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今日は、縁あって音楽教室の発表会に来ました。この危機の時代にあって、どうにもあまり気が進まず、開演に少し遅れて会場に入ったのですが、そのまま2時間、子どもたちの音楽に聴き入ってしまいました。

グローバルでは戦争にも比される状況でもあり、これから訪れるであろう経済危機を思うと、不安の時代に入ってしまったようにも思うのですが、そんななかにあっても、一生懸命奏でられる音楽は、予想以上に心に響きました。

かつても書きましたが、こうした幸福の雫を探して、厳しい時代を乗り越えないと、と思います。

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世界は美しいですね。

先週、冬空の公園へ行きました。太陽の光をたっぷり浴びました。心地よい幸福な瞬間。そうした幸福の瞬間瞬間が永遠です。幸福そうな人々が歩き集い、なんとも素晴らしい雰囲気でした。

また、明日も美しい世界であるように、と願わずにはいられません。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

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あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願いいたします。

最近仕事が忙しくて、なかなか更新できず、思うようにいかないのですが、昨日も書きましたように、文学や音楽は社会にとって大切なものであると言う信念は変わりません。何かしらの発信をすることが、わずかながらでも何かを変えるきっかけになるのではないか、と言う思いです。

最近は、テクノロジーが発展して、文章の書き方も変わってきました。昔はキーボードで入力していたものが、スマホや携帯で入力できるようになり、今私は音声入力でこの文章を書いています。こうしたテクノロジーを利用して、普遍的な価値や概念をうまく表現していく、というのが、私のミッションだと思っています。

時間がない中、忙しい中ではありますが、少しでもインプットしアウトプットする活動を続けようと思います。

写真は、今朝方撮った初日の出です。今朝方の東京地方は、東方に低い雲が流れており、日の出を見るコンディションではありませんでした。ですが、幸いにも私のいるところからは雲の隙間から鮮やかな初日の出が見られました。雲の隙間から放たれる光が新宿の高層ビル群に降り注ぐ様子は何か神々しいものです。

今年が皆様にとっても良い年でありますように。

そして、あらためまして本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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もう一年経ってしまいました。早いものです。

今年もめまぐるしい一年でした。今年は「変わる」ことを目標にする、としましたが、どうだったでしょうか。変わることはそれなりに負荷がかかるものですが、さいわいなことに、今年は体力も気力も随分と充実していたようで、そうした負荷にも耐えられています。

このブログの更新ももう少しふやしたいなあ。私としては、世界を支えるのは最終的には、音楽や文学だと思っています。資本主義の世界にあって、すべての価値が金銭で測らてはいますが、たかだか数百年のことでしかありません。数千年の人類の歴史において、語られ、奏でられ、祈られたものにはそれなりの意味があります。

来年は充実したやりがいのある一年になります。世界を支える真善美信を見やりながら、先に進んでいこうと思います。

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生命の流れとは、この胸を突き上げてくる大きな歓びであった。ただ地上に生きてあること──そのことがすでに酔うような歓びであった。桜は自らもその歓びに酔いしれながら咲き誇っていた。

生きるための仕事(それはそれで困ったことに面白いのですが)に精一杯な状況に追い込まれ、それはあと数年は続くのだろうなあ、という予想を抱きながら、週末はただひたすら営業日の疲れを癒やすためにハイバーネーションに勤しんでいるのですが、日曜日の夜になるとようやく時間ができる感じです。

サイトウキネンオーケストラのブラームスを聴きながら、1993年3月に読んだ辻邦生の『神々の愛でし海』の納められた短篇『桜の国へ そして桜の国から』を読みました。

100の短篇の最後(実際にはエピローグの一つ前)を飾るにふさわしい美しさを湛えた短篇で、おそらくは10年ぶりぐらいに読んだのですが、目頭が熱くなる思いを抱きました。

日本も西欧もおなじものである、という感覚。それは、日本のおける戦時中の思想弾圧も、フランス中世の宗教弾圧や近世革命の殺戮も、やはり同じ人間のなすべきものであるし、あるいは料亭の庭や建物の美しさも、フランスのレストランのギャルソンの芸術的挙措もやはり、同じ人間のなすべきもの。日本だけが、とか、西欧だから、とか、実際はそういう区別はないのではないか、という感覚。

そして、年老いた母と、自らの子を宿したフランス人の妻が二人で歩く姿をみて、こう語り、100の短篇は幕を閉じるわけです。

母たちがつねに永遠なるものに向かって行き、そして永遠なるものから来る人であるのを私はその時ほど強く信じたことはなかったのだから。

永遠なるもの。それは人間一人一人の一生であり、人類という我々の種の永遠性でもあります。人類はこれからどうなるのか、そういうことを考えながら、なにか答えのない現代への抗いのようなものを感じながら短篇の余韻に浸っています。

また、明日から生きるための仕事にもどります。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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本当に書く時間がとれず、という感じの日々が続いています。

なぜ書けないのか?

  • 書く時間がとれない
  • 書くネタがない
  • 書くツールがいまいち

そんな感じのことを考えています。

この三つの要因の中で一番重要なのは、書くツールがイマイチなんだろうなあということ。

端末の前に座ってキーボードをたたく、というのが昔ながらの文章の書き方ですが、どうも最近はさまざまな選択肢が増えていて、スマホのフリック入力であったり、音声入力であったり、という感じです。

個人的にはスマホのフリック入力はあまり好きではなく、音声入力だと思った以上に文章が長くなってしまったり、と今ひとつというところです。

結局のところキーボード入力に落ち着くのですが、最近、肩こりの関係か、指がこわばるようになり、キーストロークの深いキーボードが打ちにくく鳴ってしまいました。キーストロークの短いキーボードを買おうか、などと思っているうちに時間がたっている状況です。

だから、いざ書こうにも何か抵抗を感じてしまうのだろうなあ、と思っています。

まあ、生活もずいぶん変わってしまい(といっても部署が変わっただけですが)、生活パターンも乱れぎみ。今日も早く寝ないといけないのに、久々に文章を書いて喜んでいる感じです。

そろそろ切り上げて寝ることにいたします。おやすみなさい。グーテナハトです。

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それにしてもなかなか時間が取れない毎日がつづいています。本を読むにもなにをするにもなかなか時間が取れず、と言う感じ。時間は作るものだ、という話は良く聴きますが、それも限度があります。結局減るのは睡眠時間ですから。

どうも、冬に近づき、太陽が早く沈むようになると、さすがに元気もなくなります。やはり、私は夏が好きで、たしかに猛暑であろうとも、輝く日差しが窓から差し込んでいるほうが好きです。

それにしても、10月も後半になると、日没時間も16時台になってしまい(東京地方は16時55分だそうです)、驚いています。早く冬至を越えて、夏へ向かう公転の旅へと移行していきたいものです。

来年の夏が待ち遠しくてしかたがありません。銀色に輝くアスファルトを早く眺めたいです!

今日は短めに、おやすみなさい。グーテナハトです。

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先日、以下の記事を読みました。

週に何分以上を自然の中で過ごせば健康さや幸福度が増すのか、その最低ラインが研究で判明
https://gigazine.net/news/20190921-2-hours-a-week-nature/

記事によると、週に2時間程度自然に触れると、健康や幸福感につながるというもの。確かに、最近、全く自然に触れてないなあ、と。

記録を確認すると、最後に「自然」に触れたのは、夏休みに行った房総の海岸以来だなあ、と。真夏は諸事情によりなかなか外出できないのです。

久々に行った近所の「自然」は、実に雄大に思え、広々とした農地を突っ切る畑道を走ったり、久々に湿った林の空気を吸って、気分が良くなった気がします。

今日は2時間弱ほど「自然」の中に居たようで、すこし気分がはれた気がします。で、さまざまな決断ができたのかもしれません。本当に、人間は考えるだけではだめで、身体を動かしたり、外気に触れたりしないと行けないみたいです。

またあすから仕事。すこしは外気に触れるように過ごしてみないと、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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少しご無沙汰になりました。

本当にもう、なかなか時間が取れなくて…。

近況?ですが、最近、アルコールをかなりやめてまして、8月は二回しか飲んでおらず、今月も、一回飲んだだけ。

メリットは、もちろん家計に優しいことと、帰宅してから自分の時間が少しできたこと。

デメリットは、寝る時間が遅くなってしまったこと。アルコール飲んで、さっと寝ていたのですが、やるべきことをられるようになったので、夜更かし気味。

で、スッキリ目覚める?と思いきや、なかなかそうは行きません。アルコールやめて、睡眠時間を取れば、体調は良くなるはずですが、レガシーな仕事なので、帰宅が遅く、手詰まりを感じています。都心に引っ越すと解決するのかしら…。

さて、最近は、イリアーヌ・イリアスを聴くことが多いです。疲れた時はイリアーヌ。ここ15年ほどお世話になっています。気だるいボーカルが本当に素晴らしいです。



さしあたり、週末はカレンダー通り休めるのでありがたいです。

それでは。

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この週末は、ライトなフュージョンを聴いて、心身を癒していましたが、帰宅途中にふと思い立ち、マーラーに戻ってきました。

交響曲第10番をダニエル・ハーディングの指揮で。

何か、極北という言葉を思い出してしまい、マーラーの極北とか、交響曲の極北とか、そんなことを思いながら聴いています。

芸術の世界は厳しく、時に厳寒ですらありますが、その先にはおそらくはオーロラが天を舞う瞬間があるはずで、それは、なにか人智を超えた神的なものに触れているとさえ思うこともあるでしょう。

そういう瞬間は、芸術家はもちろん、芸術を受容する我々にも時に訪れるものです。

暗い車窓の向こうを、流れる街灯の波を眺めながら、耳から流れ込むマーラーの19世紀ロマンの残滓は、何から冷たい棘のようでもあり、冷たい夜の石畳に横たわっているようでもあり、黴の匂いのする地下道に立ちすくむようでもあり、ともかく、何か、不安と、冷たさと、あるいはそこにある美しいものに触らんとするが触れないようなもどかしさがあります。

この得体の知れない不安は、おそらくはロマンの時代19世紀が刻一刻と遠ざかる感覚で、19年前に、19世紀は、前世紀という称号を剥奪され、パイオニア11号が太陽系から去りゆくように、19世紀の、その精神と記憶が、色と影を失って行くのを感じるからではないか。そんなことを思いながら、乗客のいなくなった車両の中で、小さな画面を見つめ、畢竟の不協和音に聴き入る感じです。

私たちの19世紀はどこへ行ってしまったのか。そんなことを思いながら、列車に揺られています。

今日は早く眠りたくて、早く仕事場を出ようとしましたが無理でした。明日は早く帰宅したいですがどうでしょうか。

それではみなさま、おやすみなさい。