Opera,Richard Strauss

いよいよ迫る新国「影のない女」

さて、本題。
今週末に迫ったリヒャルト・シュトラウス畢竟の大作、歌劇「影のない女」新国立劇場公演に向けて準備を進めています。今朝から聞いているのはショルティのDVD盤をiPodにいれたもの。この曲は、この一ヶ月間に数えられないほど聞き込んでいますが、第三幕が素敵だな、と思うようになりました。
なんだか、マーラーの皮肉を交えた牧歌的な音楽が聞こえてきたり、ベルクやマーラーのトーンクラスター的な和音が聞こえてきたり、ヴォツェックのフレーズがでてきたり、と、このオペラが受けた影響、逆に及ぼした影響の大きさを体感しました。あと、明らかに「ツァラトゥストラはかく語りき」とおぼしきフレーズも出てきます。
こういうの、ちゃんと譜面に起こして説明したいところですが。。
それから、バラクの妻が三幕冒頭で歌うアリア的なところ、私の今聞いているDVD盤ですと、エヴァ・マルトンでして、もうこのブリュンヒルデ歌いの全力疾走状態で、鬼気迫るものがあります。
その後のバラクと妻の二重唱のところ、泣けますねえ。3月ごろ、感情が不安定で、西田敏行になっていたのですが、最近は現実の厳しさのほうが激しくなって、泣く余裕がないんです。なので、今はまだ泣けない。週末に泣けるといいんだけど。
ここではバラクの旋律が一度提示され、その後もう一度歌われるバラクの旋律に、バラクの妻の旋律が対位法的に絡み合ってくる。このあたりのフレージングのすばらしさは、シュトラウスならでは、の神業とでもいえましょうか。
あと、一番大好きなのが、乳母が「カイコバート!」と叫んだあとに、女声合唱がエコー(こだま)を歌うんですよ。エフェクター的にいうとディレイをかけた感じで、
乳母「 %{font-size:16px;}カイコバート!% 」
女声合唱「 %{font-size:11px;}カイコバート!% 、 %{font-size:9px;}バート!% 、 %{font-size:7px;}バート!% 、 %{font-size:5px;}バート!% 」
という感じを再現している。こんな思いつき、シュトラウスが初めてじゃないと思うけれど、初めて聞いたときはのけぞりました。その後、荘重な音楽とともにカイコバートの伝令が現れるというかっこよさ。たまらんです。
ショルティの指揮も、いろいろ言われていますが、この録音に関して申し上げればまったく違和感ありません。ショルティというと力技でスピード感があって、というイメージなのですが、意外と重々しいんです。第一幕の冒頭のカイコバートの動機もかなりゆっくりと、低音域を強調してますので。
ショルティのCD盤のドミンゴのドイツ語が残念なだけ。歌はうまいのですが、子音の鮮烈感がたらないのですよね。。。ドミンゴにそれを求めるのが恐れ多いことではありますが。
それから、DVD盤のほうは、ライヴ収録盤なので疵が相当あるのは否めない。ウィーンフィルとはいえ、かなりアンサンブルにばらつきが感じられたりします。そこがちと残念
日曜日には泣けるように頑張ります。

Jazz

いやあ、月曜日はつらいですねえ。がんばりますが。
さて、なんだか紐が切れた凧のようにふらりふらりと漂っている状態。破壊的な欲求がこみ上げてきてどうしようもない。こういうときはランディとマイケルのブレッカー兄弟の音楽を聞いて代謝しましょう。
私の音楽の聴き方はよこしまな道に違いない。
さて、このアルバム、ランディ・ブレッカー名義のアルバムですが、マイケルもゲスト的に参加しているアルバム。CD版もいいですが、DVD版だともっと楽しめる。ビックバンドをバックにして、ランディとマイケルが大暴れします。ウィル・リーのベースも凄いですし、ジム・ベアードのキーボードもいかしている。
サムスカ(サム・スカンク・ファンク)は、私の知っている音源の中でもかなり行けてるほう、だと思っています。Youtubeには、失敗しているセッションもあったりするので、ああ、あの二人も万能じゃないんだなあ、と妙に納得してしまうこともありますので。
3年前にも記事書いていますね。あのころの僕と今の僕は決定的に変わりましたが、これからどう変わっていくのかも楽しみですね。不惑とかそういうの、嫌いなんで。
“https://museum.projectmnh.com/2007/08/11211441.php":https://museum.projectmnh.com/2007/08/11211441.php
えーっと、CSS少しいじりまして、文字の大きさを小さくしてみました。この方が読みやすいという意見もあり、ちょっといろいろいじっています。あと、デザインでいくつかやりたいことがあるので、それも楽しみ。CSSのデザインの本を安く入手したのでインスパイアされました。
やることが たくさんあるうち それが華(はな)

Miscellaneous

本日日曜日(ちょっとずるだが)、いろいろありました。といっても、家の中でですけれど。久々の完全オフなので、ゆっくりいろいろさせてもらいました。
* Movablet Type を5.02へバージョンアップしました。いろいろ気になっていたバグがフィックスしたようでしたから。ですが、かえっておかしなことになってしまいました。Java Scriptで動かしているダイアログがうまく動かなくなりました。これは、ブログの投稿やコメントのやりとりには影響ありませんので、Sixapartにいったん事象報告して待ちとします。ちょっとこれ以上原因究明する時間はありませんので。
* キーボードを新調しました。英語版101キーボード。IBM製で、トラックポイントとウルトラナビがついているもの。たまにマウスに手を伸ばすのがおっくうになるときがあるので。ですが、ここでも問題発生。どうしてもWindowsが101キーボードとして認識してくれない。106キーボードとして認識するので、キーの配列と入力文字が一致しないのです。ドライバ入れかえたり、レジストリをいじったりしましたがダメ。結局DvorakJというソフトを入れてことを納めました。
* 昔、iTune Storeで、メシアン生誕100年記念音源を買ったんだが、Windowsを5回再インストールすると、DRMでロックがかかって聞けなくなりそうなので、オーディオCDを14枚焼くという、時代に逆行する作業をしました。DRMロックなんかやめちゃえばいいのに。
* 来週末21日に、アルミンクがNJPでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を振るんですが、頑張れば何とか行けそうだけれど、仕事が詰まっているので断念。予習も足らないし、23日の「影のない女」もありますので。でもまだちょっと迷っている。行っちゃうかもね。
* 最近、J-WAVEをよく聞いている。 “radiko":http://radiko.jp/ だと、ウェブ上で聞けるので音質最高なんです。番組的にも、まあいうなれば女性ファッション雑誌のような内容で、ポジティブシンキングでロハスでハッピーで前向きな番組が多いので、聞いていて元気が出る感じ。
* で、疲れたら、やっぱりモーツァルトのシンフォニーを聞いてまったり過ごす。ジェフリー・テイトのボックスCDはいいですよ。ライトでフェザーな感じで、疲れ切った体には良く効きます。
というわけで、いろいろ疲れたり癒されたりと忙しい休日になってしまいました。
明日からはまた会社ですねえ。サラリーマンはリング的に言うと侏儒なのかもね。なーんてね。頑張ろう。

Dresden2006

ドレスデンには2001年の1月頃に行ったことがありました。まだ、世界が同時多発テロも金融危機も知らず、ITバブルがはじけたとはいえ、まだまだ冷戦後の安眠を貪っていた時代。一度目のドレスデンで、私はラファエロとカナレットに開眼したのですが、それはまたの機会に。
2001年当時のゼンパーオーパーがこちら。

そして、2006年当時のゼンパーオーパー

なんだか本当に雰囲気が変わってしまって、別の街のように思えるほどでした。
ドイツをご旅行された方はよくご存じだと思いますが、南と北とじゃ、ドイツ人の気性は全く違います。特に酷いのが、フランクフルトからケルンにやらルール地方にいたる一体とかベルリンじゃないかな(例外的にマインツでは何度も凄く親切にしてもらった。これもまたいずれ書きましょう)。ハンブルクやらリューベック、キールあたりには行ったことがないので分からないですが。
でもですね、ドレスデンではそういうイヤな思いを全くしなかったんです。それはミュンヘンでも感じたし、フライブルクでも感じました。
そのときはまだオペラを全然知らなかったのです。ブラームスの室内楽とブルックナーを狂い聴きしていて、オペラに行く欲求がなかった。けれど、ドレスデン絵画館の窓から、マチネに向かう人々がオーバーコートに身を包み、ゼンパーオーパーの入口へと消えていく姿を眺めていました。暗く寒いドイツの冬の出来事。
ドレスデンを去る前日、エルベ川の対岸からゼンパーオーパーの偉容を眺めていました。夕闇迫り、空は真っ赤に燃え上がっていました。実を切る冷たい風に震えながら、この街にはもう一度来なければならない、と強く思いました。「エルベの誓い」というのがありますよね。第二次大戦終戦時に米ソの兵士がエルベ川の橋で握手をして、恒久平和を誓ったというあの話。だが、あの時の私にとっての「エルベの誓い」は、必ずここに戻ってくるというものでした。

その後、ドレスデンはエルベ川の大氾濫で大きな被害に遭いました。ゼンパーオーパーも壊滅的な打撃を受けたし、絵画館の貴重な絵画は疎開しました。それはまるで、ソ連軍の侵攻に備えてナチスドイツが美術品を疎開させたのにも似ている。ピルニッツ宮殿に当時の洪水の水位が分かるようになっていました。

一番上のラインが2002年の洪水の時の水位。ちょっと変な写真ですがこの写真も見てみてください。

その後、ドレスデンは復興したけれど、復興しすぎたんですよ。一度目のドレスデンの頃は、まだ東ドイツ社会主義政権下の名残が至る所に見られたんです。フラウエン教会だって影の形もなかった。ただ看板があっただけだったんです。
ドレスデン城も下の写真のように工事中。つまりBaustelle.


でも、2006年の二度目のドレスデンは、すっかり変容していました。西側資本が大量に入り込み、ドレスデン城の復興がなり、「緑の丸天井」と呼ばれるザクセン王家の宝物館の公開直後と言うこともあって、整理券を取らないとドレスデン城に入れない有様。

銀行や商店の看板が乱立し、日本で言えば、ヨドバシカメラやヤマダ電機のような大型電気店「サターン」が街のど真ん中に店舗を構えていたり、消費者ローンのキャンペーンで、1000ユーロだかがあたるくじ引きに行列が出来ていて、あの薄暗い中央駅は、天井が張り替えられすっかり綺麗になっていました。
フラウエン教会は白亜の石造建築として再興していましたが、余りに新しすぎて違和感を覚えてしまうぐらい。なんだかドレスデンの暗く静かで内省的な雰囲気は露と消えていました。特にエルベ河畔の代わり方が凄くて、もう満員のカフェテラスやレストランが軒を連ねていて、どの店も満員御礼状態でした。


僕がお世話になったGaraxというお店は消えてなくなっていました。下の二枚は2001年当時のGaraxでの写真。若い女の子二人で切り盛りしていました。客は僕ひとり。ソーセージとジャガイモのペーストを食べてビールを飲んだんですが、あれも幸福な時間だったなあ。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

どうしてこうも、不思議なことが起こるのでしょうか。
*「辻作品を読むたびに、今の自分にとって大事なことと出会う」*
ということは、これまでも書いてきたかもしれませんが、今回も驚きました。
先日、「詩と永遠」という、エッセイや講演録を収めた本を読んでいたのです。

私は、京都へ行くとお土産に落ち葉を持って帰る。柿などはすごく赤くなって綺麗です。パリでも蔦の葉を押し葉にして持ってくる。そういうものを持って行って喜んでくれる人と何かつまらなそうな顔をする人がいる。(中略)でも本当はそういうものが素敵だという考え方が幸福の土台を作っている。

207ページ
私がまだ独身でお金に余裕のあった時代、モレスキンを買いました。2004年に、学習院大学で「辻邦生展」が開かれました。秋でしたね。それで、展示を見終わって建物の外にでると、黄色い銀杏の落ち葉がたくさん落ちていたので、何の気のなしに一枚拾ってモレスキンに挟んでいたんですね。
それが、5年あまり経った先日、「詩と永遠」を読みながら、モレスキンにメモを書き付けている時に、急に飛び出してきたんです。5年あまり前の銀杏の葉っぱが。


葉っぱ一枚ですが、本当に驚きました。理性的に考えると、まあ、ほんの偶然に過ぎないんですが、辻邦生作品を読むと、こういうことが本当にたくさん起きます。先日も書いたように、僕にとって見れば聖書みたいなものなのだと思います。
また読み始めたいなあ。
再開したと言えば、さっきEWIを吹きました。いやあ、本当に腕が落ちている。アンブシェアなんてボロボロでございます。リトナーやダイアナ・クラールとコラボしました(笑)

Opera,Richard Strauss

オペラトークで紹介されたライトモティーフを、こちらでもご紹介します。

ライトモティーフとは

日本語訳では、示導動機と訳されます。ワーグナーが本格的に使用を始めましたが、それ以前にウェーバーなども似たような試みをしていますのでワーグナーの発明というわけではありませんが、ワーグナーの積極的な使用によりその後の作曲家にも大きな影響を及ぼしました。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおけるライトモティーフの重要性はもちろんのこと、私はプッチーニオペラにおいてもその影響が見て取れると思います。
ようは、旋律に、各種の意味を持たせたものです。それは登場人物を喋々するものであったり、概念を象徴するものであったりといろいろです。オペラという劇空間の中では、ライトモティーフは台詞を伴う場合もありますが、伴わない場合もあります。台詞を伴わない時の効果は絶大で、この場面で何が起きているのか、このフレーズに隠された真の意味は何なのか、といった重要な要素を示唆するものとなります。
ライトモティーフを覚えてからオペラを見に行くと、聞き覚えのあるライトモティーフがでてきたときに、ちょっと嬉しくなります。

カイコバートの動機

カイコバートは作品には登場人物として登場することはありませんが、このフレーズによって何度も何度もその存在を我々に明らかにします。きわめて重要なフレーズ。第一幕冒頭、最初のフレーズがこのカイコバートの動機であると言うことことからも、その重要性は明白です。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%91%EF%BC%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

皇后の動機

この動機も実に美しいもの。少し愁いに満ちながらも、気位の高さや品位何度を感じさせるフレーズです。

"
!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%92%EF%BC%89%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

石化の動機

皇帝は、皇后が三日以内に影を手に入れないと石になってしまいます。伝令が、乳母に、「皇帝は石になるぞ!」と告げるときに相当低い音まで下がってこの不気味なフレーズを歌います。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
今日で今週の仕事はおしまいですが、週末は週末でいろいろやることがありますので、気が抜けません。

Classical

昨日に引き続き、新日本フィルの記者会見発表についてです。

まずは、錦糸町界隈の美しさ。並木の若葉がエメラルド色に光り輝いていてまぶしい感じ。

東京スカイツリーも見えました。凄いですねえ。もっと高くなるのかあ。

フランス・ブリュッヘンの希代なるベートーヴェン交響曲全曲演奏

フランス・ブリュッヘンの実に意欲的なベートーヴェン交響曲全曲演奏会「ベートーヴェンプロジェクト」が紹介されました。これはブリュッヘンのアイディアなのですが、以下のようなものです。
まずは、リハーサルを降順に行っていく。
つまり
9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 2 > 1
という順番で、各日2,3日でリハーサルを行う。
次に、演奏会のために
1 > 2 > 3 > 4 > 5 > 6 > 7 > 8 > 9
の順番でリハーサルしつつ演奏回を行う。
というもの。これは、トリフォニーホールとの共同制作となるとのことです。当然、最初の降順リハーサルの間は、演奏会を行いませんので、経済的にも難しいプロジェクトですし、リハ会場となるであろうトリフォニーホールの方も相当の負担となるはず。一ヶ月近くどっぷりとベートーヴェンにはまり込むという、素晴らしくもあり過酷でもある試みです。
しかし、演奏する側にとっては、第九から降順にリハーサルをすることで、これから何が待ち受けているのかを知りながら演奏会に臨むことができるといことになり、非常に面白いことになりそうです、
続いて質疑応答があったのですが、ちょっと熱い感じでした。ポイントは以下の通りです。

質疑応答=技術面の充実についてはどう考えるのか?

アルミンク氏は、すべての音楽家は、Gipfel、つまり頂点に向かって登っている途上なのであるから、見守っていて欲しいというようなニュアンスでした。
コンマスのチェ・ムンス氏も、ある種の危機感は持っているけれども、劇的に瞬時にオケが変わることはできない、という趣旨の発言がありました。特に強調しておられたのは、技術の向上という面や、オケが良くなるためには、オケ側の努力も当然必要だが、それを伝えるマスメディアの方や、聴衆側の強力も不可欠なのである、ということをおっしゃっていました。
クラシック界全体の問題として、若い聞き手が減ってきているという危機感もあるとのこと。若い方々にもっと来ていただけるようにならないと、いわゆるクラシック界の未来も厳しいものがあるのではないかというご発言でした。
確かにその通りかも。私がよく行く新国の平均年齢はだいぶんと高い気がする。若い方もいらっしゃるけれど、そうそう多くはないからなあ。まあ、ずいぶんとチケットも値が張りますし、働き盛りの若い方々が、平日の夜に気軽に演奏会に行けるような社会でもありませんので。
昨日、たまたま岡田暁生さんの「西洋音楽史」を再読していたのですが、やっぱりクラシック音楽自体がニッチなものとなりつつあって、力を失いかけているのではないか、という機がしました。

質疑応答=オケのアイデンティティ

先日も、アカデミックな音楽が力を失っていることを書きました。
“https://museum.projectmnh.com/2010/05/07233302.php":https://museum.projectmnh.com/2010/05/07233302.php
質疑応答の中であったのは、日本のオケであるにもかかわらず、日本人作曲家の新作が1本しかないということや、日本で活躍する日本人ソリストの起用がないのではないか、という指摘でした。
アルミンク氏は意図的に日本人を起用しなかったのではなく、たまたまそうなったのである、と強調はしておられました。
ただ、楽曲の選択についても少々厳しい指摘があって、たとえば新日本フィルが海外公演を行ったときに、日本のオケとしてのアイデンティティをどのように保持するのか、日本のオケとして、日本人作曲家の作品をきちんと発信していかなければならないのではないか、というような意見。新日本フィルは毎年日本人作曲家に新作を委嘱しているそうで、蓄積はあるはずなのに、再演がなされていないなど、やっぱり日本人作品の取り上げ方には少々物足りなさがあるのでは、という意見でした。
これは本当に難しい。
私の個人的な意見ですが、果たしてクラシックのいわゆる新作を書くという行為自体、現代の日本においてきわめて難しいのではないか、という点はあるはずです。
需要もそうそうないでしょうし、西洋音楽のクリエイトという行為自体が問われているという側面もあります。海外ではヘンツェやリームなどの作曲家が活躍していますけれど、日本においてはあまりにニッチな領域としか言いようがないです。
これは、日本人が西洋音楽(クラシックだけじゃなくて、ポップスやジャズもそうですけれど)をやる意味とはなにか、というところまで話がいっちゃいますので。これは、今後も考えていかないと行けない課題だと思いました。

最後に

 滅多に立ち入ることのできないクラシック業界の舞台裏を見ることができて本当に興味深かったです。こういった一般人をプレス発表に呼ぶ、というチャレンジングな試みはすばらしいと思いました。新日本フィルはかつて数度ほどしか聴いたことがありませんが、ちょっと通ってみようかな、と思いました。自宅からトリフォニーは少々遠いかな、と思って躊躇していたということもあるのですが、意外に近いこともわかりましたので。
 
 お土産もいただきましたよ。フランツ・シュミットの「七つの封印を有する書」の二枚組全曲CDをいただいてしまいました。ありがとうございました。

Classical

新日本フィルの2010/2011シーズン記者発表会に一般モニターとして参加してきました。

オケ業界のプレス発表的な場所に行くのは初めてだったので結構興味深いことがたくさん。来ておられる方とか、私らの業界とはやっぱり違うなあ、とか。
オープニングの映像が凄くて、ヴェルディのレクイエムから「怒りの日」が流れてど迫力。その後、音楽監督のアルミンク氏が「曲は怒りの日ですが、今日はいい日にしたいですねえ」みたいな暖かい雰囲気で発表が始まりました。
ほとんど、音楽監督のクリスティアン・アルミンク氏がドイツ語でしゃべって、それを通訳してくださる感じ。で、この通訳の方、どこかでお見かけしたような、と思ったら、新国「ヴォツェック」のオペラトークで通訳しておられた方でした。
アルミンク氏のドイツ語、つぶつぶの単語は聞き取れるんだが、意味がわかんないです。ドイツ語も勉強したいが、その前に英語だよなあ。。

2010/2011シーズンラインナップについて

ラインナップについては、ウェブ上ですでに発表されていますが、詳細な説明がありました。
“http://www.njp.or.jp/njp/information/index.html#info100401_1":http://www.njp.or.jp/njp/information/index.html#info100401_1
強調されていたのは、音楽監督のアルミンク氏に加えて、以下の三名の方のみが客演するという点でした。たくさんの客演指揮者を呼ぶのではなく、少数の方とじっくり信頼関係を築きながらよいパフォーマンスを作っていくのだ、というコンセプトでした。
* ダニエル・ハーディング
* インゴ・メッツマハー
* フランス・ブリュッヘン
いずれも世に名高い方々ばかり。
特にハーディングについては「Music Patner of NJP」というタイトルがついていて、普通の感覚だと「首席客演指揮者」とでもいうポストなんでしょうけれど、なんかチャレンジングな名前にしたいということで、そういうタイトルになったそうです。アルミンク氏とハーディング氏は、タングルウッドで一緒に小澤征爾の薫陶を受けていたそうで、結構親しい仲のようでした。
メッツマハー氏といえば、僕的にはアンサンブル・モデルンを振っておられた記憶が。映像みると、やっぱり歳を重ねておられました。
曲目的には、マルティヌーの交響曲第三番とか、ハルトマンの交響曲第6番などが印象的。あと、ブリュッヘン氏のバッハミサ曲ロ短調も期待したい。
それから、新国立劇場のピットに入って「ばらの騎士」をやるのもトピックとして取り上げられました。これ、私、絶対行きますので、楽しみ。
あとは、「トリスタンとイゾルデ」のコンサート・オペラがあって、これには藤村実穂子さんが再登場します。これも行かねばならないコンサートになりそう。
ハーディング氏のブルックナー8番とか、期待しちゃいます。

アルミンク音楽監督の契約期間が2年延長

次に、アルミンク氏の音楽監督が2年延長となるとのこと。アルミンク氏の音楽監督就任は2003年ですので、2012/2013シーズンまでということになると10年の長きにわたる音楽監督ということで、オケやフランチャイズのトリフォニーホールとの密接な信頼関係を感じました。
アルミンク氏自身も、墨田区に愛着を持ち始めていらっしゃるようで、川沿いを毎朝ジョギングしていると、みんな「おはようございます!」って挨拶してくれてとてもフレンドリーなんですよ、なんてことをおっしゃっていました。
コンマスのチェ・ムンスさんも登壇しておられたのですが、延長発表となったときに互いに抱き合っておりました。いい関係なんでしょうね。
今日は取り急ぎここまで。明日は、
# フランス・ブリュッヘンの希代なるベートーヴェン交響曲全曲演奏
# 質疑応答
などを書きます。
あ、「影のない女」のオペラトークも書かないと。

Opera,Richard Strauss


いつぞやの新国の写真。休憩中のベランダ。新国の屋内は禁煙なので、喫煙者はベランダに出てたばこを吸っておられます。私はたばこは吸いませんが、外の空気に当たりたいので休憩中はいつもベランダに出てカシオの本社やらオペラシティの高層建築を眺めたり、ガラス張りのホワイエの中の人々を観察したりして過ごしています。
さて、「影のない女」のオペラトークの三回目です。
オペラトークの模様は新国立劇場のページにもアップされてます。
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/20001048.html
今回のオペラトークのご報告ですが、田辺先生がおっしゃったことに、私の主観がかなり混ざっていますので、そのあたりはご容赦ください。

時代的意味

このオペラが書かれたのは1911年から1916年にかけてです。時代は第一次世界大戦にさしかかったところ。オーストリア皇帝といえば、もちろんあの謹厳実直なフランツ・ヨーゼフ一世で、皇后はバイエルンお受け出身の美貌のエリザベート。ご存じの通りエリザベートとフランツ・ヨーゼフ一世の結婚生活はあまりうまくいっていませんでした。そうした故事がこのオペラにおける皇帝と皇后の関係にも投影されていると言えましょうか。

アクチュアリティ

このオペラはエゴイズムとヒューマニズムのせめぎ合いとも捉えられましょう。「影」を奪い取ろうとする乳母の利己性と、奪い取ることについて良心の呵責を覚える皇后の心情。この対比はまさに人間の欲望と理性のせめぎ合いとして捉えることができましょう。
皇帝と皇后はメルヒェンの世界でいわば引きこもり状態で暮らしている。だが、「影」を奪うために、どろどろとした人間社会の中に降りてゆく。これはいわば人間の社会参加に他なりません。
ホフマンスタールは、ご存じの通り早熟の天才です。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
代表作は「チャンドス卿の手紙」です。いつぞやこのブログで書いたことありますね。
"
https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php":https://museum.projectmnh.com/2007/11/29171254.php
彼自身、オタク的とも言える早熟の天才知識人でしたので、社会との関わりについていっそうの意識を持っていたのかもしれません。
「チャンドス卿の手紙」では、文学表現の限界性が述べられているのですが、そうしたホフマンスタールがオペラ台本を手がけるということについては、これまでも奇異なイメージを抱いていました。当時のオペラは、今で言えば映画のようなもので、貴族や大衆に向けられたものでしたので、純粋文学からオペラ台本を手がけるという方向転換は、ホフマンスタールのの立場の変化は大きいものだと思いました。
明日は音楽面について。ああ、ライトモティーフ打ち込まないと。頑張ります。

Opera,Richard Strauss


月影もあらわになるほどに青空に映える三日月。影は常に寄り添うもの。
「影のない女」オペラトークの2回目です。終わるまでにはちょっと時間がかかりそうですね。初日は5月20日だそうですので、新国の舞台裏は今は大変なことになっていると思います。大丈夫でしょうか、みなさま。楽しみにしております&応援しております。

影とは何か?

「影のない女」の影とは何か? 詳しくは述べられませんでしたが、「影」とは、人間の生殖能力のことを指していると解釈されます。皇后は霊界出身であるがゆえに、真の人間ではないため、「影」を持たない。だから、真の人間になるべく、バラクの妻の「影=生殖能力」を奪うのである、という、実に陰惨な物語でもあります。
皇后は、影を得て子供を得たいのだが、皇帝は妻にはお構いなく、狩りに興じて家を留守にしている。一方バラクの妻は現実の生活につかれきってバラクに愛想を尽かしていて、子供なんて欲しくない。
二組の夫婦は、それぞれ子供を得ることができないという状態に置かれた不安定なもの。そこにこのオペラのひとつのモティーフがあるわけです。

バラク夫妻

よく知られているように、シュトラウスには暴露趣味があります。以下の三つは有名でしょう[1]。
* 英雄の生涯:シュトラウス自身を英雄になぞらえたもの
* 家庭交響曲:シュトラウス一家を描いた実に奇天烈で美しき交響曲
* インテルメッツォ:シュトラウス夫妻の間に起こった愉快な勘違い夫婦喧嘩をオペラに仕立て上げた。
で、バラク夫妻もやっぱりシュトラウス夫妻のメタファーになっているそうです。バラクは実直な男として描かれていますが、バラクの妻は、癇癪もちで、夫に愛想を尽かしているような女性なんです。
シュトラウスの妻であるパウリーネは歌手でしたが、結婚してからは、癇癪もちでヒステリックな悪妻だったようです。とはいえ、分かれるようなことはなかったんで、本当は互いに愛し合っていたんでしょうけれど。
これは、私がどこかで聴いた話なのですが、自宅への来客に、シュトラウスはこういったんだそうです。
「君、帰る時間を遅くして、もう少し我が家にいてくれないか。君が帰ったとたん、カミさんは、僕に『早く仕事(作曲)しなさい!』と癇癪を起こすだろうからね」
確かこんな内容。パウリーネがいてくれたおかげで、僕らはシュトラウスの音楽に恵まれているという面もありそうです。

世界観

このオペラには三つの世界があります。その間を行ったりきたりするわけです。
# 霊界:カイコバート、乳母、伝令が属する世界。妖精の世界。皇后は霊界出身である。
# メルヒェン世界[2]:皇帝と皇后が属する世界。
# 人間界:バラク夫妻の属する世界
霊界を、ホフマンスタールは神秘的なユートピア世界、神話的世界と捉えていました。「リング」のヴァルハラのようなイメージでしょうか。
fn1. 「エジプトのヘレナ」でもやはりシュトラウス夫妻をモティーフにしたと思われる夫妻が登場するそうですが、不覚にも「エジプトのヘレナ」が数年前に上演したとき、落としていますので、大変残念。
fn2. オペラトークでは「メルヒェン」という言葉は使われませんでした。