度が替わって一日が経ってしまいました。
年度に何ら必然性がなく、あるいは、天文学的には1月1日も無意味なのだそうですが、4月というのは日本人にとってはなにかひとつ神聖な月でもあります。入学の月であり、入社の月であり。
本当にありがたい季節です。
写真は都内某所の桜で、先週撮影したものです。
みなさまも今年度もどうかご一緒に頑張りましょう。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
度が替わって一日が経ってしまいました。
年度に何ら必然性がなく、あるいは、天文学的には1月1日も無意味なのだそうですが、4月というのは日本人にとってはなにかひとつ神聖な月でもあります。入学の月であり、入社の月であり。
本当にありがたい季節です。
写真は都内某所の桜で、先週撮影したものです。
みなさまも今年度もどうかご一緒に頑張りましょう。
数日前から、咲き乱れるコブシが目につくようになりました。散り始めてはいますが、美しさはこの上ないものがあります。
月日が経つのは早く、そろそろ春分にさしかかろうとしています。個人的には、夏が待ち遠しく、春分過ぎると、あと3ヶ月で夏です。本当に待ち遠しいです。季節の巡りは無限のようでいて実は有限であることにも気づかされます。
さて、それにしても、書くことの難しさを感じるこのごろ。
日記やら何やらは書いていますが、在宅勤務になり通勤の時間がなくなった分、ものを考えたり、何か書いたりする時間が少なくなってしまった、ということなんだと思います。
ピアニストがピアノを弾くように書く、というのが辻邦生の言葉ですが、守るのはなかなかに難しいですね。
また、ウェブログというメディア自体がもはや時代遅れという感覚もあります。ウェブログが始まったのはもう20年も昔のことです。ウェブログがブログに変わり、誰もがニュース発信者になれるという強烈なメッセージを感じたのは遠い昔のことです。
今では、TwitterやfacebookあるいはnoteやYoutubeが情報発信のプラットフォームになり、最近ではClubhouseなども登場してはいますが、なにか、どれも囲い込まれたメディアと思えて違和感を感じていまして、おそらくウェブログはずっとキープしていきたいと思っています。私も考えが20世紀的なのではないか、と自己反省をしなくもありません。最近の表現は文章ではなく映像なのでしょうし。文章を書くと言うことへの懐疑を持っているのも事実です。書く、と言う行為にどういう意味があるのか。今や、写真や動画と言ったビジュアルに表現のメインストリームを名実ともに奪われ、書くという行為はレガシーとなっているのではないか。表現の手法として適切なのか。ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったということを捉えたときに、文章の意義が何か、と言うことを本当に考えてしまします。おそらくは大きな転換点の時代にあり、あるいはそのスピードが想像を超えて加速している時代にあって、古びた形式に固執しているのではないか、という疑いをも持つ訳です。
料理研究家の辻静雄と辻邦生・佐保子夫妻が行った対談に、以下のような一節があることを思い出しました。
辻佐保子
あなたはいつも、食べ物産業とお話産業はどんなに不景気になってもなくならない、ってよく言ってましたでしょう。両辻先生に通じますね。辻静雄
あ、それはいい話だ。辻邦生
人間を喜ばす仕事は、人間が存在する以上は絶対に滅びない。
辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』
「人を喜ばす仕事」のうち、食べ物産業がコロナ大きな打撃をうけて業態の変化を求められているように、お話産業も業態の変化を迫られているのでしょうか。
あるいは、そのヒントは引用した一節の少し前に辻邦生が語る言葉に表れているのでしょうか。
本当に生きる歓びというものが、精神の隅々、肉体の隅々に滲みわたり、そして書く一行一行がそういうものに溢れていたら。人間はそれを手離すはずがない、というのが僕の信念なんですけれどね。
辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』
書くと言うことが、生きる歓びに満たされていて、人間を喜ばすということ。それは書く人にとっても、読む人にとっても。そうでありさえすれば、メディアの相違は本質的な問題ではないのでしょうか。
この辻静雄著作集ですが、亡くなった大学の後輩にいただいたものであることも、今日こうしてこの文章を書いたことにも関係あるのでしょうか。
媒体にかかわらず、溢れる生きる歓びを表現するということのほうが重要なのかもしれず、写真であろうが動画であろうが文章であろうが、伝えるべきものを伝えると言うことなのでしょう。そこにはアクセス数といった定量化される指標は似合わない気がします。マーケティングは重要ですが、本質があったのちのマーケティングであり、どうも世界をおかしくしているのは、見栄え見てくれ見せ方でいかようにもなってしまい、本質や真実が二の次になっていることではないか、と思います。見栄え見てくれ見せ方で工夫したとして、その先続くかどうか。
高野山のふすま絵を描いた千住博さんがこんなことを言っていました。
「他人はだませても、自分はだませない。当然お大師さまをだますことは出来ない」
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/L3N589QPLL/
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
うーん、なんだか怒濤の二週間を過ごした気がします。怒濤はまだ続くのですけれど。
この二週間、仕事をしつつ、いろいろなことがあったなあ、と振り返りつつ。。
そんななかで淡々と続けているのが、AppleWatchを使って体を動かすことです。
毎日340キロカロリー分体を動かし、30分ワークアウトをして、12時感以上立ちましょう、という目標を達成しよう、という心がけをAppleWatchを使っているこの5年半やり続けた感じです。
目的は健康維持ですが、いつの間にか、ワークアウトを行うことが目的になっていたりしますが、まあ、トータルで考えると、心身の健康に寄与するものですから、いいんでしょうね。
一定の目標を達成すると「バッジ」がもらえたりしまして、まあバーチャルなバッチではありますが、いい意味で動機付けになるので、無邪気に頑張るのはありでしょう。数年前にはやった「ゲーミフィケーション」のようなものです。
ということで、明日もせっせと、Apple Watchにをにらみながら、身体に気を配ろうと思います。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
あけましておめでとうございます。
昨日、ゆくとしくるとしを書いたかと思ったら、それから半日もたたないうちに、謹賀新年となりまして、面はゆさもありますが、一つの区切りとして年が明けました。
年頭にあたり、尊敬する辻邦生の一節より。
人間にとって言葉は生命であること、その事実は、言葉が単なる伝達の手段だと思い込み、言葉の不正確さに悩んでいた私に大きな衝撃を与えた。眼から鱗が落ちるような気持ちだった。在るものを言葉で言うのではなく、言葉によって存在をつくるのだということが、ある震撼をともなって、自覚できたのである。
「海峡の霧」304ページ
昨年の年末に駆け込みで読んだ辻邦生作品の一節。昨年は言葉というものの力を学びました。
なかなか書く時間もありませんでしたが、書くことも読むことも大切なことですので、長期戦で取り組もうと思います。どうやらまだまだ人生は続くようです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
まあ、激動の一年だった2020年ももう少しで終わります。いつもは見ないテレビですが、紅白歌合戦をつけながらキーボードを叩き始めている感じです。
写真は、2021年最後の夕暮れ。とはいえ、それは単にグレゴリオ暦2020年の夕暮れであるに過ぎないという相対性もなにか分かった気がします。さしあたりは、一年間の無事を感謝し、来年の発展を願いつつ、と言う感じでしょうか。
そして、コロナ第三波がいよいよという大晦日でもあります。東京の一日の感染者が1300人を超えたというニュスはさすがに衝撃でした。これまでの最大感染者を400人近く上回るペースというのはなかなかに厳しいものを感じます。いろいろと背景はあるにせよ、現実としては、ひとつ次元が変わってしまったのかもしれません。とはいえ、変わらないもの、変われないものも多々あるあります。長いスパンで輪を描きながら螺旋のように上昇していくのが世界なのだろうな、と思います。
それではみなさま、よいお年をお迎えください。
おやみなさい。Gute Nahctです。
先だって、少し離れた山麓に泊まる機会を得ました。夜中の2時頃、ふと目をさまし窓の外をみると、文字通り満天の星空が。あれ、こんなに星を見たのは、久しぶりだ、という感覚でした。
早速カメラを取り出して、あれやこれや工夫をして、写真をとると、オリオン座がくっきりと。左に見える一等星はおそらくはシリウス。右上の赤っぽい星はアルデバランかな。
アプリを使っていろいろと星を探して、本当に懐かしいひとときでした。ぎょしゃ座のカペラ、こいぬ座のプロキオン…。双子座の双子星も見えたし。
北天を見上げると、あれ、北斗七星ってこんなにおおきかったっけ、と。おそらく40年ぶりの北斗七星のような気がします。
少しぶれた写真ですし、写真だけで、その大きさを実感することはできないですが、ああ、こんなに大きいのか!と驚きしかありませんでした。
で、しばらく星空を眺めていると、シリウスが点滅しているわけです。これが、いわゆる星の瞬きで、空気の揺らぎがその原因であるということはわかっているにせよ、実際に見てみると、本当に感動的なわけです。
東京では、こんな星空を眺めることはできませんので、本当に感動しかないです。いつもこういう星空を眺めておられる方には、あまり驚きはないのかもしれませんが、夜空を見上げる暇もなく、また見上げたとしてもネオンや街灯、自動車の灯火で照らされる東京の空には、こんな星は見られないわけで、感動的なのです。
古代の人々は、この星空をみて、さすがに様々なことを思うだろうなあ、と考えます。あのオリオン座の三つ星が、偶然であったとしても、均等に三つ並んでいるのをみると、そこに意味を見いだそうとするのは、想像をむねとする人類にとっては、必然です。本当に、月並みで古くさい感想ですが、この星空が数千年にわたって、人類の頭上に変わらず輝いていることの奇跡的な意味を感じずにはいられませんでした。
で、どこへ行ったのか? は、またこの場でご報告したいと思います。
今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。
ブログ、という言葉が最初に登場したのは、私の記憶では2003年頃だったはず。当時は、Web日記なんていうのがあって、WeblogとWeb日記は同じか違うか、みたいな論争があった記憶があります。
私も、HTMLで記事を書いて、せっせとFTPでアップロードするということをやっていて、なんだか不便と思っていましたが、Weblogの本を立ち読みして、これだ!と思った記憶があります。当時は、一人一人がメディアを持つのだ!というコンセプトが打ち出されていて、ああ、これで市民一人一人が自分の意見を公開することができて、ジャーナリストでなくても、情報発信が簡便にできるようになるのだ!という、期待のようなものがありました。
それは、なにか、フランス革命レベルの革命的なことのように思えたものです。
実際には、そんなことはなくて、あまたのブログが乱立し、ブログという言葉が、いつしか流行語となり、消えていったわけです。その後、TwitterやFacebookが出てきたのはご存じの通り。
そんな今日でも、ブログを続けるのは、奇特なことのように思えますし、あるいは、はてなブログやAmebaを使わないのも、さらに奇特なことです。
翻ってみると、どうも、商用ブログの著作権に抵抗を覚えたのだ、と。書いた文章が、商用ブログ側に著作権があるという情報を得まして、私の書いた文章は私のものだ、という至極真っ当な感覚から、自分の文章は自分で面倒を見ることにして、時前でブログシステムを立てたのだ、ということだと思います。
2003年からはMovableTypeを使い、一時期FC2を試しつつも、再度Movabletypeに戻り、WordPressに引っ越してきたわけです。
もともとはMovableType仕様で、記事のURLの付け方もMovableTypeにならったもので、それをパーマリンクとして使ってたのです。
ところが、先日、WordPressの仕様が変わったようで、タイムスタンプだけをもとしたパーマリンクは無効となり、その影響でコメント欄が表示されない、という事象がおきていることがわかりました。コメントをいつもくださっている方からの連絡でした。
このところなかなか文章を書く間もなかったので、最近コメントないなあ、などと思っていたり、コメントくださる方も、Facebook経由でくださったりしていて、なんでブログのコメントがつかないのかな、と思っていたんですが、システム障害だったわけで、申し訳なく思います。。
昨日から対応策を調べ始め、ようやく片付けました。デザインのアップデートが必要で、配布されているデザインを適用して、かつてのデザインに近づけていますが、全く同じとはなりません。時間のあるときに見やすくなるようにカスタマイズしないと。
スマホやタブレットからは少し見やすくなるかもしれないなど、改善されることもありますので、また是非お越しいただければと思います。
予告ですが、先だって辻邦生先生ゆかりの場所に行って参りました。その報告を書こうと思っています。
それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
今日の東京地方の予報は曇天でしたが、実際には、豊かな日差しが降り注ぐ良い一日でした。少し自転車で遠出をする用事があったのですが、近所の農地の中を自転車で走るのはずいぶんと気持ちが良いものでした。波打つように拡がる農地を横目にみて、日差しを浴びながら、冷たくなった風を頬に感じるのは、なにか日々の芥を洗い流すような気分になりました。
空は完全に秋空。うろこ雲に満ちています。東京地方の日没は16時40分。冬至まであと一ヶ月と少し。秋も深まり冬へ突入しますが、その先の春と夏の何かしらの予兆をなんとか感じようとしている、そんな感じです。
この2020年という年は、世界が大きく変わる年でしたが、2020年が終わりに近づくにつれて、なにか先行きのようなものが見えてきた気がします。個人的にも、なんだか、長いあいだトンネルの中を歩いていたような気がしますが、ギアが入り始め、歯車が正回転を始めた、そんな感じがします。できることは、せっせと本を読んで音楽を聴いて文章を書くことのはずです。あまりできていませんでしたが、また始めないと……。
いつのまにか11月。
なんだか、1ヶ月ほど書けない状況でした。何かしらの調子が崩れたのだと思います。そのあいだも淡々と仕事していましたが、書くという活動は難しかったのです。書くことが、生活に結びついていない以上、致し方ありません。
そして、なにか、精神的には、冷凍睡眠の状態だったような気がします。ただただ、目の前を流れ去る景色を見ているだけ、のような、そんな感じの一ヶ月だった気がします。
まあすべては波です。波とは円運動が進行したものですから、これも太陽なのか月なのか、何かの天体の動きと関係があるのかもしれないです。
2020年も余すところあと2ヶ月。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。