Giacomo Puccini,Opera

昨日のトスカ、まだ忘れられません。演出も実に秀逸でした。

昨日も少し書きましたが、第一幕最後のテ・デウムのところの豪華さは比類のないもののように見えました。

それから第二幕の最後。あそこがすごかったです。

トスカがスカルピアの胸にナイフを突き立てる。

「これがトスカの接吻よ!!」。

スカルピアは驚愕し呻きうろたえ、そのまま床に身を横たえ息を失う。

トスカはスカルピアの胸にもう一度ナイフを突き刺そうとするがいったん逡巡する。われに返ると、書類机にいってスカルピアに書かせた通行許可書を探す。書類が何枚も舞い散らばるのだが、通行許可書はない。

トスカはスカルピアの右手に通行許可証が握られているのに気づき、もぎ取ろうとするのだが、スカルピアの握り締められた右手がなかなか開かない。

ここ、秀逸すぎる!

通行許可証を手に入れると、机上の燭台の吹き消そうとするのだが、なかなか消えずに手で払ったりするのだが、一本だけ消えないまま残される。

トスカは書類机から火の灯った燭台2本を持ってきて倒れたスカルピアの両肩のあたり、床の上に置く。

トスカが部屋を出ようとするのだが、2本の燭台からの光を浴びて、背面にトスカの影が揺らめいている……。

あの2幕最後の一連の舞台、あまりの緊張感でした。唾を飲み込むのを忘れるぐらい食い入るように見てしまいました。

こういう一連のアクションが、プッチーニの織りなす、不安を一杯孕んだ音楽とともに演じられると、化学反応が起こったように爆発的な効果を生み出すようです。いつもはiPodで音楽だけ聴いて感動していますが、やはり実演やDVDで視覚でも観ないとダメですね。

「カプリッチョ」では、オペラにおいて言葉が先か、音楽が先か、という問題提起があります。あの場では二択のようにも思いますが、実はもう一つ演出が先か、と言うのもあります。登場人物的に言うと、

  • フラマン=作曲家=音楽
  • オリヴィエ=詩人=言葉(=台本)
  • ラ・ロッシュ=舞台監督=演出

という感じです。もしかしたら、1940年台、シュトラウスがカプリッチョを作曲した時点では、演出面の重要性は余り高くなくて、戦後バイロイトに始まった新バイロイト様式以降、演出の重要性が増してきたとも言えますので、現代オペラでいうと、ラ・ロッシュの役割が高まっているのでしょうね。

オペラは総合芸術と言われますが、昨日はよりいっそうその意味が分かってきた一日でした。

Giacomo Puccini,Opera

新国立劇場の「トスカ」行って参りました。最近、だいぶんと追い込まれているのですが、なんとか、という感じ。しかし、ここまで凄いとは思いもよりませんでしたよ。

ちょっと箇条書き風で。

トスカ役のイアーノ・タマーはグルジア出身の実力ソプラノ。憂愁を帯びた深い色のソプラノ。パワーと迫力も兼ね備えている。場数を踏んだ方だけが見せることの出来る揺るぎない自信を感じました。パワフルといっても、ワーグナー歌いとはちょっと違うのでしょうか。それは甘みとかふくよかさがあるから。でもこの方は、ブリュンヒルデ的ソプラノのはまり役といわれるトゥーランドットもちゃんと歌えると思います。アムネリスなんかがはまり役かしら。遠目に見た雰囲気がカラスに似ていて少し驚きました。

カヴァラドッシ役のカルロ・ヴェントレはウルグアイ生まれのイタリア人。ドミンゴを彷彿とさせる歌い回しに冷たい情熱を帯びた力強さ。この方のロングトーンには感動しました。ビブラートが実に綺麗。第一幕から飛ばしていて、冒頭部ではピッチに少し苦労していたけれど、暖まるにつれて安定感を取り戻していました。

スカルピア役のジョン・ルンドグレンはスウェーデンの方。僕のスカルピアのイメージは痩身で冷酷なイメージ。でも、この方のスカルピアは恰幅がよくてギラギラとした欲望をいくつも侍らしたような人間味のあるスカルピアでした。声質には幾分か甘みがある感じ。ピッチは終始良好だったと思います。

いずれにせよ、三人とも終始安定していらして不安感を感じることもありませんでした。この三人の強力な牽引力が大きな感興を読んだことは間違いありません。この方々が東京にいらしたことが凄いことなのだ、と思いました。

特筆すべきは、音楽を引っ張った指揮のシャスラン。額の形がグスタフ・マーラーにそっくりなのですが、作り出す音楽は迫力とパワーに満ち満ち溢れています。「トスカ」のスコアに含まれるうま味を十全に引き出すシェフ的職人芸だと思いました。シノポリが振る「トスカ」も相当凄いと思いましたが、実演でのシャスランの指揮はこれを上回る圧力でして、僕はもう最後まで圧倒され続けました。幸せな体験を今日もさせてもらいました。

今日初めて気づいたのですが、新国の「オペラパレス」の音は結構デッドですね。シノポリの「トスカ」のリヴァーヴ感が気持ちよかったのですが、今日の演奏の音は実にストレートに感じられました。昔からリヴァーヴ大好きな人間ですので、ちと物足りないかも。シノポリの「トスカ」は、ロンドンのAll Saint’ Churchです。教会のリヴァーヴは本当に素敵。

2003年に観たときは、左側のバルコニー席だったのですが、このときは舞台の右端しか見えない感じでした。カヴァラドッシが描いているマグダラのマリアも見えずじまい。第一幕の最後のテ・デウムの場面も全く見えませんでした。今日は二階の正面でしたので(しかも最前列! S席ではないですけれど)、舞台の様子がよく見えました。これは本当にお金のかかった舞台だと思いました。 当時のブログ。しかし生意気な記事で、赤面です。

http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/2003/11/09232044.html

テ・デウムの場面、キリスト教の祭式をゴージャスに再現していて、これはもうただただ凄かったです。舞台装置もローマの建築をイメージしていてなんだか郷愁を覚えました。またローマに行ってみたいのですが、いつになることか……。

しかしこのパフォーマンスを日本で観ることが出来るのは本当に幸福なことかも知れません。この幸福が将来も約束されたものではないがゆえに、なんともいとおしい経験となりました。

Miscellaneous

先日の講演会で以下のような話がありました。虚構かもしれませんが真実を含んだ虚構だと思いましたので、ちょっと書いてみますと、 ひとつは映画のプロットなのだそうですが、第二次大戦中の欧州戦線で、戦場に取り残された詩人の処遇の問題。指揮官である大隊長は、詩人に一個小隊をつけて後背地へと護送しようと計画しました。詩人は、私ごときに一個小隊という貴重な戦力を割いてもらうのは申し訳ない。一人で、後背地へ退きます、と大隊長に申し入れる。すると大隊長は詩人にこういう。あなたは平和な時代に欠くべからず方なのです。本来なら私は一個中隊さきたいぐらいなのです。一個小隊しかさけなくて申し訳ないと思っているのです。戦争が終わればあなたが今度は恩返ししてくれなくちゃいけません。

最後のほうは私の創作ですが、まあこういう感じのプロット。

次のプロット。

やはり戦時中ですが、舞台は日本です。空襲の危機が迫り、美術品を地方へと疎開しなければならない事態に陥りました。美術館が貨物列車の手配をお願いするのですが、軍部はにべもなく拒否する。あんた、こんな非常時に、美術品だのなんだのといっている暇はないのだ。貨物列車は、兵士を運び軍需品を運ぶことを最優先にするべきなのだ。それでもなお、貨物列車の手配を求めるのは、この時局にあって非国民的であり、言語道断である、と。

講師の先生がおっしゃるに、美術芸術文化は役に立たないかもしれないけれど、それを守れば必ず街や国は繁栄するのだ。人間が食べて寝るだけの動物であればそうしたものは必要ない。だが、人間はそれ以上のものであるべきであり、そうしたいわば人間性のようなものを保つために美術芸術文化がとても重要なのだ、と。

この言葉も私がかなり翻案してしまっています。本来おっしゃっていたこととは違うかもしれませんが、私はこう捉えてしまいました。

2つ目のプロット、これはまさに僕らの周りでいま起きていることと同じだと思います。生きることが最優先なのは確かにそのとおり。けれども、生きるだけでは人間性を保持できないわけです。人間であることをあきらめればいいのかもしれませんが、それはまるで家畜とどこが違うというのか。 けれども、現代日本においては、生きるか死ぬかのところでがんばっている方もおられるわけです。世界レベルの話をすれば、そういう方はあまりにたくさんいらっしゃるでしょうから。それを思うと、無力感というか虚脱感にさいなまれるのですが。

新国立劇場の予算が結局どうなるかは今後の注視ですが、この問題、本当に難しいです。何か戦争下にいるような空気と不安感を感じるのですが。もちろん戦時下を体験していない私には戦争がどういうものなのかわかっていないのですけれど。。。

Japanese Literature

今日は音楽の話しではなく文芸の話し。私は本好きの割には本を読んでいないというコンプレックスがあります。知識量にも読書量にも全く自信がないです。しかも知識はどんどん失われる。失われるだけなら良いですけれど、どんどんすり替わっていくのにはこまったもの。「始めにロゴスありき」という言葉が、創世記の冒頭だと思っていたのですが、今日、とある講演会に行きまして、それがヨハネ伝、ヨハネ福音書であることに気づかされた次第。まったく……。いちおうミッション系の学校にも通っていたんですけれどね。

その講演会、私が尊敬する小説家の先生の講演会でして、お名前を出すと、差し支えますのであまり細かくは書きませんけれど。

その先生とはいつも言っているカフェで知り合ったのですが、最初に声を掛けてくださったのは先生からでして、人見知りの私からは当然声をおかけするなんてことは出来ませんので、まあ当然でございます。

ともかく、今日は暖かい良い天気にも恵まれまして、隣の駅まで出かけて、講演会の会場に。ロビーに入ると、講演会場の館長が入口を気にしておられるので、きっと先生がみえる時間なのだろうなあ、と思って振り返るとやはり。丁度先生が奥様と一緒に入ってこられました。意を決して会釈してみると、先生は私のことを覚えていてくださって、軽く声を掛けてくださる。光栄です。まじで。。

講演会では、作家になった理由や、この街に住むことになった理由、代表作を書かれたときのエピソードなどをお話になりました。

そのなかで特に印象的だったこと。「発展途上である限り人間は青春である」ということ。この言葉、私が翻案していますので、実際に話された言葉とは違うかも知れません。ともかく、未来が未知数であるということや、可能性が無限大である限り青春時代なのである、ということをおっしゃったのです。このイデーは先生が四〇代前半で代表作をものにされたときに思いつかれたのだそうです。確かに年を重ねると、今後どうなるのか、大体予想がついてしまう。だからといってそうした予想に身をおもねてしまうことこそが青春を失ったことにほかならないわけで、逆に常に発展途上にあるということが大事なのです。未来に向かっては、今この瞬間が一番若いわけですから。

最後に今後の活動の予定を話されたのですが、いくつもいくつもアイディアが出てきます。お歳はと言えばもう七〇歳台後半だというのに、あまりに旺盛な意欲でいらして、これはもうまだ先生の年齢の半分にも達していない私が白旗を揚げざるを得ない状態。これではいかんですよ、と思いました。まだ半分も生きていないのに、先生の持っておられる「若さ」を失っているなんて、という感じ。

と言うか、先生の若さは凄いですよ。身のこなし、背筋が伸びておられるし、スマートな体型は五〇歳台といってもいいでしょう。いやいや、日に日に「膨張」し続ける私の体より若いかもしれません。

ちと頑張ろうと思いました。以前にもまして。

最後はサイン会がありまして、私もサインしていただきました。私のことを「僕の喫茶店仲間」とおっしゃってくださって、また感激でございます。

明日から、いやいや今日からまた頑張ります。

Giacomo Puccini,Opera

今月の新国は「トスカ」、ということで、予習中です。「トスカ」は、ほかのプッチーニオペラのなかでも実はあまり好みではないなあ、などと不遜なことを思っておりましたが、先日から意見が変わりました。シノポリ盤の「トスカ」はすごすぎる。このオケの歌わせ方は、私が2003年ごろからお世話になっているシノポリ盤「マノン・レスコー」と同じく、甘く切なく流麗で豊かな音作りで、大感激です。

実は、トスカは某有名指揮者と某有名テノールの演奏を聴いていただけだったのですが、ここまで違うとは本当に思いませんでした。不明に恥じ入るばかり。 ともかく、シノポリのオケの歌わせ方はうまいです。緩急のつけ方が絶妙。全体的にはテンポは抑え目なのですが、心情にグサリと刺さってくるような感じがしてなりません。っつうか、あの有名なアリアもこんなに感動的だったっけ? みたいな再発見な状態です。

カラヴァドッシはドミンゴで、トスカはフレーニです。私の知っているドミンゴはもっと甘みを感じていたはずですが、この録音では甘みは感じられず、あれ、これは本当にドミンゴだろうか、と疑ってしまいました。 フレーニは、私のオペラ体験の最初期に、カラヤンの「ラ・ボエーム」でミミを歌っていましたが、この方は私のデフォルト・ソプラノですよ。この方が私にとってオペラの路を開いてくださった方のひとりなのです。もう一人はドミンゴでけれど。

これで、実演がいっそう楽しみになりました。

さて、このところ、以前より帰りが遅くてちとへこたれてまして、歳食ったなあ、ってかんじ。もっと体が丈夫だといいのですが。毎週ヨガに通っていますが、肩やら肩胛骨が痛くて痛くて。これって○十肩かなあ。。。

Alban Berg,Chamber

 アクシデントはなかなか収束しない。ウチの組織に属する某課長が「仕事というのはどれだけ他人にボールを持たせるかなのだ」と滔々と語っているのだが、 現場組織から来た男は「仕事というのは、三遊間に飛んできたボールを以下に拾うか、なのだ」と言っている。はて、どちらが正解? どちらも正解? 少なくとも今は後者に従っているけれど、自分のポジションに飛んできた球を落としそうになっている予感。そろそろスタンスを前者に変えようかなあ。

人の記憶は余りに儚い。っつうか、どうとちころんで、ショルティのばらの騎士でキリ・テ・カナワが歌っている、という記憶になったのでしょうか。クレスピンじゃないですか。申し訳ありません。間違いました。

いつもお世話になっている「さまよえるクラヲタ人」さん。いつも素晴らしい記事で、勉強しております。新国の「ヴォツェック」のレポート、素晴らしくて、私も思い起こしながら読んでいた次第。この数日、ベルクを取り上げておられまして、私も刺激されてベルクを聴いています。

抒情組曲。この曲は元々は弦楽四重奏のために作曲された曲。念のために書き添えると、もともとはツェムリンスキーに捧げられていて、曲名の「抒情」は、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」から引用されています。これも有名な話しですが、ベルクは当時ハンナ・フックスという女性と不倫関係にありました。ハンナ・フックスは、アルマ・マーラーがマーラーの死後に再婚したフランツ・ヴェルフェルという文学者の姉に当たる人で、プラハ訪れたときに知り合った仲でした。

この、ハンナ・フックスとベルクの間に交わされた書簡が刊行されておりまして、英語版ですが私も購入しました。当たり障りのない挨拶が、急に深刻で切々とした愛の告白に変わってしまうという恐ろしさを味わいました。もっとちゃんと読まないといけないのですが。

wikiに載っていた第一楽章の音列ですが以下の感じ。冒頭のファンファーレ的なフレーズのコード進行と合致しているのがわかります。最初の音は、Fで、最後の音はHです。つまり、これはハンナ・フックスの頭文字と一致するわけです。

この音列、最初がハ長調で調性的で、後半はかなり外れてきます。こういうセンス、実は僕にとってはなじみ深くて、結構ジャズジャイアント、特にマイケル・ブレッカーなんかだと、こういう感じで調性から無調への飛躍をうまく取り入れておられると思います。

 

 →こちらで聞けますよ。Lyrische Suite_1.mid

ルルの音列も、調性と和を結んだ十二音音楽ですので、美しいのに実は十二音だったという籠絡のされ方が気持ちよいわけですね。

この曲、1年前ほどに、何十回と繰り返し聞いていたのですが、何度聞いても新鮮です。今日も昼休みはずっと抒情組曲。何度聞いても飽きがこない。それだけ僕には難しいのですが。。

 

 

American Literature

9月に頓挫していたハーマン・ウォークの「戦争の嵐」、ようやく読了しました。主人公のヴィクター・ヘンリー、通称パグの一家を軸とした大河ドラマです。

パグという名前は、ヴィクターがフットボールのフォワードで、パグ犬のようにタフだからついたあだ名です。 大艦巨砲主義者のパグが、真珠湾を目撃し、マレー沖海戦のニュースを知って、合理的に航空兵力の優勢を納得するあたりは、合理性を重んじる実直な人柄な現れでしょうか。

パグはルーズベルト大統領の信頼を得て、チャーチル、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといったキーパーソン達と相まみえることになります。このあたりは歴史の舞台裏を覗いているようで実に興味深い。物語の最終部、真珠湾攻撃の描写はアメリカ側からのものですので、少々新鮮でした。

間に挟まれた「世界帝国の敗北」という、架空の歴史書の記述も面白い。最後になって読んだ下りは実に印象的でして、曰く、三国同盟(ドイツ、日本、イタリア)は、軍事同盟と呼ばれるものではなかったという冷徹な指摘など。もし有効な軍事同盟であったとしたら、ドイツがソ連に侵攻すれば、同時に日本もソ連と戦端を開くべきであったし、アメリカの参戦を招く真珠湾攻撃こそあり得べからぬ作戦だったというもの。緊密に連携した米英に比べ、地理的に隔絶された日独が連携できなかったのもやむを得ないかとも思いますが。

それにしても、戦後になって振り返ると、連合国の勝利は間違いようのないものであったかと思いますが、その中に身を置いてみると、枢軸国の勝利も不可能が不可能である、と断じるのは難しかっただろう、と思います。さまざまな幸運や不運が積み重なって歴史は作られていくものですので。歴史をタラレバで語るのは愚の骨頂かも知れませんけれど。

バイロンとナタリーを巡る物語がスリリングです。特にナタリーはユダヤ人ですので、ナチズムが拡大する東欧や南欧にあって大変な苦労をすることになります。最終部では、なんとか船でイタリアを脱出するのですが、その先はいかに? また、パグが艦長として着任する予定だった戦艦カリフォルニアは、真珠湾攻撃で沈没寸前です。パグはどのように太平洋戦争を戦うのか? 戦闘機乗りの長男ウォレスは? 潜水艦乗りの次男バイロンは、ナタリーと再会できるのか?

続きである"War and Remembrance"は、邦訳がありません。ペーパバック版をebay(というかSekaimon)で格安で入手したのですが、さて少しずつ読まないと。

Opera,Richard Strauss

今日から久方ぶりに仕事。三連休もあるとなまってしまいますが、がんばります。

今日は朝から、「カプリッチョ」終幕の場面ばかり聞いています。とりあえず通勤中はシュヴァルツコップ、昼休みはキリ・テ・カナワ。

実は、今までカナワのよさが巧く理解できていないところがあったのです。マノン・レスコーをドミンゴと歌ったDVDとか、ティーレマンが振った「アラベラ」でおなじみのはずなのですが。ところが、このウルフ・シルマーが振った「カプリッチョ」のカナワはとても良いです。柔らかく包容力があって、豊かな倍音を含んだ慈愛に満ちた声でしょう。それから、"Bruder" を「ブルーデル」、"Oper"を、「オーペル」と発音されたり、"Der"を「デル」と発音される感じが、ちょっと面白い。ヤノヴィッツはそれぞれ、「ブルーダー」、「オーパー」、「デア」と発音しているように聞こえます。ヤノヴィッツの発音のほうが学校で習った発音に近いです。

ウルフ・シルマーは、思い出深い指揮者です。これまで新国に何度も登場していらっしゃいますが、一番すばらしかったのはエレクトラでした。あれはもう欧州級のパフォーマンスだと確信できた演奏でした。それから、2001年のブレゲンツ音楽祭で「ボーエム」を振っておられるはず。あのときの映像、VTRに撮ったのですが、演出も刺激的で若手歌手もみなすばらしく、感動したのを覚えています。

それから、これも何度も書いたかもしれませんが、また書いちゃいますと、私が生まれて二回目に観たオペラは「影のない女」でして、見た場所はなんとバスティーユです。そして指揮はウルフ・シルマー。今から思えば贅沢極まりない光り輝く演奏だったはず。ですが、仕事疲れに時差ぼけが重なり、昼間の間お土産探しに走り回った所為で、陥落してしまいました。意識を失う三幕の間。。。なんてもったいない。穴があったら入りたい。まあ、当時は「影のない女」なんていう難しいオペラを理解できていたとは全くいえませんでしたし。なにより、幕が下りてから、バスティーユから、夜中のバスティーユ広場をつっきって安宿屋へ無事に帰れるか、ということのほうが心配で心配で仕方がありませんでした。

話がそれました。ともかく、ウルフ・シルマーの隙のないスタイリッシュで雄弁な音楽は大好きですので、このCDもたちまち気にいってしまいました。まず最初にチェックするのは月光の音楽なのですが、結構ゆったりとしたテンポでホルンを歌わせています。感動。溶けてしまいたい。

シルマーは、来春「パルジファル」を振りますが、いまからとても楽しみです。

それにしても月光の音楽て、なぜあんなに美しいのでしょうか。僕はそのひとつの理由は頻繁な転調にあると思います。短三度ごとにフレーズが転調しながら高揚へと向かう部分。あそこはこの曲の白眉だと思います。以前のように譜面を書いて考えてみたり、MIDIファイルをおけるといいのですが。

Opera,Richard Strauss

行って参りました、二期会の「カプリッチョ」。

結論。泣けます。泣けました。演出の読み替えには白旗をあげましょう。やられましたよ。

日生劇場に行ったのは恥ずかしながら初めてでした。本当は「ルル」や「エジプトのヘレナ」など、行くべき公演はあったのですが、いけずじまいでしたので。60年代の日本がまだまだ成長するという進歩史観が有効だった時代で、建築も実にやる気に満ちあふれています。劇場内部は様々な曲線が織りなす不思議な空間で、俄然雰囲気を盛り上げてくれます。

「カプリッチョ」の実演は二回目でして、一回目はなんとドレスデンのゼンパーオーパーにてペーター・シュナイダーの指揮でみるという幸運。何度も書いたと思います。しかし、あのときはその凄さを十全に理解しているとはいえませんでした。繰り返しになりますが、「カプリッチョ」はいまや僕の宝物のような作品ですので、楽しみでならなかったのです。

今回の公演、演出の読み替えがすごかったのです。もういろいろなブログでも取り上げられていると思います。時代設定は作品が実際に作られた1942年当時でして、舞台は不明ですが、おそらくはドイツ占領地域でしょう。

冒頭の六重奏では、ダビデの星を胸につけたフラマンとオリヴィエが登場します。この二人がユダヤ人であるという強烈な読み替え。ダイニングホールとおぼしき部屋は椅子やテーブルが倒れ、シャンデリアが床に転がっています。二人はそこでソネットの楽譜を見つけ、女性の肖像画、おそらくは伯爵夫人マドレーヌの肖像だと思います。すると窓の外から自動車のヘッドライトが差し込んでくる。入ってきたのはナチスの兵士たち。おそらくは親衛隊でしょう。フラマンとオリヴィエは逃げていきます。親衛隊は、テーブルを起こし、シャンデリアを天井に上げ、椅子を片づけます。ここで時間が遡行したのに気づくわけですね。

整えられた部屋では、フラマンとオリヴィエがチェスを打ち、演出家のラ・ローシュはソファで眠りこけている。ここからは、特別な読み替えはなく舞台は進んでいきます。演出面で面白いのは、幼い女の子のバレリーナたちが現れるところ。彼女たち、切り分けられたチョコレートケーキを本当に食べていたのは微笑ましかったです。

後半の最後が圧巻でして、みんなでオペラの題材を決めて、じゃあ帰ろうか、みたいな雰囲気になったところで、さっきまで執事だった男や召使いたちが親衛隊に成り代わって登場する。さっきまで床をはいたり窓を磨いたりしていた年老いた老人が黄色いダビデの星をつけたコートを着せられて連行されようとしている。ラ・ローシュは親衛隊に渡された黒い革コートを来ていて、鈎十字の腕章をつけている。ラ・ローシュは、まさに親衛隊かゲシュタポの一味だったという読み替え。

親衛隊達は、フラマンとオリヴィエにも、ダビデの星のついたコートを着せる。互いに、詩の方がすごい、とか、音楽の方がすごいとか言うシーン、普通の演出だと、予定調和的な平和なところなのに、ここではあまりに切迫している。伯爵夫人は、フラマンとオリヴィエにかけよろうとするのだが、伯爵がそれを止める。泣きながら階段を昇って行く伯爵と伯爵夫人の兄妹。ラ・ローシュは、それでも、フラマンとオリヴィエを逃がしてやるのだが、その後は……、おそらくは冒頭のシーンに戻り、そのうちにナチスに捉えられ死に至るはず。

 それからがすごいですよ。月光の音楽で、舞台には群青色の光が差し込む。昼間部に登場するバレリーナが再登場。ドイツ軍兵士(男性バレエダンサー、もしかしたらドイツ軍兵士ではなくワルシャワ条約機構軍の兵士かもしれない)に銃を突きつけられるのだが、そのうち一緒に踊り出す。すると、テラスに杖をつく老婆が。これが、年老いた伯爵夫人マドレーヌなのでした。つまり、あれからもう何十年も経った戦後に舞台は移っている。

伯爵夫人は床に落ちていたフラマンとオリヴィエのソネットを取り上げるんだけれど、埃が積もっているので、手で払い息で吹き飛ばしたりする。このトランスクリプションがすばらしい。執事の歌は舞台裏で歌われている。これはあたかも伯爵夫人マドレーヌの幻聴である。伯爵夫人がフラマンか、オリヴィエか、と迷い歌うのだが、このトランスクリプションの中にあっては、悔恨の思いで歌っているとしか思えない。あのとき、なぜ決断しなかったのか、なぜ救えなかったのか、という思い。なぜか、歌詞を読むとそういう心情にフィットしていて、驚きました。

これはですね、もう20代の若者にはわからないだろうなあ、と思います。「ばらの騎士」の最終部で、マルシャリンが時のはかなさを歌うけれど、それよりももっと残酷で過酷で厳然とした時間の非遡行性への嘆息。これは30代過ぎないとわからない。歳をとればとるほど切実なはずで、だからこそ、年配の観客が比較的多かった場内で涙の音が聞こえたといえましょうか。私も涙が出ましたですよ。年をとればとるほど涙腺ゆるみます。涙を流すというカタルシスはある意味心地よくもありますので。

一緒に行ったカミさんは厳しくて、そんなに評価してくれなかったけれど、僕の心にはかなり響きました。

ただ、最後に舞台装置を壊してしまったのは残念。伯爵夫人マドレーヌのシルエットを強調したいために、セットを取り払ったのだけれど、なんだかちぐはぐに思えてしまいました。演出面で言うとそこだけです。

指揮とオケもすばらしかったですよ。指揮は沼尻竜典さんで、演奏は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。ちょっとした疵はいくつかありましたが、うねるような波がいくつも押し寄せるような演奏で、弦楽器の音も豊かで暖かく、演奏だけでも涙したシーンがありましたし。特に第七場最終部の間奏曲的部分はすばらしかった。月光の音楽ももちろん、です。ただ、月光の音楽のところ、演出に気をとられ驚いていたもので、少々上の空だったかもしれません。

すばらしかったのは、ラ・ローシュを歌われた山下浩司さんでして、声は鋭く張りがある感じで、ピッチも終始安定しておられまして大変安心して聴くことができました。あのラ・ローシュの大演説の部分もすばらしかった。歌だけではなく演技もそれらしくて、大変良かったです。この方、新国の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも出ておられたのですね。

ともかく、またカプリッチョの実演に居合わせることができたのは大変幸福でした。これも一生の思い出になるのでしょうね。

次は、12月の新国メニューの「トスカ」です。トスカは久しく聴いていないですね。ま

Opera

 ふうむ、しかし残念なニュース。「日本芸術文化振興会、予算要求の縮減(圧倒的な縮減)」とのこと。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm

新国、つまり新国立劇場は、独立行政法人日本芸術文化振興会の配下で予算をもらっているわけで、親組織の予算が圧倒的縮減となれば、影響は避けられないでしょう。来年の「トリスタンとイゾルデ」も「アラベラ」も危ない。危なすぎる。っつうか、2010年4月以降の演目も心配。せめて「影のない女」は見たいです。実は、来シーズンにまた「ばらの騎士」をカミッラ・ニールントが歌うという情報もありますが、それも厳しいのでしょうか。

まあ、景気が悪ければ真っ先に切られるのは文化芸術分野や科学分野だと言うことはわかっているのですが、いかにも残念すぎる。

新国の総予算は79億円。そのうち国からの予算は48億円。予算ヘラされても自前でなんとかできるようにしないといけないのかもしれない。メトロポリタンだってやばかったけれど、相当頑張っている。しかし、オペラや演劇、バレエのバックボーンがない日本で、どれだけやれるのか、不安は大きいです。

新国も他の分野ではいろいろゴタゴタがあるみたいですし、ハコモノにも見えましょうし、天下り先と見られても仕方がないんだけれど、昨今は公演のレベルも上がっていると思うし、新監督尾高さんを迎えてこれから、というところなんですがね。オペラは、ある種夢の世界ですが、本当に夢になってしまいそう。

10年後に、「あの頃は新国でも「軍人たち」や「ヴォツェック」をやっていたんだがねえ」なんて繰り言を言うようになっちまうかも。10年の蓄積は人的資源、ソフトウェアなんですが、このご時世だと、高速道路やスーパー農道と同じように写るんでしょうね。新国なんて、一部の人間しかその恩恵を享受していないと言われても仕方がないですし。

新国だけじゃなくて、国立劇場や文楽劇場などの国立系劇場もその影響くらうのだけれど。

先日ニュースで、日本科学未来館の予算も削られるとのことで、館長で宇宙飛行士の毛利衛さんが、民主党議員の前で必死に抗弁しているシーンが出ていました。そのお姿には痛々しささえ感じました。結局思い届かず予算削減となったのですが、本当に複雑な思い。むなしさを感じました。

これも民主主義ということなんですけれど、やっぱり少人数がバタバタと仕分けする姿は、なんだか統制主義的なにおいも漂う気がしなくもない。、国民の「生活」が大事だし、経済分野が最重要課題なのはわかりますが、殺伐とした統制社会が訪れようとしているのかもしれない。

つうか、まだ決まった訳じゃないし、意見あればメール送れるらしい。

ネット上の意見のうち、センセーショナルなものでは、新国はもう自主公演をできないのでは、的な意見もある。実際はどうなるかわかりませんが、今後の動向は注視が必要です。