Miscellaneous

つれづれな日々が続きます。とにかく、なにか、ひたすらに打ち込む日々、という感じ。世界がぐるぐるとまわり、変貌している感じがします。

この数日は、ブルックナーの緩徐楽章を聞くことが多く、特に、久々に涙がでたのが、アバドのふるブルックナー交響曲第一番第二楽章。

最近まで、ハイディンク盤で聞いていたのですが、アバド盤を聞いたところ、神韻を感じるほどでした。

この絶妙なテンポコントロールは、手を小刻みに揺らし、口を少し開き、遠くを見遣る目でオケに対峙する恍惚としたアバドの風情をそのままに感じるのです。

先日も書きましたが、すでに、なにか、人生全体を掴んでしまったように思え、こうした現世の喜びを感じることに鈍くなりつつあるなかで、久々に、まるで梅のつぼみが黒々とした枝につくのを眺めたような、そんな風情を瞬間に感じたのでした。

最近は、現世よりも、なにかその外にあるものの、淡い気配のようなものに感じいるようなこともあり、ただ、そうした気配は、今までは音楽のなかで感じていたはずなのに、そこにその気配を感じることがなくなり、それがまた、音楽全体を掴んでしまったように覚える原因でもあるのですが、何か、この音源のなかに淡い気配を感じたのでした。

ですが、その気配は、まるで、花が散るように、霧のなかへ去り、また、黒々とした枝の生い茂る、現世の中へと戻ってしまうことになるのです。

そのときの無常感は、なにか、美しさや感動が惰性に負けてしまうやうな、あるいは、花が手折られたやうな、辻邦生なら、暗い窖とでも表現するやうな、そうした、巻き戻せない無常を感じたのでした。

音楽は、容赦なく進み、いつかは終わりを迎えますが、奏でられ、聴かれる事を繰り返すことで、そこに新たな意味が立ち現れ、音楽の記憶のなかに組み込まれていきます。せめて、そうした豊かな輪廻のなかで、あるいは、はかない無常のなかに、拠るべきところをもう一度見つけたい、と思うのです。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

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松の内も過ぎ、2022年も本格始動。昨週には、新年早々乗り切った仕事のプレゼンも終わり、淡々たした週末を過ごした後に、今日は故あって休日出勤。ただ、お昼も出て、いつもよりはやくかえれるのでありがたいことです。

人生も折り返すと、なかなか新たな体験経験に恵まれる可能性もも少なくなります。さまざまな情報に曝露されていると何事にもそうそう驚くこともなくなります。良いことなのか悪いことなのか。

テクノロジの進歩も、なにか予想通りの感覚もありますし、音楽も、嗜好に合う音楽はほぼ聞き尽くした錯覚に陥ることがあります。

とはいえ、新たなテクノロジの可能性に触れることなくしては仕事を続けることは出来ず、また音楽も常に聞き続けないと生きていけません。テクノロジと音楽には助けられてここまで来ているわけで感謝しかありません。

あるいは活字も。かつてのように、車中で文庫本を読むことは少なくなりましたが、Kindle本を肌身から離すことはありません。

活力に溢れ、さしあたりは動いてはいますが、なにか空疎な感覚にも苛まれます。

疲れているわけでもなく、逆に、動くのを止めるのが苦悩につながることもわかっていますので、粛々淡々と動き続けるわけですが、それはそれで、やはり砂を噛むような感覚は否めません。

まさに、ここで必要なのが、辻邦生のいう「生きる喜び」でなければなりません。雲が行き交い、花々がベランダに咲き乱れ、夕陽がビルを照らし反射して、まるでいくつもの太陽に囲まれているような時に感じる浄福感。目を挙げて植木を見やると冬なのに淡い緑の新芽が出ているときの喜ばしさ。こういう世界の美しさに目を向けることが、迫り来る黒黒とした虚無と戦う、ということなのだと思います。

何か、落ち着いた静かな光に満ちた世界のなかで、晴耕雨読のような生活を送る、という幻想。それは、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」の第二幕冒頭で、中国の大臣たちが憧憬する生活を思い出します。そんな静かな世界で本に囲まれ、知らない世界に迫りたい、という儚い思い。

私はホーナンに家を持っている

青い湖があって

そこは竹に囲まれている

トゥーランドット 第二幕

言葉の力は強力です。静謐なトゥーランドットの大臣の家のように、あるいは、辻邦生が描く、南仏の風景のような光に満ちた世界がきっとわたしにも訪れることでしょう。

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新年となりました。

とにかく、昨年は文章を書けず、やれやれという感じでしたが、今年はピッチ変えないと後が続かないな、とひしひしと。

会社でチャートばかり作っていると文章で表現することの重要性を忘れてしまいそうになりますし、心も荒みます。文学、哲学にもう少し向き合う時間を増やさないと、道を間違えそうです。今年はそういう本を読みつつ、文章を書く仕事も増やさないとなあ、と思います。ここに書くことも少し幅を拡げても良いのかもしれないとも思いました。

今年も皆様にとって良い年でありますように。

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師走押し迫る冬空で取った一枚。

辻邦生「春の戴冠」を読むと、語り手ロドリゴの父で実業を営むのマッテオが、暗い窖への転落を恐れ必死に学問に打ち込む姿が描かれていましたが、なんだかそういった気分がよくわかる年頃になってきた一年間でした。

にしてはあまり書くことはできませんでしたが、仕事系で、ひたすら書き続けた(いや、チャートを作り続けたということになりますが)一年だったりしました。

まあ、いろいろありましたが、来年はおそらくさらに良い年になるようですので、引き続き攻め続けてみようか、と思います。

どうかみなさまもよいお年をお迎えください。

 

 

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冬至となりました。

冬至は、再生の日のような気が致します。太陽の光が弱りながらも、ふたたび力を増す境となる日です。

人生もやはり誕生と再生の繰り返しなんだろう、と思いますが、そんなことを思いながらこちら。クライバーの運命を。

https://music.apple.com/jp/album/beethoven-symphonies-nos-5-7/880709749

運命は円環です。誕生から死へ。そしておそらくは新たなる生へ。太陽の光のように周り巡るもの。

冬至は再生へのスタートと思います。

それでは。

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いや、こんなに書く時間がなくなるなんて思いもよりませんでした。書くことがライフワークなはずなのに。

今月はとある資格試験を受けて、微妙な感じで資格を取り、このあとどうしていこうかな、という感じになっています。いろいろと自由に考えられそうな今日この頃。

ただ、この虚しさが流れ落ちる感覚はどうしようもありません。

辻邦生はおそらくは虚無と戦っていたからこそ生きる喜びを語り続けたのだ、と、この数年は解釈しています。

虚無を埋めるために、ただただ動き続けている感覚があります。

なんてことを書いていたら、そろそろ小説書けるんじゃないか、と思い始めてきました。やれやれ。まあ、ストーリーはないんですが。

それではみなさま、おやすみなさい。

 

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つれづればかりですいません。本を手に取ることも、音楽を聴くこともできない一日でした。

泳ぐ習慣をつけてもうすぐ7年になろうとしています。その割には、なかなか上達しません。クロールで500メートル泳ぐのがやっと、と言うところです。それ以上泳ぐと、体力を消耗してしまう感もあり、できる方々が毎日何千メートルも泳いでいるという話を聴くにつけて、やれやれ、と想います。500メートル泳ぐと大体15分程度ですが、まあ、その間に、さまざま考えたりしますので、そうそう無駄ではないのでしょう。発想が浮かぶタイミングのひとつが、泳いでいるとき、なんだと想います。

振り返ってなぜ泳いでいるのか、考えてみると、どうもこれ、辻邦生の教えに従っているような気がしてなりません。「言葉の箱」では、ギリシア人を引き合いに、健全な精神は健全な肉体に宿る、と言うことが述べられています。それを読んで、何かスポーツをやらんとなあ、と想ったときに飛びついたのが水泳だった、と言うことで、もちろんきわめてながい中断期を経て、7年前から本格的に泳ぎ始めたのでした。

やはり、泳いでいると、思考の進み具合がちがう気がしてならないですし、仕事の生産性も上がる気がします。まあ、普通の会社はそんなことはおかまいなしで、長時間労働を強いますので、自分で気をつけるしか在りません。

コロナの影響で、泳げる時間が縮まり、今後どうなるか分からないのですが、そうであったとしても、いろいろ工夫しないとなあ、と言う感じですかね。。はやく日常に戻ると良いのですが。

と言うことで、みなさまもどうかお気をつけください。おやすみなさい。グーテナハトです。

 

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きょうもつれづれ。

満月は昨夜だったようですが、今日も月が実に美しいです。月の光は、青白くもあり、あるいは温かみもあり、冷静でありながらもそこになにか訴えかける心情のようなものも感じられるものだなあ、と想いました。

その月も、雲に隠れたり、あるいは雲から出たり、あるいは雲の後ろから朧な光を放ったり。それは人の心かあるいは人生の機微なのか。ともかく、どうしたって、満月は29日ごとに訪れるわけで、満月すべてが雲とともにあるわけでもなく、それは歴史や人生に合っても同じなのだろう、と想います。

闇夜に光る月は意外にも明るいです。世界もやはり意外にも明るいのかも知れない、と想い、そこに応じてリスクをとっていかなければ、と想ったりもします。「ファクトフルネス」という本が数年前売れましたが、人はとかくネガティブに陥りやすいものですが、先日触れた「戦闘的オプチミスムス」のように、闇夜の中にも光があり、あるいはいつかは夜が明けるということを戦闘的に信じて行動しないといかんなあ、と想いながら、月の光をを浴びている感じです。そう言う、あえてオプティミスムスを謙虚と感謝とともに採択する、という訓練はこのところずいぶんやってきたなあ、という気もしつつ……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

(写真は昨年10月の満月です。)

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今日の東京地方は、曇りの予報でしたが、意外に日差しが差し込む場面がありました。湿気はありつつも、明るい日差しと爽やかな空気に包まれていて、なにか夏の避暑地のような風情を感じました。写真は近所のカボチャ畑。右下に地面に転がるカボチャが見えます。

かぼちゃだけではなく、トウモロコシはもちろん、なす、きゅうりも見かけるようになり、夏野菜が横溢しています。真夏の日差しを浴びるだけで、なにかすべての憂いが溶かされるような気分になります。太陽は、物理的にも精神的にも偉大な力を持っているということを感じます。昔の職場では、なぜか日中ブラインドが閉められていて、外光が入りませんでした。それだけで苦しみを覚えた記憶があります。まぶしいから閉めるのだ、という方々の意見には勝てず、というところ。。辛く酷い日々でした。もっと光を浴びていれば、と思うことがよくあります。

明日も晴れるといいのですが。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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写真は先日の空。雲の文様があまりにも玄妙に美しく声を上げてしまいました写真となるとなにかその感動が薄れてしまうのはやむなし、です。

やはり週末明けはなかなか大変です。今日もなかなか読み書きできず。

とはいえ、先日も触れたように、なにか「生きる喜び」というものの必要性を考えながら過している感はあります。永遠の反覆の生きると言うことをいかに彩色豊かに染上げることができるのか。

ぼくらがだんだんと年を取ってくると、そういう自分の好きな現実が、一般の現実のなかに確かにあって、それは非常に大きな力で日々のぼくたちの生活に影響を与え、むしろそれを支えているんだということがわかるようになる。

辻邦生「言葉の箱」中公文庫、41ページ

この文章もキーかもしれないなあ、などと思います。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。