Book,NNTT:新国立劇場

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先日行ったレストランにて。鮮やかな生ハム。

それにしても、才能って、羨ましいです。センスがある方というのは、こんなにトントン拍子に物事が進むものなんですね。

新国立劇場合唱団の指揮をされている三澤洋史さん本を読んでます。音楽できる方って、本当にこういう方なんですよね、という感じ。まあ、こうでなければ、クラシックの道に入ってはいけないのかなあ、なんて思います。

オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる
三澤洋史
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詳しくは読了する予定の明日まで。本日は予告編。かなり面白いですよ。

では取り急ぎグーテナハト。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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先日の公演がおわり、オペラシティに入っている書店に行こうとおもったのですが、なんとオペラシティは全館休館日でした。まったく、どういうことなのでしょうか。

で、巨大なオペラシティのアーケードをポチポチ写真にとっていまして、その一枚がこちら。ここ、私が東京でもっとも好きな場所の一つです。

それにしても、《こうもり》第三幕は厳しい役人批判でした。それは看守のフロッシュのことです。

どうも実際の台本にでは見つけられなかったのですが、第三幕に以下の様なセリフがあったように思います。

「酔っぱらいのバカ役人!」とアルフレートがフロッシュを揶揄するのですが、それに対してフロッシュは「酔っぱらいは余計だ!」といいます。つまり、バカ役人ということは認めているわけです。
(バカと言う言葉は、別の言葉だったかもしれません。)

また、フロッシュは確かになにか間抜けな看守という役柄ですので、「バカ」といった類の言葉で笑い飛ばすのは一向に問題ないのです。ですが、シュトラウス二世が革命にとらわれていたということを思うと、なにかしらの意味があるように思えてならなかったりします。

ちなみに、フロッシュのことを「ラクダ!」といって揶揄する場面があります。字幕ではラクダの横に「馬鹿者」といったたぐいの言葉が添えられていて、同義だということが示されていたと思います。これももとの台本にはないもののようです。

この駱駝、という言葉。ニーチェなんでしょうね、きっと。

それにしても、徐々に年度末が近づき慌ただしくなってきました。寒さも少し和らぎつつあるのでしょうか。今日の昼間は、コートなしで過ごせました。

みなさまの明日も良い一日でありますように。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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閉幕後の風景。日が長くなってきましたね。閉幕後も明るいとなにか嬉しさを覚えます。

先日に続き《こうもり》の中に垣間見える政治的要素について、です。


第二幕の最終部分で、ファルケ博士が唐突にこういうことを言います。

見たところ ここにはたくさんのカップルがいて
たくさんの心が愛の中で結ばれています そこで
私たち皆でひとつの大きな絆を作ってはいかがでしょうか
姉妹や 兄弟となって!

(中略)

親しげな「君(ドゥー)」という呼び名を贈りましょう
いつまでもずっと 今日の日のように
明日もまたそう思い続けましょう!
まずキスを 続いて君(ドゥー)を 君 君 君といつまでも!

訳はオペラ対訳プロジェクトから引用いただきました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/287.html

他愛もないようなシャンパンの歌で世界市民主義を表明するかのような部分で、劇の本筋とは関係のない唐突感を感じます。シャンパンによって浮かれている参加者の感傷に訴えているような感もあります。ですが、なにか永遠に得ることのできない革命の理想が差し込まれているような部分だと感じたのです。

これは、友愛の理念なのではないか、と思うのです。これは、18世紀啓蒙思想の結果で、フランス革命における三つの理念の一つですが、もともとはフリーメイソンの思想から繋がるものでもあります。

(友愛とは→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%84%9B

今回の演出では、オルロフスキーが従者の肩に頭をあずけるシーンが象徴的でした。階級を超えた友愛が示されていたように思えました。

(つづく)


今日の午後は家族で近所をぶらぶらと散歩しました。

太陽の光も随分と明るくなってきました。昼の長さは晩秋のそれと同じぐらいになっているはずです。おそらくは10月から11月と同じほどでしょう。

太陽の光が少しずつ赤みを失い、白く透き通ってきているように思います。同じ場所、同じ時間であっても季節によっては全く別の場所にいるようです。

いや、それは「別の場所にいるようです」ではなく、実際に「別の場所」なのです。

同じ日本にいると思っても、地球は公転していますので実際には太陽との位置関係においては別の場所にいるわけです。視点を変えるとあらゆるものの意味が変わってきます。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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新国立劇場の隣にそびえるオペラシティ。もう竣工から18年ですか。

今日も《こうもり》について。

オペラ《こうもり》は、ウィーンのどんちゃん騒ぎを描いたくったくのない娯楽オペラだと思っていました。際にはヨハン・シュトラウス二世の政治的主張が色濃く織り込まれているオペラなのではないか、といまさらながら気づいてしまいました。

それは、今回の公演パンフレットの中で、西原稔さんが書いておられた「ヨハン・シュトラウス──ワルツの父とワルツ王との親子の確執」のなかで、ヨハン・シュトラウス二世が三月革命を支持していたことが書かれていて、確かに当時のシュトラウス二世ぐらいの世代だとそうだろうなあ、と思ったのです。シュトラウス二世は1825年生まれ。1848年の三月革命当時は、23歳です。若いシュトラウス二世がそうした新しい思想に感化されることに不思議はありません。

そうしてみると、いろいろなことがわかります。

たとえば、小間使いアデーレのおかれている境遇が描かれています。それが嘘だとしても、病気の叔母を見舞うのも雇い主の許可無くしてはなりません。また、アイゼンシュタインが、女優としてパーティに出ていたアデーレを「うちの小間使い」というと、「そんな侮辱をよくも!」とパーティの参加者に糾弾されます。つまり、小間使いというのは実に低い地位に置かれていた存在というわけです。こうした使用人の地位の低さは、たとえばカズオ・イシグロの「日の名残り」や、ロバート・アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」などに見られるものです。その小間使いが、女優に化けて、階級を超えていこうとする姿が描かれている、ということになります。

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特に、第三幕は圧巻です。女優の才能を見せる場面で、女王を演じるまでになります。これは小間使いが女王にもなりうる、という階級の崩壊をも描いているものと捉えられるのではないでしょうか。このオペラ、全てはシャンパンがもたらす幻であるというものです。つまりは、こうした階級ですら、幻である、ということになります。これは、実に革命的であり、当時においては反体制思想です。

そういう意味において、まるで《フィガロの結婚》のような政治的オペラといえるわけです。

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今日も寒い一日。毎日お昼に散歩することにしています。いつものようにコートを着ないで外に出ましたが、さすがに寒いですね。寒さが鋭く突き刺さってきました。周りにはコートを着ないで歩いている方々がいましたが、みなポケットに手を入れて前かがみになって足早に歩いていたようです。

鉛色の空は無慈悲に太陽の暖かさを阻んでいました。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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今日は新国立劇場《こうもり》に行ってまいりました。

東京地方は冷たい雨が降るあいにくの天気ではありましたが、3時間にわたっていろいろと考える機会をもらった感じです。

まずは素晴らしかったのはアルフレート・エシュヴェの指揮でした。すいません、3年経ったので書きますが、前回2011年のダン・エッティーンガーの指揮のこうもり》に馴染めなかったという記憶がありました。軍楽隊のようで、ガチガチだったものですから。

前回の公演の感想は以下の様なものでした。

驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。

ですが、今回のエシュヴェは違います。

私は序曲で落涙しました。なんというか、枯淡の境地という言葉を思い出していたのです。奇をてらうことなく、無理やりなウィーン的情緒を出すこともなく、淡い色合いの音楽を作り出していたからです。

ワルツのもたった感覚は、予習に使っていたクライバー盤よりも淡白です。透き通った白磁のようなワルツの感覚だったと思います。

日本のオケをこんな風に歌わせるとは、と驚きました。

抑制され過度などぎつさのようなものもないなかで、色彩感とかダイナミズムを出していて、ああ、これが伝統で、それをよくぞ日本で再現してくださった、と思ったのです。

もちろん、そうした指揮ですから、舞台上のナラティブを阻害することはありません。こうしたオペラの下地をきちんとつくる音作りは、オペラのパフォーマンス全体を支えるものとなります。

それはまるで企業活動を支えるITインフラのようなものなのかもしれないですね。あって当たり前のようなものなのです。それがあるからこそ、演出が活き、歌手が歌い演じる事ができる、ということだと思います。

しばらく《こうもり》については続けて書くことになりそうです。エシュヴェの指揮のおかげで、なにかブレークスルーを感じたり、このオペラの真の意図を感じたり。。

では、また明日。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

引き続き《こうもり》のこと。今日もクライバーの《こうもり》を聴きました。なんというか、古き良き時代。このような時代が100年以上前にヨーロッパにあったということなんですね。

新国立劇場の《こうもり》は、2006年にプルミエを迎えたハインツ・ツェドニクの演出を使います。今回が4度目です。なかなか息がながいですね

私は2009年と2011年の二回観にっています。

2009年はなかなか楽しい思い出でした。

https://museum.projectmnh.com/2009/02/02235843.php

が、2011年は、エッティンガーの指揮が軍楽隊のようで、という感想でした。(リンク先、WordPress移行で情報が乱れている模様)

https://museum.projectmnh.com/2011/12/11225001.php

では、今回はどうでしょうか。

今回の式は、アルフレッド・エシュヴェです。フォルクスオーパーで指揮をしているアルフレッド・エシュヴェはみずから「ウィーン気質」と言っています。《こうもり》の経験も多そうですね。洒脱な《こうもり》が聞けると良いのですが。

こちらがインタビュー記事です。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/150122_006234.html

いろいろ画像をみていると、前回2011年もアイゼンシュタインを歌ったアドリアン・エレートは、どうやら口ひげをつけて登場のようです。また、2009年、2011年とは違うキャストの方も入っていますので、今回は随分印象が変わるのではないか、と思っています。

そしてこちらが予告編。2011年の模様となっています。

すでに全5回のうち2回がおわり、金曜日と日曜日二回公演が残っているのみです。

こんな時だからこそ、見に行かないと、と思います。いわゆる、辻邦生のいう「戦闘的オプティミズム」です。

ではおやすみなさい。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

NNTT:新国立劇場

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来シーズンの新国立劇場ラインナップがでましたね。少し遅れましたが、以下のとおりでした。

  • ラインの黄金(新制作)
  • トスカ
  • ファルスタッフ
  • 魔笛
  • イェヌーファ(新制作)
  • サロメ
  • ウェルテル(新制作)
  • アンドレア・シェニエ
  • ローエングリン
  • 夕鶴

新制作が三つ。また新たなリングが始まりますね。楽しみです。

来シーズンは、劇場へのでかけ方を少し変える必要があるかも、などと思っています。

取り急ぎ。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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引き続き、先日の新国立劇場《ドン・カルロ》について。今から思っても本当に興味深いドラマでした。

登場人物の一人、宗教裁判長。彼は、王に意見することができるほどの権力の持ち主です。

王と聖職者の関係は、ドイツ国防軍やソ連における指揮官と政治将校、かつての日本における校長と配属将校の関係に似てます。指揮権とは別系統の指揮権が存在するという状況ですから。

フーコーの概念に司牧者権力というものがあります。他者の幸福を目的とするかのように振舞いますが、実際には教会の支配の原理を維持することが目的である、というものです。観ながらそのことばかり思い出していました。妻屋さん演ずる宗教裁判長はまさにそのように見えるもの。年老いて、杖を付きながらも、磔刑像を権力の象徴のように持ち歩いていました。

これは、確かにカトリックへのある種の抵抗のようなものがあるのかもしれません。19世紀以降の市民革命の時代に会って、旧態依然としたカトリシズムへの反抗のようなものは少なからなずあったでしょうから。

それに加えて、この《ドン・カルロ》が作曲された時代というものを考える必要があります。

これには、イタリア王国とローマ教皇の対立が背景にあるのもあるでしょう。作曲されたのは1865年から1866年にかけて、とされています。ちょうど、イタリア統一運動の中に会って、ローマの領有をめぐって、教皇とイタリア王が鍔迫り合いをしていた頃です。1864年12月8日(まさに今日ですね)には誤謬表というものが教皇によって発布されました。これは自由主義は誤っているという詔勅だったわけで、批判や議論が巻き起こったようです。

こうした、イタリアにおける王国と教皇の対立も、この《ドン・カルロ》のドラマになにかしらの影響を与えていると考えるとなにか首肯できるものがあります。

がゆえに、《ドン・カルロ》の初演で、ナポレオン三世の后であるウジェニー皇后は席を立ったのかもしれません。wikiにはウジェニーはカトリックだったので、ということになっていますが、私の勝手な想像では、教皇領をめぐってフランスとイタリアは対立状況にあったので、そういうことも背景にあったのではないかと思っています。教皇領を守っていたのはフランス軍でしたし。

もちろん、この手の、ヴェルディと政治運動の関連性に安易に飛びつくことの危険性も指摘しておきたいとおもいます。あの、Verdi = ヴィットリオ・エマヌエーレ万歳!という都市伝説のような胡散臭さというものは常につきまといますから。その辺りは以下のリンク先の記事をどうぞ。

https://museum.projectmnh.com/2013/05/18235903.php
https://museum.projectmnh.com/2013/05/19105240.php

というわけで、取り急ぎグーテナハト。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

霜柱ゲット。

今朝は冷え込みました。本日撮影した霜柱です。

高校のころ、冬場にグラウンドに霜柱ができまくって、部活の練習ができず困っていたようです。朝方に立った霜柱は夕方には泥濘となりますから。

で、体育の時間に、霜予防の薬剤をまるまる一時間グラウンドに散布しました。それも何週間も何週間も。本当はバスケットをやる時間だったんですが。四回目ぐらい、さすがに生徒はキレてましたね。一回ならいいが、四回連続で部活のために体育の時間で作業をさせるのは何事だ、と。

まあ、世の中そういうものです。

カトリシズムの話の前に一つだけ。フェリペ2世の父親は、いわゆるカール5世です。ハプスブルク家最大版図を築いた王。それも戦争ではなく婚姻で、というやつです。高校時代にかじったポール・ケネディ「大国の興亡」の冒頭がカール5世だったんですが、予備知識なくして読めるわけもなく。その後高校で世界史を学んでいろいろ理解が進んだ記憶があります。

Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian.jpg
Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian" by かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオ の作とされていた。. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
で、このカール5世は、神聖ローマ帝国肯定としてはカール5世なんですが、スペイン王としてはカルロス1世なんですね。これは有名な話。

《ドン・カルロ》においては、カルロ5世とイタリア語読みとなっていました。カルロ1世でも良いはずなんですが。

原作者シラーはドイツ人ですので、カール5世としたのか。ヴェルディが活躍した頃のイタリアは、オーストリアの支配が及んでいた頃、あるいはその直後だったのでカール5世のままとしたのか。

ちなみに、ウィキペディアには、初号一覧が乗っていて、とても興味深いです。シチリア王としてはカルロ1世。オーストリア大公としてはカール1世。ブルゴーニュ公としてはシャルル2世、だそうです。

痛風に悩まされ、統治と戦争につかれたカール5世は晩年修道院に隠遁するそうです。なるほど。こういう権力者もいるということなのですね。

それでは取り急ぎグーテナハトです。