仕事でいろいろあったし、決算&人事異動を控えて、これからが佳境なのでもいろいろありそうだし。
ともかく、昨日引用した自分のこの記事読みながら、フレミング&ボニー&グラハムの三重唱聴いていたら、あのときのことを思い出して、滂沱。
今朝も、今も。
いかんいかん。
というわけで、写真また載せちゃいます。これは、新国の2010/2011シーズンの案内パンフの表紙です。ここにもニールント様とツィトコーワ様の麗しきお姿が(宣伝しているわけではありませんけれど)。

さて、フレミングの「シュトラウス・ヒロイン」というアルバムには、「ばらの騎士」、「アラベラ」、「カプリッチョ」のそれぞれの主役ソプラノの聴かせどころが収録されています。
1. 「ばらの騎士」第一幕最終部分。
2. 「ばらの騎士」第三幕最終部分
3. 「アラベラ」最終部分
4. 「カプリッチョ」「月光の音楽」以降「ソネット」含め最終部まで
「ばらの騎士」では、フレミングは当然マルシャリンを歌いますが、オクタヴィアンはスーザン・グラハム、ゾフィーはなんとバーバラ・ボニー。指揮はエッシェンバッハで、オケはウィーンフィル、録音場所はウィーン楽友協会大ホールにて1998年収録。いやー、すばらしい。
エッシェンバッハのタクトはかなりたっぷりと歌わせる感じで、比較的遅いテンポ。しかし、こういう歌手名義のアルバムだと、テンポ取りなんかのイニシアティブは誰がとるんだろう? エッシェンバッハなのかフレミングなのか。
フレミングの声は、すごく柔らかく優しさに溢れていて、母性愛を感じます。フェリシティ・ロットがある種貴族的上品さを持っているのに比べて、もうすこし僕らの目線まで降りてきてくれている感じです(ロットがお高くとまっている、ということを言いたいわけでは絶対にないのです。ロットも大好きですよ。でないと映像観ても泣かないですよ)。
フレミングは、ワーグナー歌い的ではないですし、シュトラウスオペラにあっても、エレクトラやサロメは似合わないです。プッチーニオペラでも似合う役があるだろうか?? アマゾンをザッピングしてみても、やっぱり、ヴァーグナーは録音していないみたい。Wikiには、ムゼッタを歌ったことがあると書いてあるけれど、ムゼッタ的じゃないよなあ。もっと大人な女性の役が似合います。
それにしても、このアルバムは僕にとっては本当に理想的です。「ばらの騎士」と「カプリッチョ」を一挙に楽しめるのですから。
ばらの騎士のあらすじも書きたいなあ。。

Opera,Richard Strauss


ばらの騎士。最近、私がずっと泣いているオペラ。
これまで聞いた実演をまとめてみると…。ちょっとお恥ずかしいのですが。
1. 2003年7月20日:二期会 @東京文化会館
2. 2007年6月9日:新国立劇場@オペラパレス
3. 2007年7月2日:チューリヒ歌劇場@オーチャードホール
4. 2007年11月23日:ドレスデン国立歌劇場@NHKホール
5. 2009年1月25日:ペーター・シュナイダー&東京フィル@オーチャードホール(ばらの騎士組曲)
6. 2010年1月3日:ニューイヤーオペラコンサート@NHKホール(最終部三重唱のみ)
7. 2010年1月10日:尾高忠明&N響@NHKホール(ばらの騎士組曲)
「ばらの騎士組曲」や最終幕三重唱のみも含んでますが、どれも私にとっては重要なのであえて。
一番感激したのは、2007年6月9日の新国立劇場公演です。あれを超える体験をこれからできるかどうかわからない。ないかもしれない。ポイントは4点。
1. ペーター・シュナイダーの絶妙なタクト
2. カミッラ・ニールントの歌唱、演技、容姿
3. エレナ・ツィトコーワの深く濃い声と、ボーイッシュで精悍なオクタヴィアンの演技
4. ジョナサン・ミラーのフェルメールのようなオランダ絵画的淡い色調にまとめられた舞台と演出。
トップの写真は、マルシャリンのカミラ・ニールントと、オクタヴィアンのエレナ・ツィトコーワ。お二人ともすばらしかった。
当時の記事を読み直してみると、
https://museum.projectmnh.com/2007/06/09221553.php
相当感動してます。いま思い出しただけで涙が流れてきた。BGMはフレミングですけど。フレミングについてはまた明日。

Opera,Richard Strauss

このところ食事しながら音楽番組を見る感じになっています。昨夜見たのは、クライバーの振るあの「ばらの騎士」です。ウィーンで振ったほうですね。もうおなじみ。何度取り上げたことか。
* 指揮=カルロス・クライバー
* 管弦楽=ウィーン国立歌劇場管弦楽団
* マルシャリン=フェリシティ・ロット
* オクタヴィアン=アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
* ゾフィー=バーバラ・ボニー
* オックス=クルト・モル
ばらの騎士で私が好きな場面を上げてみると
# 第一幕:序奏部からオクタヴィアンが朗々と歌い上げる場面まで
# 第一幕:マルシャリンが嘆きを見せる最後の場面
# 第二幕:ばらの献呈
# 第二幕:献呈後からオックス登場までの、オクタヴィアンとゾフィーのダイアローグ
# 第二幕:オックスのワルツ
# 第三幕:最終幕の三重唱以降
いまのところはこんな感じでしょうか。もちろん、ここ以外もすばらしいんですがね。
ともかく、「ばらの騎士」は、僕にとっては、何度も観たり聴いたりした大切なオペラです。
今回演奏をつまみ食いして見聞きして発見したこと。なんども思っていることですけれど。
カルロス・クライバーの指揮姿って、すごく格好が良い。もちろんオケを牽引する力は並大抵のものではない。この、豪華絢爛であまりに難易度の高い楽曲を手中に収め、美的価値が極限まで高める力は真の芸術家だなあ、と。洒脱で名状しがたい酩酊感をともなう国宝級の演奏です。
それから、バーバラ・ボニーのすばらしさといったら! 私は何人かゾフィーを聴きましたが、この方ほどのゾフィーはそうそういらっしゃらないのではないでしょうか。そうですね、清らかな若々しい声は、高音域まで豊かな倍音を含んでいて、ばらの献呈の場面の最高音域にあっても音の勢いが減衰することなく高いレベルで持続しています。
それでは、感動的な場面をいくつか。
まずはばらの献呈の場面。シュトラウスの数ある美的極地のひとつに数えても良いでしょう。オッターもボニーもすごい集中力と緊張感で、本当にすばらしい。

続いて、最後の三重唱。ロット、オッター、ボニーの歌唱と演技には脱帽。ここで私は泣いたわけです。

それで、昼休みに「ばらの献呈」からオックス登場と、最終幕の三重唱以降までをiPodで観ていたんですよ。で、また、涙出てしまった。会社なのに、お恥ずかしい。職場みたいなある種戦場にあって、なんだか、現実と夢の境を超えて、その落差におののいたのかもしれない。
というわけで、また西田敏行状態。2009年末の紅白でも絢香の歌を聴いて泣いてましたよね。奥さんは、西田敏行が泣きキャラだということ知らなくて、感動していたらしいのですが、あとで西田の泣きキャラ具合を聴いてすこし興ざめだったみたいです。最近、男、特に中年男が泣くのがはやってます?? 徳光和夫も、「ボエーム」を観て泣いてたしなあ。

Opera,Richard Strauss

今朝も朝から大忙しです。なんだか最近4時ごろに目が覚めちゃう。寝るのは23時前なんですけれどね。もう少し眠らないと体に悪いとわかっているんですが、なんだか起きちゃう。悪夢を見るわけでもないのですが。いや、悪夢ではない現実的な夢だからこそ悪夢より悪夢的で、きっとそこから逃避しようとして起きているに違いない。最近、そう思うようになりました。

さて、年末に注文していたホルスト・シュタインが振るシュトラウスの「カプリッチョ」をiPodに入れましたので、大好きな最終場面をまずは聞いてみましょう。伯爵夫人マドレーヌはアンナ・トモワ=シントウ。カラヤンに多く起用された大歌手でして、私もカラヤン盤「ばらの騎士」や、カラヤン盤「4つの最後の歌」でお世話になりました。

この方の声の特徴としては丸みを帯びた豊かな声なのですが、少々ビブラートが強い感じです。昨年イレーネ・テオリンのビブラートに共鳴して以来、ビブラートへのアレルギーは徐々に薄れていきました。今回聞いたところでは、以前よりもあまり違和感を感じずにすみました。

むしろ、シントウの歌い方は、実に感情的です。ルネ・フレミングの伯爵夫人はすこし気取った、気高い感じでしたし、ヤノヴィッツの伯爵夫人は清らかな感じでしたが、ここでのトモワ=シントウの伯爵夫人は実に情感たっぷりに歌っている。まだ、詩をとるか(つまりオリヴィエ)、音楽をとるか(フラマン)、本当に決め迷っているというふうに聴いて取れます。

そして、最後のソネット。今日もまた泣いちゃおう。なんでこんな曲を書いたんだろう。昨日友人の日記にもコメントしましたが、もう、ほとんど西田敏行的な泣き上戸になってしまっている。っつうか、実演で涙が流せなかったら、元取れてない、と思っちゃうぐらい。

昔から、コンサートの最初で弦楽器がなるたびに背筋がゾクゾクしていたんですが、まだ泣くにはいたらなかった。最初に大泣きしたのは、新国立劇場の2003年の「ラ・ボエームで、有名な「私はミミ」の前にあるロドルフォのアリアのところ。あそこ、本当に泣きました。あれが、初めて。アルフレード・ポルティーヤのテノールでした。

今回のシントウの伯爵夫人もうっとり。伯爵夫人マドレーヌが、詩人オリヴィエからの求婚を受け入れるのか、作曲家フラマンからの求婚を受け入れるのか、本当に迷っていて、どうしようかどうしようか、という切迫感を感じさせます。かなり感情のこもった熱唱です。

シュタインの指揮もたっぷりとための入った豪華なもの。完全に掌握して放さず、それでいて失速しない、という、私がいつも書いている指揮者への賛辞が当てはまります。

来年のMETでは、「カプリッチョ」があるようです。伯爵夫人はフレミング。2011年4月ですが。これは絶対に落としてはなりません。

Opera,Richard Strauss

3月5日金曜日の夜のNHK「芸術劇場」、ごらんになりましたか? 新国立劇場の11月公演「ヴォツェック」が放映されていましたね。番組冒頭で、所々に舞台の様子や音楽が紹介されて、それだけでもう、ゾクゾク来てしまう。いやあ、あれはマジで凄いパフォーマンスでしたからね。一生忘れません。
でもですね、あのおどろおどろしい舞台衣装と、無調の奇々怪々な旋律は、土曜日の夕食のお供にはあわないから、やめてくれ、と奥さんに却下されてしまった。これは違う機会に見ましょう。
関連ページは以下の通り。ちょっと読んでみてください。
“https://museum.projectmnh.com/2010/01/24202937.php":https://museum.projectmnh.com/2010/01/24202937.php
さて、そう言うわけで、昨夜の夕食には、シュトラウスの「インテルメッツォ」を見ていました。先日も紹介しましたが、1983年のグラインドボーンのライヴ収録でして、フェリシティ・ロット主演です。というか、去年の10月にNHKホールで見たとおり上品な方のですが、意外にも少し戯けた、ユーモアのある表情や演技を見せてくれて、ロットの新しい一面をみた気分です。私にとってロットは、「ばらの騎士」のマルシャリンでなければならなかったのですから。
インテルメッツォの筋書きは非常に簡明なものです。作曲家であるロベルト・シュトルヒ(イニシャルはすなわち、R.Sであり、リヒャルト・シュトラウスを意味しています)と夫人の、とある勘違いによる諍いを取り上げたもの。まあある種痴話げんか的な様相も持つものなのですが、そういう日常的で卑近なストーリーにこれほどまでに華麗で重厚な音楽をつけるシュトラウスの才能はいろいろな意味で凄いです。これは「家庭交響曲」とか「英雄の生涯」にも言えることですけれどね。
旦那のシュトルヒは、仕事で家を外すのですが、当然夫人は家政を取り仕切ったりするのだが、まあ、退屈な生活に飽き飽きしている。自分がどんなに悲惨な境遇にあるか、と泣いているんですが、突然電話が。友人にそり滑りに誘われるんですね。すると、夫人はすぐに泣き止んでご機嫌になってそり滑りに出かける。そこで偶然であったのがルンマー男爵という若い男。夫人の知己の貴族の息子とあって、警戒心をすっかり外れてしまい、ルンマーとまあ舞踏会に出たりして遊び回るんですね。ところが、ルンマーは遊びたい盛りでお金に困っている。ですので、シュトルヒ夫人に1000マルクの支援をお願いする。結局金目当てなんだ、というところ。
ところが、そこに思いも掛けない手紙が舞い込んでくる。それはミッツェ・マイヤーという女性からロベルト・シュトルヒ宛のラヴレター。シュトルヒ夫人は怒り心頭に達し、離婚まで考える。ところが、真相は、シュトルヒの音楽家仲間が、シュトルヒの名前を勝手に使って女を口説いていたというわけ。シュトルヒが浮気をしていた訳じゃなかったわけですね。シュトルヒ夫人は公証人のところに行って、離婚の手続きまでしようとするんですが、この公証人は実は密かにシュトルヒ夫人のことを見張っていというわけ。
ロベルト・シュトルヒが帰宅して、夫人とまあ仲直り。それにもまして、ロベルトは夫人がルンマーとよろしくやっていて、なおも1000マルクの援助をさせられそうになったことをちゃんと知っていて、逆にとっちめてしまう。
まあ、最後は、お互いの愛情を確認し合ってめでたしめでたし。
実は私は2004年の夏に実演に触れているんですよ。指揮は故若杉弘さんで、夫人は釜洞さん。新国の中劇場でした。実に楽しい演奏会でした。シュトラウスの濃厚な音楽とユーモアある喜劇を見るという本当の贅沢でした。良い思い出です。実は釜洞さんと私は高校が同じです。彼女の方がずっと先輩ですけれど。あのときのパンフレットにはリブレットの邦訳が載せられていて、日本語盤が発売されていない現在の状況においては、大変貴重なものなのですが、今朝探しても見あたらない。ちゃんと探さないと。
初演は1924年にドレスデンにて。主役のシュトルヒ夫人はロッテ・レーマンが歌いました。どこで読んだのか思い出せないのですが、確かこんなエピソードが。初演が終わって、シュトラウスと、シュトラウスの奥さんのパウリーネ夫人、それからレーマンがエレベータだかで一緒になったときに、レーマンがパウリーネ夫人に「これはご主人からの素晴らしい贈り物ですね」とはなしかけたのですが、パウリーネ夫人は無言だったとか。恐ろしい。でも、シュトラウスはきっと内心笑っていたはずです(笑)。
先日も書きましたが、このDVDは歌詞が英語です。所々でドイツ語が混ざるんですが。さすがに聴いているだけでは意味が分からないので(お恥ずかしい)、英語の字幕出しながら見ています。それでも難しいです(お恥ずかしい)。でも、英語版も思ったより良い感じ。
でも、サヴァリッシュ盤のルチア・ポップの歌唱が時々頭をよぎりました。あそこでのポップの歌は、ほとんどアクロバット的ともいえる正確で、ピッチが良すぎて怖いぐらい。第一幕最終部の手紙を読んで怒るあたりは、相当な緊張感で、あそこだけでもこのCDを聴けば、買って良かったと思います。ポップの声は鋭角な感じですので、こういうキツイ感じの役柄によくあいますね。
そうそう、先日、METの「ボエーム」を録音して聴いていました。とある方のピッチが意外にも少々フラット気味で少々興ざめな感じでした。ちょっとびっくり。人気のある方なんですけれどね。

Opera,Richard Wagner

文庫クセジュに入っているこの本。ジャン=クロード・ベルトン氏によるリングの簡便な入門書です。購入したのはずいぶん前でしたが、実際にリングを見聞きしないと理解は進まなかったです。今回は良い時期に読んだと思います。
やはり、指環や黄金は資本主義を象徴しており、アルベリヒに支配されたニーベルング族が働かされている情景は労働者階級のそれを思わせるとの記載がありました(127ページ)。私の仮説の裏づけになりました。読んで気づかされたのが、黄金についての考察が私に足りなかったこと。指環と黄金を同一視しすぎていました。でもやはり黄金もしもべこそ資本主義ですし(金本位制だった昔を思い起こします)。また、この本でもユダヤ系財閥のロスチャイルドについての言及が見られました(112ページ)。
ライトモティーフ(示導動機)の位置づけについての記載もありますが、ちゃんとライトモティーフを整理しないといけません。勉強がてらMIDIに落としてまとめたい、という欲求はかなり前からあるのですが。まあ、これだけ聴いていればなんとなくはわかってくるのですが、ちゃんとまとめたいところです。
けれども、やはりジークフリートの死と、ブリュンヒルデの自己犠牲こそ、権力への激しい欲望に対する愛の勝利を象徴する、というくだり(72 ページ)は、どうにもまだ理解ができません。このカタストローフ的な破壊は、二つの大戦を予言していたとも取れますが、その結果が「愛の勝利」だとしたら、そんなものはまだどこにもありません。完全な破壊はまだ起きていないということでしょう。また、それを期待するのはあまりに無節操で馬鹿正直です。
この最後の問題は、わからないまま。今月の「神々のたそがれ」を聴くことになりそうですが、なにがわかってくるのか楽しみです。
それから、それに関連して、少し感動した一節を。二重引用は学術論文ではタブーですが、ブログではいいですかね。
生命、幸福、栄光と人間の努力は、地上を影のようによぎり、そして消え去っていく。美の刻印のみが、素材の上に永久に彫り刻まれて残るのである。(ニコス・カザンツァキス(1885~1957)) (158ページ)
この「生命、幸福、栄光、努力」は、逆の意味も含んでいるはず。「死、滅亡、不幸、凋落、恥辱、倦怠」は、影のようによぎるだけ。後に残るのは、なんらか美的なものである、という直感。危険を承知で、あえて引き付けると、辻邦生の「美が世界を包む」、「美が世界を形成する」という考えと通じ合っている。
そうなんですよ。メディチ家の男たちより、ボッティチェルリやミケランジェロの作品こそが現代も大きな力を保っているのですから。
しかし、とはいえ、食べて眠り起き上がらなければならないということも事実。難しいものです。だが、ジークフリートとブリュンヒルデの死がもたらしたものが、美だとしたら……。
もうすこし考え続けましょう。

Opera,Philosophy,Richard Wagner

あっという間に春ですね。今日は暖かい一日でした。
今日もリング漬けです。ブーレーズがバイロイトで振った「ジークフリート」の第三幕を聴いております。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

結構重い部分もある演奏というのが第一印象でした。ブリュンヒルデのギネス・ジョーンズさん、強力なんですが、覚醒の場面でピッチにずれがあって、ちょっと残念。これ、映像も持っているんですが、全然見ていない。まずは音源からですね。ミーメのツェドニク氏、ここでも良い味出してます。

ニーチェ入門 (ちくま新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
売り上げランキング: 5331

昨日から、思い立って「ニーチェ入門」を再び手に取りました。もう邦訳であったとしても原典にあたる体力が今今はありませんので、竹田青嗣のわかりやすい新書版で復習しています。この本の欠点はわかりやすすぎるところでしょうか。わかった気になっていると足下をすくわれますので、注意しなければなりません。あと、図に書くのはNGだ、と先輩に言われたこともありました。
いずれにせよ、一時期はワーグナーに傾倒していたニーチェですので、リングとの関連性はやはり否定できません。一昨日に書いた「ジークフリート」の最終部分で「ほほえむ死」というところ、永遠回帰を雄々しく肯定するあたりとつながるように思えてならないです。
あと、ニーチェの「神」と、私が言っていた貴族階級的神のつながりは、この本を読む限りでは見いだせない感じ。もう少し考えないと。来月の「神々の黄昏」で答えが見つからないかなあ。

さて、今日は良いことが二つありました。
# この前受けたTOEICの点数、あがっていました。良かった。これで会社に報告できます。ベトナム現地法人に異動にならないかしら。でもまだまだですな。先は長い。コツコツやろう。
# 先ほどつぶやきましたが、最近、人生最大重量更新中だったのですが、脂肪だけじゃなくて筋肉が増えているらしいことが判明しました。確かに最近ふくらはぎが、部活動していた頃のように硬く太くなってきました。ズボンがきつくなり始めましたが、太っているだけじゃなかったんですね。
アフォリズムをひとつ。 つり革広告「若い人とつきあわないと歳食うぞ」。けだし名言。

Opera,Richard Wagner

うーむ、難しい話しになってきました。
いったいジークフリートとブリュンヒルデを結びつけたものは何か? 
指環?  ファフナーの返り血? つまり、ミーメの心の中を読めたようにブリュンヒルデの胸中を推し量ることが出来たから、口説き落とせたのか? あるいは、運命、だなんていう月並みな言葉でしか説明できないのか。
昨日まで、私は、世界を支配する指環か、ファフナーの返り血がジークフリートを一瞬にして成長させたとのでは、と思っていましたが、どうにも袋小路に入り込みました。私はブランゲーネの媚薬のような何かが、ブリュンヒルデとジークフリートを結びつけたのではないか、と推測していたのですが、方向を間違えている気がしてきました。
ちょっと状況を整理しますと……。
ブリュンヒルデの覚醒からしばらくの間、ジークフリートをどんなに心配し、愛していたか、と歌い上げます。これは、ヴォータンに背き、ジークムントを助け、ジークリンデを庇っていたことを示しているのですが、ここではかなり踏み込んで「愛していたのだ」と歌う。まあ、長い眠りから覚めて忘我の状況にあるので、いささか感情的なのでしょうか。
ところが、ジークフリートが求愛が続くと、いささか調子が変わってきます。かつて神聖なる戦いの女神であったブリュンヒルデが、ヴォータンの孫とはいえ、人間の男の妻となり従うということの屈辱を切々歌い始めます。
それでもなお、ジークフリートは迫り続ける。もちろん詩的な言葉で(どこで覚えたんだろう? でもすばらしい)。
すると突然、まるで点から光が差し込んだように「ジークフリート牧歌」のフレーズが差し込んでくるのです。最初のブリュンヒルデのフレーズは短調ですが、まだ心が揺れていることがわかる。ですが、その後徐々に高揚へと向かい、クライマックスへと導かれる。
ジークフリートが、どうしてブリュンヒルデの心を動かしたのか。あるいは、ブリュンヒルデはなぜ心を動かしたのか。リブレットを読んでいるのですが、なかなか分かりません。
クライマックスで歌われるのは永遠の愛などではありません。ブリュンヒルデは、ヴァルハラと神々の破滅を歌い、一方でジークフリートこそが永遠であると歌います。ジークフリートはブリュンヒルデこそ、永遠で恒久で宝なのであると歌います
最後に二人が歌う言葉は「ほほえむ死」。Lachender Tod ! ここ、実にニーチェ的。永劫回帰の中で、一度でも幸福を感じ、肯定せよ、という強い意志。これは、新国立劇場のパンフレットで茂木健一郎氏と山崎太郎氏の対談の中でも述べられていました。
すこし指摘しておきたいのは、神として永遠の存在だったブリュンヒルデが、神性を奪われ人間という有限の存在へと落ちたと言う事実。これは、まるでイエス・キリストの受肉にも見えてきます(アタナシウス派=ローマカトリックにおいてはイエスは神性を失いませんでしたけれど)。
「神は死んだ」と言ったニーチェ。
次は、どうやらニーチェの世界に踏み込まなければならなくなりそうな予感。けれども、ここでいう「神」とは、ニーチェの言う「神」とは少し位相がずれているとも考えています。昨日書いた通り、神が貴族階級だとしたら。
まだ、ブリュンヒルデをジークフリートが口説き落とせた理由は分かりません。底なし沼にはまり込んだ気分で、まだ諦めずに考えます。
会社では、難しいプログラムを読む後輩を「こんなもの、人間の考えたものだ。考えればかならずわかるんだ!」といって励ましていますが、さすがにワーグナーの考えたもの、あるいはそれ以降蓄積された解釈群ともなると、人間が考えたというような生半可なものではないようです。
明日も頑張ります。

Opera,Richard Wagner

むむむ、もう私のなかはリングだらけで、毎日のように「ジークフリート」と「神々の黄昏」を聴いています。今はブーレーズの1980年のバイロイトでブーレーズが振った音源です。これ、かなり強力な演奏です。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ピエール・ブーレーズ
  • 管弦楽==バイロイト祝祭管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ドナルド・マッキンタイア
  • ミーメ==テノール==ハインツ・ツェドニク
  • ジークフリート==テノール==マンフレート・ユング
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==ギネス(グィネス)・ジョーンズ

この音源については一寸置いておいて、ジークフリートとブリュンヒルデの関係について考えてみたいと思うのです。
私は、これまで、どうにもジークフリートのことが理解できませんでした。
育て親のミーメが、黒い裏心を持っているとはいえ、多少は感謝の心を持ってもいいのではないか。確かに恐れを知らぬ英雄だけれど、恐れを知らぬとは、結局無知であることを知らないに過ぎない。
ソクラテスは「無知の知」が重要であるといいますが、ジークフリートは明らかに無知によりすぎている。世間知らずの怖いもの知らず。これはもう、堅気ではない。不良中学生と変わらないではないか、と。
その一方で、いざブリュンヒルデに出会った途端に、彼が女性であることを見抜く。ジークフリートは女性と話したことがあるのでしょうか? 森の小鳥ぐらいではないか。まあ、動物のつがいを見たことはあるようで、人間にも男性と女性がいることぐらいは知っていたかもしれませんが、ミーメはジークフリートに「俺はお前の父でもあり母でもある」なんていうでまかせを言わせてしまうぐらい、ジークフリートは外面上、男性と女性の区別について理解を進めていなかったと思われるのです。
それが、最終幕のブリュンヒルデとの邂逅と目覚め以降、饒舌な求愛の言葉を口にし始める。どうして、ジークフリートほどの奥手な男が、元は神の一員でもあったブリュンヒルデを口説けてしまうのだろう、という疑問。これには、どうにもアプリオリな(先天的な)記憶の遺伝がなければ説明がつきません。
この問題を解くのは難しそう。でも、凄く考えがいがありそうで、今日も仕事しながらブツブツと考えていました。。
私は昨年の夏にバイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」をウェブ映像で見ています。ブリュンヒルデの目覚めのシーンを見た途端、あ、これは「トリスタンとイゾルデ」第一幕なんだ、と直感したのです。作曲順で言うと、「ジークフリート」の第二幕の作曲を終えたワーグナーは、いったん「ジークフリート」を離れて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「トリスタンとイゾルデ」を完成させ、その後「ジークフリート」の第三幕に戻ってきます。
ご存知のとおり「トリスタンとイゾルデ」第一幕の最終部においては、侍女のブランゲーネが、トリスタンとイゾルデが要求した毒杯の代わりに、媚薬を飲ませることで、トリスタンとイゾルデは禁じられた愛情関係に陥ってしまう、というもの。
では、ジークフリートとブリュンヒルデの間には、なにがあったのでしょうか?
今日、机を立って、ブラブラとトイレへと向かうときに、閃きました。
ああ、ジークフリートは大事なものを持っているではないか、と。
続きは明日。もう少し考えをまとめる必要がありますので。
* ワーグナー作品というよりワーグナー文学、ワーグナー思想の守備範囲の広さと解釈多様性。考えれば考えるほど楽しいですが、もっと勉強しないといかんですね。
*っつうか、最近思いつきで仕事している気がする。歳食ったんだなあ。。。気をつけないと。