!https://lh3.googleusercontent.com/-PX57w9PMMa4/S6kUYO4VTJI/AAAAAAAADQo/QFHcVEoiJTc/s800/BeforePerformance.jpg!
追伸。
先日の「さまよえるオランダ人」を観たり、オテロの話を聞いて、やはり、新国に通い続けたいと思い、また今年もコミットしよう、と本日決心したのでした。
というわけで、ホリデーAに申請をしてみました。今年は冒険しました。前のほうの席にしてみました。ちゃんと取れれば音はいいと思いますが、字幕が見えるかが心配。。
新国シーズン券ポチッと。。
新国立劇場 オテロ出演者変更
先ほど新国立劇場からメールが来ました。
デズデーモナ役で出演を予定していたマリーナ・ポプラフスカヤは、健康上の理由のため出演できなくなりました。
代わって、マリア・ルイジア・ボルシが 出演いたします
“http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001926.html":http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001926.html
ポプラフスカヤは、先日届いた「ジ・アトレ」にインタビユーが載っていたりと、楽しみにしていたのですが、残念ながらキャンセルです。
代わりにいらっしゃるのがマリア・ルイジア・ボルシ。あの楽しかった昨年の「コジ」でフィオルディリージを歌っていたのがマリア・ルイジア・ボルジ。安定した歌唱だったと思います。
これから、アンサンブルに合流されるマリア・ルイジア・ボルシさんや劇場スタッフの方々は、大変だと思います。どうかがんばってください。応援しています。
私も、最近オテロに目覚めてますので、今回のパフォーマンスに期待大です。今日もデル・モナコで予習中です。
記録が大事──「牧神の午後への前奏曲」
昨夜18時頃会社に呼び出され、3時過ぎまで対応して、帰宅したのが4時半頃。とりあえず就寝して9時半に起床でした。来客がありましたが、私はダウン気味で、失礼してしまった感じで申し訳ありません。
というわけで、今日はカラヤンのフランス音楽です。
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、昨年日フィル定期で二回も聴いてしまい、やっと曲への理解が深まった気がします。
冒頭のフルートソロが格好良すぎる。録音は1965年ですので、カールハインツ・ツェラーです。ライナーにも記載ありました。
こちらのサイトにベルリンフィルフルート奏者年代記がありますね。
“http://blogs.yahoo.co.jp/yosid/42745598.html":http://blogs.yahoo.co.jp/yosid/42745598.html
たゆたう浮遊感は不協和音に支えられているわけですが、音楽は不協和音じゃなきゃイヤです。もう協和世界には戻れません。
ジャズの和声は、印象派の響きを再現するためのシステムである、というテーゼを思い出します。
ジャズにおいて「テンション・コード」とよばれているものも、ジャズ・ミュージシャンが、ドビュッシーやラヴェルといった作曲の作品から自由に気に入った響きを取り出して、コード・ネーム化していったものである、というふうに考えることも可能なのである。
山下邦彦「チック・コリアの音楽─ポスト・ビバップの真実とジャズの可能性を求めて」音楽之友社、1995
この言葉で、ずいぶん視野が開けた気がしたものです。なぜ、ワーグナー以降が好きなのか、という観点においてです。
関連エントリー 私が「牧神」に開眼したコンサート
“会社帰りに夢があった。──日本フィル定期演奏会":https://museum.projectmnh.com/2011/12/10181332.php
ゼンダは少女ではない──新国立劇場「さまよえるオランダ人」
行って参りました。新国立劇場の「さまよえるオランダ人」。
久々のワーグナーオペラでした。不協和音に痺れました。
ジェニファー・ウィルソン
ゼンダのジェニファー・ウィルソンは歌唱力は抜群でした。。ピッチの狂いなく、高音域もパワーを保持しながら難なくきちんとヒットしていくさまは本当に見事でした。完全に今日のナンバーワンでしょう。
男声合唱の素晴らしさ
次の男声合唱が素晴らしかった。PAが補完していた可能性もあるが、水夫達のワイルドな心持ちが十分に届いて来るものだった。カーテンコールでは、合唱団員にいつもにもまして盛んな拍手が贈られたし、珍しくブラボーもかかった。私は10年ほど新国立劇場に通っているが、合唱にブラボーがかかったのは初めてでした。
オランダ人のエフゲニー・ニキティン
オランダ人のエフゲニー・ニキティン。性質は抜群です。。オランダ人のミステリアスさをよく表現していました。ただ、前半特にピッチが不安定であったのが気にりました。不安を覚えながら聴いていましたが、後半はそうした問題もだいぶ解決してきました。ウィルソンとの二重唱におけるバトルは壮絶でした。
オケが……。
オケについては書くのはなかなか難しいなあ。。あえて書かないことにいたします。ホルンって難しいのでしょうね。
まとめ
久々の本格ドイツオペラでした。12月の「こうもり」以来。「こうもり」はオペレッタかもしれませんが。
しかし、今日も二階席の音響に物足りなさを感じてしまいました。日フィルで最前列の音響のすごさを体感して以来です。今日もボリュームを上げたくなる欲求が何度も。きっともっとすごいサウンドなんだろうなあ、と思います。一度で良いからS席前方ブロックで観てみたいです。
おまけ
帰宅しようとしたら会社に呼び出され、7時間ほど勤務。帰宅したら4時半。夜の都心のタクシーは刺激的。今日のタクシー運転手は記憶力がある方だったなあ。これまでの核実験総数は2085回。日本の原発は54基、フランスの原発は56基。などなど。営業マインドもあったし、経営のセンスもありました。
酸いも甘いも知っている──家庭交響曲
シュトラウスの家庭交響曲をカラヤンにて。
シュトラウスの洒脱さにはひれ伏すのみ。。酸いも甘いも知っているが故の余裕なんだろうなあ。
この曲は確か2009年にN響で聞いて以来理解が深まったと思う。指揮はプレヴィン。年老いてもなお若さを持つプレヴィン翁の指揮だった。
この曲を聞いているとシュトラウス一家の様子が手に取るように見えてきたのには驚いた。パウリーネ夫人の癇癪とか、しまいには泣き出してシュトラウスが必死になだめていたり。息子のフランツが走り回ったり。しまいにはピロートークまで始まってしまうというところ。きっとあそこはラヴシーンだと思うところもある。ばらの騎士でベットシーンを作曲したシュトラウスなら可能なんだが、自分の家を赤裸々に描き過ぎな気もする。
しかし、若い頃の私には家庭交響曲はさっぱりわからなかった。当時はブルックナーばかり聞いていたので、おおよそ、このようなエスプリはわからなかったということもる。
だが、それだけではない。もっとも効果的だったのはインテルメッツォを聞いたからだとおもっている。このオペラもやはりシュトラウス一家のゴタゴタを描いたもの。ここで、私は筋書きと音楽の相関関係を学んだらしい。旋律に台詞が絡み合うときに、旋律の持つ意味性を感じ取っていたらしい。
私は、まだ幼き頃は、この旋律に意味を見出すということが許せなかった。ヴィヴァルディの四季なんていうのはもってのほかだった。理由はよくわからない。別にハンスリックを読んだわけでもないし、赤いハリネズミ亭に通ったわけでもない。
やはりオペラを聞き始めたのかわ大きかったのだと思う。
つまりはワーグナーのライトモティーフを理解し始めたということなのだろう。音楽は筋書き以上に饒舌なのだ。オペラの台詞を越えた音楽表現がに思い当たるのは、CDラックから宝物を掘り出したときと同じだ。大事なものは眼前にあるものなのだ。
あとは、私も齢をかさねたのだろう。世の儚さや背理性を理解したその先には笑いや皮肉、洒脱さや鷹揚さがある。そうした気分にフィットするのがシュトラウスの音楽なのだ、と考えている。
そんな世疲れてアンニュイなあなたにはこの曲がお勧め。
マゼールの家庭交響曲はとにかく大きい。雄大な家庭交響曲。だが、中盤部のねっとりとした語らいの場面の官能度も高い。録音面でも優れている。洒脱なんだが、肝心なときには真面目な顔をして見せる悪い男の姿が目に浮かぶ。
耽美的なあなたにはカラヤンがお勧め。中低音のリバーヴ感が強すぎるとか、SN比が高いなど録音はまりよくない。最終部の盛り上がりは相当なもの。カラヤン円熟期の素晴らしい遺産。
サヴァリッシュ盤も最近入手した。職人の築く手堅い住まいである。それは質素なそれではない。装飾の美しい日当たりの良い屋敷のそれだ。若き日のサヴァリッシュの面影を感じる。音響も悪くない。
上岡敏之もあるが、これはまたの機会に。
これまでの家庭交響曲関連の記事。
“ケンペ/シュトラウス 家庭交響曲":https://museum.projectmnh.com/2009/09/15215121.php
“マゼールをそんなにいじめないで~シュトラウス「家庭交響曲」":https://museum.projectmnh.com/2009/10/02050838.php
“帝王カラヤンの家庭は?":https://museum.projectmnh.com/2009/10/14215810.php
“プレヴィン、シュトラウス その2":https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407.php
若い頃の血が逆流してきた──新国立劇場 松村禎三「沈黙」
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はじめに
2月18日(土)、松村禎三の「沈黙」を新国立劇場でみてきました。
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重いオペラでしたが、個人的にはとても興味深いもので、あっという間の三時間でした。
ストーリー
言うまでもなく「沈黙」は、遠藤周作の名著です。
禁教下の17世紀に、マカオから潜入した宣教師ロドリゴが、弾圧されるキリシタン信徒を前に、信仰を捨てるか否かを迫られるという、本当に重い内容です。拷問され処刑されている信徒の姿を見て、いくら祈っても助けとならない神の真意とは何か? 信じてもなお苦痛に苛まれる。本当に救われるのか?
拷問のシーンや、火責め水責めの処刑の描写が激しく、水責めのシーンが津波を思い出させ、悲しみとともになんだか目を背けたくなるような気持ちになりました。
沈黙は大学受験のころに読みましたが、あのころの記憶が蘇えりました。
私には、「沈黙」と同じ文庫本に所収されていた「死海のほとり」のほうが印象的だったのですが、今回は、感慨をもう一度呼び覚ましてくれた気がします。
「死海のほとり」では、映画「ベン・ハー」では、あんなに人々を癒していたキリストが、無力な存在として描かれてた驚きがありましたが、今回もあらためて、信仰と現実の狭間の深淵をのぞき込んだ気がします。
音楽面
今回は予習音源が手に入らず、音楽をきちんと受け止められるか、不安でしたが、第一幕冒頭の火刑のシーンの強烈な不協和音に揺り動かされ、涙とまらず、というところでした。
サウンドとしては、ベルクに似ていましたので、全く違和感を感じることもなく音楽二敗って行けたように思います。あるいは、ツィンマーマンの「軍人たち」を思い出したり。
ですが、私には「ヴォツェック」に似ている用に思えてなりませんでした。例えばオケがユニゾンでなるところが、ヴォツェックがマリーを殺したあとに鳴り響くロ音のユニゾンにきこえたりしました。
独奏ヴァイオリンが効果的に使われていて、ロドリゴの心の迷いを、あらわしていたとおもいます。それからトランペットも効果的で、神の垂範を表していたり、教会の意見を表していたりしていたおもいます。
最も感動的だったのはオハルを歌った石橋栄美さんでした。なんというか、言葉にでない感慨です。一緒に生きて死のうとまで誓い合った夫のモキチが水責めで死ぬのを目の当たりにしたオハルは、食事をとることが出来ずに衰弱死します。
その前に「オハルは、今日の穴掘りに耐えられなかった」という歌詞がありましたので、集落の信徒全員が強制労働にかり出されいたのか、あるいは、彼ら自身の墓穴を掘るよう強いられていたのか、そういう背景を想像しました。
オハルは、モキチの幻影を観ながら息絶えるわけで、あそこは、一つのクライマックスでした。オハルの見せ場は、死の場面の前の、モキチの水責めにうろたえる場面にもありましたが、狂乱の場だとありました。いわゆるベルカントの狂乱の場ですか。。それにしては深刻すぎるなあ、と思います。
その場面で、石橋さんは、伸びのある、そして高い音に張りのある声で、儚く哀れなオハルを素晴らしく表現していたと思いました。
あの場面は、穿った見方をすると、お涙頂戴的な下世話な感じになりがちなんですが(私は今年に入って、そうした舞台を観て辟易した経験があります。このウェブログには書いていませんが)、そうならないギリギリの線で、巧く表現しておられたと思いました。出色の素晴らしさでした。
日本語のリズム
今回は当然ながら日本語のオペラです。今回の歌手の方々に、発音の面で大きな違和感を感じませんでした。
偉そうなことを申しますが、ドイツ語のオペラを観ると、日本人の歌手の方のアーティキュレーションに違和感を感じることがあります。そこで、音を弱めてはいけないはずなのに、どうして? みたいなもどかしさです。
欧州語を母語にしておられる方々にとっては当たり前なんでしょうけれど、おそらくは日本人には難しいことなのだと思います。もちろんきちんと歌える方もたくさんいます。あくまで確率論なんですが。
ところが、今回のパフォーマンスでは全くそうした違和感は感じませんでした。日本語のアーティキュレーションは日本語の使い手である日本人が最もよく分かっているということなのでしょう。これは、日本のポップスを聴いていても思うことです。
日本語とはいえ、面白いことに字幕がありましたが、あれは助かりました。長崎方言やキリシタン言葉は聞いただけでは分かりませんので、理解の助けになりました。
思うこと、しばし
しかし、我々は毎日踏み絵を踏んでいる気がします。そきういう観点でいうと、キチジローは我々の中に普通にいる存在なのでしょう。組織のなかにあっては、自らの本意とは違う行動を取るのは当たり前ですし、そこに正しさはありません。正しいことととるべき行動は常に乖離しています。
では、簡単に踏み絵を踏んで、役人に密告してしまうキチジローは、本当に自らに正直に生きていない弱い人間なのでしょうか?
私は、おや、と思う場面を見いだしました。
キチジローは、裏切り者の烙印を押されて、村の人間に相手にされなくなり、子供達にもさげすまれる存在になります。キチジローは、もう自分にはどこにも行くところがない、と嘆きます。もし、キチジローが信仰を守れば、そんなことはなかったのに。
そうなのです。キチジローにとっては、信仰というのもしかしたら周りの人間に認められるための手段でしかなかったのではないか、と思われるのです。
さらに考えを進めると、どうやら村の人間達は、信仰を通してしか人を認めることが出来ないのではないか、という考えに至ってしまいます。自分たちと異なる価値観を排除しようという観念。いわゆる日本的なムラ志向ではないか、と。
がゆえに、フェレイラは「日本は沼だ」言ったのではないか、と。個人個人が神と向き合っているのではない。村の皆が信じるが故に、我も我も、と信じているという共同体的錯誤ではないのか。そこには個人の考えはないのではないか、と。
フェレイラは、キリストの神が大日如来にすり替わる、と言いましたが、それでしかなかったのではないか、という残念な気持ちを抑えられません。
終わりに
今回も、素晴らしく考えさせられる舞台でした。オペラが現実へ働きかける力を十二分に持っていると言うことを改めて認識しました。
グレアム・グリーンが「二十世紀最大のキリスト教文学」と称えたそうです。
科学万能の現代にあっては、神の在不在という問題にとどまらず、すべてが原子核の集合分離に帰着してしまう世界の中で、いかに価値を見いだすか、という問題点にまで視界を開かせる「沈黙」の世界は、偉大なものでした。
まだまだ現代的価値を持っている作品です。遠藤周作、また読み始めようかなあ、と思います。
いろいろと興味深く、また懐かしくもあるパフォーマンスでした。
付録
「沈黙」は、2013年にアメリカで映画化されるそうです。
“http://www.imdb.com/title/tt0490215/":http://www.imdb.com/title/tt0490215/
今回の、新国立劇場のパンフレットには、私が大学時代に習った先生が文章を書かれていました。まあ、このテーマですと、私の大学が出てくるのは必然なんですが。
その先生の「キリスト教と文学」という講義を一年間とったのですが、生意気な私は辻邦生の「背教者ユリアヌス」を題材にして、超越的存在の神と、現世をつなぐ難しさをレポートにまとめた記憶があります。
それはそれで先生にとっても興味深かったらしく、わりといい点を貰ったんですが、先生には、キリストの受肉こそが、その解決の可能性だ、と示唆されたのを思い出しました。
当時は、受肉が普遍性を持つのか、理解できませんでしたが、若いがゆえの蒙昧なのでしょう。もうすこし考えてみてもいいかもしれません。
でも、すごく優しくて人間味の溢れる先生でした。今も元気で教鞭を執っておられて、大学にしかるべきポストを持っておられるのを知ってすごくうれしかったです。
ヴェルディに開眼したかもしれない。
ヴェルディに開眼したかもしれない。
私にとって、苦手な分野だったヴェルディのオペラ。ですが、ようやく理解できるようになってきたのかもしれないです。
そう思えたのは、このCDを聴いたから。デル・モナコがオテロを歌った、カラヤン盤です。
4月に新国立劇場でオテロがあるので、予習しないとなあ、と、CD入れて、聴いたとたんに、たまげました。
こんなに格好良かったでしたっけ? みたいな。
私は、ヴェルディのあまりに素直なフレージングに戸惑うことが多かったのです。調性を外すことなく、なんだか純朴なフレーズに終始しているような。
ところが、今回は、それよりもサウンドのすばらしさに筆舌を尽くしがたい感動を覚えました。
理由は?
デル・モナコの超人的なトランペットヴォイスも当然のごとくすばらしい。実演だと卒倒するぐらい何だろうなあ。
カラヤンの音作りもいいです。冒頭からみなぎる緊迫感です。カラヤンらしくテンポをあまり動かさずに、ダイナミクスを鋭く作っていくあたりはさすがです。
ですが、一番大きな理由は、私の音楽聴取環境が変わったからなのだろうなあ、と考えています。
私のオーディオ、ONKYOのコンポなんですが、これまで10年間は死蔵して全く使っていませんでした。聴くのはもっぱらiPodで通勤時間だけという感じ。
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ですが、今年の夏に引っ越したのを機にオークションでスピーカーを仕入れて、オーディオで聴くようになって、新たな発見が続いています。
冒頭の爆発的な音響などは、ヘッドフォンで聴くのと比べると、当然ですがオーディオで聴かないと本当の意味がわかりませんでした。金管の煌めきとか、バスドラムの地響きなどは格別です。歌手の声も、奥行きがあるように聞こえます。
もっとも、オーディオに対する評価は、きわめて主観的ですので、私の感想はあくまで、特殊なものだとは思いますけれど。
当たり前のことですが
オテロに開眼したのも、オーディオで聴くようになって、カラヤン盤オテロのポテンシャルを私がようやく認識できたからだとおもいます。
あとは、夏はどうするかなあ。私の部屋にはまだ冷房がないのですよ。。この音量で窓あけて聴けないなあ。
音楽は奥深い。どれ一つとして手を抜けないです。もちろん時間と経済問題の損益分岐点を探るわけで、絶対的な解はないのですが、ベストを尽くさなければならない、と思います。
今日の辻邦生文学その3 「嵯峨野明月記」より
この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)この世の背理に気づいたものは、その背理を受け容れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。(中略)それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。
辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、413頁
いつぞや、この一節を読んで、私は生まれ変わりましたが、今日、それに関連する辻邦生の言葉を見つけました。
私が戯曲を書く場合、つねに喜劇になってしまうのは、世智辛い世の中に、なんとか一晩でもいいから毒のない朗らかな笑いを笑って貰いたいと考えるからだ。喜劇の本道はシラーの言うように「人間の背理を笑う高みに立つ」ことだし……(略)
辻邦生『<笑い>について』「時刻の中の肖像」新潮社、1991、201頁
二つの引用には、少し位相がずれる面があるように思えますが、どうやらこの「背理を笑い飛ばす」という芸術と現実の関係性についての考察には、シラーが源流にあるのかもしれない、と気づいたのでした。
このところ、この「世界は背理である」というテーゼの中にだけ生きている気がします。そして、毎日のように笑っています。これはいつもの皮肉ではありません。本当に笑いながら仕事をしているのです。
【速報】新国立劇場オペラ2012/2013シーズン予定
本日、シーズン券のお誘いが届きまして、2012/2013シーズンの予定がわかりました。
# ピーター・グライムズ(新制作)
# トスカ
# セビリアの理髪師
# タンホイザー
# 愛の妙薬
# アイーダー
# 魔笛
# ナブッコ(新制作)
# コジ・ファン・トゥッテ
# 夜叉ヶ池
うーん、ドイツものはタンホイザーだけか。。モーツァルトはのぞきますが。
それから、今のシーズンは新制作が4つありましたが、今回は2つ。相当財政が厳しいのでしょう。
取り急ぎです。
今日の辻邦生文学その2「夜」より
寒い一日。
今日は少し長いです。
でも私たちって、日常、同じ生活を繰り返しているうちはまるで気がつかないけれど、ほんとうは、日々、いま私が感じているような刻々の変化を受けているのね。ふだんはそれが目立たないし、自分では、前の日の繰り返しだと思っているので、それに気がつかないだけなのね。そのことを考えると、ねえイトウ、私ね、なんだか、とてもこわい気がするわ。誰だって自分の人生を歩きはじめるとき、漠然と、こんなふうな人生を送ろうと夢みているわ。男の子たちなら冒険家の生涯とか、学者や芸術家の生き方に憧れるわ。女の子だったら、誰だって満たされた家庭を考えるわ。ところが、何年か、何十年かたって、何気なく自分の歩いてきた道をふりかえることがあるのね。ちょうど旅人が峠で一息入れるとき、いま来た道を振り返るみたいに。そうよ。そんなときが誰にでもあるのね。そしてそんなとき、私たちは自分がかつて漠然と思いえがいていたのと、まるで違った人生を歩いているのにひどく驚くのね。驚いて、それから寂しい気持ちを味わうのね。どこから、こんなふうに違った人生になってしまったか、思わず考えこまずにはいられないわ。そういうとき、私たちの心に苦い悔恨がしのびこんだり、口惜しさやあきらめが感じられたりするのね。
でも、ほんとうは、人生に何か曲がり角のようなものがあって、そこで左右にわかれたのではなくて、日々刻々私たちは変化しているのね。日々刻々、運命の岐れ道に立たされ、その一つをえらんでいるのね。
これは、「夜」という作品の一節です。日本人留学生イトウ、その恋人の人妻アンヌ、アンヌの夫で高級官僚ジャン・ドリュオー、イトウとともに、秘密警察の目をかいくぐりアルジェリア戦線への戦略物資を運ぶエレーヌ。この四人のモノローグが折り重ねられた見事な中編作品です。
その中に登場するアンヌのモノローグです。
これ以上、あえてあまり多くは語りません。
今日、久々に読み直してみて、私はまた新しい切り口を見つけてしまいました。なぜ今まで気づかなかったのか、という重要な要素でした。
ちなみに、このアルジェリア戦争を巡るフランスの物語というのは本当に魅力的です。フランスにおける政治闘争あるいはテロリズムという今は考えられない事実なのですから。スタンリー・エリンの「カードの館」や、フォーサイスの「ジャッカルの日」を思い出します。
明日は夜勤なので、残業しました。っていうか、毎日残業ですが。今月は休みが多いので、休日出勤しても残業代が出ませんので、思い切り働けます。明日は、神社に参拝して今月のプロジェクト稼働成功をもう一度祈願する予定です。