Alban Berg,WebRadio

日本時間で 本日未明に、アン・デア・ウィーン劇場でのシュトラウス「インテルメッツォ」の放送がORFであったのですが、録音失敗しましたorz。Net Transportの予約録画がうまくいきませんでした。そもそもNet Transportの操作性の癖が設定ミスを誘うような気がし手いましたので、他に良いものはないか、とググってみると、以下のフリーウェアにたどり着きました。

http://tetora.orz.ne.jp/forum/gasdown/download.cgi

GetASFStreamというソフトです。少しさわってみた感じでは、結構良さそうです。これで今晩NRKで放送されるアバド=ポリーニ=BPOのベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番の録音を試みてみます。うまくいくと良いのですが。

今日は少々早起きして、いろいろとやりたかったことを済ませることが出来ました。最近は朝早く起きられるような状態ではなかったので本当に久しぶりでした。食事を済ませてから仕事。すすみが悪いですが……。お昼には年賀状を書きはじめ、1時間ほどで完了。宛名書きもデザインもPC任せです。まったく良い時代になったものです。

少々午睡をとってまた仕事に取りかかったのですが、どうにもこうにも頭が働きません。やはり良質な睡眠が必要です。今日は少々不完全燃焼感があります。

今日はベルクの「ヴォツェック」を聴いた一日。アバド盤でして、マリーはベーレンスさんです。そのほかにもバレンボイム盤やメッツマハー盤がiPodに入っていますが、しっくり来るのがアバド盤。洗練されて、純化された世界で繰り広げられるヴォツェックの悲劇。どうして、ベルクがこの悲劇的な題材を選んだのか、この曲を現代において聞く意味は何か、など考えています。

劇作家のビュヒナーの時代や、ベルクの時代にあっては、貧窮にある人間が力を持ち始める訳で、文化的エリートがようやく目を向け始めた時代だったのだと思います。そういう意味においてある種の啓蒙的な役割を持っていた者と考えられます。

現代においても、未だに貧窮の問題は解決していない。解決どころか悪化しているとも言えます。貧困がもたらす不条理を照明するという意味において現代においてもその価値を失ってはいないのです。

しかしながら、それではこの作品が音楽芸術である理由はありません。啓蒙ならば新聞やテレビ、映画の方が力強い。そうしたチャネルを選択するのではなく、音楽、オペラを選択して、そこに芸術的美的価値をまとわせることにどういう意味があるのか。そこが分からないところで、何とか答えを見つけようともだえている感じです。

このオペラも何年も聞き続けていますが、分からないことだらけ。アドルノがヴォツェックについて書いた論文があるのですが、晦渋なので手こずります。さすがアドルノ、です。アドルノぐらい頭の良い人間が考え抜いて書いたことですので、すぐに理解することなど出来るわけがないのですが。

そもそも最近は小説世界に浸っていますので、いまはちょっと思想系の本には入っていけない感じです。といいながらも、読まなければならない本は多いですので、いつかは立ち向かうことになるのですが。

 

Giacomo Puccini,Opera

23日のBSハイビジョンでのプッチーニ特集。ショッキングなことに、いちばん楽しみにしていたドキュメンタリー「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」の録画に失敗しました……。ショック……。まあ、過ぎたことは仕方がありません。また再放送やると思いますし、NHKに要望を出してみようかな。

午前中のトゥーランドットは、トーゥランドットのイレーネ・テオリンさんの歌唱に改めて脱帽しました。あそこまで強力なソプラノはすばらしいと思います。高音域の力強さ。叫びになることなくきちんと「音」として存立している感じ。すばらしかったです。実演に接したときよりもすばらしいと思いました。これは不思議なことです。

20時から始まった第三部ですが、まずはグラインドボーン音楽祭での「ジャンニ・スキッキ」を。これは小一時間で終わりますし、特に用事もありませんでしたので直接見ました。「ジャンニ・スキッキ」は、映像を見るのが初めてでしたが、これは実に愉快で洒脱に富んだすばらしい作品です。これは画像付きでみないと楽しさがわからないかも。ラウレッタのサリー・マシューズさんが歌う有名なアリア「私のお父さん」は絶品でしたが、それ以外にもリヌッチョを歌ったテノールのマッシモ・ジョルダーノさんの巧さにも脱帽。ジャンニ・スキッキを演じたアレッサンドロ・コルベルリさんも性格俳優的な演技もあいまって実にすばらしかったと思います。

そのあと、映画版ボエームの第一幕だけ見ました。ネトレプコのミミがどんなものなのか期待していました。実際には、ミミの妖しげな部分を巧く出した演出もあいまって、実に刺激的でした。ミミはお針子という設定ですが、なかにし礼さんが指摘していたのは、お針子というのは夜は別の顔を持つことが多いということ。ミミという名前も実際は源氏名であるぐらいな勢いで(源氏名とまではおっしゃいませんでしたが)話しておられました。映画の演出もやはりわざと蝋燭の火を消して「火をください」と行ってみたり、わざと部屋の鍵を落としてみたり、と怪しげ満点なミミでした。それはそれでいい解釈だと思います。パリの裏町はおとぎの国ではありませんので。残りはこれから見ようと思います。

Giacomo Puccini,Opera

 昨日12月22日は、プッチーニの誕生日。今から150年前の1858年にプッチーニは生まれました。いまや遅し、ですが、本日(12月23日)、NHKBSハイビジョンでプッチーニ特集が放送されます。今放映しているのは、新国立劇場で10月に公演された「トゥーランドット」です。このあと、13時台に「ドキュメンタリー 「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」   ~ プッチーニの光と影 ~」が放映されます。これはおそらく小間使いドリア事件の真相究明のドキュメンタリーではないか、と勝手に思っています。楽しみ。20時からはグラインドボーン音楽祭での「ジャンニ・スキッキ」が放映され、その後、オペラ映画「ボエーム」が放映されます。「ボエーム」は、ミミ役をネトレプコが歌います。これは見物だと思います。

残念ながらNHKBSハイビジョンはデジタル放送ですので、コピー制限があります。我が家の録音機器は少々古いのでコピーワンス(一回どこかにムーブできるだけ)ですので、保存にはほとんど限界があります。テレビをデジタルビデオカメラで撮ってやろう、とも思っています。最近はダビング10ですが。デジタル放送化されると、ほとんどビデオの保存は難しくなりますね。まあ、これまで撮りためたビデオを見ればいいのですけれど。まだ全然見られていませんので。

Anton Bruckner,Symphony

 でも書いちゃいます。だって、そうでないと、いつまで経っても書けないままでしょうから。

ブルックナー好きの方は誰しも一家言お持ちだと思います。それが自分にあるのか、と問われると答えに窮してしまう。10年ほど前に狂ったようにブルックナーを聴いていた頃ならまだ語れたかもしれません。それでも不完全燃焼感がありました。 今の状態はといえば、オペラのほうに時間を割いてしまっていて、ブルックナーを語るほど聞き込めていない。しかし、いつ聞き込むのか? いつ語れるのか? とはいえ、語れないからといって沈黙を続けるのは逃避だといえましょう。ここは果敢に書いてみましょう。

書こうと思ったのは、昨日のお昼休みに、急に交響曲第9番の旋律が頭に浮かんできて離れてくれないからです。

とりあえずは、昨日はiPodでチェリビダッケ=ミュンヘンフィル盤を聴いて家に帰りました。家では、ブロムシュテット=ゲヴァントハウス管盤を聴きました。今日の昼休み、バーンスタイン=ウィーンフィル盤を聴いて、ジュリーニ=ウィーンフィル盤を帰宅時に聴いた次第。

チェリビダッケ盤がテンポを抑えることは有名です。発売当時のレコ芸で、レビューした音楽評論家の方でさえ「この暑さの中、チェリビダッケの演奏を聴くのは辛い」とこぼしておられたほどですから。ですが、失速寸前までテンポを落として歌い上げるところは見事としかいえないです。それでもやはり指揮に楽器がついてこれないところもあったりするのですが、ご愛嬌でしょうか。

家で聴いたブロムシュテットは、少々ながらで聴いていましたが、ダイナミックレンジの大きさに感嘆しました。第二楽章のマッチョな感覚もすごい。

昼休みに聞いたのはバーンスタイン盤の第三楽章。ゆったりしていますが、チェリビダッケ盤ほどではない。甘くて耽美的。ですが、思ったより個性が感じられないです。これはちょっと意外。

今日の帰宅時に聴いたのがジュリーニ=ウィーンフィル盤。これは絶品です。第三楽章を中心に聴いているのですが、テンポもチェリビダッケほどは遅くないですが、それでも歌うに十二分なため方です。華麗に歌い上げるところも実に感動的。冒頭の弦楽器のポルタメントも実に艶やかです。バランスでいうとジュリーニ盤が一歩リードでしょうか。

いずれにしても、音楽についてなにを語り得るのか。考えることしきり。まあ、悩んでいたら語り続けよ、というところだと思うのですが。がんばりましょう。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

 いって参りました、新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」。忘れないうちに印象をエントリーします。久しぶりに箇条書きにて。

  • ドン・ジョヴァンニ役のルチオ・ガッロ氏は精悍な印象。「シャンパンの歌」も颯爽と歌いのける技巧。演技もクールで格好良くて、すばらしかったです。
  • レポレロ役のアンドレア・コンチェッテイ氏は、レポレロの喜劇的な役柄を難なくこなしていらっしゃる。歌も良いですが、演技的にもすばらしくて、客席の笑いを誘っていました。
  • 一番楽しみだったドンナ・エルヴィーラのアリアを聴かせてくださったのが、アガ・ミコライさん。アグネス・バルツァさんのような透徹とした感じというわけではありませんでしたが、中音域の倍音に下支えされた高音は美しかったです。
  • ツェルリーナの高橋薫子さんが大健闘だったと思うのは私だけでしょうか。ツェルリーナの田舎娘的純朴さをうまく出しておられて、ピッチも安定していましたし、声も美しかった。私的には大変すばらしいと思いました。
  • コンスタンティン・トリンクス氏の指揮ですが、先日のオペラ・トークで話されていたように、定跡を大きく逸脱しない演奏でしたが、かなりテンポを落として歌わせるようなところもあっておもしろかったです。

というわけで、とても楽しめた三時間半でした。

それにしても、ドン・ジョヴァンニはかなりキワドイ話です。その中でも一番キワドイのが意外にもツェルリーナでして、ドン・ジョヴァンニに籠絡される場面はいいとして、マゼットに「私をぶって」と頼んだり(かなりMなんじゃないか、と……)、「薬局では調合できない薬を持っているのよ」なんて意味ありげなことを言ってみたり……。マゼットは完全にツェルリーナに振り回されている。一番恐ろしい女は、ドンナ・アンナでも、ドンナ・エルヴィーラでもなく、ツェルリーナです。間違いない。

それにしても、ドンナ・アンナも身勝手な感じ。オッターヴィオとの結婚を一年延ばすだなんて、意味不明。父親が亡くなって、ドン・ジョヴァンニに振り回されて、それを理由に結婚は一年待ってほしいとは。オッターヴィオは、自分がドンナ・アンナの父親役になるんだ! と意思表示しているのに。

いろいろ考えるとおもしろいです。

 

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

なんだかきちんと音楽を聴けていない感覚がまた始まってしまいました。バッハの無伴奏チェロ組曲に没頭しようとしたり、ドン・ジョヴァンニの予習をしたり、と散漫です。こういうときは疲れているに違いないので、休みたいところですが、そうもいきません。仕事がたまって仕方がありません。困りました。

さて、今日も飽くことのないドン・ジョヴァンニの演奏。第二幕の最終部を聴いております。この部分はニ短調ということで、序曲の冒頭部分と同じ調性であるばかりではなく、レクイエムとも同じ調性。個人的にはモーツァルトの短調の空気が大好きなので、聴くことができてうれしいですね。

先日のオペラトークでは、ドン・ジョヴァンニの最終幕のことを黒田恭一さんがいろいろ論じていらっしゃいました。なぜ、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのあとに、予定調和的な場面が入っているのか、という観点でした。 黒田さんのお話によれば、初演当時のオペラは大衆娯楽という意味合いがありましたので、現代のテレビドラマのように最後に締めがないと良くなかったわけです。

黒田さんは刑事ドラマでたとえていらっしゃいましたが、陰惨な事件のままでドラマは終えてはならないわけで、めでたし、めでたし、で締めることが必要、というわけです。ところが、後世になって、オペラが芸術化してくると陰惨な事件のままオペラは終わってしまいます。「エレクトラ」とか「サロメ」などがそれにあたるわけです。

似たような観点でつけ加えますと、先日島田雅彦さんが、オペラについて語っている番組を見ました。その中で島田さんがおっしゃっていたのは、オペラが陰惨な事件を扱うようになったのは、作曲家が現実逃避的な聴衆を現実に目覚めさせるため、ということでした。ハッピーエンドのオペラを見せておけば、聴衆は現実を忘れて陶酔することができます。ところが、現実にあるような陰惨な事件を見せられると、聴取はおのずと現実を意識しなければならないわけです。先日観にいった「リゴレット」がそうでした。このヴェルディオペラの現実性こそが、イタリア国民をハプスブルク帝国からの独立とイタリア統一へと導いた原動力になった、というわけです。

島田雅彦さんがNHでオペラについて語っていた「知るを楽しむ」のテキストはこちらです。

この人この世界 2008年6-7月 (2008) (NHK知るを楽しむ/月)
島田 雅彦
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黒田恭一さんのアプローチは、オペラが芸術化したという観点、島田雅彦さんのアプローチは、オペラがアジテーション的な力を持ったという観点。違いはあるものの両方とも首肯できます。

少なくとも思うのは、オペラが持っている、現実をより現実化したところに見られる陰惨さや残酷さ、あるいは虚無感や諦念といった、われわれにとってはネガティブともいえる感情を引き起こす要素があるからこそ、オペラがアクチュアルな価値を持つことができるわけです。

芸術はなんらかアクチュアル性を持つもので、それは現実に即しているという意味ではなく、現実に働きかけてくるという点においてです。 「ばらの騎士」で見た元帥夫人の時間に諦念や、「カプリッチョ」で観た伯爵夫人の葛藤、「リゴレット」で観た陰惨な不条理、「ヴォツェック」で観た不幸なる者の不条理などなどいくらでも数え上げることができます。どれもが、われわれの現実とつながっていて、答えのない問題をいくつも突きつけてきて、それらを考えずにはいられない状況へと誘います。そこには答えはありませんので、ある種の徒労感を伴いますが、未知のものへの好奇心が勝れば、ある種の快さをも伴うことにもなります。

そうした陰惨さを展開するのに、オペラである必然性はないのではないか、というむきもあるでしょう。確かにそうなのです。映画でも小説でも演劇でも良いわけですね。オペラがオペラである理由は音楽が伴う一回性の芸術であるということ。映画や小説のような複製芸術でもなければ、演劇にはない歌唱や音楽が付随しているという豪華さ。それをもって総合芸術などと呼ぶむきもありますが、もっとも、どれが優れているという論点はなくて、ただあるのは差異と好みの問題だと思います。

何はともあれ、オペラは楽しいです。あとは時間と経済力があれば、もっといいのですが、そのためにも「仕事」をがんばることにいたしましょう。「仕事」しないとオペラにはいけません。

Opera,Wolfgang Amadeus Mozart

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DCF_0013 posted by (C)shush

新国立劇場12月のオペラ公演である「ドン・ジョヴァンニ」のオペラトークに行って参りました。刺激的な90分で実にinterestingな内容でした。

  • 司会==黒田恭一氏
  • 指揮==コンスタンティン・トリンクス氏
  • 演出==グリシャ・アガサロフ氏

本来なら、芸術監督の若杉弘さんが登壇されるはずでしたが、前回に引き続きご病気とのことで、かわって音楽評論家の黒田恭一さんが司会として登場されました。

まずはトリンクス氏のお話から。 トリンクス氏はカールスルーエ生まれの若き俊英。大野和士さんの薫陶を受け、来季からはヘッセン州立歌劇場の音楽監督に就任予定。今回が初来日とのこと。ドン・ジョヴァンニの指揮は三度目ということで、キャリアとして若いにもかかわらず三度も振っているのは珍しいのでは、とおっしゃっていました。 今回のドン・ジョヴァンニの公演においては、初演版であるプラハ版と、その後モーツァルトによって改訂されたウィーン版のうち、ウィーン版を中心にしますが、プラハ版のみに存在するアリアなどは復活させるなどして、ウィーン版とプラハ版をあわせた版とでもいうべきバージョンで演奏するとのこと。

また、ピリオド奏法の要素を取り入れて、たとえば、弦楽器や木管楽器のビブラートを小さくすることでモダン楽器でありながらピリオド奏法の良さを引き出すといったことを試みるそうです。トリンクス氏は、古楽演奏にも造詣が深いとのことで、こうした観点が出てきたのだと思います。もっとも、現代のオペラ劇場という、初演当時とは異なった環境で演奏されるものですので、すべてを古楽風にするのはナンセンスであると行った趣旨のことを述べておられました。

ここで、トリンクス氏はこれからオケとのリハーサルがあるということで、退場され、続いて、演出のアガサロフ氏のお話し。アガサロフ氏もドイツはジーゲンのお生まれ。キャリアのあるベテランの演出家でして、チューリッヒ歌劇場芸術監督を務めておられます。新国立劇場では、「カバレリア・ルスティカーナ/道化師」、「イドメネオ」に続いて三度目の登場。

今度の演出は、良い意味で「保守的」なものなのだそうです。今の欧州における演出のはやりは、オペラの舞台を現代に置くというもの。ですが、今回の演出では時代設定は初演当時に合わせることにしたそうです。というのも、批評家は保守的な舞台を批判することがしばしばなのですが、聴衆は「保守的」な舞台を望んでいる部分が多いのではないか、というのがアガサロフ氏の見解でした。アガサロフ氏もトリンクス氏も同様に自分たちはよい意味で「保守的なのである」とおっしゃっていました。

一方で舞台設定ですが、登場人物の名前がスペイン風であることを除けば、設定上の舞台であるセヴィリアにこだわらなくて良いのではないか、というのもアガサロフ氏の意図でして、原作者のダ・ポンテがカサノヴァと知己であったという事実から、ドン・ジョバンニをカサノヴァに重ね合わせルということで、舞台をカサノヴァが「活躍」したヴェネツィアに置くということにしたそうです。また、演じられる場面はすべて夜であると言うことに着目して、ヴェネツィアの夜の幽玄さをだすような舞台にしたい、とおっしゃっていました。

ドン・ジョヴァンニは、奇をてらった演出ではなく、落ち着いた演出になりそうですね。

その後は、ピアノ伴奏で以下の三曲が演奏されました。

  1. 第一幕第七曲「お手をどうぞ」(ドン・ジョバンニ/ツェルリーナ)
  2. 第一幕第十一曲「シャンパンの歌」(ドン・ジョバンニ)
  3. 第一幕導入曲より(ドン・ジョヴァンニ/騎士長/レポレッロ)

ドン・ジョヴァンニを歌われた星野淳さんがすばらしかったですよ。歌ももちろん、挙措もドン・ジョヴァンニ的で、オペラを歌われる歌手の方々のすさまじい技量に感嘆でした。尊敬してやむことがありません。

ちなみに、会場は新国立劇場の中劇場だったのですが、オケピットを床下に収納して、オケピットの上でトークをしたり歌ったりしていました。客席と非常に近いところでお話を聞けたり、歌を聴けたりしましたので、臨場感があってよかったです。

というわけで本公演がとても楽しみ。予習もしないといけませんね。

 

Alban Berg,Opera

昨夜の夕食時、家人と一緒にベルクの「ルル」のDVDを見ました。とはいっても最初の30分ほどでしたが。映像は、クリスティーネ・シェーファーが脚光を浴びたグラインドボーンでの「ルル」公演。アンドリュー・デイヴィス指揮のロンドンフィルハーモニック管弦楽団。 この映像、おそらく初めて全曲通して観たオペラ映像です。これまでも何度か取り上げたと思います。

最初のあたり、第一場、画家とルル(シェーファー)の演技のきわどさに、二人で「怖いねー」などといいながら見ていたのですが、第二場で、シェーン博士とルルの過去が言及され、にわかに緊迫し始めて、食い入るように見てしまいました。今日は30分ほど見ておなかいっぱい。

しかし、奥深いドラマです。シェーン博士や画家、医事顧問官を死に至らしめる魔性の女としてのルル像という見方もありましょうし、逆に「踊り子」として、おそらくはつらい生活を送っていたに違いないルルが、シェーン博士にすくいあげられたという、救済物語としてみるとすると、ルルはシェーン博士のエゴの被害者なわけですね。最近ではどうも後者の読み方のほうがしっくり来るような気がしています。シェーファーの妖艶なルルをみると、どうしてもルルの「強さ」に見方が傾いてしまいますが、違う読み方もできると言うことのようです。

それにしても画家が死んだ医事顧問官にかける言葉が怖いです。

「私はあなたとかわりたいよ。彼女をあなたにかえすよ。その上に私の青春をあなたにあげよう」

ルルの魔力にすでに絡め取られていながらも、足をばたつかせて逃れようとする若き画家の恐れ。恐ろしい。恐ろしい。

また続きを見ることにいたしましょう。

Wolfgang Amadeus Mozart

トスカニーニの振るモーツァルトの39番、40盤、41番のCDを図書館から借りてきました。トスカニーニの演奏にはこれまではそうそう親しんでいたわけではありません。ファルスタッフやボエームの録音は聞いたことがありましたが、ドラマティックで激しく情感的な演奏だな、という感想でした。それから映像で見た「運命」の指揮もすごかった。第4楽章の入りの場面だったのですが、気合の入り方が尋常ではなかったです。それで、いつかはトスカニーニを体系的に聞いてみたいものだ、と常々思っていたのです。

幸い、図書館にトスカニーニのCDが何枚かありましたので、借りてきて聴いてみることに。 トスカニーニのモーツァルトの交響曲は、実に個性的ですね。これまでこんな演奏は聴いたことがないです。細部にわたって実は緻密に音量やテンポのコントロールをやっている。テンポのコントロールはややもすれば過剰と思われるギリギリのところまでコントロールしている。音量のコントロールも同じ。最近の指揮者もテンポを動かすのですが、動かし方が違うのです。先日の新国立劇場の「トゥーランドット」を指揮したアッレマンディ氏の場合もやはりテンポを大胆に動かしていましたが、トスカニーニのように細かいレヴェルまで動かしていたかというとそうではなかったと思います。トスカニーニの場合、音楽の流量や水圧を損なうことなくテンポやボリュームを変えているという印象です。聴き方によってはテンポの変更は計算されたものというよりかなり直情的なものにも思えます。

アーティキュレーションも独特に思えます。40番の第三楽章の旋律を聴いたときには、おやっ、と思いました。

 三曲の交響曲を聞いた中で一番印象的なのが39番の3楽章でした。三拍子の舞曲的楽章なのですが、縦割りにきっちりそろったリズムで激しく演奏されています。クライバーの運命を聴いたときに、第三楽章でコントラバスの一糸乱れぬ合奏を聴いてたまげたことがありましたが、あの時と同じぐらいの驚愕。こういう音楽もあるんだ、と思うぐらいです。

あとは、非常に劇的な40番の第一楽章が印象的です。トスカニーニはオペラを振るような感覚で交響曲を振っているのではないか、などという感想を持ちました。ドラマティックで激しくて、オペラ的な愛憎劇が重ねられているといっても過言ではありません。特にソナタの展開部以降はすさまじいです。

私は、クラシックを聴いている絶対量があまりに少ないので、トスカニーニのような偉大なペルソナについてとやかく感想を各資格はないのかもしれませんが、浅学菲才の身ながらもなんとか書きたいと思うことを書いているわけです。はやく音楽をきちんと聴けるようになれるといいのですが。