Miscellaneous

少々更新に間が飽きましたが、せんだって、NHKニューイヤーオペラコンサートにいって参りました。
お目当ては藤村美穂子さんでしたが、体調不良のため降板しておられました。なにがあったのでしょうか?
先日の新聞記事では、藤村さんは体調管理を徹底することで、単にアジア人であることを理由にすきあらば蹴落とそうと付け狙う方々に弱味を見せないのだ、ということが紹介されていたのですけれど。

このコンサートでの一番の収穫は、福井敬さんのオテロでした。オテロといえば、ヴェネチア海軍の猛将でムーア人であるという負い目に打ち克ちのしあがってきた巨大な人物です。しかし福井さんのオテロ像はそうではありませんでした。凄まじい猜疑心をあらわにしたナーバスなオテロでした。微細なピッチコントロールがそうした表情付けを補完していて効果的でした。
視覚面で言うと、衣装がに意匠を凝らそうという意図が見られまして面白い感じでした。まあ、個人がもつイメージというのはさまざまですね。
というわけで、少々遅くなりますしたが、私の2010年聞き始めはこんな感じでした。
次回はN響定期でばらの騎士組曲を聴きます。

Classical

昨日から仕事でしたが、なんだかへたれた状態。気合いいれないと。どうも年末までの忙しさの反動かしら。まあ認められることが全くない作業に奉仕するのも我慢我慢であります。
というわけで今日は癒しを求めてシベリウスの交響曲を一番から順番に。EMIの廉価ボックスセットにて。ベルグルントの指揮による定番の演奏です。いつも思うのは、明らかにドイツ、イタリア、オーストリア音楽と旋律の質的な相違があるということです。
せんだってデ・ジャヴとかパロディのことを書きましたが、そうしたなにかを想起させるような規範が私の中にはあまりないです。私にとっては、シベリウスもいまだ知らぬ絶景を豊かに含んだ別世界と言えましょうか。音楽は無限ですが有視界飛行できる範囲は限られているわけで、あとどれだけ飛べるかは努力次第でしょう。
ヤナチェクの音楽はチェコ語の音韻を譜面化していると言われますが、やはりその土地土地固有の音韻情報と旋律の結び付きは大きなものがあるでしょう。ラップは米語でやるからカッコいいとか。

話題がそれました。先日、ラジオのクラシック番組を聴きました。幸田浩子さんが出ておられました。番組に温泉コーナーがあって癒しの音楽が紹介されていました。先日はエルガーでした。今日の私にとってはシベリウスが温泉であります。

この世知辛く、すさんだ、不条理で汚濁に満ちた、猜疑と嫉妬がうずめき、偽善と傲りの自己顕示が飛び交う私の職場にあっては、私にとってはもう温泉だと言えましょう。

澄みきった冷たい空気がみちあふれ、遥か遠くの銀嶺の彼方は、琥珀色からモーヴ色へ優しく、だがせまりくる闇夜への凛々しさをも兼ね備えているかんじで、あの空のしたにはアテナ神の典雅清冽な軍勢が行軍しているに違いありません。
そんな白昼夢に遊ぶことのできる音楽でした。

まだまだ学ぶべきことは多いですね。

では。

Classical

えーと、私はフランス語は分かりませんが、デジャヴがフランス語であることは知っておりますので、こんな題名。間違っていたらこっそり教えてください。

先日の続きです。先日はこちら。うだうだ長い文章になっちまいました。それでもせっかく書いた我が子を見捨てるわけには行きませんので載せちゃいます。次の段落からが先日の続きです。

さて、クラシックに話を戻すと、とはいいながらも、必ずしもメインストリームではないようなところでは、クラシック音楽の新曲が日々飛躍し続けておりますね。現代音楽がひとまず思い浮かびますが、もう一つは映画音楽などでしょうか。武満徹も映画音楽をたくさん作っておりますし、池辺晋一郎さんもそうですね(「独眼竜正宗」のテーマは最高!)。

そう言うわけで、やっぱりクラシック音楽は、過去の新解釈を産み出すと言う方向性が一般的ではなかろうかと思うのです。

もちろん、クラシック以外においても星の数ほどの曲があると思いますが、そこでも今後同じことが起こる可能性は否定できません。J-POPを聴くとそうした兆候がすでに現れております。今現在のJ-POP、旋律的にはデジャヴなことがおおいですので。演歌もそうでしょうね。

もっとも、J-POPも演歌も歌詞に重きを置いているということになれば、J-POP・演歌においては、音楽はただの添え物でしょうから、それでも良いのかも知れませんし、商業音楽においてはクラシック以上に解釈性、カスタマイズ度が上がっておりますので、もう少しは大丈夫かと思います。つまり、楽器の編成を変えたり、楽器を増やしたり、シンセサイザーを使ったり、サンプリングを使ったり……などなど、まだまだ未開地は残されておりましょう。

もっとも、「デジャヴ」感それ自体を価値あるものと見る考えもあるでしょう。人は自分の経験を通して外界を認識している、というあの考え方です。バッパー(チャーリー・パーカーを代表とするビバップ、すなわち第二次大戦直後のジャズシーンにおいて、インプロヴァイズにて多用されたフレーズ群を再構成して演奏をするミュージシャンのこと)は、むしろそうしたデジャヴ感を武器にしているとも言えます。必ずしもマンネリズムは悪ではありません。でなければ水戸黄門が1964年から35年間にもわたって放映されているわけはないのですから。

ここまでくると、私の大好きな「引用」とか「パロディズム」まで来ております。これはもう意図したデジャヴですので、その引用の巧みさに大きく肯う感じとなります。先に挙げたバッパー達の作る音楽もある種の引用美ですので否定はいたしません。

先日の「名曲探偵アマデウス」でショスタコーヴィチ交響曲第五番が取り上げられておりました。あの曲はいわゆる「社会主義リアリズム」的音楽として、ソヴィエト共産主義へのショスタコーヴィチなりの跪き、だというのが建前ですが、まあ、みなさまご存じの通り、ショスタコーヴィチの本心はそんなものではなかったわけです。それで、それをどうやって表現したか。引用、あるいはパロディなわけでして、第四楽章の冒頭の金管のフレーズは、「カルメン」のハバネラの歌詞「信じるな!」の部分の短三度である、ということが紹介されておりました。これはもう江戸時代のマリア観音的状態とも言えるでしょう。

抑圧された社会にあっては本心を表現することはあたわず、ただただ引用やパロディを盾にした表現をしているわけです。これは、音楽だけじゃなく文学もそうだと思います。忠臣蔵の舞台は確か室町期だったはず。討ち入りを大手を振って取り上げることが出来るぐらい自由な社会ではなかったので、そうやって話しを入れ替えたんですね。これも引用やらパロディの一種では。

と言うわけで、クラシックの中でも少々外れたところにあると言えるかと思われる映画音楽(ドラマ音楽)から、湯浅譲治が作曲した、大河ドラマ「徳川慶喜」のサウンドトラックをきいてみましょう。。もう10年ぐらい前になりましょうかね。今は「坂の上の雲」で秋山真之を演じる本木雅弘が主人公の徳川慶喜を演じました。ちょうどいろいろあったころで、なかなか見られなかったのですが、オープニングテーマに大きなインプレッションを感じたのを覚えていました。早速サウンドトラックを買いに走りました。

このテーマ、オケの曲なのですが、使われている旋律には日本の伝統音楽が活かされています。五音音階的ななフレーズがフルートとオーボエなどで演奏されたあと、切れ目なくメインテーマに入っていくのですが、ここのヴァイオリンのフレーズがものすごく良いのですよ。雄大な広がりをもった希望に溢れた旋律。この旋律は何度も膨らみながら高揚へと達します。この旋律の下で支えるコントラバスとチェロのリフが泣けて仕方がない。こういうベースラインを聴くと、ベースって本当に大事だ、と思います。その高揚は、再び日本的五音階に遮られてエンディングへと向かいます。最後の幾ばくかの寂寥感は、全うできずに大政奉還となった徳川慶喜の無念の思いでしょう。

この曲を聴くと確かに少々「デジャヴ」ですが、先に触れたようにそれだからといって、退屈な音楽ではありません。湯浅さんのオーケストレーションの巧みさががっちりと底辺を固めておりますし、引用の範囲でありましょうから、とても素晴らしい音楽に仕上がっております。もう入手困難やも知れませんが、機会があればぜひぜひ。

 

Miscellaneous

 まだ2009年の総括も出来ていないのに、よろしいでしょうか。。。

  1. 仕事頑張ろう。これできないと、他が何も続かないので。まあ、仕事と言ってもいろいろありますけれど。
  2. 本百冊を目指しましょう。一昨年は70冊、昨年は58冊、今年はせめて一昨年を超えたい! 100冊となると、一ヶ月に9冊読まないと行けない。週に2冊以上。頑張ろう。
  3. プロジェクトFFBを完遂。これ、恥ずかしくて書けない。年甲斐もなく、という感じなので。きついなあ。
  4. プロジェクトTを完遂。これも恥ずかしくて書けません。でも頑張らんと。
  5. ブログの更新回数を増やしましょう。毎日は厳しくとも、せめて一週間に4回は更新したいなあ。毎日書かかないと文章力が減衰してしまいますので。内容的にも、いろいろと改善のアイディアもあるのですが、取りかかれず。少しずつよくしていこうと思います。
  6. 体重減らそう。体脂肪率減らそう。もうすでに太っていますが、せめて体脂肪率を20%未満にしたいものでございます。きっと夏は富士山に登ると思いますので、そのときにこの体では登頂できないと思います。
  7. と言うわけで、ジムに毎週行こう! 特別な用事がない限り、毎週土曜日にジムに行くことにしていますので、今年もそのルールを守りましょう
  8. 風邪引かないように。自己管理せんとなあ。もう歳なので体を冷やしたり、無理に体を動かすのは厳禁です。

今年は、昨年よりも緩くしてみました。さて、1年後にはどうなるか。笑って振り返りたいです。頑張ろう!!

Classical

さて、いつのまにやら年は明けておりました。あけましておめでとうございます。

2009年の振り返りも終わらぬままでございました。回顧録的にまた書いてみたいと思います。

昨年の私にとっての大事件、それはペーター・シュナイダー!!です。

今年の1月、ペーター・シュナイダーさんが来日し、東京フィルを振りました。「ばら騎士組曲」と、オケ編曲版の「ニーベルングの指環」。このときもやはり泣き濡れた演奏会。シュナイダーさんには泣かされっぱなしです。それから、今年のバイロイト音楽祭でもシュナイダーさんは「トリスタンとイゾルデ」を振られたのですが、これはウェブラジオでエアチェックしました。この音源、一ヶ月ぐらい繰り返し繰り返し聞き続けていました。ここまで一人の指揮者に惚れたのは初めての経験かもしれません。

昨日、タワレコでシュナイダーさんのCDラインナップを聴いたのですが、買うことができるのはヘップナーとブラウンのCD2枚だけらしい。そのうちの一枚、ヘップナーのCDはこちら。とはいえ、ヘップナーが主人公ですので、やはりシュナイダーさんを十全に味わうというわけには参りません。

Heppner Sings Wagner
Heppner Sings Wagner

posted with amazlet at 09.12.31
Deutsche Grammophon (2006-05-09)
売り上げランキング: 713063

と思いましたが、UKのアマゾンに行くと、ローエングリンのDVDが売っていた。最近ポンド安傾向なので注文してしまいました。

それから、来年のバイロイトも楽しみです。

このコーナー、まだまだ続きます。

 

Miscellaneous

 今年もいろいろあった一年でした。音楽的な学びも多かったです。個人的にもなんとか物事が回り始めたかなあ、という一年だったと言うこともありますけれど。

仕事が急に忙しくなってなかなか時間がとれずじまいで、少々更新頻度が落ちたのがもったいなかったこと。書けば書くほど学べるはずなのですが。

ということで、毎年やっている1年の目標の振り返り。今年は惨憺たる結果でございます。。

 

  • とあるプロジェクト(A)を完遂する。
    →未達でございます。。。残念。でもまだあきらめませぬ。
  • とあるプロジェクト(B)を完遂する。
    →こちらも未達。残念。
  • 本は百冊読む
    →58冊でした。。。というか、意外と読んでいますね。40冊ぐらいかと思いました。
  • 辻邦生師の本を毎月1冊は読む →これ、残念ながら未達。未達ばかり。
  • ブログ更新を毎日する
    →ほとんど週に1,2度のペース。ちょっとこればかりは。、というところ。
  • オペラ・コンサートに月に一度は出かける
    →これは達成です。ありがとうございました。
  • 新しい音源を月に週に一つは聴いてきちんと感想を書く
    →CDに加えて、DVDやウェブラジオ、iTuneなど
  • 痩せる
    →体脂肪率は23%ぐらい。でも体重はどんどん増えています。今年はジムに行き始めましたが、筋肉は結構ついているんですけれど。もうすこしの辛抱。
  • 健康管理
    →風邪をひかないようにがんばります。→これ、なんと達成しました。とりあえず病欠なしでしたので。

ここまで未達だと、ほとんどどこかの会社のかけ声だけの目標に思えてきました。今年分かったのは、どうやら無理しちゃいかんということ。無理するとあとでかえって高くつきますね。。今更ですが。。。

まあ、徐々に状況はよくなっているので、来年も無理なくがんばります。

 

 

Classical,Literature

先だっての戯言の続きです。

現在のクラシック音楽の潮流として中心にあるのは過去の作曲家の音楽を演奏するということですが、当然のことながら旋律、和声、拍節を変えることはおおっぴらには出来ない。細かい譜面の修正や省略などは行われていますけれど。

そこで演奏者に求められるのは主に1)速度、2)音量、3)音色(サウンド)のチューニングです。他にも4)アーティキュレーションの解釈もあったりしますので、まあ主にこの4つでしょうか。

解釈の多様性をもってオリジナル音楽の意味をほぼ無限大に拡張するのが現代のクラシック音楽でして、フレーズを作り出したり、和声を作ったり、リズムを変えたり、という作業は、カデンツァや通奏低音などを除けばほとんどないでしょう。あ、歌手にあわせて転調して演奏することもありましょうかね。

これって、ものごとを質料と形式、あるいは内容と形式、と言う風に古典哲学的に分別して整理してしまうというのが、私の悲しい性。何でも質料形式に分解したくなってしまう挫折学生の悪癖です。

で、旋律、和声、拍節を質料としてとらえ、速度、音量、音色、アーティキュレーションを形式と捉えると、今の音楽のあり方は、素材を解釈して再生産するという過程であると言えましょう。質料=中身よりも、その見せ方、弾き方、解釈の仕方で勝負をしているのが現代クラシック界でしょう。(オペラ演出の問題もありますが、それは音楽の解釈性とはちょっと外れますのでここでは割愛します)

もう、「内容」をどうこうするのは野暮である、という時代なのでしょうか。これって実は文学においても同じで、純文学の世界では「内容」がどうか、という問題よりも、どれほど新しい形式を持っているのか、という方向に進んでいるようです。私は現代思想はさっぱり知りませんので、ここまでしか書けませんけれど、まあ、文芸評論の方々が書いてあることを読むと、物語の中身を楽しむ文学というものは、余りに当たり前すぎて論じる意味がない、というように読めることもありまして少々寂しいですね。

もちろん、文学もいろいろでして、SFとか推理小説なんて言うものもあります。ですが、SFもアシモフ的な内容を読ませるSFを脱却した新しいSFもあります。ディレイニーの「ノヴァ」を読んだのですが、私にはさっぱりでした。ほとんどジョイスを読んでいるかのような感覚。あ、私はジョイスも全然読めていません……。

もう少し続きます。つづきはまた。

Classical

 さて、いつの間にやらクリスマスなるものは終わっておりますね。帰宅前に駅前のスーパーに入ってみると、クリスマス商品はすべて撤去されており、正月モード全開でございます。加速を無限大に行うと光速に徐々に近づいていくそうですが、体感時間は短くなるそうですね。ウラシマ効果。でも、最近は逆ウラシマ効果です。

この街に住んでもう次で8回目の正月です。歳をとればとるほど時間は加速していきますね。気づけば、我が生涯でもっとも長く住んだ街になっております。小さい頃は転勤族でしたので、いろいろ各地を引っ越しましたので。ついこの間まで故郷なき男。ですが、今や、今今住んでいるこの街が故郷になりつつあるような。。引っ越したくないですが、近々職場毎都心方面に移動するので、そのときどうすればいいのか。。。

クリスマスということで、昨日はアバドとラトルの2バージョンでベートーヴェン交響曲第9番を。私がまだ若かったころ、N響でオトマール・スイトナーが振ったのをNHK-FMで聴いたのですが、それがデフォルト盤になっている感じです。スイトナーの指揮と、アバド、ラトルの指揮があまりに違うので驚きました。まるで別の曲ですね。どちらかと言えばラトル盤の方が好み。音量調整、速度調整が私のよくフィットしました。ですが、終幕部のスピード感は少々速度超過気味ですが、ぎりぎりセーフな感じ。スリリングな第九でありました。

今日は、レヴァインのパルジファルを。これ、来年四月のシルマー指揮のパルジファルの予習です。こちらもぬかりなくがんばらないといかんですね。

Classical

 どうにもやることがたくさんあるのですが、それでも毎日音楽を聴くようにしています。前にも書いたかも知れませんが、音楽聴いていないコンプレックスを持っていまして、他の方々よりも聴いている量が半端なく少ないので、こつこつ聴かないといけません。

何でこんなに聴けていないのかなあ、と思ったのですが、高校二年頃からジャズ・フュージョンを聴くようになってしまった、というのが大きな要因かなあ、と。高校の頃何をやっていたのか覚えていないのですが、実は音楽を聴いてデジタルホーンを吹きまくっていたのでした。おかげで大学ではジャズ研究会に入ることが出来ました。当然のように挫折したのですが。

というわけで、取り戻すためにも、毎日頑張って音楽を聴いています。

今日は、コジ・ファントゥテを少々。モーツァルトのオペラは勉強不足ですので。

聴いている音楽の偏り

それで思ったのですが、私の音楽に対する感覚というのは、結構偏っているかも、というところ。特に、この7年ぐらいオペラを聴き始めてからずいぶん感覚が変わってきている、と言うことに気づいたのです。

音楽を構成する要素

音楽を構成する要素は、音色、音階、拍節だと思います。音階と拍節によって旋律が成立します。それから、旋律の速度とか、音量などの要素が入ってきます。あとは和声と対位法というとらえ方もありましょうか。

(メロディ=旋律、リズム=拍節、ハーモニー=和声 が音楽の構成要素と言われることがあるようですけれど)

デジャヴとバリエーション

それでですね、和声と対位法とか、旋律などはもうだいぶんと使い尽くされているのでは、ということ。旋律なんかだと、J-POPあたりになると常にデジャヴとともにあるような感じもします。

商業音楽の話しになると少々ずれるので、強引にクラシックに話を戻すと、クラシック音楽はほとんど過去の曲を再生産しているイメージです。新たな旋律や和声が組み込まれる機会は極めて少ないです。

それで、何で勝負しているのかというと、1)音量とそのバランスとか、2)旋律の速度など、それから3)音色=サウンドというところになりましょうか。他にも言葉では説明できないグルーヴ感のようなものもありますが、それはおそらく1)と2)の組み合わせなのかなあ、と。

サウンドへの感覚

私の場合、以前だと、1)とか2)に重きを置いていた気がするのですが、オペラを聴き始めてから途端に3)の要素に敏感になってきた気がします。歌手の声というのは、楽器のそれと違い個体差が極めて大きいですよね。同じ旋律であっても全く印象が異なります。その違いを何とか説明しようとすると、声色=音色=サウンドへの注意力が増した気がします。ヤノヴィッツとポップの違いを言葉でどうあらわすべきか、とか、実演に触れた際に、歌手の声質をどうやって伝えるべきか、などなど。

歌手の声質もそうですが、それに加えて録音場所とか録音への感覚も昔よりついてきた気がします。これはもうルカ教会との出逢いが一番大きい気がいたします。昨日書いたように、同じルカ教会でオケも同じなのに音が違うというのは、指揮者の影響なのかエンジニアの影響なのか、というような話しになって、ワクワクします。

この続きもあるのですが、それはまた明日。

 

Chorus

先日も触れた名曲探偵アマデウスでフォーレのレクイエムが取り上げられていて無性に聴きたくなりました。サー・コリン・デイヴィスがシュターツカペレ・ドレスデンを振ったフィリップス盤。それにソプラノはルチア・ポップですからね! 録音はやはりルカ教会です。この豊かなリバーブ感がたまりません。中音域にの柔らかさのしっとりとした感覚は至福の境地。ここは賛否両論かもしれませんけれど私はいいと思います。クライバーの「トリスタンとイゾルデ」もオケと録音場所が同じですが、印象はかなりことなります。クライバーはかなり高音によったサウンドですので。エンジニアの違いもありましょう。
しかし、この曲の持つ浄福感には癒されないわけがありません。

リベラ・メの緊張感は最後の裁きを待つかのような気分に。フォーレの管弦楽曲集で聴いた「マスクとベルガマスク」を思い出しました。いまから7年ほど前にプラッソンの全集を狂ったように聴いていたのを思い出しました。あの頃読んでいたプルーストが懐かしい。まだ半ばまでやっときたところなのですが。もちろん辻邦生先生の影響ですが。
ちょっと話がそれました。デイヴィス盤のレクイエムに話を戻しましょう。
Pie Jesuでのポップは素晴らしいです。透き通り金色に輝く啓示。神がいたとしたら、こんなふうに語りかけてくるに違いありません。他のソプラノの方の録音とも比べてみたのですが、ポップの歌は透き通るだけではなく、倍音を含んだ芯のある声と言うことが分かります。もちろんルカ教会ということもありますが。
ちょっとこれはしばらくこのCDに癒してもらわないといけません。仕事付き合いにもすこし飽きてきましたので。
今日は本を読む元気がなかったので、電車の中から携帯を使ってポストしました。ではまた明日まで。