Opera,Richard Wagner

ショルティの「指環」全曲聴破しました。1週間ぐらいかけて通しましたので、なかなか達成感があります。とはいえ、ブックレットを見ながら集中して聞けるわけっでもなく、家で仕事をしながら、通勤時間に、などという感じです。

もちろんこれまで全曲聴いたことがなかったか、といわれると、まあ聴いたことはあるのですが、先だってのペーター・シュナイダー氏の「指環」を聴いて、音楽的な面については全体がおぼろげながら見られるようになってきたと思います。それから、カラヤン盤とショルティ盤を立て続けに聴いたことで、演奏の凄みや面白みのようなものもわかってきた気がいたします。 四曲聴いて、気に入った順番などをあえて並べてみると……。

神々の黄昏>ヴァルキューレ>ラインの黄金>ジークフリート

でしょうか。

神々の黄昏は、まずはなにより第一幕のジークフリートとブリュンヒルデの壮絶で歓喜に満ちた二重唱でぎゃふんといわされます。それからジークフリートラインの旅が思いのほか楽しくて大好き。グロッケンシュピールが出てくるあたりの楽しみ、ライン川の滔滔とした流れを見下ろす感じが大好き。 それから、ハーゲンの不安げで邪悪なライトモティーフになぜか心を打たれるのですね。グンターもグートルーネも大好き。それで、ジークフリートとハーゲンが角笛でやり取りするあたりは、もうジークフリートが気の毒。ジークフリートって、決して理知的な英雄ではないので、仕方がないのですが。それからブリュンヒルデの壮絶な歌唱が終わると、最後は心安らかな長調の和声で終わる。若干の不安を含みながらも。本当にすばらしい曲だと思います。和声的にもジークフリートまでとは違う突き抜けた感じがあるように感じます。

ワルキューレは、例の「ワルキューレの騎行」などより、ジークムントとジークリンデの禁じられた愛が切ない。実に「トリスタン」的。何度も書いていますが、カラヤン盤でジークリンデを歌うヤノヴィッツさんのすばらしさも、この曲が大好きな理由のひとつです。今回聞いた中では、実は終幕部のヴォータンとブリュンヒルデのやり取りのあたりがすばらしいことに気づきました。

「ラインの黄金」と「ジークフリート」は少々聞き込みが足らないですね。最近「ラインの黄金」の冒頭部のラインの乙女の三重唱に心洗われる思いをしました。「ジークフリート」は、最終部の「ジークフリート牧歌」の旋律が現れたとたん、なんだか天上から光が差し込むような気分を味わったりするのですが。

ともかく、指環はすごいです。早く実演に接してみたいです。そして、一生のうちにバイロイトに行ってみたい! これはもうそこはかとない夢ですね。だが実現に向けてがんばりましょう(ってどうやって?)

Opera,Richard Wagner

 バイロイト音楽祭のウェブページを読んでいたのですが、とても面白い! ペーター・シュナイダーさんの略歴が載っているのですが、これって東京フィルの日本語版略歴の原文ではないか? と思ったり。まあ、そんなことはどうでもよくて、シュナイダーさんのこれまでのバイロイトでの軌跡が分かりますね。なんでこんなに素晴らしいサイトをこれまで訪れなかったんでしょう。反省。

シュナイダーさんは1981年から連続17年連続登場していますので、おそらくは今年も出演してくださるとおもわれます。昨年、一昨年と「トリスタン」を振っているようですね。今年も楽しみ。ちなみにCDでないかな。ウェブラジオで再放送しないかな。

今年のバイロイトは7月25日から8月28日まで。楽しみです。

Opera,Richard Wagner

 いやあ、こんなにショルティのジークフリートが面白いとは知りませんでした。行った良いままで何を聞いていたのでしょうか。おそらくは、カラヤン盤、レヴァイン盤そしてショルティ盤の3バージョンを聞いたことで、いろいろと意味合いが分かってきたのだと思うのですが。いまちょうどジークフリートとブリュンヒルデが邂逅している場面なのですが、かなりテンポを落としてめちゃくちゃ情感的に演奏しています。あれ、ショルティってこんな芸風だったかしら、とまた思った次第。私のショルティ認識の誤りがはがれ落ちていくような気分です。そうかここまでテンポを落としてためてためてダイナミクスを引き出しているとは。

ただ、ブリュンヒルデのニルソンさんは、巧いのですけれど、ちょっと僕の好みとは違うようで、もう少し硬質な艶やかさが欲しいなあ、というところです。ニーナ・シュテンメさんに歌って欲しい気がいたします。ヴォータンのハンス。ホッターさんの声も時代を感じさせる声です。

最近の指環はどうなんでしょう? 今春の新国での上演はもちろん楽しみですが、最近覚えたウェブラジオで、今年こそバイロイトを聴こうと思います。

Opera,Richard Wagner

 今日はかなり早起きしました。何時に起きたのかは秘密です。明け方の静かな時間がとても好きでして、コーヒーを飲みながら、いろいろと頭の体操をするのは楽しいものです。基本的にインドア派なんでしょうね。海とか山とか行きたいけれど、それより家で本を読んだり音楽を聴いたりものを書いたりする方がリフレッシュ出来る気がします。

さて、今日も朝からずっとラインの黄金を聞いていました。最初はカラヤン盤を二回ほど聞いて、ショルティ盤を一回。これまであまりぱっとしない感じに思っていたショルティ盤が輝いて見え始めまたのには驚きました。カラヤン盤ばかり聞いていると、まだ若いショルティのアグレッシブな指揮ぶりに耳が行くようになったのです。驚いたのは、颯爽とかけていくと思っていたショルティが、あるところで強烈なタメを見せて、ダイナミズムを引き出しているところがあったということ。とてもスリリングな経験でした。相変わらず、ラインの乙女の場面がすてきでして、これをいい歌手が歌うのを生で聞いてみたい、と思ってみたり。

ともかく、3月のラインの黄金が楽しみ。無事に行けますように。

Opera,Richard Wagner

 立春を過ぎて、太陽の昇る時間は速まり、沈む時間は遅くなりました。いつも家を出るのが6時15分ぐらいなのですが、一ヶ月ほど前は本当に真っ暗でしたが、最近は白々明けるころになりました。ですが、寒さはまだまだ続きます。そう言えば、関東南部では今シーズンはまとまった雪がまだ降っていません。雪が降ると電車が止まるので憂鬱なのですが、そうはいっても一度ぐらいは雪のなかを歩いてみたいとも思います。もちろん、北国の方にとってみれば、何を言っているんだ! と言う感じだとは思いますが。

水曜日になりましょうか、本当に久方ぶりにパルジファルを聞きました。カラヤン盤です。この盤ではグルネマンツが私の大好きなクルト・モルさんなのですよね。揺らめく旋律の波に乗りながら、モルさんの艶やかで芯のある歌声を聞くことほど幸せなことはないですね。パルジファルはこれからも聞いていく予定。来年、ウルフ・シルマーさんがパルジファルをN響でふるという情報もありますし。コンサート形式だそうですが。

パルジファルは、二回ほど聞いて、今度はラインの黄金に取りかかりました。ラインの黄金は3月の新国立劇場の演目ですので予習と言うことでもあります。カラヤン盤を聞き終えて、ショルティ盤を聞いている感じ。最初は、ラインの黄金は取っつきにくいなあ、と思っていたのですが、このところは、冒頭のラインの乙女の部分がすばらしさが少しずつ分かってきたりして、とても面白いのです。ショルティ盤よりカラヤン盤の方が録音もよいですし、まとまった演奏です。ショルティ盤は歴史的名盤ではありますし、スター歌手を呼んでいるというところなのですが、ちょっと力が入りすぎているかな、と思うところがあります。音響効果が積極的に入っている点に引っかかる方がいらっしゃると聞いたこともありますし。

さて、明日からは休日ですが、久々に予定の入っていない休日です。とはいえ、近所の英会話には行くのですが。実は私のメインパソコンが壊れまして、大変な思いをしています。このブログはサブマシンのノートで書いているのですが。メインパソコンにはiTuneデータがたんまり入っていますし、新しいCDを取り込むのにも使っていましたので、音楽生活にリミットがかけられた感じです。そのほかにもいろいろ困っていて、ああ、本当にPCなしでは生きていけない世の中になったなあ、もとい、PCなしに生きられない体になったなあ、等と思ったり。

PCはショップブランドのものでしたし、拡張性がありますので、マザーボードを変えて、CPUを載せ替えて、みたいに自作っぽいことをやってみる予定。これも一生に一度はやってみたかったことなので、いい機会だと思っています。しかし、自分でパーツを集めると、かなり安い値段でハイスペックマシンが組み立てられます。ちょっとオーバースペックかもしれませんが、長く使おうという魂胆なので、と自分で勝手に理由付けしています。

Concert,Ludwig van Beethoven,Opera,Richard Wagner,Symphony

今週はなかなか忙しい日々でしたが、ずっと「指環」を聴いていました。そのわけをカミングアウトすると、またシュナイダーさんのコンサートに行ってしまいました@サントリーホールというわけです。いや、あの日曜日(25日)の演奏を聴いたら、また行きたくなりますよ……。あれやられちゃあなあ。写真はアークヒルズのライトアップです。

いつも愛読しているyokochanさんの「さまよえる歌人日記」でもこの演奏会のことを取り上げられていらっしゃいます。素晴らしいレポです。

幸いというか何というか、家族の用事で午後に都内に出たのですが、その用事を済ませて慌てて溜池山王から地下トンネルを走ってサントリーホールへ。間に合いました。サントリーホールは、昨年、ティーレマン&ミュンヘンフィルでブルックナーを聴いて以来。ホールの中に入ると、あれ、こんなに小さかったっけ、みたいな。新国ばかり行っているからでしょうか……。

最初はベートーヴェンの交響曲第四番。これがまた良いのですよ。日曜日の「ジュピター」のような繊細で端正で良心ある演奏とでもいいましょうか。東フィルを室内楽的な繊細さで鳴らしています。これがまめやかな演奏というのですね。しかも、ベートーヴェンがこんなに面白くて、複雑怪奇で、緊張と弛緩の波を乗り越えていくとは思いませんでした。そうした構造をより際だたせる指揮だったのだと思います。

先だって、ラトルが振る二番を聴いたときもかなり眼から鱗が落ちましたが、シュナイダーさんの指揮でもまたベートーヴェンをよりいっそう理解できた気がします。

それにしても、四番の演奏は特に音が良いと感じました。四楽章で弦楽器がフレーズをバトンしていくところがあるのですが、あのあたりの音が移動していくニュアンスは安いオーディオセットではなかなか再現できないのではないでしょうか。サントリーホールの残響音も柔らかく少し長めのリヴァーヴで、心地よかったです。    

15分の休憩のあと、いよいよリングです。これはオランダの作曲家であるヘンク・デ・ヴリーガーが1991年に編曲したもので、主要部分をオケ版に編曲したもの。つなぎに多少違和感がありましたけれど、おいしいところは詰め込んだ大のごちそうです。

個人的には、「ジークフリート牧歌」のフレーズをブリュンヒルデが歌う部分が盛り込まれなかったので残念だったのですが、十二分に楽しめました。

ホルンがジークフリートの角笛を吹くところも良かったですし、神々の黄昏のブリュンヒルデの愛のテーマのあたり、ヴァイオリンの高揚感がすさまじくて、涙が出そうになりました。凄いなあ、本当に。シュナイダーさんの指揮は、決して熱血的ではないのですが、指環の構造を熟知した上で抑制した棒振りのなかで十二分にオケの音を引き出している感じでした。

でもやっぱり最終部分の悲しみと寂しさを併せ持ったところに到達すると本当に寂しくなってしまいます。60分で指環を駆け足で回ってきて、ああ、これで終わったのか、という安堵感とともに寂寥感。あの何とも言えない気分は、指環を回った最後だからこそなのだと思います。

演奏が終わるとブラボーの嵐。私も叫ぼうかと思いましたが、ちょっと気恥ずかしかった。でも叫べば良かったなあ。日頃練習しないと。シュナイダーさんは何度も何度も拍手に呼び戻されていました。楽団員もシュナイダーさんに賛辞を浴びせていました。楽団員も演奏後は充実した顔をしていたように思えました。

ちょっと、しばらくは指環を聴けそうにありません。シュナイダーさんの演奏を出来るだけ長く記憶にとどめておきたいので。それで、頭の中は神々の黄昏の最終部分がぐるぐる回っている感じです。

またまたで大変恐縮ですが、明日は新国で「こうもり」を鑑賞予定。なんだかこの一ヶ月はコンサートばかりだった気がするなあ。良い一ヶ月でした。

やっぱり生のコンサートは凄いです。CDを聴いているだけでは分からないことがたくさんあります。けれども、時間と経済の制約がなければ良いのですが、それを望むのは無理というもの。ともかく日頃はせっせとCDで音楽を聴いて、時にコンサートに行くという感じになりそうです。

Concerto,Opera,Philharmony,Richard Strauss,Wolfgang Amadeus Mozart

  東京地方は寒い日ながら快晴で、気持ちの良い一日でした。最近つとにやることが多いのですが、そうしたタスクをこなせないまま、先週に引き続き今週もコンサートに行ってしまいました。今日はペーター・シュナイダー氏指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を渋谷のオーチャードホールにて。

 オーチャードホールは、2007年の「ばら戦争」勃発時に、ウェルザー=メスト指揮のチューリヒ歌劇場の「ばらの騎士」を見て以来でした。
 
 周知の通り、シュナイダー氏も2007年の「ばら戦争」に参戦しておられました。2007年6月の新国立劇場公演で「ばらの騎士」を振っていらしたのです。あのときもやっぱりオケは東京フィルハーモニー交響楽団でした。
 
 その新国立劇場の「ばらの騎士」ですが、私は相当に感動して、全く涙が止まらなかったのです。第一幕の終盤の元帥夫人の歌声に涙、第二幕の「ばらの献呈」の場面で涙、そして、第三幕最終部の三重唱で涙。滂沱とあふれて、少々恥ずかしかったのですが。当時のブログは以下の通りの感じです。
 
 
 さて、今日の演奏会は、非常に短いものだったと言えましょう。前半はモーツァルト交響曲第41番、15分の休憩を挟んで、後半はシュトラウスの「ばらの騎士」組曲、おなじく「サロメ」から七つのヴェールの踊り、の三曲です。休憩もいれて90分ほどで終わってしまうこぢんまりとした演奏会です。
 
 ですが、今日も私は泣きました……。
 
 まずは、前半のモーツァルト。シュナイダー氏の指揮は、奇を衒うこともなく、端正に音楽を構築しています。上品かつ気品ある演奏。大仰に速度を動かしたり音量のコントロールを撮らずに、控えめでした。白眉だったのは第四楽章で、フーガの構築美が丁寧に描き出されていました。速度も中庸。淡々と仕事に没入している感じで、良心さえ感じます。ここでもやはり涙してしまいます。シュナイダー氏は、ウィーン少年合唱団のご出身。ウィーン的気品とでも申しましょうか。素晴らしかったです。
 
 15分の休憩のあとが、本日のハイライト。シュトラウスが編曲をした「ばらの騎士組曲」でした。モーツァルトより編成が大きくなり、オケも良く鳴っています。先のモーツァルトとは異なり、テンポを動かして、ためるところはためて、駆けるところはきちんと駆けるというダイナミックな演奏です。
 
 そして、やはり今日も「ばらの献呈」の場面で涙は滂沱と流れたわけです。歳をとったのでしょうか。涙もろくて困ります。演奏の方は、速度をかなり落としているのですが、きちんと統御されています。
 
 そして第三幕最終部、圧倒的な美しさと高揚。ゆったりとしたテンポで語られる元帥夫人の複雑な心境。ここでも涙が流れてとまらない。もう耐えられませんでした。2007年の新国立劇場の「ばらの騎士」と同じく怒濤の感動です。
 
 先に触れた、2007年の記事においては、、シュナイダー氏の指揮について積極的に触れていないのです。です。確かに、ニールントさんも、ツィトコーワさんも素晴らしかったし、ジョナサン・ミラー氏の演出も相当に素晴らしかった。ですが、あの感動を導いたのがシュナイダー氏であったことに今日改めて気づかされたのでした。
 「サロメ」の七つのヴェールの踊りももちろん素晴らしかったですよ。オケも気合いが入っていて、躍動感あふれる演奏でした。
 
 そんな感じで、日曜日の午後は実に幸福な時間でした。こういう感動に立ち会えただけで生きていて良かったなあ。と思います。
 
 

Ludwig van Beethoven,Symphony

早いものでもう1月も終わりですね。先週の土日の初台疲れで、今週はなんだか調子が今一つ。ブログ書けずじまいでした。

今週から夏目漱石を読み始めました。水村美苗さんが書かれた「日本語が亡びるとき」を読んでインスパイアされた感じ。「日本語が亡びるとき」では、日本近代文学の興隆が奇跡的出来事であるという風に語られていて、まあ、鴎外とか漱石といった日本近代文学を大事にせねばならぬということが視点のひとつとして取り上げられていたので、というところ。

ともかく、漱石は10年ほど前に集中的に読んだ記憶がありますが、十全には読めていない気分ですので。とりあえず本棚にあった「行人」から。漱石節炸裂で懐かしい。古い時代の高等遊民的能天気とでもいいましょうか。あるいは、その高等遊民的な斜に構えて事物を見るあたりが、面白いです。ほとんど浮遊霊的な視点を持つ主人公の心情描写。ストーリー的にはこれから面白くなっていくんでしょうけれど、まずは語り口的にすごいなあ、と思います。

さて、尊敬する方からインスパイアされて、ベートーヴェンの交響曲第二番をラトル指揮VPOにて聴いております。 第一楽章には、マエストーソな感じのアダージョで、この入り方、モーツァルトの38番とクリソツだな、と思って確認してみるとみると、入りの和音はまったく同じ。というか、僕には同じ和音にしか聞こえない。スコアをあたってみると、やっぱり。同じだ。って、有名な話しですかね。

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.2,_Op.36_(Beethoven,_Ludwig_van)

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.38_(Mozart,_Wolfgang_Amadeus)

アレグロ・コンブリオの快速な旋律に突入すると、すでにラトル節で、小気味よいフレーズ回しと、羽毛ほどに柔らかい音量調整が心地よいです。音量のダイナミクスがすばらしいのがラトルの指揮のなかでも気に入っている要素でして、この曲の第一楽章はいいところが全開という感じ。

全体ですが、リズムに多少の瑕が感じられるところはありますが、リズムはカチカチと固まっていて安心。ロック音楽のようにリズムが派手に聞こえる。ほぼインテンポな感じだからでしょう。

そう考えると、ラトルはそんなにテンポをいじらないですね。テンポを動かして いるのを聴いて、すごい! と思った記憶がないです。 もう10回ぐらい聴いていますが、なかなか飽きが来ないです。

ほかの方はどういう風に振っておられるのだろう?手持ちをiPodに入れてみます、という感じです。

Giacomo Puccini,Opera,WebRadio

今日から仕事始めです。 また日常が戻ってきました。平日は以前にまして時間を取るのが難しいので、寸暇を惜しんで目的に向けて進んでいきたいものです。

1月3日に、7ヶ月ぶりにアルトサックスを吹いたのですが、さんざんでした。調子に乗ってしょっぱなにフラジオ音域で吹きまくっていたら、アンブシェア(口の形とでもいうのでしょうか)が保てなくなって、ロングトーンがふけなくなりました。フラジオ音域なんて夢のまた夢な状態。1オクターブ下で吹くことにしました。無念。それでも無理ならEWI(ウィンド・シンセ)投入か? って、ここに書いたらバレルやないか……orz。ともかく、あと二日練習出来るかどうか、というところ。これはピンチです。良く見る夢があるのですが、それはオペラの舞台に立っていて、これからドイツ語を歌わないといけないのに、困ってしまう、という悪夢なのです。それと同じ感覚。ともかく全力を尽くしましょう。

今日は、メトロポリタン歌劇場にて1月3日マチネで演奏された「ボエーム」を聴いております。

ミミのマイヤ・コバレフスカヤMaija Kovalevska さんは、1979年ラトヴィア生まれとのこと。低い音の声質が変わってしまって少し残念ですが、柔らかい感じの声です。ヘッドフォンで聴いているときは、ちょっとビブラートがかかりすぎで、音がつぶれているような感じだったのですが、自宅でスピーカから聴いてみると印象が全く違います。むしろ感動させ覚えてしまう。すばらしい「私はミミ」です。よくつやが出ていますし、ビブラートも自然な感じで聞こえてくるのが不思議です。 さらに、ゼンハイザーのHD600という少々高いヘッドフォンで聴いてみてもやはり高音域がよく伸びて聞こえてきます。ちょっとこれはショック。たしかにいつも使っているBOSEのクワイエットコンフォート2は低音域が強調されている感じがありましたので。

ロドルフォのラモン・ヴァルガスRamón Vargasさんは、輝く音というよりいぶした深い倍音を持った声。高音域が得意というタイプではないです。むしろ高い音が少し苦しそうに聞こえてしまっているように思えました。こちらも自宅で聞き直してみると、印象は少し変わりましたが、苦しそうなのはやはり苦しそう。体調の問題などありますし、ライヴ音源なので許容範囲かもしれません。

ムゼッタのスザンナ・フィリップスSusanna Phillips さんは、第二幕のワルツで、婀娜っぽさだしながらうまく歌っておられます。マルチェッロのマリウス・キーチェンMariusz Kwiecienさんが素敵です。つややかで黒光りする声。落ち着きを払った威厳のある声。フンディングとかヴォータンを聴いてみたいですね。実際にはドン・ジョヴァンニを歌ったりしておられるようですので、ちょっと方向性はちがうでしょうか。

指揮のフレデリック・シャスランFrédéric Chaslinさん は伸縮自在なテンポでうまく旋律を歌わせようとしています。有名な聴かせどころではかなり減速して歌手にのびのびと歌わせていますね。とおもったら、幕入りでは煌めくように駆けるところもあって驚かされます。

再生装置の重要性に気づかされてしまったボエームでした。うーん、痛い。いまからオーディオに投資するのも難しいですし、音楽と言えばiPodで外出中にしか聴けませんし。困りましたね。

Alban Berg,Opera

今日でやっと仕事納めでしたす。今週から通勤客はぐっと減っていて通勤は楽でした。まあ仕事できるだけでもありがたいと思わないといけない時代になりつつあるようですが。

朝の通勤時間でも目が冴えていて、ヴォツェックの本を読んでいました。音楽之友社の名作オペラブックス(26)「ヴォツェック」です。いろいろと興味深くて読み続けて、疲れたら、iPodでヴォツェックを聴きながらリブレットを追っていく感じ。なかなかおもしろです。

ビュヒナーがヴォイツェック事件を救い上げ劇作化し、それをまたベルクが救い上げオペラ化したという構造。ベルクの功績でヴォイツェック事件は時間と空間を越えて東洋の島国にまで伝播している。そしてそのアクチュアリティ。日本でも不幸な事件が相次いでいますが、それが日本だけで発生しているわけはなく、現代に限らず発生しているわけです。もちろん、事件の容疑者や犯人は責めを負わなければならないのですが、はたして当人にだけ原因があったのか、という深く重い問題。コンテキストの中で理解することが求められるのだが、それは辛く厳しい仕事になるのだろう、という予感。

ヴォツェックのアクチュアリティはまさにここに現れているのではないでしょうか。

あるいは、ちょっとずれますが10年ほど前にカミュの「異邦人」を読んだときにも同じことを感じたことがありますし、カフカの「審判」でも似たようなことを考えました。いったい裁かれるものとはなんなのか、という問題。

私は、これは犯罪といった法を犯すという状態についてだけでなく、裏切りや不貞などの、「人倫」に悖る状態にまで拡張できると思っているのですが。

ともかく、問題は、どうしてオペラ化されたのか、ということでして、これは継続調査中です。