まずは短信で。二人のヒロイン──新国立劇場《カルメン》と《蝶々夫人》

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この週末は大仕事でした。友人の結婚式のため、《カルメン》をエクスチェンジしましたので、土曜日が《カルメン》、日曜日が《蝶々夫人》ということになってしまい、ついでにとある原稿の締め切りもかかえていました。
ということで、息つくまもなくあっという間の週末でした。
土曜日の《カルメン》は、皇太子殿下がいらしていたり、有名な女流作家をお見かけしたりと、華やいだ感じの公演だったと思います。皇太子殿下登場の折は拍手が起こりまして、100年前の欧州もやはりこういう感じだったのか、などと思ったり。エクスチェンジして良かったかも、などと。
日曜日の《蝶々夫人》は、初日に体調不良でキャンセルしたアレクシア・ヴルガリドゥが登場し、盛り上がりました。指揮のケリー=リン・ウィルソンの素晴らしさが際立っていましたね。緻密で大胆でした。女性らしいきめ細やかさがありながらも歌わせるところはダイナミックに歌わせ、ドラマを支える劇的な演奏でした。
やはり、ドラマが躍動するのは音楽があるからです。これは、聴いている時にはなかなか気づかないことなのかもしれないのではないか、と思います。ストーリーや歌唱に感動している気がしていますが、実は指揮者によって勘当させられている、という状況です。私はこの感覚を、ペーター・シュナイダーや若杉さんの指揮で学んだように思います。
土曜日のカルメンも、日曜日の蝶々夫人も男のエゴで死に至る悲劇のヒロインです。ふたりは正反対のタイプの女性ですが、共通しているのは、ふたりとも男によって造形されたキャラクタであるということです。オペラの中でも外でも悲劇なのかもしれないです。
というわけで、続きはまた明日。

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科学技術へのオプティミズム──オッフェンバック《ホフマン物語》

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昨日に続き、《ホフマン物語》関連です。

彼女は、死んでいるという噂だ。いや、生きていないんだ。

僕は人形を愛していたのか!

第二幕でのホフマンのロマンスの相手はオランピアでした。オランピアは、今で言えばロボットでした。歌をうたうことはできて、「はい」という肯定の返事しかできないのです。
最近でもおもちゃ屋で売っているしゃべる人形と同じです。そんな人形に恋をしてしまったというのが
オランピアの幕では、オランピアのアリアのところで、ニクラウスの表情をずっと見ていました。真実を冷静に見極めているのはニクラウスだけ。ホフマンは色眼鏡をかけさせられていて、真実をつかめないのです。ニクラウスの冷たい微笑。恋は盲目ですが自動人形を愛するとは、今から思えば馬鹿げています。
1816年のかかれたE.T.A.ホフマンの「砂男」を原作に持つオランピアの幕ですが、原作当時は、オランピアに入れる魂を主人公が奪われそうになるという筋だてであるのに対し、オッフェンバックの《ホフマン物語》においては、科学技術の発展の結果としてオランピアが誕生したとされ、魔術的要素は少なくなっています。未完成だったホフマン物語はオッフェンバックが亡くなる1880年まで作られ続けました。19世紀後半ともなると、科学技術の捉え方も変わってくるということでしょう。
ここでは科学技術への楽観主義がみられるのでしょう。「歴史」が発展し続けていた時代です。まだまだ無限に人類は発展していく。その中の一つに、人類は神にも近づき、科学によって生命をも創り出すことができるようになるに違いない、という楽観主義であり、その極地がオランピアなのでしょう。これは、近代以前においてはありえないことです。フランス革命とニーチェによって、宗教価値観が変貌したからこそ可能になったことなのでしょう。スパランツィーニが科学技術の発展を称揚できたのはこうした背景があるはずです。
ですが、やっぱりオランピアは恋の対象ではありえなかった。ホフマンが「人形だったのだ」と悲嘆にくれることこそが現実です。壊れてしまったのは科学技術が未熟だからなのか、あるいは科学技術の構造的な問題なのか。前者であれば素朴な科学技術信奉であり、後者であれば科学技術の先行きを見通した批判精神があるのでしょう。
オランピアが、スパランツィーニとコッペリウスの金銭問題を発端に破壊されてしまうのも象徴的です。経済優位を見通したものなのだとすると、100年後を見通していると思いました。いくら科学が発展しても、経済に貢献しない科学技術は打ち捨てられるのですから。
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/Coppelia.html
昨夜脱稿したので、本日は日付切り替え後投稿でした。ではグーテナハト。

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堅実で緊密──新国立劇場《ホフマン物語》

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はじめに

もう12月。あと30回ほど寝るとお正月です。お正月は笛吹いてお絵かきして遊びましょう。

新国立劇場《ホフマン物語》

さて、新国立劇場《ホフマン物語》に言ってまいりました。まったく凄いオペラでした。
* 指揮:フレデリック・シャスラン
* 演出:フィリップ・アルロー
* ホフマン:アルトゥーロ・チャコン=クルス
* ニクラウス/ミューズ:アンジェラ・ブラウアー
* オランピア:幸田浩子
* アントニア:浜田理恵
* ジュリエッタ:横山恵子
* リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット:マーク・S・ドス
まずは、フレデリック・シャスランの巧みな職人芸的指揮が素晴らしかったです。微妙なニュアンスがツボにはまります。音量も細かくコントロールしてましたね。パーカッションの音を抑制していたのが印象的でした。アンサンブルが実にまとまっていて、安心して聞くことができました。
悪役4名はマーク・S・ドスが完全掌握です。シリアスな演技からコミカルな演技まで幅広くこなしていて、多才ぶりを発揮していました。目をギラリと光らすんですが、マイルス・デイヴィスのような目つきの鋭さでドキドキしてしまいました。
Twitterでも前評判が高かった浜田理恵さん、たしかに凄い。声の深みや豊かさは相当なものです。歌手の歌というものは一点の素晴らしさに加えて、持続する素晴らしさというものも必要なのですが、そういうところもいい感じでした。
あとは、ジュリエッタを歌った横山さんも。ジュリエッタの妖艶さがよくでていたと思います。抱きつくホフマンを尻目に、ギラッと目を輝かせる演技なんかも絶品。高級娼婦は恐ろしい。
チャコン=クルス、最初の《クラインザックの歌》のあたりでは、なにか物足りなさが会ったんですが、幕が進むに連れてどんどん良くなっていきました。第4幕あたりからは、あとを気にせずフルスロットルで歌ってくれました。鋭さと甘さのあるバランスある声でした。もう少し厚みがあると嬉しい。エラソーですいません。

アントニアの幕

それにしても、《ホフマン物語》はすごい曲です。歌詞の中身もさることながら、音楽的にもすごくて、こんなに単純なコード進行なのに、ここまで緊迫感と絢爛さを醸成できるのか、と関心します。
特に、アントニアの幕で、アントニアの母親が登場するところは、実にオーソドックスなコード進行ですが、母親の亡霊、悪魔の化身の医者、そして死に至るまで歌わされるアントニアの三人の金箔の盛り上がりが効果的に表現されています。あそこの1音ずつ上がっていくスケールが、緊迫感を増すのです。上がりきったところで、ミラクル博士が哄笑したりして。恐ろしい。
この場面を初めて観たのはウィーン国立歌劇場でしたっけ。安い席で舞台が全然見えない桟敷席の奥から必死に見てたんですが、あの時の恐ろしいまでの感動を思い出しました。ウィーンでの演出では母親の肖像画がバタンと開いてなかから母親の亡霊が現れるという恐ろしさでした。
今回のアントニアの母親は山下牧子さんだったんですが、あの方独特の妖しい魅力で、アントニアは冥界へと旅立ってしまったような感じでした。
ちなみに山下さんはステラ役かぶっています。アントニアの母親がステラという問題。深遠。

おわりに

8年ぶりに上演されたプロダクションでしたが、あらためて《ホフマン物語》を見ると、いろいろと面白い視点があることに改めて気づきます。科学批判、芸術批判などが織り込まれた「現代批判」の側面も持っているということになりそうです。オペラの愉しみというのが現代批判であるとしたら、《ホフマン物語》のアクチュアリティというものも考えることができるでしょう。これは明日考えてみたいと思います。
明日は健康診断に再検査。いや、別にどこが悪いというわけではなく、3日連続で徹夜勤務したり、半年で規定以上の深夜勤務をしたからだそうです。まあ、どこも悪いわけないんですけれど。
それではグーテナハト。

付録

昨日、近所のカラオケにカミさんと二人で行ってきました。
昔はできていたはずのピッチコントロールがぜーんぜんできてなくってショックです。
で、これはどういうショックなのか、というと(1)昔は、本当にうまかったけれど、今はうまくないというショック、あるいは(2)昔も下手だったけれど、最近になってピッチを聞き分ける耳ができて、昔からヘタだったことにいまさら気づいたショック、のいずれかどちらかなわけで、いずれにしてもショックであることにはかわりはないということになります。
(1)のほうがいいんだけど、(2)だったらイヤだなあ、と思います。
しかし、オペラ歌手の方々の微妙なピッチの違いが最近分かるような気がするので、もしかすると(2)である可能性のほうが高いのではないか、と危惧しています。だとすると。。いままで本当にすいません。

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進化するツィトコーワさんのインタビュー映像をみる。

新国立劇場に2003年にケルビーノで登場したエレナ・ツィトコーワさんが、今シーズンは《ヴォツェック》でマリーを歌います。Facebookで紹介されていましたのでシェアします。
1つ目の映像が、昨日Facebookで出ていたもので、2つ目の映像が、昨年のタンホイザーの際に撮られたと思われる映像です。両方共きっと同じタイミングで収録されていたのだと思います。
2つ目の映像で、レパートリーにクンドリが入った、と語っています。そうか。クンドリの妖艶さを演じるのと、マリーを演じるのは少し共通点があるのかも、と思いました。そういう意味では、昨年の《タンホイザー》でヴェーヌスを歌っていた時からその線はあったのかもしれない、と思います。
ツィトコーワのオクタヴィアン、2007年でしたね。あの公演は素晴らしすぎて涙が止まらなかったです。2003年の《フィガロ》のツィトコーワさんも素晴らしかったです。
ツィトコーワさんも新国のことをMein Hausと言ってましたが、本当にこの10年間盛り上げてくれていたと思います。
来年の《ヴォツェック》公演がとても楽しみです。期待大。
そして、クンドリ、というからには、もしかして新国での《パルジファル》公演も近かったりして。
映像その1

映像その2

ちなみに、明日はヌーヴォー解禁です! 痛飲の予定。
 
それではまた明日。グーテナハト。

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素晴らしい日本勢──新国立劇場「フィガロの結婚」その2

前回に続き10月26日《フィガロの結婚》のことを。
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シルマーの素晴らしさと、九嶋さん、マンディ・フレドリヒの素晴らしさは前申し上げたとおり。でも思いこすほどのにマンディ・フレドリヒの熟成感は凄いと思う。昨年デビューとは思えないです。今後恐ろしいことになりそうな予感。
さて、今日はまずは男声陣から。
フィガロを歌ったマルコ・ヴィンコ。大柄な体格を活かした演技は素晴らしく、この雰囲気はやっぱりあちらの方は素晴らしい、と思います。そして歌も素晴らしい。たしかにすこし豊かさに書けるかもしれないけれど、全くはずさない巧さがありました。
アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったのはレヴェンテ・モルナールでした。歌詞を文脈の中で捉えてきちんと咀嚼し表情をつけていて、今回のパフォーマンスの雰囲気作りの中心を担っていたと思います。歌も最高。声もバッチリ豊かな感じです。この方が今回のパフォーマンスを引っ張っていたのだろうな、と思います。
ケルビーノのレナ・ベルキナ。前半はすこしセーブ気味だったですが、後半にむけてどんどんカッコよくなっていきました。いや、ホントうまい。
素晴らしかったのはバルトロの松位さんです。松位さんは最近何度も新国立劇場に登場しています。《魔笛》、《オテロ》、《さまよえるオランダ人》などなど。いつも思うのですが、この深みのある声はどこから出てくるのだろう、と思います。ヨーロッパで鍛えられた声なのでしょうか。どっしりと落ち着いた演技でした。
関係ないんですが、フィガロの出生の秘密が明かされたところで、カツラを取りましたが、スキンヘッドになっていました。そしたら、なぜか故市川團十郎に似ておられることに気づいてしまいました。
それから、マルチェッリーナの竹本さん。竹本さんのようなメゾ・ソプラノがいらっしゃると舞台が引き締まります。竹本さんは、たしか《アラヴェラ》に出ておられたはず。
新国の《フィガロの結婚》では、バルバリーナを歌うのは素晴らしい人であることが多い気がします。今回は吉原圭子さん。巧いですよ。深みのあるソプラノです。
本当に楽しく素晴らしい演奏でした。最後は、シルマーがタクトを下ろす前から拍手が始まりましたからね。普通はタクトを落とすまで拍手するのはご法度なんですが、この素晴らしさと楽しさなので、全然納得です。私もつられて拍手しました。
でも、意外なことにカーテンコールは一回だけ。みんなそそくさと席を立っていきました。こんなに素晴らしかったのになぜ?
帰ってカミさんと話しをしたのですが、多分地震のせいではないか、と。土曜日の未明に東北で少し大きめの地震がありました。東京でも震度3を記録しています。年配の方々にとっては、地震で帰宅できなくなるのではないか、というのが結構ストレスになっているらしいと聴いたことがあります。私の母もやっぱりそうで、二年前の地震以降はなかなか都心に出るのが億劫になったと言っていましたし。
私はずーっと拍手していたかったんですが、まあ仕方がないです。
ともかく、今回の公演では、ウルフ・シルマーの素晴らしさを再認識しました。そして、新国立劇場のレベルの高さも。プレミエが2003年ですから、ちょうど10年前でしょうか。あのころに比べてどんどん素晴らしくなっていきます。
次の演目は《ホフマン物語》です。たしかこれもプレミエは2003年だったはず。カーテンコールにフィリップ・アルローが登場して場内がどよめいたのを記憶しています。次も変わらずたのしみ。
では、こんどこそ本当にグーテナハト。

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シルマー最高!──新国立劇場《フィガロの結婚》その1

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先週に引き続き新国立劇場へ。今日は《フィガロの結婚》でした。台風が来なくて良かったです。

  • 指揮:ウルフ・シルマー
  • 演出:アンドレアス・ホモキ
  • アルマヴィーヴァ伯爵:レヴェンテ・モルナール
  • 伯爵夫人:マンディ・フレドリヒ
  • フィガロ:マルコ・ヴィンコ
  • スザンナ:九嶋香奈枝
  • ケルビーノ:レナ・ベルキナ
  • マルチェッリーナ:竹本節子
  • バルトロ:松位浩

いや、本当にモーツァルトオペラの楽しさを満喫しました。
ワタシ的には序曲から勝手に盛り上がってしまい、あやうく序曲でブラヴォーと叫ぶところでした。それぐらい、ウルフ・シルマーの指揮は実に素晴らしかったのです。素晴らしく濃密な音でした。序曲から、オケの音が引き締まり、少し早めの速度でグイグイと引っ張られて行くような感じです。
シルマーの指揮棒の動きはかなり複雑です。盛り上がる場面では、私にはちょっと拍節がわからないぐらい複雑な動きをしています。ですが、よく見ると細かい指示をたくさん出していました。左手で頻繁にパートを指さして指示を出しているのがわかりました。ですので、腕がとにかくたくさん動いています。まるで阿修羅のようでした。またテンポの取り方も絶妙です。基本的にはあまりテンポは動かしませんが、微妙な音価の操作が音楽の輪郭を際立たせていたように思います。
歌手の方々も素晴らしかったのです。
伯爵夫人を歌ったのがマンディ・フレドリヒですが、去年ザルツブルグでメジャーデビューしたのですね。若手と言われていますが、ベテランともいえる堂々たる歌唱であり演技でした。少しピッチが気になることがありましたが、それは本当にごくごくわずかです。声も美しく、落ち着いていて、伯爵夫人の苦悩を表現しつつも、上品な挙措が素晴らしいのです。まだレパートリーにはないようですが、当然ながら《ばらの騎士》で元帥夫人を歌える方だと思います。あの第三幕で元帥府人が登場する場面を想像してしまいました。次の新国の《ばらの騎士》はカミラ・ニールントとマンレィ・フレドリヒを希望します。
“http://www.mandyfredrich.de/”:http://www.mandyfredrich.de/
スザンナは九嶋香奈枝さんでしたが、今年冬の《愛の妙薬》でジャンネッタを歌ってました。あの時も巧いと思っていましたが、今日も素晴らしかったです。日本人離れした表現力だったと思います。時にわざとらしくなってしまう、西欧人的なジェスチャーですが、私はまったく違和感を感じることがありませんでした。あとは豊かな表情なんでしょうね。あれはなかなかできるものではないのだと思います。もちろん歌の方も倍音が豊かで日本人っぽくない声質でした。
続きはまた明日です。ではグーテナハト。

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新国《フィガロの結婚》によせて その2

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二回目は、2010年でした。昨年新国立劇場で《アイーダ》を振ったミヒャエル・ギュットラーでした。で、スザンナは、リゴレットでジルダを歌ったゴルシュノヴアでした。ケルビーノは、ミヒャエラ・ゼーリンガーでしたが素晴らしかった記憶があります。
アンドレアス・ホモキの演出は、今でも斬新さを失っていない気がします。ダンボールを使った演出ですね。ダンボールを動かすことで動的に舞台が作り替えられていくようなイメージだったと記憶しています。それから、色調はモノトーン。というか、真っ白ですね。
私はホモキの演出を、この《フィガロの結婚》以外にも、新国立劇場では《西部の女》、そしてミュンヘンの《マノン・レスコー》で見ています。
特に、ミュンヘンでの《マノン・レスコー》の演出は強烈でした。舞台上にバイエルン国立歌劇場入り口の大階段が設えられていて、客席の大シャンデリアが舞台にも吊り下がっているというあんばいです。民衆はオペラのお客になっていて、警官は劇場の守衛の制服をきていました。マノンは麻薬をやっていて捕まる、という設定になってました。休憩なし二時間の濃密なパフォーマンスで、心底感動した記憶があります。
そういえば、ホモキの《フィガロ》演出についてちゃんと書いたことがなかったです。今回は3回目ですが、なにか新しい発見を見出せるよう考えてきます。
というわけで、楽しみ楽しみ。
後一日。だが戦いは続く。
ではグーテナハト。

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新国《フィガロの結婚》によせて その1

10月20日から新国立劇場で《フィガロの結婚》が始まりましたね。
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この《フィガロの結婚》は新国立劇場の定番プロダクションです。
私は今回で三回目となります。
一回目は2003年のプレミエを聴きました。当時はノヴォラツスキー芸術監督最初のプロダクションという記念すべきプロダクションでした。
外の木の指揮者は今回と同じウルフ・シルマーでした。
私、シルマー大好きなんです。シルマーの指揮で聴いたのは、《影のない女》@バスティーユ、《パルジファル》@東京春祭、《アラベラ》@新国立劇場、そして《フィガロの結婚》@新国立劇場です。
私のシルマーが創る音楽のイメージは、シャープでありながら、重みのある指揮、という感じです。キレのある演奏でありながらも、ここぞという時のエネルギーの溜め方とか爆発のさせ方が素晴らしい、というものです。《アラベラ》でも《パルジファル》でも感動し過ぎましたので、今回も楽しみです。
2003年のプロダクションでは、ケルビーノを歌ったのは、エレナ・ツィトコーワでした。
おそらくこの時が新国立劇場初登場。で、素晴らしいケルビーノを聞かせてくれたのでした。その後の新国立劇場での活躍は言うまでもありません。
特に私がツィトコーワで印象的なのは、2007年の《ばらの騎士》のオクタヴィアンでした。指揮がペーター・シュナイダーだったということもあり、私の中では唯一無二の体験に鳴ってます。その後も、ツィトコーワのフリッカ、ブランゲーネ、ヴェヌスを新国立劇場で聴くことができています。次はなんと《ヴォツェック》のマリーです。
というわけで、一旦グーテナハト。

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陰惨なドラマ──新国立劇場《リゴレット》

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新国立劇場の今シーズン冒頭を飾るヴェルディ《リゴレット》を見てきました。

  • 指揮:ピエトロ・リッツォ
  • 演出:アンドレアス・クリーゲンブルク
  • リゴレット:マルコ・ヴラトーニャ
  • ジルダ:エレナ・ゴルシュノヴァ
  • マントヴァ伯爵:ウーキュン・キム
  • スパラフチーレ:妻屋秀和
  • マッダレーナ:山下牧子
  • モンテローネ伯爵:谷智博

演出

演出はアンドレアス・クリーゲンブルクです。《ヴォツェック》の素晴らしさは今でも思い出します。水の張られた舞台が印象的でした。今回の舞台は現代の高級ホテルです。舞台上に円柱形のホテルが登場し、回り舞台になっています。新国の設備を活かした舞台でした。
ですが、このホテルが常に舞台の中央にありますので、演技できる空間が前面に限られてしまうところが難点でしょうか。
《リゴレット》は、音楽を聞いているだけではわからないのですが、中身はどす黒い人間の欲望のドラマです。それも動物的な。クリーゲンブルクの演出はそうした陰惨さを取り出すために、ギリギリのラインに迫る直接的な方法を取りました。おそらくは観客の中にはそうした方法を不愉快に捉える面もあるはずです。あるいは、子供には刺激が強すぎるでしょう(そもそも、子供が見てもよいオペラは数えるほどしかないのですが)。ですが、それがクリーゲンブルクの戦略なのでしょう。いつもはヴェルディの長和音に隠されていますが、こうしたゾッとする陰鬱さがドラマの核だったのか、ということを眼前につきつけられる形です。もちろんこういう陰惨な状況は今も昔も変わらずあるわけです。
もちろん、もともとのストーリーの問題、つまり勝手にマントヴァ公爵に舞い上がってしまったジルダが、マントヴァ公爵に暴行されてもなお愛し、身代わりとなって死に至る、という論理性のなさはあります。ですが、もともと世界は非論理です。そして、《リゴレット》のストーリーと同じく脈絡なく絶望に突き落とされるという偶然の運命もあるはず。そういう意味ではリアリティに富んでいるといえます。
あとは、リゴレットのこと。せむし、という言葉は放送禁止用語で、使用してはならないわけで、ATOK(かな漢字変換)では見事に変換候補に上がってきません。ですが、西欧文化に触れると必ず接する言葉でしょう。《ノートルダムのせむし男》はもちろん、《秘密の花園》にも登場しましたね。また、辻邦生の《春の戴冠》にもせむしの暗殺者トマソというのが出てきました。これは、ビタミンD不足から来るくる病罹患者のことのようです。日照量が少ない欧州では、紫外線に当たる機会が減るためビタミンD不足に陥ることが多いようで、そうした環境上の条件からくるはずです。北欧の人々が短い夏に狂ったように日光浴をするのはこういう理由があるようです。ちなみに、昨今の放射能問題で、屋外で遊ぶのを制限されている子供にくる病患者が増えているようです。

演奏

歌手陣のこと。リゴレットを歌ったブラトーニャは、さすがにベテランの風格があり、終始安定していました。ジルダのゴルシュノヴァは、声量に少し物足りなさを感じましたが、テクニックは抜群で、可憐なジルダを歌っていたと思います。喝采でした。あとは、マッダレーナを歌った山下さん。《ヴォツエック》のマルグレートを歌ってましたが、この方の妖艶な歌唱は素晴らしかったです。マントヴァ公爵に擦り寄っていくあたりの演技がカッコイイ。《死の都》や《ヴォツェック》にも出演される予定ですので、楽しみです。あとは、モンテローネ伯爵の谷さんの怒りに満ちた歌声も良かったです。貫禄あり、登場した場面は舞台全体が引き締まったと思います。
指揮のピエトロ・リッツォですが、色々意見はあるようですが、私は嫌いではありませんでした。むしろ計算してテンポ感を巧くコントロールしていて良かったと思っています。
そのほかにも個々には書けない出来事が幾つかあり、まあ、個人的には大変勉強になった公演となりました。
次はすぐ来週になりますが、ウルフ・シルマーが振る《フィガロの結婚》です。
では、グーテナハト。

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ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎──新国立劇場「ナブッコ」によせて その3

新国立劇場のナブッコ、本日がプルミエですね。私はは6月1日に出動予定です。

で、昨日の続き。期せずしてシリーズになってます。そして、期せずして新国立劇場「ナブッコ」に関連してきましたので表題も変えてみました。多分、このあたりの話は、パンフレットに記載されているでしょうけれど、独自の調査ということで。

ナブッコ「行け、我が想いよ」はどのように迎えられたのか?

私は、ナブッコの「行け、我が想いよ」が愛国的に使われたという話を、中公新書の「物語イタリアの歴史」で読みました。この中ではこの合唱が如何に熱狂的に迎えられたのか、が記されています。

「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」と合唱を始めると、客席の興奮は最高潮に達した。……
聴衆は熱狂してヴェルディを讃えた。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のメロディは、街中いたるところで歌われるようになった。……ミラノの床屋はアコーデオンでこのメロディを鳴らして客を集め、しばしば警官が出動して群衆を追い散らす騒ぎとなった。

藤沢道郎「物語 イタリアの歴史」第11版 中公新書、1998年、308ページ
確かに、アンコールとは一言も書いていないですが、この曲が熱狂をもって迎えられたと理解していました。
ところが、加藤浩子氏「ヴェルディ」においてはそのような熱狂はなかったのではないか、とされています。

だが、1987年に出版された《ナブッコ》の批判校訂版を編纂したロジャー・パーカーは、資料研究の結果、初演でアンコールされたのは<行け、わが想いよ>ではなく、最後の讃歌<偉大なるエホバ>だったことをつきとめた。また、ミラノに続いて行われたイタリア各都市での上演で、<行け、わが想いよ>が熱狂的に迎えられた記録はないという。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、62ページ

<行け、わが想いよ>が愛されるようになったのも、統一後のことのようだ。というのも、1948年に起こった「ミラノの5日間」の放棄の後、スカラ座はしばらく閉鎖され、オペラは上演されなくなるが、その間にリコルディが数多く出版した『愛国賛歌』の類の中に、<行け、わが想いよ>は見当たらないのである。<行け、わが想いよ>が、「合唱の父」と称されることもあるヴェルディによる「第二の国家」なら、この時に何度も出版されて当然だろう。だが、その時人気を集めていたのは、ピエトロ・コルナーリなる作曲家に因る《イタリア人の歌》という作品だった。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、64ページ
「行け、わが想いよ」が、アンコールされた事実も熱狂的に迎えられた記録もないかもしれない、ということになるわけですが、真実はどうなのか。
ビルギット・パウルスの説は、おそらくこちらの本になるはずです。あたってみたいところですが、ドイツ語ですか。少しハードル高いですね。。東京芸大の図書館にあるようですが、そこに入る術を知りません。町の図書館で取り寄せられないか、聴いて見ることにしましょう。

今後の予定

明日は、ヴェルディに政治的意図は本当になかったのか、を書いてみようと思います。これも記述がわかれていますので。
私の手元にある文献3冊が喧嘩をしていて、何が本当なのかわからないですね。「世界が非論理であり、真実というものは途端に消滅するもので、あるのは作為的な事実や歴史のみである」という、最近の私の考えと一致する状況でしょう。
面白いっすね。こういう謎解き。

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