Richard Strauss,Symphony

シュトラウスの家庭交響曲をカラヤンにて。
シュトラウスの洒脱さにはひれ伏すのみ。。酸いも甘いも知っているが故の余裕なんだろうなあ。
この曲は確か2009年にN響で聞いて以来理解が深まったと思う。指揮はプレヴィン。年老いてもなお若さを持つプレヴィン翁の指揮だった。
この曲を聞いているとシュトラウス一家の様子が手に取るように見えてきたのには驚いた。パウリーネ夫人の癇癪とか、しまいには泣き出してシュトラウスが必死になだめていたり。息子のフランツが走り回ったり。しまいにはピロートークまで始まってしまうというところ。きっとあそこはラヴシーンだと思うところもある。ばらの騎士でベットシーンを作曲したシュトラウスなら可能なんだが、自分の家を赤裸々に描き過ぎな気もする。
しかし、若い頃の私には家庭交響曲はさっぱりわからなかった。当時はブルックナーばかり聞いていたので、おおよそ、このようなエスプリはわからなかったということもる。
だが、それだけではない。もっとも効果的だったのはインテルメッツォを聞いたからだとおもっている。このオペラもやはりシュトラウス一家のゴタゴタを描いたもの。ここで、私は筋書きと音楽の相関関係を学んだらしい。旋律に台詞が絡み合うときに、旋律の持つ意味性を感じ取っていたらしい。
私は、まだ幼き頃は、この旋律に意味を見出すということが許せなかった。ヴィヴァルディの四季なんていうのはもってのほかだった。理由はよくわからない。別にハンスリックを読んだわけでもないし、赤いハリネズミ亭に通ったわけでもない。
やはりオペラを聞き始めたのかわ大きかったのだと思う。
つまりはワーグナーのライトモティーフを理解し始めたということなのだろう。音楽は筋書き以上に饒舌なのだ。オペラの台詞を越えた音楽表現がに思い当たるのは、CDラックから宝物を掘り出したときと同じだ。大事なものは眼前にあるものなのだ。
あとは、私も齢をかさねたのだろう。世の儚さや背理性を理解したその先には笑いや皮肉、洒脱さや鷹揚さがある。そうした気分にフィットするのがシュトラウスの音楽なのだ、と考えている。
そんな世疲れてアンニュイなあなたにはこの曲がお勧め。
マゼールの家庭交響曲はとにかく大きい。雄大な家庭交響曲。だが、中盤部のねっとりとした語らいの場面の官能度も高い。録音面でも優れている。洒脱なんだが、肝心なときには真面目な顔をして見せる悪い男の姿が目に浮かぶ。

耽美的なあなたにはカラヤンがお勧め。中低音のリバーヴ感が強すぎるとか、SN比が高いなど録音はまりよくない。最終部の盛り上がりは相当なもの。カラヤン円熟期の素晴らしい遺産。

サヴァリッシュ盤も最近入手した。職人の築く手堅い住まいである。それは質素なそれではない。装飾の美しい日当たりの良い屋敷のそれだ。若き日のサヴァリッシュの面影を感じる。音響も悪くない。

上岡敏之もあるが、これはまたの機会に。
これまでの家庭交響曲関連の記事。
“ケンペ/シュトラウス 家庭交響曲":https://museum.projectmnh.com/2009/09/15215121.php
“マゼールをそんなにいじめないで~シュトラウス「家庭交響曲」":https://museum.projectmnh.com/2009/10/02050838.php
“帝王カラヤンの家庭は?":https://museum.projectmnh.com/2009/10/14215810.php
“プレヴィン、シュトラウス その2":https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407.php

2011/2012シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

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はじめに

2月18日(土)、松村禎三の「沈黙」を新国立劇場でみてきました。
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重いオペラでしたが、個人的にはとても興味深いもので、あっという間の三時間でした。

ストーリー

言うまでもなく「沈黙」は、遠藤周作の名著です。

禁教下の17世紀に、マカオから潜入した宣教師ロドリゴが、弾圧されるキリシタン信徒を前に、信仰を捨てるか否かを迫られるという、本当に重い内容です。拷問され処刑されている信徒の姿を見て、いくら祈っても助けとならない神の真意とは何か? 信じてもなお苦痛に苛まれる。本当に救われるのか?
拷問のシーンや、火責め水責めの処刑の描写が激しく、水責めのシーンが津波を思い出させ、悲しみとともになんだか目を背けたくなるような気持ちになりました。
沈黙は大学受験のころに読みましたが、あのころの記憶が蘇えりました。
私には、「沈黙」と同じ文庫本に所収されていた「死海のほとり」のほうが印象的だったのですが、今回は、感慨をもう一度呼び覚ましてくれた気がします。
「死海のほとり」では、映画「ベン・ハー」では、あんなに人々を癒していたキリストが、無力な存在として描かれてた驚きがありましたが、今回もあらためて、信仰と現実の狭間の深淵をのぞき込んだ気がします。

音楽面

今回は予習音源が手に入らず、音楽をきちんと受け止められるか、不安でしたが、第一幕冒頭の火刑のシーンの強烈な不協和音に揺り動かされ、涙とまらず、というところでした。
サウンドとしては、ベルクに似ていましたので、全く違和感を感じることもなく音楽二敗って行けたように思います。あるいは、ツィンマーマンの「軍人たち」を思い出したり。
ですが、私には「ヴォツェック」に似ている用に思えてなりませんでした。例えばオケがユニゾンでなるところが、ヴォツェックがマリーを殺したあとに鳴り響くロ音のユニゾンにきこえたりしました。
独奏ヴァイオリンが効果的に使われていて、ロドリゴの心の迷いを、あらわしていたとおもいます。それからトランペットも効果的で、神の垂範を表していたり、教会の意見を表していたりしていたおもいます。
最も感動的だったのはオハルを歌った石橋栄美さんでした。なんというか、言葉にでない感慨です。一緒に生きて死のうとまで誓い合った夫のモキチが水責めで死ぬのを目の当たりにしたオハルは、食事をとることが出来ずに衰弱死します。
その前に「オハルは、今日の穴掘りに耐えられなかった」という歌詞がありましたので、集落の信徒全員が強制労働にかり出されいたのか、あるいは、彼ら自身の墓穴を掘るよう強いられていたのか、そういう背景を想像しました。
オハルは、モキチの幻影を観ながら息絶えるわけで、あそこは、一つのクライマックスでした。オハルの見せ場は、死の場面の前の、モキチの水責めにうろたえる場面にもありましたが、狂乱の場だとありました。いわゆるベルカントの狂乱の場ですか。。それにしては深刻すぎるなあ、と思います。
その場面で、石橋さんは、伸びのある、そして高い音に張りのある声で、儚く哀れなオハルを素晴らしく表現していたと思いました。
あの場面は、穿った見方をすると、お涙頂戴的な下世話な感じになりがちなんですが(私は今年に入って、そうした舞台を観て辟易した経験があります。このウェブログには書いていませんが)、そうならないギリギリの線で、巧く表現しておられたと思いました。出色の素晴らしさでした。

日本語のリズム

今回は当然ながら日本語のオペラです。今回の歌手の方々に、発音の面で大きな違和感を感じませんでした。
偉そうなことを申しますが、ドイツ語のオペラを観ると、日本人の歌手の方のアーティキュレーションに違和感を感じることがあります。そこで、音を弱めてはいけないはずなのに、どうして? みたいなもどかしさです。
欧州語を母語にしておられる方々にとっては当たり前なんでしょうけれど、おそらくは日本人には難しいことなのだと思います。もちろんきちんと歌える方もたくさんいます。あくまで確率論なんですが。
ところが、今回のパフォーマンスでは全くそうした違和感は感じませんでした。日本語のアーティキュレーションは日本語の使い手である日本人が最もよく分かっているということなのでしょう。これは、日本のポップスを聴いていても思うことです。
日本語とはいえ、面白いことに字幕がありましたが、あれは助かりました。長崎方言やキリシタン言葉は聞いただけでは分かりませんので、理解の助けになりました。

思うこと、しばし

しかし、我々は毎日踏み絵を踏んでいる気がします。そきういう観点でいうと、キチジローは我々の中に普通にいる存在なのでしょう。組織のなかにあっては、自らの本意とは違う行動を取るのは当たり前ですし、そこに正しさはありません。正しいことととるべき行動は常に乖離しています。
では、簡単に踏み絵を踏んで、役人に密告してしまうキチジローは、本当に自らに正直に生きていない弱い人間なのでしょうか?
私は、おや、と思う場面を見いだしました。
キチジローは、裏切り者の烙印を押されて、村の人間に相手にされなくなり、子供達にもさげすまれる存在になります。キチジローは、もう自分にはどこにも行くところがない、と嘆きます。もし、キチジローが信仰を守れば、そんなことはなかったのに。
そうなのです。キチジローにとっては、信仰というのもしかしたら周りの人間に認められるための手段でしかなかったのではないか、と思われるのです。
さらに考えを進めると、どうやら村の人間達は、信仰を通してしか人を認めることが出来ないのではないか、という考えに至ってしまいます。自分たちと異なる価値観を排除しようという観念。いわゆる日本的なムラ志向ではないか、と。
がゆえに、フェレイラは「日本は沼だ」言ったのではないか、と。個人個人が神と向き合っているのではない。村の皆が信じるが故に、我も我も、と信じているという共同体的錯誤ではないのか。そこには個人の考えはないのではないか、と。
フェレイラは、キリストの神が大日如来にすり替わる、と言いましたが、それでしかなかったのではないか、という残念な気持ちを抑えられません。

終わりに

今回も、素晴らしく考えさせられる舞台でした。オペラが現実へ働きかける力を十二分に持っていると言うことを改めて認識しました。
グレアム・グリーンが「二十世紀最大のキリスト教文学」と称えたそうです。
科学万能の現代にあっては、神の在不在という問題にとどまらず、すべてが原子核の集合分離に帰着してしまう世界の中で、いかに価値を見いだすか、という問題点にまで視界を開かせる「沈黙」の世界は、偉大なものでした。
まだまだ現代的価値を持っている作品です。遠藤周作、また読み始めようかなあ、と思います。
いろいろと興味深く、また懐かしくもあるパフォーマンスでした。

付録

「沈黙」は、2013年にアメリカで映画化されるそうです。
“http://www.imdb.com/title/tt0490215/":http://www.imdb.com/title/tt0490215/
今回の、新国立劇場のパンフレットには、私が大学時代に習った先生が文章を書かれていました。まあ、このテーマですと、私の大学が出てくるのは必然なんですが。
その先生の「キリスト教と文学」という講義を一年間とったのですが、生意気な私は辻邦生の「背教者ユリアヌス」を題材にして、超越的存在の神と、現世をつなぐ難しさをレポートにまとめた記憶があります。
それはそれで先生にとっても興味深かったらしく、わりといい点を貰ったんですが、先生には、キリストの受肉こそが、その解決の可能性だ、と示唆されたのを思い出しました。
当時は、受肉が普遍性を持つのか、理解できませんでしたが、若いがゆえの蒙昧なのでしょう。もうすこし考えてみてもいいかもしれません。
でも、すごく優しくて人間味の溢れる先生でした。今も元気で教鞭を執っておられて、大学にしかるべきポストを持っておられるのを知ってすごくうれしかったです。

Giuseppe Verdi,Opera

ヴェルディに開眼したかもしれない。

私にとって、苦手な分野だったヴェルディのオペラ。ですが、ようやく理解できるようになってきたのかもしれないです。
そう思えたのは、このCDを聴いたから。デル・モナコがオテロを歌った、カラヤン盤です。

4月に新国立劇場でオテロがあるので、予習しないとなあ、と、CD入れて、聴いたとたんに、たまげました。
こんなに格好良かったでしたっけ? みたいな。
私は、ヴェルディのあまりに素直なフレージングに戸惑うことが多かったのです。調性を外すことなく、なんだか純朴なフレーズに終始しているような。
ところが、今回は、それよりもサウンドのすばらしさに筆舌を尽くしがたい感動を覚えました。

理由は?

デル・モナコの超人的なトランペットヴォイスも当然のごとくすばらしい。実演だと卒倒するぐらい何だろうなあ。
カラヤンの音作りもいいです。冒頭からみなぎる緊迫感です。カラヤンらしくテンポをあまり動かさずに、ダイナミクスを鋭く作っていくあたりはさすがです。
ですが、一番大きな理由は、私の音楽聴取環境が変わったからなのだろうなあ、と考えています。
私のオーディオ、ONKYOのコンポなんですが、これまで10年間は死蔵して全く使っていませんでした。聴くのはもっぱらiPodで通勤時間だけという感じ。
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ですが、今年の夏に引っ越したのを機にオークションでスピーカーを仕入れて、オーディオで聴くようになって、新たな発見が続いています。
冒頭の爆発的な音響などは、ヘッドフォンで聴くのと比べると、当然ですがオーディオで聴かないと本当の意味がわかりませんでした。金管の煌めきとか、バスドラムの地響きなどは格別です。歌手の声も、奥行きがあるように聞こえます。
もっとも、オーディオに対する評価は、きわめて主観的ですので、私の感想はあくまで、特殊なものだとは思いますけれど。

当たり前のことですが

オテロに開眼したのも、オーディオで聴くようになって、カラヤン盤オテロのポテンシャルを私がようやく認識できたからだとおもいます。
あとは、夏はどうするかなあ。私の部屋にはまだ冷房がないのですよ。。この音量で窓あけて聴けないなあ。
音楽は奥深い。どれ一つとして手を抜けないです。もちろん時間と経済問題の損益分岐点を探るわけで、絶対的な解はないのですが、ベストを尽くさなければならない、と思います。

Tsuji Kunio

この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)この世の背理に気づいたものは、その背理を受け容れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。(中略)それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。


辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、413頁

いつぞや、この一節を読んで、私は生まれ変わりましたが、今日、それに関連する辻邦生の言葉を見つけました。

私が戯曲を書く場合、つねに喜劇になってしまうのは、世智辛い世の中に、なんとか一晩でもいいから毒のない朗らかな笑いを笑って貰いたいと考えるからだ。喜劇の本道はシラーの言うように「人間の背理を笑う高みに立つ」ことだし……(略)


辻邦生『<笑い>について』「時刻の中の肖像」新潮社、1991、201頁

二つの引用には、少し位相がずれる面があるように思えますが、どうやらこの「背理を笑い飛ばす」という芸術と現実の関係性についての考察には、シラーが源流にあるのかもしれない、と気づいたのでした。
このところ、この「世界は背理である」というテーゼの中にだけ生きている気がします。そして、毎日のように笑っています。これはいつもの皮肉ではありません。本当に笑いながら仕事をしているのです。

2012/2013シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

本日、シーズン券のお誘いが届きまして、2012/2013シーズンの予定がわかりました。
# ピーター・グライムズ(新制作)
# トスカ
# セビリアの理髪師
# タンホイザー
# 愛の妙薬
# アイーダー
# 魔笛
# ナブッコ(新制作)
# コジ・ファン・トゥッテ
# 夜叉ヶ池
うーん、ドイツものはタンホイザーだけか。。モーツァルトはのぞきますが。
それから、今のシーズンは新制作が4つありましたが、今回は2つ。相当財政が厳しいのでしょう。
取り急ぎです。

Tsuji Kunio

寒い一日。
今日は少し長いです。

 でも私たちって、日常、同じ生活を繰り返しているうちはまるで気がつかないけれど、ほんとうは、日々、いま私が感じているような刻々の変化を受けているのね。ふだんはそれが目立たないし、自分では、前の日の繰り返しだと思っているので、それに気がつかないだけなのね。そのことを考えると、ねえイトウ、私ね、なんだか、とてもこわい気がするわ。誰だって自分の人生を歩きはじめるとき、漠然と、こんなふうな人生を送ろうと夢みているわ。男の子たちなら冒険家の生涯とか、学者や芸術家の生き方に憧れるわ。女の子だったら、誰だって満たされた家庭を考えるわ。ところが、何年か、何十年かたって、何気なく自分の歩いてきた道をふりかえることがあるのね。ちょうど旅人が峠で一息入れるとき、いま来た道を振り返るみたいに。そうよ。そんなときが誰にでもあるのね。そしてそんなとき、私たちは自分がかつて漠然と思いえがいていたのと、まるで違った人生を歩いているのにひどく驚くのね。驚いて、それから寂しい気持ちを味わうのね。どこから、こんなふうに違った人生になってしまったか、思わず考えこまずにはいられないわ。そういうとき、私たちの心に苦い悔恨がしのびこんだり、口惜しさやあきらめが感じられたりするのね。
 でも、ほんとうは、人生に何か曲がり角のようなものがあって、そこで左右にわかれたのではなくて、日々刻々私たちは変化しているのね。日々刻々、運命の岐れ道に立たされ、その一つをえらんでいるのね。

これは、「夜」という作品の一節です。日本人留学生イトウ、その恋人の人妻アンヌ、アンヌの夫で高級官僚ジャン・ドリュオー、イトウとともに、秘密警察の目をかいくぐりアルジェリア戦線への戦略物資を運ぶエレーヌ。この四人のモノローグが折り重ねられた見事な中編作品です。
その中に登場するアンヌのモノローグです。
これ以上、あえてあまり多くは語りません。
今日、久々に読み直してみて、私はまた新しい切り口を見つけてしまいました。なぜ今まで気づかなかったのか、という重要な要素でした。
ちなみに、このアルジェリア戦争を巡るフランスの物語というのは本当に魅力的です。フランスにおける政治闘争あるいはテロリズムという今は考えられない事実なのですから。スタンリー・エリンの「カードの館」や、フォーサイスの「ジャッカルの日」を思い出します。
明日は夜勤なので、残業しました。っていうか、毎日残業ですが。今月は休みが多いので、休日出勤しても残業代が出ませんので、思い切り働けます。明日は、神社に参拝して今月のプロジェクト稼働成功をもう一度祈願する予定です。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

今年の目標。毎日辻邦生を少しでも読もうと決めました。
今日心にとまった一文を。

酒台にもたれて、ビールを前に話し合っている労働者や船員たち、それに時々話を差しはさむ店のふとった主人、テーブルで喋っている老嬢たち、新聞をひろげている独身の会社員、それに棚に並んだ細い壜や太い壜、磨かれたコップ、ミュージック・ボックス、鏡、仕切り扉などが、なぜかじつもとは違ったように感じられるんです。

夏の砦で、支倉冬子が肺炎で倒れる前に感じた外界との違和感を表現しようとしているところです。
こういう、たたみかけるような描写の連結、辻邦生の小説の中でよくあらわれる手法です。「パリの手記」などの日記ものでもよく出てくると思います。
読んでいると、欧州に旅行した若い頃の記憶がよみがえりました。日本ではちょっと見かけない風景です。労働者や船員達の会話に時々加わる店の主人のくだりとか、それに見向きもしないで、新聞を広げる会社員というのも、本当に良く分かります。
旅先でみた欧州の人々(ドイツ、イタリア、北欧界隈を想定)というのは、ともかく他人とよく喋る気がします。日本人よりも頻繁に。目が合えばニコリと笑うぐらいの洒脱さは誰もが持ち合わせている気がします。国民性の違いだなあ、といつも思います。
そういう、あちらで感じた驚きのようなものや安堵感を思い出させてくれて、懐かしい気持ちになりました。

Concert,Symphony

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少し書くのが出遅れました。昨日1月7日にみなとみらいホールにて日フィル横浜定期を聞いてきました。

基本情報

曲目

* モーツァルト 「フィガロの結婚」序曲
* チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
* ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
* ヨハン・シュトラウス ピチカートポルカ(アンコール)
* ブラームス ハンガリー舞曲第5番(アンコール)

演奏

指揮:小林研一郎
ヴァイオリン:千住真理子
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団

曲目について

フィガロの結婚序曲

最初の「フィガロの結婚」は、まだ暖まりきっておらず、コバケンさんもかなり硬い感じで、ちょっと脂ののらない感じでした。まだオケに任せきれていないような指揮で、ちょっと心配になりました。

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

次は、千住真理子との協演で、チャイコのヴァイオリン協奏曲でした。千住真理子の演奏については、昔からなぜか男らしさを感じていました。10年以上前に、千住真理子のバッハのソナタとパルティータ全曲演奏会に行ったことがありまして、そのときから感じていることです。今日もやはりそう言う印象を持ちました。太い音はさすがですし、(当たり前かもしれませんが)旋律的なミスは一つもありませんでした。そのあたりの集中力はすごいです。ただ、ちょっと男らしく、乱れが生じるところもあり、面白いなあ、と思いました。

新世界より

「新世界より」は、コバケンさんの指揮を堪能しました。彼は、顔だけで指揮をしているのではないか、と思うほどです。小刻みに頭を振ってクリックを出し、手は天井に向けられ、まるで天国に向かって音を出せ、と言わんばかりの指揮ぶりで、これが炎のコバケンの由来なのだなあ、と思いました。途中、オケに祈るように任せたりするあたりはさすがです。舞曲のような場面では、きちんとクリックを出してテンポを掌中にする、といった感じです。私は第4楽章で感動しきってしまい、涙が止まらなくなりました。ここのところ、日フィルには泣かされっぱなしです。

アンコール

アンコールはヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」とブラームスのハンガリー舞曲第五番でした。最初のヨハン・シュトラウスの「ピチカード・ポルカ」は、おそらくは異端な演奏です。タメを過剰にとっているのですが、これはわざとやっている、というのがよく分かります。茶目っ気のある演奏というところです。次に演奏したのが、ブラームスのハンガリー舞曲でした。ハンガリーは日本に似ているので、日本的に演奏してみます、とおっしゃっての演奏でしたが、そのとおり、これも演歌的なタメをとった、冗談のような演奏でした。でもすごく楽しかった。冗談でもちゃんとやると芸術です。

シーズンファイナルパーティー

秋シーズンが終わりということで、ファイナルパーティーがありました。半年前に引き続き私もご相伴にあずかりました。ここで、日フィルメンバーによる室内楽が演奏されました。
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* 愛の挨拶
* タイス瞑想曲
* チャルダーシュ
チャルダーシュ、坪井さんのヴァイオリン、すごかったです。うますぎます。
ビールいただいてほろ酔い気分でした。
コバケンさんも登場して、スピーチされました。
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日フィル、財政的に大変なのだとか。私もコンサートに行ける範囲でいかないと、と思いました。

まとめ

やっぱり、日フィルの演奏会は楽しいです。病みつきになりますね。1月20日のサントリーもいけないなあ、と画策中ですが。仕事忙しすぎる。。明日も仕事に行きます。
※初出に名称の誤りがありました。お詫び申し上げます。

Tsuji Kunio

はじめに

昨年12月末に辻邦生の夫人で、西洋美術史家の辻佐保子さんがなくなりました。
少し時間が経ちましたが、私なりに咀嚼する時間が必要だったようです。
“http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html":http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html
2004年でしたでしょうか。辻邦生氏の展覧会が学習院大学で開催された折、講演会を聞きました。その翌日、所要のため再び学習院大学を訪れた折に、展示ケースに収められた辻先生の遺品を落ち着いたお顔で眺めて折られる佐保子夫人の姿を見かけたのが昨日のように思い出されます。あの時お声をおかけすればよかった、といつものごとく激しく後悔しています。
これでなにか大きな区切りがついてしまったような寂寥感。涙が止まりません。

記憶が歴史に変わるとき

戦後日本の発展は経済面だけではなく、文化面においても目覚しいものがあったと思うのです。それは、戦前のアンチテーゼであったがゆえに、平常時に比べて強いものだったはずです。失われた理想を取り戻そうと躍起になった偉大な人々がたくさんいらっしゃったのです。
辻邦生の文学の源泉は、終戦で瓦解した「世界」を立て直すための試みであったはずで、それが、いわゆる辻邦生の重要な三つの直観の一番目である「パルテノン直観」にて基礎付けられたのでしょう。世界は美が支えている、という思うだけで涙ぐんでしまうような愚直でありながら正直で高邁で不可能な概念。この概念を背負って50年間も書き続けた辻邦生の勇気や想像力や精神力はいかばかりのものか。私には想像を絶するとしか言いようがありません。
そして、その生き証人である佐保子夫人が天に召されたという、大きな哀しみ。とてつもなく大きなものが永遠に失われてしまったという喪失の直観でした。これが記憶が歴史へと姿を変え始めると言うことなのでしょう。
ただ、今頃は、ご夫婦で談笑しておられると思います。そう思うことにします。
今朝も、会社に入ろうとする際、乱立する高層マンションを仰ぎ見て、大きな違和感を感じました。
戦う前にすでに白旗をあげる兵士もいるでしょうから。
2004年当時に前身のブログに書いた講演会の模様を以下のとおり転載します。

辻邦生展(2) 辻佐保子さん講演会

2004年11月28日 23:55
11月27日15時より、学習院百周年記念会館3階小講堂において、辻佐保子さんの講演会が開催された。辻佐保子さんは辻邦生さんの奥様であるが、ご自身も美術史家でいらっしゃり、女性初の国立大学教授になられたという方である。
15時開始のところ、14時から受付開始であったが、受付開始早々から来場者が続き、開始前には会場に入りきらないほどの来場者で、講堂の入り口のドアを開け放してロビーに椅子を並べているような感じ。大盛況であった。
学習院大学と辻邦生さんのつながりについて最初に話された。
学習院大学フランス文学科は鈴木力衛さんというフランス文学者を擁していたわけだが、実は佐保子さんは鈴木力衛さんの姪に当たるのだという。その関係もあって、辻邦生さんがパリ留学する前の31歳のときから学習院大学で教鞭を執るようになったのだそうだ。
また、学習院大学のフランス語非常勤講師であった、マリア・ユリ・ホエツカ夫人についても語られた。この方は、「樹の声海の声」の咲耶のモデルになった方とのこと。ご主人が入院されていて、苦労されていたことから、「樹の声海の声」の原稿料の半分を渡していたそうだ。展示会には、ホエツカ夫人の写真などが展示されていたが、古き良き美しき女性という感じだった。「樹の声海の声」が実話に基づいているということに初めて気づかされた次第。
展示では、「春の戴冠」の成立過程に関する資料を中心に展示されていたわけだが、辻邦生さんは「春の戴冠」をもっとも不遇な作品とおっしゃっていたとのこと。1977年に上下巻が刊行されるが絶版となった。文庫化もされなかったわけである。1996年に一冊本として再版されたが、これは辻邦生さんの希望によるものだそうだ。「西行家伝」が好評だったので、お願いしたとのそうだ。確かに「春の戴冠」は長いけれど、「背教者ユリアヌス」以上に辻文学の真髄を伝えていると行っても過言ではないと思う。佐保子さんからこの「春の戴冠」のあらすじと、それにまつわるエピソードが紹介された。フィレンツェに「お礼参り」に行ったときに、花のサンタマリア大聖堂の天蓋の螺旋階段で読者にばったり出会われたり、ウフィツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」の前で読者夫婦と会われて、4人で広場でカンパリで乾杯をした、といったエピソードが紹介された。
このボッティチェルリのフレスコ画がお好きだったとのことで、ルーブルに行ったら必ず見に行かれていたそうで、「春の戴冠」のなかにもこのフレスコ画について言及されている部分がある。
最後に質問を受け付けていた。興味深いものとしては、歴史小説を書く上での方法論(資料の整理方法などを含む)については、トーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を参考にしていた、ということが紹介されたこと。これももしかしたらどこかに書いてあるかも知れないが、初めて認識した話。早速読んでみなければなるまい。

Miscellaneous

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨年は、個人的には、仕事場の移転や、自宅の転居など様々な変化があった年でした。世界や日本も言わずもがな。激流のような変化は、個人個人の意図や行いを顧慮することなく訪れるものです。
今年もいろいろありそうです。
尊敬する友人からいただいた年賀状の中に「お互い壁を破ろう」という言葉があって、身が引き締まりました。
正月三が日は十分(十二分?)に休養しましたので、また明日から会社や仕事に邁進します。