Miscellaneous

きょうもつれづれ。

満月は昨夜だったようですが、今日も月が実に美しいです。月の光は、青白くもあり、あるいは温かみもあり、冷静でありながらもそこになにか訴えかける心情のようなものも感じられるものだなあ、と想いました。

その月も、雲に隠れたり、あるいは雲から出たり、あるいは雲の後ろから朧な光を放ったり。それは人の心かあるいは人生の機微なのか。ともかく、どうしたって、満月は29日ごとに訪れるわけで、満月すべてが雲とともにあるわけでもなく、それは歴史や人生に合っても同じなのだろう、と想います。

闇夜に光る月は意外にも明るいです。世界もやはり意外にも明るいのかも知れない、と想い、そこに応じてリスクをとっていかなければ、と想ったりもします。「ファクトフルネス」という本が数年前売れましたが、人はとかくネガティブに陥りやすいものですが、先日触れた「戦闘的オプチミスムス」のように、闇夜の中にも光があり、あるいはいつかは夜が明けるということを戦闘的に信じて行動しないといかんなあ、と想いながら、月の光をを浴びている感じです。そう言う、あえてオプティミスムスを謙虚と感謝とともに採択する、という訓練はこのところずいぶんやってきたなあ、という気もしつつ……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

(写真は昨年10月の満月です。)

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今日の東京地方は、曇りの予報でしたが、意外に日差しが差し込む場面がありました。湿気はありつつも、明るい日差しと爽やかな空気に包まれていて、なにか夏の避暑地のような風情を感じました。写真は近所のカボチャ畑。右下に地面に転がるカボチャが見えます。

かぼちゃだけではなく、トウモロコシはもちろん、なす、きゅうりも見かけるようになり、夏野菜が横溢しています。真夏の日差しを浴びるだけで、なにかすべての憂いが溶かされるような気分になります。太陽は、物理的にも精神的にも偉大な力を持っているということを感じます。昔の職場では、なぜか日中ブラインドが閉められていて、外光が入りませんでした。それだけで苦しみを覚えた記憶があります。まぶしいから閉めるのだ、という方々の意見には勝てず、というところ。。辛く酷い日々でした。もっと光を浴びていれば、と思うことがよくあります。

明日も晴れるといいのですが。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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写真は先日の空。雲の文様があまりにも玄妙に美しく声を上げてしまいました写真となるとなにかその感動が薄れてしまうのはやむなし、です。

やはり週末明けはなかなか大変です。今日もなかなか読み書きできず。

とはいえ、先日も触れたように、なにか「生きる喜び」というものの必要性を考えながら過している感はあります。永遠の反覆の生きると言うことをいかに彩色豊かに染上げることができるのか。

ぼくらがだんだんと年を取ってくると、そういう自分の好きな現実が、一般の現実のなかに確かにあって、それは非常に大きな力で日々のぼくたちの生活に影響を与え、むしろそれを支えているんだということがわかるようになる。

辻邦生「言葉の箱」中公文庫、41ページ

この文章もキーかもしれないなあ、などと思います。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

久々休日でしたが、それでもなお、肉体的に動いた感じもありました。明日に備えないと。

今日は、アバドとクレーメルの「四季」を。

この音源、大昔、小学生の頃にカセットテープを買った記憶がありますを3,000円でした。よく買ってもらえたものです。当時は、「冬」の鮮烈な演奏に衝撃を受けたものです。

四季といえばこの演奏になってしまい、それ以外の演奏はなかなか入ってこないなあ、と言う感じです。なんでも最初が肝心です。

明日からまた頑張ろうと思います。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

 

今日も在宅。久々に晴れ間が広がり、どうしても日光が浴びたくなり、夕方少し前に抜け出して10分だけ近所を歩きました。この太陽の光に満ちた初夏の風景は余りに奇跡的で、おそらくは、おなじ太陽高度をであろう7月初旬は暑熱に見舞われ、

こうも気楽に外を歩くことはできないでしょうから。こうした一片の幸福感を、なにか幸せのおはじきを集めて、それらを頼りに活きていくと言うことなんだろうなあ、と、先日読んだ「黄金の時刻の滴り」を読んで思いました。
近所の畑のトウモロコシの背は高くなり、キュウリは黄色い花をつけ、ジャガイモの薄紫色の小さな花は地中に眠るジャガイモののありかを示す導灯のようです。トウモロコシの艶のある細い葉に太陽の光が反射すると、なにか畑が光に波打つように見えます。
明日から夏日となるようです。湿度も上がっていますが、一足早い夏を在宅で味わい、幸せのおはじきをいくつか集めたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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5月もおしまい。6月もまた少し状況が変わりつつ、攻める時間を作れそうな一ヶ月になりそうな気配です。

今日は慌ただしく一日が過ぎましあが、さしあたりはレヴィンが振るブラームス交響曲第4番第二楽章を聴きながら走りました。冒頭のホルンが、夕刻の田園風景にぴったり。明日からは近所のプールも再開されることになり、運が良ければランイングと水泳を行けるかもしれないです。

明日からはApple Musicがロスレスとなります。公式にはDACがなければ規格的なロスレス音源を愉しむことはできないようですが、幾ばくかは改善するのか、など試してみようと思っています。

Apple Musicロスレス詳細発表。AirPodsはロスレスで聴けず
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1326469.html

なにかしら確認する愉しみがありそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Johannes Brahms,Miscellaneous

先日発売になったApple TV 4Kを導入してみました。

目的としては、居間で音楽を気兼ねなく聴くということと、Macの画面を居間のテレビでシームレスに映したい、というのが目的ですが、1日使った感じでは良い感じです。とにかくiPhoneを使わずにAppleMusicを使えるのは気楽です。

とはいえ、こういうレビューのような記事は、往々にして最初の印象となりがちです。一定の期間使わないとその善し悪しは分からないはずで、Apple TVもやはりそうなんだろうな、と思います。

現在のライフスタイルは、映画を見る時間を作っておらず、代わりに読書時間を増やしているので、映画のような動画をみることもあまりないでしょうし、ゲームもいまはまだしない感じ。

とはいえ、なにかテレビがApple製品と繋がるというのは、また囲い込まれてしまった、というヤラレてしまった感はありながらも、シームレスにものごとを進めると言う観点では、生活の質があがるのでは、と言う期待を持っています。

数ヶ月後に感想を書こうと思ったときに、どんな感想をかくことになるのか……。きっと良い感想ではないか、と期待しています。

さて、今日もやはり、ブラームスを聴いて過ごした感じです。アバドのブラームス大一番。何度も何度も、浮かされたようにこの半年間聞き続けている感じ。第一楽章冒頭のテンポ感を聴くのが主目的になっていますね。。ラトルの演奏も聴いてみましたが、テンポ感が一番フィットするのがこのアバド盤です。少し遅いテンポ感で広大な空間を想起させるもので、これ以上遅くなっていくと空間がガラガラと崩れてしまうところ、ちょうど良いバランスで崩壊寸前の美しさを現前させている、と思います。

明日の東京地方は久々に晴れるとのこと。雨も趣深いですが、やはり太陽の光が恋しいですね。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

5月になりました。どんどん夏が近づいています。

今日は在宅勤務で、窓の外に拡がる夏の日差しを感じながらデスクワークに勤しみましたが、夕方、これはさすがに太陽の光を浴びないわけにはいかない、と外に出ました。本当に素晴らしい夏の夕刻という感じで、飴色の光に大地が浸っているのを見ているだけで、幸福感に包み込まれた気がします。日差しの色は、8月のそれにあたるのでしょうか。8月の暑熱はなく、ただただ爽やかな陽気の中にいる幸せでした。

OTTAVAというクラシック音楽を流しているインターネットラジオがありますが、ちょうどそのとき、今日は昼からイタリアワインを飲んでいますというお便り紹介があり、この日差しの中で軽い白ワインを飲むのは幸せだろうな、と思いました。ワインもおそらくは生の愉しみであることには間違いありません。過度な禁欲や節制は慎むべきもので、確かにアルコールは身体に悪いことは分かっているとはいえ、果実が遠いイタリアの地で受け取った太陽の光をワインというかたちでいただくことも悪くはあるまい、などと思ったりしました。

皆様もどうかよい5月の日々をお過ごしください。

 

Miscellaneous

度が替わって一日が経ってしまいました。

年度に何ら必然性がなく、あるいは、天文学的には1月1日も無意味なのだそうですが、4月というのは日本人にとってはなにかひとつ神聖な月でもあります。入学の月であり、入社の月であり。

本当にありがたい季節です。

写真は都内某所の桜で、先週撮影したものです。

みなさまも今年度もどうかご一緒に頑張りましょう。

Miscellaneous,Tsuji Kunio

数日前から、咲き乱れるコブシが目につくようになりました。散り始めてはいますが、美しさはこの上ないものがあります。

月日が経つのは早く、そろそろ春分にさしかかろうとしています。個人的には、夏が待ち遠しく、春分過ぎると、あと3ヶ月で夏です。本当に待ち遠しいです。季節の巡りは無限のようでいて実は有限であることにも気づかされます。

さて、それにしても、書くことの難しさを感じるこのごろ。

日記やら何やらは書いていますが、在宅勤務になり通勤の時間がなくなった分、ものを考えたり、何か書いたりする時間が少なくなってしまった、ということなんだと思います。

ピアニストがピアノを弾くように書く、というのが辻邦生の言葉ですが、守るのはなかなかに難しいですね。

また、ウェブログというメディア自体がもはや時代遅れという感覚もあります。ウェブログが始まったのはもう20年も昔のことです。ウェブログがブログに変わり、誰もがニュース発信者になれるという強烈なメッセージを感じたのは遠い昔のことです。

今では、TwitterやfacebookあるいはnoteやYoutubeが情報発信のプラットフォームになり、最近ではClubhouseなども登場してはいますが、なにか、どれも囲い込まれたメディアと思えて違和感を感じていまして、おそらくウェブログはずっとキープしていきたいと思っています。私も考えが20世紀的なのではないか、と自己反省をしなくもありません。最近の表現は文章ではなく映像なのでしょうし。文章を書くと言うことへの懐疑を持っているのも事実です。書く、と言う行為にどういう意味があるのか。今や、写真や動画と言ったビジュアルに表現のメインストリームを名実ともに奪われ、書くという行為はレガシーとなっているのではないか。表現の手法として適切なのか。ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったということを捉えたときに、文章の意義が何か、と言うことを本当に考えてしまします。おそらくは大きな転換点の時代にあり、あるいはそのスピードが想像を超えて加速している時代にあって、古びた形式に固執しているのではないか、という疑いをも持つ訳です。

料理研究家の辻静雄と辻邦生・佐保子夫妻が行った対談に、以下のような一節があることを思い出しました。

辻佐保子
あなたはいつも、食べ物産業とお話産業はどんなに不景気になってもなくならない、ってよく言ってましたでしょう。両辻先生に通じますね。

辻静雄
あ、それはいい話だ。

辻邦生
人間を喜ばす仕事は、人間が存在する以上は絶対に滅びない。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

「人を喜ばす仕事」のうち、食べ物産業がコロナ大きな打撃をうけて業態の変化を求められているように、お話産業も業態の変化を迫られているのでしょうか。

あるいは、そのヒントは引用した一節の少し前に辻邦生が語る言葉に表れているのでしょうか。

本当に生きる歓びというものが、精神の隅々、肉体の隅々に滲みわたり、そして書く一行一行がそういうものに溢れていたら。人間はそれを手離すはずがない、というのが僕の信念なんですけれどね。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

書くと言うことが、生きる歓びに満たされていて、人間を喜ばすということ。それは書く人にとっても、読む人にとっても。そうでありさえすれば、メディアの相違は本質的な問題ではないのでしょうか。

この辻静雄著作集ですが、亡くなった大学の後輩にいただいたものであることも、今日こうしてこの文章を書いたことにも関係あるのでしょうか。

媒体にかかわらず、溢れる生きる歓びを表現するということのほうが重要なのかもしれず、写真であろうが動画であろうが文章であろうが、伝えるべきものを伝えると言うことなのでしょう。そこにはアクセス数といった定量化される指標は似合わない気がします。マーケティングは重要ですが、本質があったのちのマーケティングであり、どうも世界をおかしくしているのは、見栄え見てくれ見せ方でいかようにもなってしまい、本質や真実が二の次になっていることではないか、と思います。見栄え見てくれ見せ方で工夫したとして、その先続くかどうか。

高野山のふすま絵を描いた千住博さんがこんなことを言っていました。

「他人はだませても、自分はだませない。当然お大師さまをだますことは出来ない」

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/L3N589QPLL/

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。