Alban Berg,CD紹介,Classical,Richard Strauss,Vocal

可愛らしいカワウソ。日本のカワウソは絶滅してしまったそうです。カッパのモデルにもなったそうです。英語ではオッターと言います。


こちらはデハビラントカナダ社のDHC-6という小型旅客機。通称Twin Otter。日本語ではツイン・オターと書きます。オッターではありません。オッターは語呂が悪いのです。飛行機なので。これは実話で、私のダジャレではありません。


次が今回の主人公のオッター様。


アンネ・ゾフィー・フォン・オッター。スウェーデン生まれのメゾ・ソプラノです。

私の中では、クライバー指揮「ばらの騎士」でのオクタヴィアンが最も印象的。あとは、シルマー指揮で、フレミングも出ていた「カプリッチョ」で、強気なクレロンを歌っていたのも思い出深いです。

あとは、一昨年でしたか、アバドがベルリンフィルを振ったマーラーの大地の歌ですかね。最後、感極まって涙を感極まって流していたのを覚えています。

今日聴いているのはLove’s Twilightというアルバム。シュトラウス、ベルク、コルンゴルトの歌曲集です。

冒頭のシュトラウスのRosenbandが素晴らしいです。この曲の素晴らしさはこのアルバムで学びました。ゆったりと遅めのテンポでふくよかに歌ったいます。転調しながら上昇するあたりの昂揚感は絶品です。

あとは、ベルクの七つの初期の歌、ですかね。こちらもかなり緩いテンポ。無調の浮遊間とあいまって、聴いている方も揺蕩う感じ。この無解決感が、底の見えない真っ青な湖の底を覗き込む時の不安と崇高を感じさせるのです。

残念ながら実演で聴いたことはないです。歌は録音では分からないことがたくさんありますので、きっとすごいんだろうなあ。

Concert,Richard Strauss

今日は、上岡敏之と日フィルで、シュトラウスとブルッフを聞きに初台のオペラシティに行って来ました。

IMG_2504.JPG

今回の日フィルも圧倒的で、ほんとうに来てよかったですよ。。

ブルッフ

前半のブルッフ、郷古廉さんのヴァイオリンがあまりにすごすぎるわけです。

第二楽章の甘美で官能的なところは圧倒的でした。

音は豪放な部分もあれば繊細に歌うこともできるところで、指揮の上岡さんがたくみに導いていたとはいえ、圧巻でした。

今日も滂沱でした。

郷古さんは、1993年生まれの二十歳なんですが、なんだかあまりに出来上がった大人な演奏をしてしまっていて、早熟な天才だと思います。これから壁に何度もぶち当たるんでしょうけれど全部飛び越えてしまいそうですね。

演奏が終わったあともオケのメンバーからも賛嘆の眼差しを受けていましたし、客席も大喝采でした。

アンコールで弾いた曲がシュトラウスのオペラ「ダフネ」のフレーズを使ったエチュードですよ。考えていたんでしょうけれど、後半のアルプス交響曲と絡めた選曲で、全く粋なことをしてくれるものです。

アルプス交響曲

後半のアルプス交響曲も、圧倒的でした。

上岡さんの指揮は、雄大で、マゼールのアルプス交響曲に似た印象を受けました。テンポは中庸から少し遅いぐらい。日本人的な「粘り」がなく、スマートで洗練された正統派ドイツ的演奏と思いました。

これは、もうセリフ無しのオペラといってもいいのではないでしょうか。それぐらい映像が思い浮かぶいい演奏でした。

日フィルも上岡さんの要求によく応えて、疵も乱れも殆どない演奏だったと思います。日フィル、やっぱり巧いですよ。今回もそう思いました。

ただ、ホールの音響的に言うと、私の席(10列の右側)から音が回っているような印象を受けました。

アルプス交響曲の隠れテーマ

今回の演奏会のパンフレットの広瀬大介さんの解説が面白いですね。

アルプス交響曲は単なる写実交響曲ではなく、「アンチクリスト」という隠れテーマがあるという論点でした。

この論点、知ってはいましたが、まとめてくださっていて有り難いばかりです。

「アンチ・クリスト」というのはニーチェの思想ですが、もう一つシュトラウスが作曲したニーチェがらみの曲が「ツァラトゥストラはかく語りき」です。

で、ですね、アルプス交響曲には「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭の上行していくファンファーレのフレーズが随所に登場するのですよ。広瀬氏もパンフレットで指摘しています。

そればかりではなく、上行ファンファーレの下降バージョンも最終部に登場します。

ここまでは、広瀬さんの解説にもこの下降ファンファーレは「自然の前に打ちひしがれる姿」として指摘されています。

実はですね、この下降バージョンのファンファーレは、オペラ「アラベラ」が、最後に水を持って階段を降りてくるところでも登場します。

これは新国立劇場のオペラ・トークで評論家の田辺秀樹さんが指摘されていたことです。ここでは、「ツァラトゥストラ」のような男性的な上昇志向に対して、女性的な志向なのである、とおっしゃっていたと記憶しています。

終わりに

やっぱりドイツ後期ロマン派は素晴らしい、とあらためて思いました。官能と甘美があるのですね。

来週からまた戦う勇気がわきました。

明日は勉強やら日常業務やらをこなす予定。やることがたくさん。

Classical,Richard Strauss

夜勤明けの始発電車に乗っています。窓の向こう、薄暮って、こういうのを言うんだろうなあ、という感じです。
東の空が水平線の方からじわりと淡い光を帯び始めていて、薄墨色から桜色へと変化していきます。
この数日ですっかり変身しましたよ。
まず夜行性になりました。さらに、ダイエットにも成功しました。
素晴らしい効果です。結構満足。

さて、マゼール指揮の「ツァラトゥストラはかく語りき」を聞いています。

いやー、ほんとシュトラウスっていいですわ。

この絶妙な不協和音の波に溺れてしまいそうです。つうか、溺れたい。

リズムも結構複雑なんですよねえ。ちゃんと読みたい。

マゼールは雄大でいながら鋭いです。キリッとした味わい。

あとは録音が秀逸です。エッジが聞いた音質が素晴らしいです。

さて、そろそろ社会復帰と夜行性からの脱皮をしたいところですね。明日からは昼間へ戦場を移します。

Richard Strauss

もっとも家庭的でないと思われるが、じっくり聞くと実はえらく家庭的すぎて思わず恥ずかしくなるぐらいな、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」。

今週末のらららクラシックで放送ですね!

http://www.nhk.or.jp/lalala/next.html

 

ゲストは広瀬大介さん。

私、フォローしてるんですが、いつも勉強になります。

どんなお話をされるんだろう。

 

家庭交響曲について、クラシック雑誌の紹介記事風に書いてみた記事はこちら。

https://museum.projectmnh.com/2012/03/05231721.php

 

プレヴィンがN響を振った家庭交響曲の模様はこちら。

https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407.php

※つうか、昔のブログ、字が多すぎだ。。

 

今週末はシュトラウスな天皇誕生日になりそうです。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

新国立劇場「ローエングリン」第二回。昨日の続きです。

カメラ変えたので写真がきれいになりました。開演前のオペラパレス。F2.0のレンズは明るい!

キャスト

昨日の記事にはキャスト表が書いてありませんでしたので、取り急ぎ記しておきます。

  • ハインリヒ国王:ギュンター・グロイスベック
  • ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト
  • エルザ:リカルダ・メルベート
  • テルラムント:ゲルト・グロホフスキー
  • オルトルート:スサネ・レースマーク
  • 王の伝令:萩原潤
  • 合唱:新国立劇場合唱団
  • 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
  • 指揮:ペーター・シュナイダー
  • 演出:マティアス・フォン・シュテークマン

 

強力無比なエルザ

エルザを歌ったメルベート。第一幕の衣装が幼い感じで、なにかそぐわない感覚がありましたし、歌唱の方も最初は調整中だったようで、少しどきどきする瞬間もありました。

ですが、第二幕以降、徐々に力強さが見え始め、第三幕のローエングリンとのバトルでは、ヒステリックに叫ぶエルザのある意味女らしさというものをよく表現しておられたと思います。

それにしても、ここまで強いエルザというのは、私の中の勝手な先入観を塗り替えるものでした。

この方はきっとブリュンヒルデやエレクトラもいけるかもしれない、などと思ったり。エレクトラは聴いてみたいな。

演出では、苦悩するエルザとなっていましたので、そうした苦悶とか茫然自失の状態を巧く演じておられたと思います。

悪役オルトルート?

さて、オルトルートを歌ったのはスサネ・レースマークです。深みのあるメゾでした。なにより、これはもう生まれたときからオルトルートという感じです。

糾弾されるローエングリンをなめ回すように見やったり、テルラムントが猛り狂っているのを冷たい目で眺めているのだけれど、指先だけは細かく動かして、なにかいらついているような空気を出したり、などなど。

 

次回の予定

次回は、演出や物語についての気づきなど。

なんだかいろいろあって、面白かったのですよ。

というわけで、今日はこのあたりで。You have.

Classical,Opera,Richard Strauss

ティーレマンのシュトラウスづくし

今晩のBSプレミアムシアター、シュトラウスファンとしては、垂涎です。
“番組表":http://www.nhk.or.jp/bs/premium/
フレミングが出て、アラベラ「私のエレマー」を歌ってくれます。楽しみです。それからティーレマンのアルプス交響曲。おそらくは正統で巨大なアルプスが聴けると思います。

ティーレマンとフレミングがベルリンで競演

この組み合わせ、どこかで見たことあるなあ、と思ったのですが、ベルリンフィルデジタルコンサートホールでも、似たような趣向でフレミングとティーレマンがシュトラウスづくしをやってくれておりました。
“こちらです。":http://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/1641/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3-%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0-%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
!https://lh4.googleusercontent.com/-u7hifahw-Go/T4qjcpAjDLI/AAAAAAAAFjQ/1MncAlHBvJM/s400/WS000130.JPG!
しかし、フレミング、ベテランでそんなに若いわけではないなのに、歌っているときはアラベラの年齢まで若返っている。表情は若い女性のそれだ。すごい。

マゼールにフォローされました。。

そうそう、今日はマゼールの「家庭交響曲」も聴いたし。前にも書きましたが、マゼールのシュトラウスは大きいのです。テンポを押さえて、厚みのある壮大な世界を構築するのです。家庭のドタバタ風景が見事に壮麗な芸術に昇華した瞬間です。

そしたら、twitterでマゼールにフォローされました(笑)
!https://lh5.googleusercontent.com/-pO3pxoKsV0c/T4qh34-fhYI/AAAAAAAAFjI/sXiQYhwt8hk/s640/WS000129.JPG!
シュトラウス大好き。
楽しみです。

Richard Strauss,Symphony

シュトラウスの家庭交響曲をカラヤンにて。
シュトラウスの洒脱さにはひれ伏すのみ。。酸いも甘いも知っているが故の余裕なんだろうなあ。
この曲は確か2009年にN響で聞いて以来理解が深まったと思う。指揮はプレヴィン。年老いてもなお若さを持つプレヴィン翁の指揮だった。
この曲を聞いているとシュトラウス一家の様子が手に取るように見えてきたのには驚いた。パウリーネ夫人の癇癪とか、しまいには泣き出してシュトラウスが必死になだめていたり。息子のフランツが走り回ったり。しまいにはピロートークまで始まってしまうというところ。きっとあそこはラヴシーンだと思うところもある。ばらの騎士でベットシーンを作曲したシュトラウスなら可能なんだが、自分の家を赤裸々に描き過ぎな気もする。
しかし、若い頃の私には家庭交響曲はさっぱりわからなかった。当時はブルックナーばかり聞いていたので、おおよそ、このようなエスプリはわからなかったということもる。
だが、それだけではない。もっとも効果的だったのはインテルメッツォを聞いたからだとおもっている。このオペラもやはりシュトラウス一家のゴタゴタを描いたもの。ここで、私は筋書きと音楽の相関関係を学んだらしい。旋律に台詞が絡み合うときに、旋律の持つ意味性を感じ取っていたらしい。
私は、まだ幼き頃は、この旋律に意味を見出すということが許せなかった。ヴィヴァルディの四季なんていうのはもってのほかだった。理由はよくわからない。別にハンスリックを読んだわけでもないし、赤いハリネズミ亭に通ったわけでもない。
やはりオペラを聞き始めたのかわ大きかったのだと思う。
つまりはワーグナーのライトモティーフを理解し始めたということなのだろう。音楽は筋書き以上に饒舌なのだ。オペラの台詞を越えた音楽表現がに思い当たるのは、CDラックから宝物を掘り出したときと同じだ。大事なものは眼前にあるものなのだ。
あとは、私も齢をかさねたのだろう。世の儚さや背理性を理解したその先には笑いや皮肉、洒脱さや鷹揚さがある。そうした気分にフィットするのがシュトラウスの音楽なのだ、と考えている。
そんな世疲れてアンニュイなあなたにはこの曲がお勧め。
マゼールの家庭交響曲はとにかく大きい。雄大な家庭交響曲。だが、中盤部のねっとりとした語らいの場面の官能度も高い。録音面でも優れている。洒脱なんだが、肝心なときには真面目な顔をして見せる悪い男の姿が目に浮かぶ。

耽美的なあなたにはカラヤンがお勧め。中低音のリバーヴ感が強すぎるとか、SN比が高いなど録音はまりよくない。最終部の盛り上がりは相当なもの。カラヤン円熟期の素晴らしい遺産。

サヴァリッシュ盤も最近入手した。職人の築く手堅い住まいである。それは質素なそれではない。装飾の美しい日当たりの良い屋敷のそれだ。若き日のサヴァリッシュの面影を感じる。音響も悪くない。

上岡敏之もあるが、これはまたの機会に。
これまでの家庭交響曲関連の記事。
“ケンペ/シュトラウス 家庭交響曲":https://museum.projectmnh.com/2009/09/15215121.php
“マゼールをそんなにいじめないで~シュトラウス「家庭交響曲」":https://museum.projectmnh.com/2009/10/02050838.php
“帝王カラヤンの家庭は?":https://museum.projectmnh.com/2009/10/14215810.php
“プレヴィン、シュトラウス その2":https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407.php

Miscellaneous,Opera,Richard Strauss

試されたのでした。。

昨日、とある方に、なぜ、ばらの騎士が好きなのか? と聴かれました。もしかしたら、そうした質問ではなく、私が勝手にそう解釈して、オリンピアのように自動的につらつらと言葉が出てきたのかもしれない。そういう感じ。それでまるで試されているかのような緊張感とともに。以下のように答えました。
1)どこか世間を批判的にみている洒脱さ。世の中を斜めからみて、そこに本質を見いだそうとする諧謔精神。
2)時間という最大の自然力に抗うことの出来ない人間の宿命を描く。
3)音楽素晴らしさ。登場人物の情感に寄り添うような丁寧な旋律や和声。
音楽のことはちゃんと言えなかった気がしますが。まだまだ語りきれていない。考えないと行けないなあ、と。
現代の時代精神との関連性についても少し話したような気がする。爛熟し熟れきった世界で、次の破局を予感しているようなところ。それは、もう現代の我々の状況と一致している。だから、そこから少しでも逃れたいために、こうした洒脱な世界に逃避するのか。あるいは、こうした洒脱な世界を利用して、なんとか生き抜こうとするのか。
意外というか、必然というか、我々は19世紀末から20世紀初頭にかけての時代を敷衍しながら生きているのかもしれません。

N響アワーでばらの騎士とカプリッチョを。

夜は、N響アワーで、シュトラウスの「ばらの騎士」組曲と「カプリッチョ」終幕の場を、プレヴィン指揮NHK交響楽団で。2009年のプレヴィンと、2011年のプレヴィンが登場するのですが、明らかに齢を重ねているのが分かり、少しショック。しかし、フェリシティ・ロットは大柄です。西洋人から観たドワーフやホビットは日本人のことではないか、と思うほど。
N響の音に、何か硬く重いものを感じました。動きたいんだけれど、足かせを嵌められているので自由に動けない、そうした感覚。先日、新国立劇場で「こうもり」を観ましたが、あのときに感じた感覚と少し似ているかもしれません。
昨日のN響アワーでの解説を拡大解釈すると、音楽界におけるロマン派の終焉は1948年のリヒャルト・シュトラウスの死によって訪れるということだそうです。確かにそうです。実社会のロマン派はナチス・ドイツ消滅まで待つことになるのでしょうけれど。

一つ前の世紀末の人々

さて、昨日お会いしたとある方に関連して、19世紀末から20世紀前半にかけてのオーストリアの文学者についての話を読んだり伺ったりしましたが、あまりの興味深さ、面白さに圧倒されました。みんなどこかでつながっている。欧州教養人は、それ全体で一つのサークルを形成しているのではないか、と思いました。
トラークルはヴィトゲンシュタインから援助を受ける。ヴィトゲンシュタインはケインズと友人であった。ヴィトゲンシュタインの兄は戦争で右手を失ったピアニストで、彼のためにラヴェルやシュトラウスが左手用ピアノ楽曲を作曲した。
あまりに人間的で、人間的すぎるがゆえに、精神を病み、決して幸福とは言えない人生を送ったけれど、後世に残したものはあまりあるもの。
これだけで、一週間はブログが持ちそうだな、と思います。
まだまだ知らないことがたくさんあるなあ。やること沢山あるけれど、頑張ろう。生きるためには、本を読んで文書を書き続けなければならないという宿命。それを改めて認識しました。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

!https://lh6.googleusercontent.com/-V3oDaw9bJmo/TqVKVzD9xFI/AAAAAAAAFZk/-W8iixj-dEw/s400/IMG_6733.JPG!

はじめに

引っ越してから2ヶ月が経ちました。通勤にも慣れましたし、ようやく部屋も落ち着いてきたところです。また元のように書き始めないと。私の目標は、ピアニストがピアノを弾くように文章を書こう、と言うものだったのですが、最近日和っておりますゆえ、ここらでもう一度奮起が必要。
さて、前回に続き新国立劇場「サロメ」のご報告です。

新国「サロメ」演出について

さて、演出の方は、エファーディング氏によるもので、私が2003年にはじめて来たときと同じです。
あの、7つのベールの踊り、のところが、記憶違いかもしれません。あんなに際どいところまで歌手は脱いだでしょうか? 最後はほとんど何も身につけておらず、だいぶ心配になりました。さりとて、オペラグラスで覗くわけにも行かず…。
今回気づいたのは、前半部分においては、サロメが天幕の中で踊っていて、シルエットだけが浮かび上がってくるのですが、あそこは他のダンサーが踊っていると思われます。衣装替えに時間がかかるからだと思われます。
前回2008年も気づいたのですが、ヨカナーンが実に人間的に描かれてれていました。サロメの甘い言葉に心と動いているのですが、それを否定するように、サロメをバビロンの娘とか、ソドムの娘などと呼びます。あれは、おそらくサロメを否定すると同時にヨハナーン自身の人間的弱さへの否定なんだなあ、と考えました。

歌手の方々

サロメのエリカ・ズンネカルド、やはりこういう方がサロメを歌わなければ。華奢な体でよくもここまで均一な声を出し続けられるのでしょうか。最終部では、さすがに疲れが見えましたが、最後まで張りのある声で、強靱に歌い続けていたと思います。
ヨカナーンを歌ったジョン・ヴェーグナー氏。この方は、2008年の公演でもヨカナーンを歌っておられましたが、あの時も鋭角な声に感動したのでした。今回もやはりすごかったです。波打ち震える銀箔のような声です。サロメの誘惑に心を乱されながらもひたすらに強く拒絶する姿は、ヨカナーンが乗り移っていたかのようです。
ナラボートを歌われた望月哲也氏。実は氏の歌うシュトラウスを今年の初夏に府中市交響楽団定期演奏会で聞いておりました。あのとき、えらくうまくてピッチのいい方だなあ、だなあと感動したのでした。今回もピッチは勿論声の質も充実しているように思いました。今後も愉しみです。
ヘロディアスを歌ったのは、ハンナ・シュヴァルツでした。先日も少し書きましたが、ベルリンフィル・ディジタルコンサートホールで見ることのできる演奏会形式のサロメでもヘロディアスを歌っていましたが、今回のパフォーマンスの中で突出した存在感でした。

ちなみに

今回の新国のパンフレットではヨハナーンと表記されていますが、ヨカナーンと表記されることもあります。で、パンフレットの綴りはJohanaanと書いてあります。9ページのヴェーグナー氏の紹介部分ですが。この綴りだと、ヨハナーンとか発音できない。私がこれまで「ヨカナーン」と書いてきたのは、大いなる勘違いであったのか、としばし疑ったのです。
ところが、私の持っているDover社のスコアではJochanaanと書いてあります。この綴りなら、ヨカナーンと発音してもOKです。
というわけで、私には、ヨカナーンのほうがしっくり来ますので、ここではヨカナーンと書いておきます。

最後に

今回もシュトラウスサウンドを満喫しました。さすがに落涙するようなオペラではなかったのですが、やはり私はシュトラウスが大好きなのでした。理由は何かなあ、と考えてみると、やはり和声なのでしょう。調性と無調の狭間を行ったり来たりしたり、不協和音であったり、旋律がテンションにヒットしたりするたびにゾクゾクしてきます。
それが、先日聞いたヴェルディのオペラと決定的に違うことだと思われます。
そう思うと、自分のジャズフレーズのついての問題点がわかったりするのでした。
このあたりはまた今度。
それでは。