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やれやれ、2022年もそろそろおわりとなります。こちらは近所の畑、というかおそらくは税金対策の休耕地です。

この休耕地にオナガドリと思われる鳥が群れていました。以前、オナガドリが飛んでいるのを見て、なんだか十字架が空を舞っているように思えたものです。

 

毎年のように、冬至がまわり、年末年始に近づき、夏へ憧憬を感じるサイクルが続いています。

 

この歳にもなると、1年のサイクルがわかりきってしまった感もあります。実のところ、仕事は波瀾万丈で、不摂生極まりない生活ですが、人間ドック異常なしという不思議もあり、もう少し頑張らんといかんのかな、と想ったりもしています。

ということで、どうかよいお年をお迎えください。また来年もよろしくおねがいいたします。

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昨夜、月と木星がほぼほぼ同じ位置にいて、なかなかダイナミックな風景でした。

月の右上に小さく木星が映っていますが、実際には月と木星が煌々と輝いていたのでした。下の写真のほうが実際のイメージに合う感じ

で、2023年もあとわずか。やれやれ、って感じの波瀾万丈な一年でしたが、来年はもっと波瀾万丈かもしれず、なるようにしかならなんな、という気分で過ごしていきたいと想います。
せめてもの数日の休日をすごしているわけですが、明日も書けると良いのですが。

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月蝕を移動中に。

これ、昔の人は怖かっただろうなあ、と思います。輝く月が急に暗くなり、真っ赤に輝くのですから。

わたしも,ただならぬ不気味さを感じながら、欠けゆく月を移動しながらみ続けました。

19時16分に皆既状態になると、なにか放心したような感覚がありました。全てが解放されたというか、解決に向かうかのような。

その後仕事場に戻り打ち合わせ。なんだか、いろいろなことがピタリピタリとパズルが合うかのように進んでいるように思います。

ということで、本日もおつかれさまでした。おやすみなさい。

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11月に入り、晴れた日が多くなった気がします。実に良い天気。太陽は平等に光を降り注ぎます。

日差しのもとは暖かく、日陰は少し肌寒いので、陽の光のありがたみを感じます。

明日、11月7日が立冬ですので、今年最後の秋空ということになりそうです。

それでは。

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十二年周期で太陽を廻る木星。今、ちょうど地球と近い位置にいるようです。太陽の反対側にいますので、夜更けとともに東からあがり、美しく輝いています。ちなみに、木星の右側には土星、左側には火星が見えます。ここまでは東京でも肉眼で見えます。そして木星のさらに奥に海王星が居るはずですが、肉眼では見ることはできません。

木星はJupiterですので、ローマ神話のユピテル、つまりゼウスというわけで、神々の長ですが、火星の、さらにその先にある小惑星帯を超えた遙か遠くにもかかわらず、燦然と輝くのはやはり神々しさしかありません。ホルストの組曲「惑星」では快楽をもたらす者、とされていました。英語では、Jollity。英和大辞典を開くと、愉快、陽気、パーティー、祝賀会と言った意味があります。なにか、快楽と言うよりも幸福をもたらす者、と言い換えたくなります。

幸福をもたらす星を見つめ,幸福を引き寄せるのも良いのではないでしょうか。

それではみなさま、おやすみなさい。

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いよいよ8月も終わり。夏を愛する者には、寂しさしか残りません。来年のナツが待ち遠しい。あの、輝く太陽に灼かれる愉楽は何にも変え難いものです。

そんな季節にふさわしいのかもしれませんが、それでもやはり周回遅れであることは変わりないのですが、この数ヶ月に渡って夜な夜なコツコツと楽しんでいたものが終わりました。

何年前なのかすら定かではない朝のドラマ「ちゅらさん」を、全話見終わったというもの。

今年は、沖縄復帰50年ということで、5月にNHKで総集編の再放送があり、長らくのちゅらさんファンとして、当然復習を兼ねて見たわけですが、これがまたじつに面白い…。

で、頑張って再放送を録画したDVDを引っ張り出して見始めたのですが、やはり総集編ではわからないディテールの面白さがあり、ついつい見続けたものの、DVDがエラーで読めず、途方に暮れていたのですが、偉大なるAmazon prime video で全話公開されているではないか、ということがわかり、毎日、夜中に安いワインを飲み、ご飯を食べながら見続けまして、今週やっと全話制覇となりました。

「戦闘的オプティミズム」という言葉を私はよく使いますが、まさに、オプティミズムに彩られたドラマで、もちろん、それは、なにかご都合主義とも取られるのでしょうけれど、方法論的には全く正しい考え方と思います。生きるためにはオプティミズムが必要なのです。この世界においては。

そうした思考の訓練にも適した実用的なドラマと思い、何があっても、八重山のてぃだ(太陽)が治してくれるのでは、と思ってしまい、同じ太陽なんだから、東京のたいようであっても、やはりなんでも治してくれる、と方法論的に信じてしまえば良い、と思うわけです。

そういえば、数年前に、太陽は万人に降り注ぐ,という言葉に酔ったことがありましたが、まあ、太陽神が古来崇められたように、光も暖かさも、ありがたいものだ、と思うしかありません。

夏の終わりに、ちゅらさんで太陽を感じたのも、やはり何か一つの縁であったようにも思います。

旧暦ではとうに秋ですが、新暦でも九月という秋の月に入り、東京地方の朝晩も随分過ごしやすくなり、ありがたさもある一方で、冒頭の触れたように、寂しさを感じます。かつては、秋が待ち遠しいと感じる頃もありましたが、人生も半周を終えると、その終末を感じとるようなり、人生の盛夏と、夏の太陽を重ね合わせて、夏に未練を感じるようになったのかもしれません。

なんてことを思いながら、帰宅の電車に揺られております。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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本当につれづれな日々が続いています。皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。

一昨日でしたか、夜、仕事場を出ると思いのほか涼しい風が吹いていて、いよいよ秋が来るのか、と、何か寂しさを感じている今日この頃であります。

個人的には、暑い夏が好きで、7月、8月と太陽と暑さを満喫していましたが、名残惜しいですね。

今週は、レヴァインが振るリングを聞いていました。

久々に、ワーグナーの不協和音群を聴いて何か心休まる気分です。懐かしさしかありません。音楽も文学も、人間の内奥へアクセスするための小道Pathではないか、と思います。芸術は、人の頭がこしらえて考えるものではなく、何かそうした源泉へと通じるものでないといけないのでしょう。

最近の新しい小説を読もうにも手に取ることができない理由は、何か拵えもののように感じてしまうからだと思います。少し前に読んだ本は、論理的なトリックや読者の勘違いを利用した推理小説のような本で、確かにその場はゲーム的な謎解きの感覚で面白いのですが、それだけなの?という感覚があったように思います。

辻邦生もやはり、そんな疑問を若い頃持っておられたはずで、それを世界全体を掴む直観のような、主観性の追求による全体客観性の獲得という文脈で突破したのだと思っています。

ワーグナーの不協和音も、何か、それまでの協和音的な規則や論理を、直観的に突破して、ひとつ内奥へと進んだ感覚があります。何か奥底にある本質の襞に波のように寄り添うような和音の連なりだな、と思います。

どうも、日々の仕事すらも何か頭で拵えた表層的なもののように思い、人それぞれの拵えた妥当性のない表層的なものがいくつも重なり、意味を失っていくような、そんな危うさを感じます。そうした一つ一つは意味のない拵え物の中から、本質的なものへと進みうる直感(最近の流行り言葉で言うと仮説)を得て深めていく(論理を整える)ということの大切さを感じます。

なんてことを思いながら、この週末を過ごしております。

というか、まあ、もう少しこうして文章に落とすことを、昔のように頻度を高めてやっていかんとなあ、と思います。ブログという20年前のレガシーなスキームですが、ピンとくる代替もありませんので、今しばらく続けて行くかなあ、と思っています。

それではみなさま、ありがとうございました。

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先日とった夕暮れの風景。

暮れなずむときです。空に誰かが文字を書いたような巻雲が。みなさまならなんとよむでしょうか。

時間はつくるものなんだよ、という言葉をよく聞きますが、まあ、時間は創るものなのでしょう。文章を書くということも、やはり時間を創る中で可能なことです。

美しさを表現するのが芸術の仕事だと思いますが、さまざまなメディアで芸術表現をしようとした時に、さて、文章の場合はどのように表現するべきなのかな、ということをこの風景を見ながら考えてしまいました。そうした議論はもはやされ尽くした感はあるのでしょうけれど、あらためて自ら考えてみたとすると、文章そのものの美しさと、文章が表すものの美しさがあるのでしょう。それを、表現の美しさと意味の美しさとしてとらえてみて、例えば詩的表現は前者であろうし、文章自体が伝える風景や行為の美しさは後者に当たるでしょう。

文章で伝えられないことはないという信念を持つ、ということを辻邦生は述べていたと記憶していますが、鈴木大拙を読んでいると、文章で表現できないこともあるわけでもあり、ただ、自分の世界を他者に伝えるというチャレンジをするという観点で、文章表現に意味があるのでしょう。

そもそも、個の世界と他の世界は全く違うわけで、それが、辻邦生が感じた、私が世界を包み込む、という感覚だったと思います。パリの芸術橋で、パリの風景そのものが自分に属するものであると感じたというあの逸話のことなのですが、私も同じインプレッションを数年前に得たことがあり、しかしそれは実に孤独に満ちた厳しい感覚で、広大で狭い宇宙に一人閉じ込められている感覚をも持ったものでした。

辻邦生は、私の世界を伝えるという欲求があるから文章を書くのだ、ということを述べています。

ぼくの世界で、ぼくが死んでしまうと、だれものそのなかに入って知ることはできない。だから、この世界をだれかほかの人に伝えるためには、その感じ方、色彩、雰囲気を正確に書かないと、ぼくが死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういうものを書き残すのも文学の一つの大事な仕事なのではないか。

辻邦生「言葉の箱」

文章において、「私」が感じた美的感興を、表現美と意味美において書き続けるということ。それが、芸術としての文章の在り方なのでしょう。

しかし、そのためには、美的感興を捉えることがあり、あるいはそれは美である以上、普遍的なものにつながっている必要があります。それを論理と説明で行うことはできないはずで(これは直感的感覚で今後取り組まなければならないことではあるのですが)、文章の論理性説明性を矛盾するところの普遍性を表現するということに、文章表現の難しさがあるということなのだと思います。それは、何かキリスト教で言うところの受肉という言葉を思い起こすほどの困難さを感じます。

などと考えながら、過ごしている最近でございます。。

それでは。。

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永く続くものは、それ自体で善である、と言う話を聞いたこともありますが、生まれた頃には、生誕100年あまりだったマーラーも、気づけば生誕150年を通り過ぎていますので、歴史のなかに身を置いていることを実感します。刹那の重なりが歴史ですが、そこには揺蕩う流れがあるのでしょう。

ワーグナーもブルックナーも同じく遠ざかっていますが、やはり永く続くものは善であり、その永きあいだにも進化を遂げるのでしょう。それは、まるで福利効果で財を増やすにも似ています。時間それ自体が価値となるわけですから。

先日もすこし触れたアンドリス・ネルソンスのブルックナーのアルバム群は、何か、そうした新しく価値が付与されたブルックナーであるように感じました。10年ほど前に、ベルリンでリヒャルト・シュトラウスを童心に帰ったような表情で棒をふるネルソンスをみたことがありますが、本当に音楽の幸福を体現するかのようです。

先ほど読んでいた鈴木大拙に「画家は、絵を描くとき、絵と一体となる」という趣旨の文章がありましたが、音楽との一体性を体現している姿に見えたものです。

今聴いているブルックナーの6番は、過去にサヴァリッシュがN響をふった音源がデフォルトになっていて、そこには、なにかドイツのフォルクルムジークのような野生味を感じたもので(何かヨッフムのイメージとも重なるのですが)、それは、ドイツに足を踏み入れなければわからない、民族的な感覚だと思うのです。激しい三連符がそう感じさせるのかもしれません。

しかし、ネルソンスのこのアルバムにおいては、そうした民族性は影を潜め、アバドのような清廉さと、マゼールのようなスケールの大きさが融合し、西欧それ自体を感じさせるもののように思います。ネルソンスは、欧州連合の最果ての地ラトビアに生まれたわけですが、西欧を西欧よりも意識する立場にあっなはずで、その普遍への意志は、これもまた我田引水ではありますが、ローマを体現しようとしたユリアヌス皇帝とあわせみてしまうのであり、それもまた、2022年2月以降という時代だからこその解釈が生み出した新たな価値とも言えるものだと思います。

どうも最近は、ブラームスかブルックナーという日々が続きますが、休みなかは、こうやって出来るだけ発信してみようと思います。

それではおやすみなさい。

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新緑が美しい季節になりつつあります。世間はGW。しかしなにか落ち着きません。

最近はブラームスの交響曲、ピアノ曲、そしてドイツレクイエム。

本はなぜか鈴木大拙。壮絶な方。30年ぶりぐらいに岩波文庫の青帯を買ってしまいました。元哲学科の血が騒ぎます……。

 

いろいろと軌道修正していかないと行けない今日この頃。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。