Opera,Richard Strauss

今宵の通勤リゾートはハイティンクの「ばらの騎士」でした。EMIのボックス盤です。
指揮:ベルナルト・ハイティンク
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン (SKD)
元帥夫人:キリ・テ・カナワ
オクタヴィアン:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
ゾフィー:バーバラ・ヘンドリックス
オックス:クルト・リドル
ハイティンクのドレスデン時代の録音。私は、ドレスデンサウンドが大好き。ウィーンの甘やかな音色、ベルリンフィルの均整の取れた剛健な音色、いずれも素晴らしいですが、ドレスデンの音色は、冬空のきりりと澄み切った青空のよう。音が良いというのは、ハイティンクのバランスのよさもありましょうし、あるいはシュターツカペレ・ドレスデン自体の響きであったり、録音場所にもよりましょう。
テ・カナワの元帥夫人はゆったりしているし、オッターのオクタヴィアンは定評あるもの。ヘンドリックスのゾフィーは、まだ可愛らしい少女のよう。リドルは、マジカッコイイ。たとえば、あのロングトーンはそうそう聴けるものではありません。
気になる点は二つのみ。
ひとつは、とある方のロングトーンのピッチが微妙にフラット気味なこと。これは、もう何とも言い難い。ですが、私が気づいたのは二カ所のみ。その他においては問題はありませんし、かえって素晴らしいぐらいなんですから。ちなみに、この同じロングトーンの場所で、やはりピッチがずれている別の録音も持っています。難しいのでしょう。
もうひとつは、クルト・リドルのオックス男爵がスマートすぎると言うこと。リドルは本当に巧い歌手で、低い声がまっすぐに響き渡り、ビブラートの素晴らしさも相まって、素敵すぎるのです。
ですが、ここまでスマートだと、オックスは粗野でもなく乱暴でもない英雄に聞こえてしまいます。私はクルト・リドルがワーグナー「ワルキューレ」フンディングを歌ったのを新国立劇場で聴いていますが、ドスのきいた悪役たる素晴らしいフンディングでした。なんだかそのイメージが抜けません。
今月の “新国立劇場の「ばらの騎士」":https://museum.projectmnh.com/2011/04/13001623.php では、オックスを歌ったフランツ・ハヴラタのコミカルな演技を見たあとだけに、そう言う見方になるのかもしれません。
繰り返しますが、クルト・リドルは素晴らしいです。それは間違いありません。私のこの感想も、もう少しすると変わるはずですが、今はハヴラタに浮かされているので、勘弁してください。
新年度が始まり、もう20日も経とうとしております。震災から1ヶ月と8日ですか。徐々に我々の生活にも、前とは違う影響がじわりと忍び寄っているようです。ですが、そうしたときでも守らねばならぬものもあるはず。微力ながら、何か出来ないか、と色々考えているところです。近い将来具体化するはずです。楽しみだが、がんばろう。

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今回の公演、当初は、2007年6月の新国立劇場「ばらの騎士」で元帥夫人を歌ったカミッラ・ニールントが再び元帥夫人として登場するはずでした。2007年の元帥夫人はあまりにすばらしく、私は新国立劇場のアンケートに毎回毎回2007年のニールントがすばらしい、と書き続けていました。それが関係したのかは良く分かりませんが、ともかく異例とも言える再登場ということで、大変期待していたのです。
ところがこういう事態となってしまい、ニールントの来日はあたわず。ヨーロッパの方々の放射能アレルギーは、チェルノブイリというトラウマもあるので、日本とは比べものにならないほど。いたし方がないことだと思います。
そんな中でも、"アンナ=カタリーナ・ベーンケ":http://www.anna-katharina-behnke.com/1-1-Biography.htmlが、ニールントの変わりに来日してくださいました。
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この方、イゾルデ、サロメ、エレクトラ、ゼンタをレパートリーに持っています。どちらかというとテオリン的な激しい面も持っている。一方で、ジークリンデやグートルーネも歌える、すこしたおやかな面も持っている。元帥夫人もこちらの部類。だから、第一幕最期の決然とした元帥夫人、第三幕の毅然たる元帥夫人はとてもすばらしかったです。
ヒロインの感動的な登場といえば、蝶々夫人の登場シーンがありますが、ばらの騎士第三幕の元帥夫人登場の場面もすばらしいものがあります。あの荘重華麗な音楽に合わせて毅然として登場するシーン。ほとんど神格化されているともいえます。今回の公演では、あそこで黒いドレスを着たシックなベーンケが登場する。息を呑みました。
私は、ベーンケの姿に感動して、幕間に写真を買いました。暇のあるときに取り出して、あのときのことを思い出し、元気をもらっています。私は本当にミーハーな人間です。

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今回の公演で、私がもっとも楽しみにしていたのが、フランツ・ハヴラタ氏。
氏については、先日もブログに書きましたが、私がシュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」にはまるきっかけとなった映像にラ・ローシュ役で出ておられたのですね。この映像、2004年にパリのオペラ座で収録されており、指揮はウルフ・シルマー、伯爵夫人はルネ・フレミングという豪華さ。ロバート・カーセンの演出も言うことがないものでした。
フランツ・ハヴラタ氏、ラ・ローシュの遠大なモノローグを朗々と歌い上げ、すごく格好がいいんですが、その方がオックス男爵をうたうとどういうことになるのか? とても楽しみにしていたのです。
結果ですが、前回2007年のばらの騎士でオックス男爵を歌ったペーター・ローゼは、上品過ぎたのだ、ということが分かりました。
ハヴラタの演技は、それはもうすさまじいほどの田舎者っぷりで、抱腹絶倒。部屋の奥のほうでベッドに倒れこんだとき、足をハの字に広げてベッドに倒れこむのが見えるんですから。まあ、演出演技なんだろうけれど、あそこまで自然体で巧くやられてしまうと、こちらも、ためらいなく笑ってしまう。
それから、彼の目つきがまたすごい。なにかどんよりと曇っていて、覇気がないながらも、油断なく辺りを見回す抜け目のない男、という感じのオックス像を描き出していました。
歌もいいですなあ。カプリッチョの映像で聞いたハヴラタの声より、実際の声のほうがエッジが聞いていて、それに加えてつややかさもあるのですから、ちょっともうこんな声を聞いてしまうと、普通の声が聞けなくなってしまう。発声法が故なのか、体格が故なのか。
ハヴラタ、カーテンコールではもうすさまじい拍手とブラボーの嵐でした。私もちゃんとブラボーと叫びました。また大好きな歌手を見つけてしまいました。
また、会社休んで行きたいぐらいです。無理だけど。

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最近、どうにもブログを書く時間が捻出できません。この一年ですっかり忙しくなってしまい、帰宅時間も遅くなり、巡り巡って夜型生活になってしまいましたので。本当なら、外出先でスマホかPCでかけると良いのですが。ここは踏ん張りどころだと思っています。
さて、昨日の新国立劇場「ばらの騎士」の話です。
えらく感動しました。泣いて、笑って、感情があっちへこっちへと揺さぶられました。もっとも、始まる前から、イタリア人歌手の旋律を思い出して泣いちゃうぐらい、昂ぶっていましたが……。
そんな状態ですと、もう序奏のホルンで陥落でした。第一幕も泣き、第二幕も泣き、第三幕も泣き……。そして、オックス男爵の立ち振る舞いに腹を抱えて笑ったり。
記録によると、私は79回オペラの実演に触れているようですが、個人的な感動具合で言うと、おそらくは5番手以上2番手以下でしょう。もちろん1番手は、2007年6月の同じく新国立劇場における「ばらの騎士」でした。あのときの贅沢なキャストとはいきませんでしたが、もう私の泣き方は、2007年とあまり変わらないかもしれない。
そういえば、10年ほど前、会社の女性の先輩に、ストレス解消の方法として、涙を流して泣く、というのがいいよ、と薦められたことがありました。カタルシスってところでしょうか。
少しずつ書きます。毎日書くのが大事だと思われるので。

Opera,Richard Strauss

完全に現実逃避中。だが通勤時間が我らの最後のバカンスです。帰宅時にiPodで見たのは、過去に何度も取り上げている、リヒャルト・シュトラウス最後のオペラである「カプリッチョ」。パリオペラ座にて収録したものです。
* 指揮:ウルフ・シルマー
* 伯爵夫人:ルネ・フレミング
* 伯爵:ディートリヒ・ヘンシェル
* フラマン:ライナー・トロスト
* オリヴィエ:ジェラルド・フィンリー
* ラ・ローシュ:フランツ・ハヴラタ
* クレロン:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
これまでも、何度も取り上げています。毎度毎度で申し訳ないです。。。
“https://museum.projectmnh.com/2006/11/15215643.php":https://museum.projectmnh.com/2006/11/15215643.php
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/20071815.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/20071815.php
このフレミングの映像、ロバート・カーセンが演出を手掛けています。大胆な読み替えではないが最後に大仕掛けが待っている。それが本当に素晴らしい。初めて見たときには興奮しっぱなしでした。
今日聴いて思ったのは、まずは、オッター様のすばらしさ。声の表情付けが実に豊かで、出てきただけで雰囲気ががらりと変わりました。それから、ラ・ローシュを歌ったフランツ・ハヴラタの声の美しさ。こういうエッジがきいた倍音の豊かな声は本当に大好き。この方、4月の新国立劇場「ばらの騎士」でオックス男爵を歌うのです。凄く楽しみ。公演があれば、という条件付きですが。。。
!https://lh3.googleusercontent.com/_iAlI3j9lUJw/TYoAitUOylI/AAAAAAAAE7Q/rJNo1HcrtiI/s400/WS001087.JPG!
次回もカプリッチョについて書こうと思います。

Richard Strauss

ツァラトゥストラはかく語りき、ばかり聞いた一日でした。午後の都心への外出を利用して、ブーレーズ、ブロムシュテット、ハイティンク、カラヤン、ケンペを立て続けに。
ハイティンクの重量感のある演奏、意外に重々しいブーレーズ、煌めくブロムシュテット、耽美的カラヤン、ケンペの構築美。
録音の良さでいえば、ブロムシュテット、ハイティンク、カラヤンかなあ。ケンペの録音は少し古いが、十分にドレスデンサウンドです。
さて、外出すると、太陽の光を浴びられるのが嬉しい。空気は透き通り、少し冷え冷えとしているところが、なんだかヨーロッパの空気に似ていてこれもまた嬉しい。清々しいです。
ヨーロッパで思い出した。
ヨーロッパはギリシアにしてもアイルランドにしても大変です。その点、ドイツ人は、無駄遣いしないし、質素な生活をしているんだそうです。もっとも、10年以上前の話ですので、いまは変わっているかもしれませんけれど。
それで、カミさん曰く、日本もこれからかつてのドイツのように質素になって行くんじゃないか、とのこと。成熟した社会はおのずとそうなるんじゃない、とのこと。同感だなあ。
このデフレスパイラルは普通じゃない。誰かが儲けているんだろうけれど、誰なのか見当もつかない。多分国外にいるんだろうなあ、儲けている人達は。
日本の戦後はバブルだったんだろう。確かに何かがおかしい。大人買い、とか普通じゃないし。まあ、考え方を変えないといけないはず。既得権益なんて幻である。
だが、実のところそう思わされているのかもしれなくて、この諦観を見てほくそ笑んでいる人がいないとは言えないだろう。
でも、資本主義における最大の原理は、まずは欲望。次に競争そして恐怖であるはず。諦観や質素は資本主義の敵なんだが。景気を底上げしたければ欲望の刺激が一番なんだがなあ。こうも社会が縮こまるのはほくそ笑んでいる人達には損なはず。まあ国外でほくそ笑む人にとっては好都合なんだろうけれど。
しかし、質素は意外に清々しいものである。心が洗われる気がする。案外、こういうところに幸福が隠れているのやもしれないなあ、など。

Opera,Richard Strauss

私はこの数年間リヒャルト・シュトラウスに惚れ込んでいますが、まだまだ皆様のようにすべてを把握出来ているわけではありません。
まずはオペラ作品だけでもすべて聴いておきたいのですが、まだまだ聴けておりませぬ。
というわけで、先日から「エジプトのヘレナ」を聴いていますが、それはそれは、もうなんともかんとも、すさまじい音楽で、サロメとエレクトラをさらに突き進めたような強烈・強靱な音楽にたじたじです。すごいっすねえ。
今日は、あいにくい帰宅の電車が人身事故騒動に巻き込まれ、いつもより余計に電車に乗っていたのですが、幸いにも座れていましたので、一人の時間でゆっくりと「エジプトのヘレナ」漬けでした。でもカイルベルト盤は録音品質に問題はありますが。
数年前に、二期会が「エジプトのヘレナ」を上演しましたね。見逃したのが悔やまれます。2004年に若杉さん指揮でやったんですねえ。行きたかったです。
シュトラウス合宿と銘打ってしばらくがんばります。ああ、グントラムをiPodにいれんとなあ。

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アラベラを観たあと、もっとも理不尽さを感じるのは、この喜劇で一番得をしたのがヴァルトナー伯爵であるということ。
おそらくは借財をマンドリカに返済させることができ、カード賭博の資金をも無心し続けるに違いない。
ヴァルトナー伯爵はこれからどうなるんだろう? 
マンドリカは森を売って、結婚費用に充当しようとしたけれど、きっとヴァルトナー伯爵の無限大の無心は、半永久的にマンドリカに向けられるでしょう。マンドリカは単なる地主ですから、いつまでも土地を切り売りするわけには行かないのです。いやいや、もしかしたらヴァルトナーはマンドリカの領地をも賭けの対象にしてしまうかもしれない。あんなに請求書が来て、裁判に訴えられようとしているというのに、懲りずにカードにのめりこむのは現代社会においては完全に病気。
なにはともあれ、マンドリカとアラベラの幸せの前提はヴァルトナー伯爵の更正か、あるいは腕前を上げていただくかか、のいずれかにかかっているといえましょう。
っつうか、娘の幸せを壊すんじゃない! ズデンカだって女の子なんだから! ⇒ ヴァルトナー
※  “アラベラ":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%A9_%28%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F%29 っていう小惑星があるらしい。
 

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アラベラの物語は、スルりと入ってくるようなものではありません。なにか、居心地の悪さを感じます。音楽は完璧に状況を描写していて感動するのですが、状況をよくよく考えると、不思議なことがたくさんありすぎます。
まずはマッテオ。
わかりやすいティピカルな男。
アラベラこのことが大好きなんだが、完全に一方通行で、ズデンカが作った、アラベラの手紙で妄想たくましくしている。これ以上望みがなければ、ガリツィア最前線に出るか、ピストル自殺を企てている。おめでたいロマンチスト。おそらくは、体面を気にする男なんだろうなあ。アラベラも一種のステータスシンボルなはず。
でも、ズデンカが男装しているのを見破れない。ところが、ズデンカが女性だと分かるとやいなや、我が友、我が恋人、我が天使と持ち上げる。結局、アラベラへの恋慕の念なんてたいしたことないのだ。アラベラの姿に似ていて、容易に手に入れられるズデンカにひょいと乗り換えたということなのか。。。
やばい。毒舌過ぎる。
ちなみに、この居心地の悪さ、後ろになにか大切なことが隠されている気がしていて、必死に掘り起こそうとしているのです。がゆえの悪あがき。私は、ホフマンスタールもシュトラウスも尊敬しています。この居心地の悪さこそが、彼らの企みではないかと思うのです。
ちなみに、マッテオが絶望して志願を口走るガリツィアは、今で言うとウクライナの西部地方で、ポーランド分割の際にオーストリアが手に入れた土地で、1860年代にガリツィアでは叛乱が起きていたようです。
“http://en.wikipedia.org/wiki/Galicia_%28Eastern_Europe%29":http://en.wikipedia.org/wiki/Galicia_%28Eastern_Europe%29
次は、この喜劇の中で最も得をした夫婦である、ヴァルトナー夫妻について。

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しかし、アラベラとマンドリカのカップル。いったいこの後どうなるんだろう、と気になって気になって仕方がありません。
あんなにマッチョで嫉妬深くプライドの高いマンドリカと、やはりプライドがあるけれど、気まぐれで、夢見心地なアラベラの結婚生活が、穏やかなものであるとは思えません。見ていて、そこがすごく気になります。
アラベラとマンドリカがおかれた歴史的背景を考えてみましょう。シュトラウスの設定では1860年ごろですので、第一次大戦とオーストリア帝国の滅亡を見たか見ないかごろに二人とも天寿を全うするでしょう。いや、アラベラは1920年ごろまで存命だったかもしれません。
ただし、ですよ。今回の演出の時代設定は1930年ごろです。ということは、ナチスがドイツの政権を握り、第二次大戦では、クロアチアやスロヴェニアはパルチザンとドイツ軍の熾烈な戦いが起こり、その後は社会主義化されてしまうわけです。当然マンドリカの土地は収奪されるでしょう。極めて過酷が運命が待ち受けているに違いありません。それを思うと切ないなあ。
さて、今回の演出では、マンドリカの領地の地図を従者が見せる場面がありました。あれ、トウキョーリングで、登場した地図にそっくりだったと思いませんか? わたしは、双眼鏡で必死に字を読みました。そこに、ギービヒの領地とか書いてないかな、と。でも、そんなことは書いておらず。
なんともかんとも、心配になる二人の行く末なのでありました。
まだ続きます。妄想と深読みのシリーズ。