2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。

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King PhilipII of Spain" by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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すっかり冬模様の新国立劇場です。冬至に向けて一直線。お昼が短いというのは悲しさもありますが、なにか非日常の感覚も覚えます。なんだか北欧にでもきた気分かも、などと。

それにしてもご無沙汰してしまっています。生活リズムが変わり、書く、という行為をいささか後回しにしすぎました。少しずつ新しいリズムにも慣れてきましたのでようようと再開します。
(というか、こういうムラはなくさないと行けないんですがね。。ここで食べているというわけではありませんが、反省すべきことだと思います)

先だって新国立劇場で《ドン・カルロ》を見てきました。ヴェルディオペラのドロドロとした人間模様を堪能してきました。

歌手の方々、最高すぎて、ほんと東京にいるとは思えないぐらい。いや、東京がここまでレベルが高くなったということを喜んだほうが良いのかもしれません。もちろん、外国歌手の方々に支えられている部分もあるのですが、山下さんや妻屋さんといった新国をささえる日本勢のみなさん、いつもながら素晴らしい合唱の方々には本当に頭が下がります。

指揮のピエトロ・リッツォは素晴らしいのひとこと。さすがにオケを完全解決とまでは行きませんが、統御された指揮で、激空間を支え続けたのだと思います。全く違和感なく劇に身を浸すことができました。

ああすごいなあと思ったのは、カルロが人違いでエボリ公女と愛を歌うシーン。わざと早めのテンポを取っているように聞こえました。なにか空疎な感覚を感じさせるように。なんだか、オケが空元気のようにおもえたのですね。音でドラマを創り出すというのはこういうことなのか、と、あらためて認識しました。本当にうまいなあ、と思います。

明日に続きます。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

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はじめに

今週の日曜日に行った新国立劇場《パルジファル》。多分18時ごろの写真。第二幕と第三幕の休憩の時に撮りました。

今日はクンドリ

今日はクンドリについて。このキャラクターはヒロインとは言えないでしょう。そこまで単純な性格付けができるキャラクターではありません。

《パルジファル》における謎めいた女性。善悪、それはもちろん、相対的な価値観に過ぎず、「とある言語ゲーム」において対極の側面をあわせ持つ人物、という方が正確な言い方とおもいます。

そのクンドリを歌い演じたのはエヴェリン・ヘルリツィウス。ドイツのメゾ・ソプラノです。バイロイト、ケルン、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーンでもクンドリを歌っています。また、ブリュンヒルデもバイロイトで歌っていますし、イゾルデもレパートリです。

歌唱はもちろん安定していて、静謐と狂気を自在に使い分けていました。あのLacht と絶叫し、十字架を背負うイエスを嘲笑ったことへの究極の悔恨の表現は怖ろしさすら感じました。おそらく、あそこの一点において、アンサンブルの中で突出したものを体現したのだとおもいます。

一方で、第三幕の場面。あそこは絶品です。歌詞はほとんどありません。クンドリは黙劇を演じるかのようです。が、ここがほんとうに素晴らしかったのです。人間の人間らしさとはこういうものなのか、と思います。

苦しみを乗り越え、パルジファルの脚を洗い、香油を塗るクンドリに、もはや迷いはりません。パルジファルとエロスを超えた愛情で結ばれている至上の幸福感を感じました。

ヘルリツィウスの表情は第二幕の欲情に燃えさかるそれではなく、老成し落ち着いた老夫婦の愛情なんだろうなあ、と思います。髪の毛を包むベールをとると白髪になっていたところに私は本当に本当に心をうたれました。長い時間がなせる奇跡を見たのだと思います。

もちろん、時間と空間が混合した世界であることはリブレットにある通りです。それでも、第二幕のクリングゾルの城の崩壊から長い時間が経っていることの示唆、つまり、クンドリの白髪もそうですし、パルジファルが水を受け取り上着を差し出す青年が、前奏曲でアムフォルタスに水を与えた少年で、成長しながらも、そこになにかしらの貧困のなせる不幸という文脈を、感じ取ることができるとか、そうしたところで、劇空間の時間的拡がりを認識できたのだと思います。

そうした、時間の中を苦しい旅を続けたパルジファルもクンドリの境地は、どのような宗教においても普遍的な巡礼や回行といった行をおさめた者の境地なのでしょう。そう意味では時間という、人間が決して操作できない最大の自然力こそが、人間を鍛えるのでしょう。

私はあの第三幕のクンドリの横顔を一生忘れることはないと思います。辛苦を乗り越えた横顔であり、そこで得た安らぎを味わう横顔だったと思います。

終わりに

明日も公演が14時からありますね。いらっしゃる方、どうぞ楽しんでいらしてください。って、ネタバレのことばかり書いてすいません。

6時間の公演を聞き終えたあと、おそらくその業績を名刺に書くことがゆるされるんじゃないか、と思うほど。大袈裟ですかね。たしか《失われた時を求めて》をすべて読んだ人は、その業績を名刺に書ける、という話が会ったと思いますが。。

それではみなさまおやすみなさい。

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はじめに

みなさま、今日の台風はいかがでしたか。私は台風が来る前にということで、早々に仕事場に向かいました。いつもより一時間半早く到着しましたが、悠々と通勤できました。早起きは三文の得。

こちらの写真が台風前夜の新国立劇場。

あらためてみてみると、凄い色の写真になってます。広角でパースがめちゃめちゃですがこも崩壊感がいいのかも。なんだかよくある舞台装置みたいです。

昔、バイエルン州立歌劇場で《マノン・レスコー》觀ましたが、舞台上に、バイエルン州立歌劇場が現れて驚きました。アンドレアス・ホモキの演出だったはず。新国でも、新国を舞台にした演出ができるかもしれない、などと。もちろん、《ヴォツェック》のようにじゃぶじゃぶと水を張ると面白い。この水庭が舞台なんですよ。なーんて。

愚者パルジファル

新国立劇場《パルジファル》の感想。その2です。

とにかく、パルジファルは愚者としての描かれ方。フォークトやドミンゴだとこうはいかないのかも、などと。
ただ、これも真実。この方が真実。パルジファルとイエスがかさなるようにおもえたし、作務衣のような服からは、お寺の小坊主みたいな雰囲気を感じました。

すこし驚いたのが、第二幕での「アムフォルタス!」と絶叫するシーン。あそこは、決定的認識で、英雄に変貌するシーンと思っていましたが、そうではありませんでした。パルジファルは、アムフォルタス、と叫びながら、最後のほうは、泣き崩れるようだったのです。まさに、共苦。苦しみに同化し、泣き崩れた感じ。華々しい認識の勝利とか、エラン・ビタールのような価値の転倒、コペルニクス的展開のような爆発力はありません。
これ、遠藤周作「死海のほとり」に出てくる人間的イエスなんだなあ、と。カラヤン、ショルティ、ティーレマンとその他の盤でも聴いてみましたが、こういう歌い方はないです。それらはやはり英雄的パルジファルなのでしょう。

ですが、今回のパルジファルは違いますから。これが本当の英雄。本当の聖者。私はそう思いました。

クリスティアン・フランツ、少し調子悪い?と思えるなにか元気のなさなようなものを感じましたが、そういう設定だから妥当なのでしょう。声の美しさは抜群。透き通る高音は、パルジファルの心の純粋さがよく現れていました。演技も本当に巧いです。アムフォルタスの嘆きのモノローグの最中にも、なにかたじろいだり、驚いたりするシーンがありました。愚者パルジファルを十全に演じきっていたと思います。

最後、仏教へと消えしていくシーンの、あの断固とした表情は忘れられないです。悟りの境地にある達磨大師のような達観した表情。私もいつかはあのような表情を浮かべて全てを見やってみたい、そう思います。

終わりに

このあとクンドリ関連も書いたのですが、それはまた明日。これは少し続きそうなネタです。

それにしても、音楽的なことはあまりかけず、いつもの様についつい演出や演技などについて印象に残ったことを書いてしまいます。私はオペラにおいてなにを観ているのか。。

次の公演は10月8日です。でもお昼の2時からですのでお勤めの方は難しそうですが、ぜひぜひ。

ではグーテナハトです。

NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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《パルジファル》。日本でこのパフォーマンスを見ることができることに本当に感謝です。

今日は14時〜20時の6時間にわたって初台にこもった感じです。4年前の東京リング以来の長丁場でしたかね。なかなかハードでしたが、ちゃんと全て集中力をたもって聴くことが出来ました。本当に学びと気づきに満ちた6時間でした。

バックステージツアーもありましたが、今日はさすがに応募できず。多分今日は競争率が低かったのではないでしょうか。

それにしても、今回のクプファーの演出は見事でした。たしかに舞台装置の意味合いが難解な部分もありましたが、仏教の僧侶の導入は、私には本当に妥当で核心をついたものだと感じました。

ワーグナーは《勝利者たち Die Sieger》というオペラを1850年代に予定していて、これは仏教的なものとなる見込みだったそうです。

たしかに、《パルジファル》いおける、仏教の煩悩からの解脱とか、他者への分け与え(布施波羅蜜というそうですが)といったコンセプトが実にフィットしていたのだと思います。

また、現状の価値が多様化している世の中にあって、「キリスト教」的な価値観と仏教的な価値感への連結が描かれたことは、示唆的だったのだと思います。さすがにここでイスラム的な、となると、非常に難しいのでしょうけれど。

個人的には、最近、大学の友人とこの手の話題を執拗にメールでやりとりしていたこともあって、シンクロニシティを感じました。少し前に岡本かの子を読んでいたのもその理由からだったので。

しばらく《パルジファル》を考えることになりそうです。で、それはいささかショッキングというか、その後の悲惨な歴史的経緯を想起させるものになるかもしれませんが。。

東京地方の明日は台風。ですので、早く家を出ます。電車が動いていることを願いつつ。みなさまもお気をつけて。

それではグーテナハトです。

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バックステージツアーに当選しました。やっとです。本当に。ありがたくいろいろお話を伺ってきました。こちらは舞台からのながめ。歌手の方はこんなかんじで眺めておられるのですね。
毎日短信ですいません。まったく時間配分が巧く行きません。
さて、《アラベッラ》の最初は、新しめのオペラの例にならって、序曲なんていうものはありません。
突然音楽が始まります。
幾つもの下降旋律が折り重なったのちに、神経質なヴァイオリンの小忙しいフレーズと、クラリネットの気が抜けるような上昇旋律につづいて、占い師のおばさまが、トランプ占いの結果を語り始めます。
この占い師のおばさまのところが序曲なんですね、なんてことを思いました。《アラベッラ》物語をずいぶんと要約して予告していました。
古いイタリア・オペラだと、序曲があって、オペラ全体から美味しいフレーズを先んじて演奏して、期待を高めたりします。これからの予告編、ダイジェスト、そんな感じです。
アラベッラは、それを劇中の歌詞でやっているのかあ、なんてことを思いました。
やはり、なんというか、オペラというのはあらすじがわかりにくいこともありますので、ある程度の予備知識は必要なんでしょうね。
どこかの本によれば、ヨーロッパでは、親が子どもにあらすじを教えたりしていたようです。
が、新作オペラだとそうはいきませんからね。
今日は足が疲れて、夜になるとむくんでしまいました。どうも昨日4時間座り続けたからかもしれません。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Oboe,Richard Strauss

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アラベッラ、行ってきました。ベルトラン・ド・ビリーの爽快で洒脱な音作りを堪能しました、アンナ・ガブラー、アニヤ=ニーナ・バーマン、ヴォルフガング・コッホ、マルティン・ニーヴァル、安井陽子さん、みなさん本当に素晴らしかったです。
なんだか、フィアッカミリの安井陽子さんが素晴らしかったですね。なんだかどんどんパワーアップしている気がします。
あとは、東フィルのオーボエの音が素晴らしかったです。張りはあるけれど優しくかつ繊細。かなり感動。多分、荒川文吉さん。昨年の第82回日本音楽コンクールオーボエ部門で二位になった方。
終幕後、バックステージツアーで4年ぶりに舞台に上がり、その後新宿で所用をこなしたため、遅くなってしまいました。明日以降引き続き書きます。宿題ばかり。
ではグーテナハト。
※ こちらの写真は今年の冬のものです。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

新国終わりました。しばしの逃避リフレッシュ。
早いもので五月も後半です。月日は高速で過ぎ去ります。
週末にみた《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》について引き続き。
《カヴァレリア・ルスティカーナ》のほうから。
やはり、フラッカーロはうまい。あの凄まじい張りのある声は、パヴァロッティにもドミンゴにもない持ち味です。もしかするとデル=モナコなのかもしれない。
フラッカーロの忘れられないパフォーマンスは、新国のオテロです。あの時は、あまりの凄さに驚き、いい意味で「あいた口がふさがらない」という状況でした。今回もやはりでした。
サントゥッツァを歌ったルクレシア・ガルシアも素晴らしかったですよ。潤いのある声で、声量もたっぷり。贅沢です。あとはローラを歌った谷口さんが素晴らしいです。声質がヨーロッパの歌手の声に似ていて驚きました。
youtubeに新国立劇場が《カヴァレリア・ルスティカーナ》の映像を載せていました。フラッカーロは1分20秒ぐらいから登場です。

イタリア・オペラは本当にいいなあ。
ちなみに、映像の冒頭に出てくるキリスト像、なんだか面白いです。これはまた明日以降書きます。
ではグーテナハト。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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徐々に体調も回復してきてやっとまっとうにオペラが楽しめるようになってきました。体は疲れてますし、昨夜はたまたま観た映画(Cast Away)を見てしまい夜更かししてしまったんですが、特に眠気にさいなまれることもなく、劇に引き込まれた3時間でした。
《カヴァレリア・ルスティカーナ》も《道化師》もヴェリズモ・オペラですので、色恋刃傷劇で、愛憎にまみれて人が男人も死ぬんですが、悲劇はカタルシスですので、心が洗われた気がします。多分。
舞台には、シチリアに遺されたローマ時代の円形劇場が設えられています。これがまたリアルすぎでした。左手にはオリーブの古樹があって、ギリシア風の円柱の残骸がいくつかころがっているという、まあアルカディアのような風景です。本当にリアリティのある舞台でした。
《カヴァレリア》も《道化師》もおなじくこの円形劇場が舞台ですが、なにか共通の趣向があるわけではありませんでした。たとえば、《カヴァレリア》事件の夜に《道化師》事件がある。あるいは、《カヴァレリア》の登場人物が《道化師》の脇役で出演する、といった繋がりがあるとまた面白いなあ、などと想像していたのですが。
《道化師》はなかなか面白い趣向です。サーカス一座の登場は、ありがちではありますが、キャストが客席から登場します。専用のビラまで配ってました。それからカニオは、殺人を犯したあとに、客席のドアから逃げ出します。これも舞台と客席がつながっていました。こういう客席と舞台の一体感は楽しいですね。この客席と舞台の融合をずっと続けるパフォーマンスがだともっといいですね。
《道化師》はよくよく考えると第四の壁を最初から取り除いているのですね。トニオが役者の心情を切々と歌い上げますが、それは劇中の役者の心情なのか、実際の歌手地自身の心情なのかが曖昧になってくる、という趣向は、これも常套ではありますが、興味深いものです。
それから、後半の劇中劇の場面も面白いですよね。劇と劇中劇が混在していきますので。劇ではネッダとシルヴィオが不倫関係に有り、劇中劇ではコロンビーナとアルルカンが不倫関係にあり、被害者はカニオということで、混乱しているカニオは、両者の区別が付けられなくなってしまう、という、ありがちですが、そうした混乱の緊張感は手に汗を握りますね。カニオの逸脱を、ネッダがなんとか元に戻そうとするあたり、とか。
ともかく、劇と劇中劇においても虚構と現実の境目が曖昧になるということは、劇と観客の境目も曖昧になっているように感じられ、観客が引き込まれやすい構造になっていました。
とりいそぎグーテナハトです。明日も書きますね。