Japanese Literature,Tsuji Kunio

今年の目標。毎日辻邦生を少しでも読もうと決めました。
今日心にとまった一文を。

酒台にもたれて、ビールを前に話し合っている労働者や船員たち、それに時々話を差しはさむ店のふとった主人、テーブルで喋っている老嬢たち、新聞をひろげている独身の会社員、それに棚に並んだ細い壜や太い壜、磨かれたコップ、ミュージック・ボックス、鏡、仕切り扉などが、なぜかじつもとは違ったように感じられるんです。

夏の砦で、支倉冬子が肺炎で倒れる前に感じた外界との違和感を表現しようとしているところです。
こういう、たたみかけるような描写の連結、辻邦生の小説の中でよくあらわれる手法です。「パリの手記」などの日記ものでもよく出てくると思います。
読んでいると、欧州に旅行した若い頃の記憶がよみがえりました。日本ではちょっと見かけない風景です。労働者や船員達の会話に時々加わる店の主人のくだりとか、それに見向きもしないで、新聞を広げる会社員というのも、本当に良く分かります。
旅先でみた欧州の人々(ドイツ、イタリア、北欧界隈を想定)というのは、ともかく他人とよく喋る気がします。日本人よりも頻繁に。目が合えばニコリと笑うぐらいの洒脱さは誰もが持ち合わせている気がします。国民性の違いだなあ、といつも思います。
そういう、あちらで感じた驚きのようなものや安堵感を思い出させてくれて、懐かしい気持ちになりました。

Concert,Symphony

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少し書くのが出遅れました。昨日1月7日にみなとみらいホールにて日フィル横浜定期を聞いてきました。

基本情報

曲目

* モーツァルト 「フィガロの結婚」序曲
* チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
* ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
* ヨハン・シュトラウス ピチカートポルカ(アンコール)
* ブラームス ハンガリー舞曲第5番(アンコール)

演奏

指揮:小林研一郎
ヴァイオリン:千住真理子
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団

曲目について

フィガロの結婚序曲

最初の「フィガロの結婚」は、まだ暖まりきっておらず、コバケンさんもかなり硬い感じで、ちょっと脂ののらない感じでした。まだオケに任せきれていないような指揮で、ちょっと心配になりました。

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

次は、千住真理子との協演で、チャイコのヴァイオリン協奏曲でした。千住真理子の演奏については、昔からなぜか男らしさを感じていました。10年以上前に、千住真理子のバッハのソナタとパルティータ全曲演奏会に行ったことがありまして、そのときから感じていることです。今日もやはりそう言う印象を持ちました。太い音はさすがですし、(当たり前かもしれませんが)旋律的なミスは一つもありませんでした。そのあたりの集中力はすごいです。ただ、ちょっと男らしく、乱れが生じるところもあり、面白いなあ、と思いました。

新世界より

「新世界より」は、コバケンさんの指揮を堪能しました。彼は、顔だけで指揮をしているのではないか、と思うほどです。小刻みに頭を振ってクリックを出し、手は天井に向けられ、まるで天国に向かって音を出せ、と言わんばかりの指揮ぶりで、これが炎のコバケンの由来なのだなあ、と思いました。途中、オケに祈るように任せたりするあたりはさすがです。舞曲のような場面では、きちんとクリックを出してテンポを掌中にする、といった感じです。私は第4楽章で感動しきってしまい、涙が止まらなくなりました。ここのところ、日フィルには泣かされっぱなしです。

アンコール

アンコールはヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」とブラームスのハンガリー舞曲第五番でした。最初のヨハン・シュトラウスの「ピチカード・ポルカ」は、おそらくは異端な演奏です。タメを過剰にとっているのですが、これはわざとやっている、というのがよく分かります。茶目っ気のある演奏というところです。次に演奏したのが、ブラームスのハンガリー舞曲でした。ハンガリーは日本に似ているので、日本的に演奏してみます、とおっしゃっての演奏でしたが、そのとおり、これも演歌的なタメをとった、冗談のような演奏でした。でもすごく楽しかった。冗談でもちゃんとやると芸術です。

シーズンファイナルパーティー

秋シーズンが終わりということで、ファイナルパーティーがありました。半年前に引き続き私もご相伴にあずかりました。ここで、日フィルメンバーによる室内楽が演奏されました。
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* 愛の挨拶
* タイス瞑想曲
* チャルダーシュ
チャルダーシュ、坪井さんのヴァイオリン、すごかったです。うますぎます。
ビールいただいてほろ酔い気分でした。
コバケンさんも登場して、スピーチされました。
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日フィル、財政的に大変なのだとか。私もコンサートに行ける範囲でいかないと、と思いました。

まとめ

やっぱり、日フィルの演奏会は楽しいです。病みつきになりますね。1月20日のサントリーもいけないなあ、と画策中ですが。仕事忙しすぎる。。明日も仕事に行きます。
※初出に名称の誤りがありました。お詫び申し上げます。

Tsuji Kunio

はじめに

昨年12月末に辻邦生の夫人で、西洋美術史家の辻佐保子さんがなくなりました。
少し時間が経ちましたが、私なりに咀嚼する時間が必要だったようです。
“http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html":http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html
2004年でしたでしょうか。辻邦生氏の展覧会が学習院大学で開催された折、講演会を聞きました。その翌日、所要のため再び学習院大学を訪れた折に、展示ケースに収められた辻先生の遺品を落ち着いたお顔で眺めて折られる佐保子夫人の姿を見かけたのが昨日のように思い出されます。あの時お声をおかけすればよかった、といつものごとく激しく後悔しています。
これでなにか大きな区切りがついてしまったような寂寥感。涙が止まりません。

記憶が歴史に変わるとき

戦後日本の発展は経済面だけではなく、文化面においても目覚しいものがあったと思うのです。それは、戦前のアンチテーゼであったがゆえに、平常時に比べて強いものだったはずです。失われた理想を取り戻そうと躍起になった偉大な人々がたくさんいらっしゃったのです。
辻邦生の文学の源泉は、終戦で瓦解した「世界」を立て直すための試みであったはずで、それが、いわゆる辻邦生の重要な三つの直観の一番目である「パルテノン直観」にて基礎付けられたのでしょう。世界は美が支えている、という思うだけで涙ぐんでしまうような愚直でありながら正直で高邁で不可能な概念。この概念を背負って50年間も書き続けた辻邦生の勇気や想像力や精神力はいかばかりのものか。私には想像を絶するとしか言いようがありません。
そして、その生き証人である佐保子夫人が天に召されたという、大きな哀しみ。とてつもなく大きなものが永遠に失われてしまったという喪失の直観でした。これが記憶が歴史へと姿を変え始めると言うことなのでしょう。
ただ、今頃は、ご夫婦で談笑しておられると思います。そう思うことにします。
今朝も、会社に入ろうとする際、乱立する高層マンションを仰ぎ見て、大きな違和感を感じました。
戦う前にすでに白旗をあげる兵士もいるでしょうから。
2004年当時に前身のブログに書いた講演会の模様を以下のとおり転載します。

辻邦生展(2) 辻佐保子さん講演会

2004年11月28日 23:55
11月27日15時より、学習院百周年記念会館3階小講堂において、辻佐保子さんの講演会が開催された。辻佐保子さんは辻邦生さんの奥様であるが、ご自身も美術史家でいらっしゃり、女性初の国立大学教授になられたという方である。
15時開始のところ、14時から受付開始であったが、受付開始早々から来場者が続き、開始前には会場に入りきらないほどの来場者で、講堂の入り口のドアを開け放してロビーに椅子を並べているような感じ。大盛況であった。
学習院大学と辻邦生さんのつながりについて最初に話された。
学習院大学フランス文学科は鈴木力衛さんというフランス文学者を擁していたわけだが、実は佐保子さんは鈴木力衛さんの姪に当たるのだという。その関係もあって、辻邦生さんがパリ留学する前の31歳のときから学習院大学で教鞭を執るようになったのだそうだ。
また、学習院大学のフランス語非常勤講師であった、マリア・ユリ・ホエツカ夫人についても語られた。この方は、「樹の声海の声」の咲耶のモデルになった方とのこと。ご主人が入院されていて、苦労されていたことから、「樹の声海の声」の原稿料の半分を渡していたそうだ。展示会には、ホエツカ夫人の写真などが展示されていたが、古き良き美しき女性という感じだった。「樹の声海の声」が実話に基づいているということに初めて気づかされた次第。
展示では、「春の戴冠」の成立過程に関する資料を中心に展示されていたわけだが、辻邦生さんは「春の戴冠」をもっとも不遇な作品とおっしゃっていたとのこと。1977年に上下巻が刊行されるが絶版となった。文庫化もされなかったわけである。1996年に一冊本として再版されたが、これは辻邦生さんの希望によるものだそうだ。「西行家伝」が好評だったので、お願いしたとのそうだ。確かに「春の戴冠」は長いけれど、「背教者ユリアヌス」以上に辻文学の真髄を伝えていると行っても過言ではないと思う。佐保子さんからこの「春の戴冠」のあらすじと、それにまつわるエピソードが紹介された。フィレンツェに「お礼参り」に行ったときに、花のサンタマリア大聖堂の天蓋の螺旋階段で読者にばったり出会われたり、ウフィツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」の前で読者夫婦と会われて、4人で広場でカンパリで乾杯をした、といったエピソードが紹介された。
このボッティチェルリのフレスコ画がお好きだったとのことで、ルーブルに行ったら必ず見に行かれていたそうで、「春の戴冠」のなかにもこのフレスコ画について言及されている部分がある。
最後に質問を受け付けていた。興味深いものとしては、歴史小説を書く上での方法論(資料の整理方法などを含む)については、トーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を参考にしていた、ということが紹介されたこと。これももしかしたらどこかに書いてあるかも知れないが、初めて認識した話。早速読んでみなければなるまい。

Miscellaneous

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨年は、個人的には、仕事場の移転や、自宅の転居など様々な変化があった年でした。世界や日本も言わずもがな。激流のような変化は、個人個人の意図や行いを顧慮することなく訪れるものです。
今年もいろいろありそうです。
尊敬する友人からいただいた年賀状の中に「お互い壁を破ろう」という言葉があって、身が引き締まりました。
正月三が日は十分(十二分?)に休養しましたので、また明日から会社や仕事に邁進します。

Jazz,Music

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はじめに

いやあ、独りで盛り上がりすぎました。Fourplayのライヴをブルーノート東京にて。
前にブルーノートに行ったのは1996年のことだったはず。まだ学生で、安い学生券を買って、マイク・スターン・トリオを観に行ったのでした。それ以来。
あまりに慣れない客だったのでしょう。受付の仕組みの予習をしきれず、あまり良い席に座れませんでしたが、独りで盛り上がり過ぎました。周りも相当盛り上がってましたが。

永遠の音楽少年たち

まったく、この4人は、永遠の音楽少年みたい。チャック・ローブも、ネイザン・イーストも、なんだか無垢な少年のように没頭して音楽になりきっていました。あれは、揺るぎない自信と技術のもとに現れる自由な「遊び」なんだろうなあ、と。
恥ずかしながら、いわゆるプロのジャズ系のライヴに行ったのは十年以上ぶりだったんですが、本当に驚きました。当たり前なんですが、CDと全く違うライヴのダイナミックスというのは、頭では分かっていたつもりでしたが、実体験としては不足していました。これは、クラシックのライヴで分かっていたことでしたが、ジャズでも当然同じ。
曲もアレンジが相当変えられていたし、ダイナミクスレンジが大きくて、CDで聴いていた曲とは違う曲を聴いている気分でした。
やっぱり、ライヴに行かないと駄目なんだなあ。
しかし、東京の音楽シーンって、改めてすごいと思いました。これは、もうあまりに贅沢すぎる大人の遊びっていう感じ。しばしの幸せ。仕事を忘れました。

表参道

表参道に行くのも久々で、街の様子が変わったなあ、と。すこしヨーロッパの風情に似ていて、面白かったです。これ、街並みの視覚的要素もありますが、街を歩いている人たちが、普段、あまり接することのない方々で、まるで同じ国の人とは思えないぐらいだったというのもあります。
良い刺激を受けました。毎日地下鉄で東京を縦断していますが、たまには地上に出ていろいろな空気を吸わないとなあ。ボブ・ジェームズぐらいの歳になっても、新しいテクノロジを受け入れられる柔軟さが必要だなあ、とか。
(ボブ・ジェームス、譜面をiPadに入れてました。「やっぱりプログラムは紙に出して読まないとだめだ」なんて、言っている私が恥ずかしくなりました)
まだまだやらないかんことが沢山です。

おわりに

最後、ボブ・ジェームズと握手しました。思ったより柔らかい手だったなあ。感動。
これから一生手を洗わないことにします。

Miscellaneous,Opera,Richard Strauss

試されたのでした。。

昨日、とある方に、なぜ、ばらの騎士が好きなのか? と聴かれました。もしかしたら、そうした質問ではなく、私が勝手にそう解釈して、オリンピアのように自動的につらつらと言葉が出てきたのかもしれない。そういう感じ。それでまるで試されているかのような緊張感とともに。以下のように答えました。
1)どこか世間を批判的にみている洒脱さ。世の中を斜めからみて、そこに本質を見いだそうとする諧謔精神。
2)時間という最大の自然力に抗うことの出来ない人間の宿命を描く。
3)音楽素晴らしさ。登場人物の情感に寄り添うような丁寧な旋律や和声。
音楽のことはちゃんと言えなかった気がしますが。まだまだ語りきれていない。考えないと行けないなあ、と。
現代の時代精神との関連性についても少し話したような気がする。爛熟し熟れきった世界で、次の破局を予感しているようなところ。それは、もう現代の我々の状況と一致している。だから、そこから少しでも逃れたいために、こうした洒脱な世界に逃避するのか。あるいは、こうした洒脱な世界を利用して、なんとか生き抜こうとするのか。
意外というか、必然というか、我々は19世紀末から20世紀初頭にかけての時代を敷衍しながら生きているのかもしれません。

N響アワーでばらの騎士とカプリッチョを。

夜は、N響アワーで、シュトラウスの「ばらの騎士」組曲と「カプリッチョ」終幕の場を、プレヴィン指揮NHK交響楽団で。2009年のプレヴィンと、2011年のプレヴィンが登場するのですが、明らかに齢を重ねているのが分かり、少しショック。しかし、フェリシティ・ロットは大柄です。西洋人から観たドワーフやホビットは日本人のことではないか、と思うほど。
N響の音に、何か硬く重いものを感じました。動きたいんだけれど、足かせを嵌められているので自由に動けない、そうした感覚。先日、新国立劇場で「こうもり」を観ましたが、あのときに感じた感覚と少し似ているかもしれません。
昨日のN響アワーでの解説を拡大解釈すると、音楽界におけるロマン派の終焉は1948年のリヒャルト・シュトラウスの死によって訪れるということだそうです。確かにそうです。実社会のロマン派はナチス・ドイツ消滅まで待つことになるのでしょうけれど。

一つ前の世紀末の人々

さて、昨日お会いしたとある方に関連して、19世紀末から20世紀前半にかけてのオーストリアの文学者についての話を読んだり伺ったりしましたが、あまりの興味深さ、面白さに圧倒されました。みんなどこかでつながっている。欧州教養人は、それ全体で一つのサークルを形成しているのではないか、と思いました。
トラークルはヴィトゲンシュタインから援助を受ける。ヴィトゲンシュタインはケインズと友人であった。ヴィトゲンシュタインの兄は戦争で右手を失ったピアニストで、彼のためにラヴェルやシュトラウスが左手用ピアノ楽曲を作曲した。
あまりに人間的で、人間的すぎるがゆえに、精神を病み、決して幸福とは言えない人生を送ったけれど、後世に残したものはあまりあるもの。
これだけで、一週間はブログが持ちそうだな、と思います。
まだまだ知らないことがたくさんあるなあ。やること沢山あるけれど、頑張ろう。生きるためには、本を読んで文書を書き続けなければならないという宿命。それを改めて認識しました。

2011/2012シーズン,Classical,NNTT:新国立劇場,Opera

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こうもり@新国立劇場、行ってまいりました!

エッティンガーの指揮ぶり

驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。

完璧主義?

この完璧主義ぶりは、若さゆえなのかな、あるいはそうした性格なのか。影響を受けている指揮者は、バレンボイム、チェリビダッケ、カラヤンですので、やはり、性格なのでしょう。すでに、バイエルン国立歌劇場などでも旺盛な活動をしているエッティンガーがベルリンフィルの指揮台に上がるのはいつになるのでしょうか。そう遠くない将来実現しそうです。
http://www.dan-ettinger.com/eventarchive/

カッコイイおじさんたち。

私は、どうしてもカッコイイおじさんに憧れるのです。ですので、刑務所長フランクを歌ったルッペルト・ベルクマン、ファルケ博士を歌ったペーター・エーデルマン、それにコミカルな演技を見せた看守フロッシュのフランツ・スラーダのおじさん三人組には本当に感銘を受けました。微妙な表情とか、仕草とか。まったく。なんで、あっちの方々はみんなカッコよく歳取るんでしょうか。私の果たせるかどうかわからない目標。

ネタ

恒例のいわゆる「ネタ」ですが、2009年とかぶるところがありましたが、新しい趣向もあったと思います。結構日本語使ったネタがあったり、歌詞を変えていたりと、なかなかに面白かったです。少しやりすぎ感もありましたが。。。第三幕の「焼酎」ネタも健在でした。

まとめ

本日は取り急ぎ。「こうもり」のような軽妙なオペラはかえって難しいですね。
明日から仕事。頑張ろう。

Alban Berg,Classical,Concert

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会社帰りにサントリーホールに行けるという僥倖。私の夢でしたが、ありがたいことにこれも叶ってしまいました。仕事たまってますが、月曜日に早出しますので許してください。
曲目は以下の通りです。
* ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
* モーツァルト;交響曲第31番「パリ」
* ベルク:ルル組曲
* ラヴェル:ラ・ヴァルス
うーん、この組み合わせは、少し不思議なんですが、私的には垂涎ものでした。これはオールパリプログラムなのだそうです。「ルル」の全曲盤初演がパリだから、ということだそうです。ブーレーズが振ったあのCDのこと。。そうか、なるほど。。
指揮者は、1979年生まれの俊英、山田和樹氏です。もちろん初めて聴くのですが、経歴をみるとすごいことになっています。東京芸大でコバケンと松尾葉子に師事し、2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝してしまう。その後BBC交響楽団とかパリ管弦楽団を振って、再演を決めてしまう。N響の副指揮者。で、32歳ですか。。

ビゼー&モーツァルト:二つのハ長調交響曲
山田和樹
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前半のドビュッシーに泣いた。。

山田さん、最初のフルートソロで、手をほとんど動かさなかったです。最初をほとんどフルートに任せてしまった感じ。その後も、オケにクリックを正確に与えるようなことはなく、ダイナミズムとクリティカルなタイミングを指示するのみ。大時代的な杓子定規なものはないかんじです。その指揮ぶりは、なんだか天から振ってくる音を拾い上げて、オケに伝えていると思えるぐらいです。
実は、半年ほど前にも日フィルの「牧神の午後への前奏曲」を聴いているんですが、今回は落涙度二倍ぐらいでした。弦のうねりが美しすぎて。癒されました。

ルル組曲で震えた。

ルル組曲、さすがにこの曲は難曲です。さすがの第一楽章の冒頭は、いろいろな音のパーツがあちこちで錯綜しているような感じでした。しかし、中盤に向かっては徐々にオケも暖まってきた感じで、充実した響きを見せてくれたように思います。
数ある見せ場では、私のイメージを超えたカッコよさににんまりしながら聞いていました。弦楽器がうねり歌うところとか、トランペットが泣き叫ぶところとか、サックスの媚態のような音なんかが入り乱れて、忘我状態でした。
複雑で混乱にも聞こえるリズムと音程の中に通底する危険な抒情性に心が揺さぶられ、苦しくもあり快くもありました。十二音技法を使った危険で魅惑的な旋律群が幾重にも繰り出されてくるあたりは、ベルクもすごいですが、指揮者もオケの皆さんも本当にすごいです。それから、曲のダイナミクスレンジをきちんと聴かせる演奏でした。最高潮の部分、何度ものけぞりました。そうしたオケの機能性を十二分に楽しむことが出来ました。
ルルのアリアを歌うのは林正子さんでした。残念ながら私の席からは十分にその声質を確認することが出来ませんでした。座席は、P席の横、打楽器を目の前にしたような席で、林さんの背中を観ながら声を聴いていたような状況でしたので。ですが、ピッチの狂いもなく、膨らみのある豊かな声だったのではないか、と推しています。
このとき既に、私は座席を間違ったことに気づきました。S席にしておけば良かった、と。というか、最前列、全然空いていました。休憩時間に移れば良かった。。。(ウソ)。
この曲の最終楽章ですが、切り裂きジャックにルルが喉を掻き切られる場面があります。ブーレーズが振っているCDでは、ここでソプラノの強烈な悲鳴が録音されていて、ホラー映画のように死ぬほど怖いんですが、さすがにそれはありませんでした。ちょっと期待したんですが。それにしても、この場面でベルクが描くルルの断末魔は実に写実的で身震いするほどでした。首から血が噴き出し、大きく数回痙攣し、力を失い倒れていくルルの最後の姿が目に浮かびます。
個人的には、サックス奏者の端くれとして、サックスパートがとても気になりました。アルトでしたが、メチャいい音です。もちろん、マウスピースはラバーですので、ジャズのよなギラギラした感じや、ざらついた感じは全くないです。艶やかで滑らか、それでいてエッジを感じる音でした。心が洗われました。私には絶対に出せない音です。
ルルについては、こんな文章を書きましたので、よろしければどうぞ。
“<参考>「ルル」を巡る不思議なエピソード":https://museum.projectmnh.com/2011/12/09235959.php

ラ・ヴァルスで盛り上がった。

最後のラ・ヴァルス。これがすごかった。この曲で盛り上がらない方がおかしいのですが、山田さん、ここでも相当盛り上げました。テンポは早々動かしませんでした。ただ、金管を歌わせるところは少しテンポをあげてアクセントをつけていたように聞こえました。最高潮のところは、全身で大きな振りを見せました。怒濤のフィナーレで、このときばかりは割れる拍手がフライング気味で、ブラボーの絶叫が飛び交いました。演奏後のオケの皆さんの顔も悦びに溢れている感じでした。

反省

今回の座席は、二階席のちょうどオケの左側面に面したところでした。これは完全に失敗でしたorz。オケの音が直接聞こえてくる感じがしません。一度ホール内で反射した音を聞いている感じです。間接音みたいな。最前列で聴いていたら、もっともっと感動したはず。悔やまれます。。

まとめ

山田和樹氏が千秋真一ばりの才能の持ち主であることが分かりました。しかしながら千秋真一よりも腰が低いし、オケにすごく気を遣っているのが分かります。最後なんて、オケの全パート立たせてたしなあ。
それから、今後は、座席選びは(家計も大事だが)悔いのなきようベストを尽くします。
今回の日フィル定期も本当に楽しかったです。
ラ・ヴァルスの感動の余韻に浸りながら、明日は新国に「こうもり」を観に行きます。

Alban Berg

ルルとは?

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「ルル」とは、ベルクの超問題作にして未完のオペラの名前です。ルルというのは、主人公の女性の名前で、オペラ界きっての魔性の女です。幾人もの男をたぶらかしては死に追いやるのですが、それは彼女の必然に基づくものであり善悪の判定をされていない。単純な二元論では割り切れない混沌と非論理の世界が描かれています。
音楽的には十二音音楽が導入されています。シェーンベルクが十二音音楽によって数値理論化してしまった旋律作成の方法論に、今一度調性による抒情性を復活させています。
ルル組曲の中で、ソプラノによって歌われるルルのアリアもそうした十二音音楽の音列に基づいて書かれています。旋律の前半には調性感があえて残されていて、その調性感が後半儚く消え去るあたりがカッコイイのです。

未完オペラ「ルル」の完成

オペラ「ルル」は未完成でしたが、ベルクによって「ルル」の各部分から材料をとって、ルル組曲(あるいはルル交響曲とも呼ばれることがある)としてまとめられ、オペラの完成に先立って発表されたのでした。
ちなみに、ベルクの直接の死因は敗血症(マーラーと一緒)ですが、その根本原因は単なる虫刺されです。虫に刺された腫瘍から細菌が血液に入り死に至ったというわけです。(本当にそうなんでしょうか?、と思うことがあります)
オペラの「ルル」は第二幕まで完成していて、第三幕は一部完成していましたが、スケッチなどが残されているました。やろうと思えば、「トゥーランドット」のようにあとから加筆修正すればそうそう時間がかかることなく完成していたと思われるのですが、ベルクの奥さんのヘレーネは、それを絶対に許しませんでした。
ちなみに、へレーネは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の隠し子と言われています。これも1980年代になって明らかになりました。以下は半年前に書いた記事です。
“ベルク夫人の父親は誰?":https://museum.projectmnh.com/2011/04/20232908.php
だからかどうか分かりませんが、ヘレーネは気位の高い女性だったとか。
実は、この曲を作曲していた当時、ベルクはハンナ・フックスという別の女性と不倫関係にありました。ヘレーネはおそらくはこうした事情を察していて、「ルル」の第三幕の台本を嫌っていたのだそうです。がゆえに、完全版完成を拒んだのではないかと言われています。
ところがです。実は、ヘレーネに伏せられたまま「ルル」の加筆は進んでいました。版権を持っていたウニヴェルザール社が、作曲家フリードリヒ・ツェルハに資料を渡しており、内密にその完成版の制作を依頼していたのでした。
ヘレーネが亡くなったのは1976年ですが、1974年にはツェルハによる加筆は終わっていました。そして、1979年、パリのオペラ座でピエール・ブーレーズの指揮により、完全版の世界初演となったのでした。(だから、日フィル12月サントリー定期の会のテーマは「パリ」と言うことになるわけです)

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新国立劇場のルル

ルルは、日本でも何度か上演されています。二期会によっても10年ほど前に初演されていますが、記憶に新しいのは新国立劇場の2004年2005年シーズンで計画されていた「ルル」の上演です。私もチケットを買っていたのですが、会社の同僚の結婚式に出席せねばならず、あきらめたのでした。
このとき、本来なら三幕完全版で演奏されるはずでしたが、様々な事情があったらしく、オペラとしての演奏は第二幕で打ちきりとなり、第三幕はこのルル組曲から該当する部分を演奏して、代替とする、という事件がありました。詳しくはあえて書きませんが、ネット上ではいろいろな議論があったと思います。
私にとってはこうした様々な不思議なエピソードが絡み合った「ルル」が、本当に興味深くてならないのです。

2011/2012シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

すっかり寒くなってしまいました。半月前までは、まだまだ暖かいなあ、と思っていたのに。今日は6時前に家を出ました。真っ暗でしたが、空気は澄んでいて気持ちがよいと思いました。
ルサルカの第二回目です。
演出について書こうと思います。今回の演出はとても素晴らしかったのです。
色彩も、照明も、衣装も、解釈もどれも楽しかったです。
USTREAMで演出のカラン氏のコメントを聴きたいところですが、なぜか観られないのです。。
(→今日の夜時点では観られました。研究を進める予定)
ですので、これは主観的な感想です。

光の美しさ

今回の演出は本当に面白かったし美しかったです。水をモティーフにしているだけあって、舞台には波紋が水底に描くゆらめきが照明によって描きだされていました。
これは、本当にゆらめき、まるで本当に水底にいるかのようにも見えました。これ、当たり前過ぎるほど自然で、うっとりと見入ってしまいました。

人間らしさとは何か?

私が今回の演出でもっとも感銘を受けた部分はここでした。
私がそれを感じたのは、第二幕の結婚式の舞踏会とされている部分でした。
深い赤のドレスに身を包んだ男女が四方の入り口から舞台上に現れてきます。舞踏会の客という設定ですので何十人という大勢です。彼らは一様に目の部分を隠すマスクをつけています。表情はもちろん視線がどこに向いて居るのかも分かりません。
ルサルカは、彼らに話しかけようと近づきます。ルサルカは言葉を発することが出来ませんから、おのずと身振り手振りとなります。ですが、そのたびに、深い赤のドレスの彼らは、身を翻し、あるうはルサルカをよけるようにして、ルサルカのアプローチを拒絶します。それも拒絶していることすら気がつかせないよけ方です。完全に無視を決め込んでいいるわけです。いみじくも花嫁だというのに。まさに、存在を抹消しようとしているようにも見えます。
ここでは、全く違う価値観で動く人間達の中で、拒否されあるいは無視されるルサルカの姿が濃密に現されていたと思うのです。
ルサルカは、水の精の世界から人間界へと向かうのですが、そこで拒絶されてしまうわけです。人間になりたいということで、進んで人間になったはずのルサルカを無視する人間達という構図です。
理由は何か? ルサルカが真の人間になっていないからなのか、あるいは、ルサルカが人間で、人間達が人間ではないのか。
この物語は、人類普遍の問題を描き出しているのでしょう。真の人間性とは何か? という問題です。自分とは異質なものを拒絶するというのは、人間社会において普遍的なものです。それは、第二幕冒頭で給仕達が交わす会話にも現れていました。王子は変な女を森の中から連れてきて、全くどうかしているよ、みたいな感じです。
それから、何も言葉を紡ぎ出すことの出来ないルサルカの姿は、真実を語ることが出来ない、あるいは自らの真性を表出することを許されないという人間のある種のきまりをとらえたメタファーだと考えられます。
この場面は、人間社会の側面を指摘した秀逸な表現だと解釈しました。

神への言及

ルサルカに逃げられた王子は、どうやら色目を使われた外国の公女にも捨てられたらしく、悶々とした生活を送っていて、どうにも我慢ならなくなり、森に分け入りルサルカを探そうとするわけです。誰がどう見てもだらしがない男なんですが、まあ、ルサルカと再会して、もう死んでも良い、ということで死の接吻を受けて王子は死に行くわけです。「愛の死」にしては王子はかっこ悪いです。トリスタンとは大違いだと思います。まったく。。
ところが、その後がとても興味深いのです。ルサルカは神に祈り始めるのです。今日、私が見ていた中で、神についての言及に気づいたのはここだけでした。あまりの唐突感に違和感を覚えました。これは、私がクリスチャンではないからでしょうか。あるいは水の精という「異教的」な存在が突然神へと近寄ったからでしょうか。
結局は祈ることしかできない、あるいは、思考を停止し、行動を停止して、神にゆだねるというのでしょうか?
すごく興味深いのですが、まだ答えは分かりません。芸術には結論はありませんがこの飛躍がなにかとってつけたものに思えました。学者なら、ここに文献持ってこれるんだろうけれど、悔しいです。

終わりに

今日も少し乱暴な妄想でしたが、観ているときにこんなことを考えていたので結構楽しかったのです。
次回は音楽面について書きます。これもまた難しいのですよ。。。