いやあ、これ戦慄です。飛行機に乗る前、絶対に読んではいけません。
悪天候のカンザス・シティ空港で離陸を待つノース・アメリカ航空ボーイング737型機に、着陸を試みる同じくノース・アメリカエアバス320型機が激突し、100人以上の死者がでる大惨事となってしまう。ノース・アメリカ航空の臨床精神医マーク・ワイスの妻子も事故に巻き込まれて命を落としてしまう。国家運輸安全委員会(National Transportation Safety Board、NTSB)の調査官ジョウ・ウォーリングフォードは事故の全容解明に動き出すが、奇妙な圧力がかかり調査が妨害されていることに気づく。一方、マスコミには、事故が仕組まれたものであることをにおわす匿名の電話はファックスが入り始める。人種差別的な言動に走る下院議員が事故機に乗っていたというのだ……。
上巻の途中まで読みましたが、やはり良くできた小説はいいですね。登場人物が多層的で、実に個性的で鮮やかに描かれています。上質なハリウッド映画を観ている気分です。視点がクルクルと変わるのですが、きちんとついて行けますし。やはり英米系文学やミステリの層の厚さはすごい。まあ、英語人口が多いのもありますし、アメリカという超大国の言語でもありますので、層の厚さという観点に加えて、邦訳される率も高いということもあると思います。インターネットの普及でますます英語が世界共通語になってきました。フランスをはじめとしたヨーロッパでは、そうしたアングロ・サクソン系文化に必要以上に傾くことを懸念する向きもあるようです。
ネット時代で、KindleやiPadがリリースされるような世の中ですし、映画やテレビドラマなどの映像文化が隆盛となる時代ですので、非英語圏の小説は実に厳しい状況でしょう。水森美苗さんの「日本語が亡びるとき」でも似たようなことが指摘されていました。この不景気で、単行本なんて売れないでしょうし、1Q84は図書館の予約で何百人待ちで、ブックオフでは長蛇の列でも、一般書店では閑古鳥ですから。
かろうじて「居眠り磐音」シリーズの佐伯泰英さんが文庫書き下ろしで、なんとか、というところでしょうか。佐伯さんは正月の番組で、「価格の安い文庫本は作家にとって武器だ」とおっしゃっていました。逆に言うと、文庫本程度の価格の本誌か売れない、ということでしょう。
音楽も厳しい時代ですが、文学にとっても厳しい時代です。
飛行機に乗る前に読んではいけない本──J・J・ナンス「ファイナル・アプローチ」
数年ぶりのチェリビダッケのブラームス
大好きな「名曲探偵アマデウス」でブラームス交響曲第一番が取り上げられていました。先日も触れましたが、この番組、平易に楽曲の成立史や楽曲分析を取り上げられますので、充実した気分で観ることができます。
毎回演奏映像が取り上げられますが、今回は1992年のサイトウキネンの映像でした。小澤征爾氏があまりに若くて驚きました。18年前ですか。時が過ぎるのは早すぎます。
というわけで、ブラームスの交響曲第一番を聴いてみよう、ということで選んだのがチェリビダッケ。発売は1998年頃でしょうか。私がまだ独身でまだインターネットストリーミングなんてない時代でしたので、喜び勇んでチェリビダッケボックスを買ったのでした。
私がチェリビダッケを知ったのはおそらく1998年だったと思います。何度もブログに書いていますが、渋谷のタワレコで「展覧会の絵」がかかっていたのですね。それも「キエフの大門」が。身震いするほど衝撃を受けました。いやあ、これはすごい、と。あの遅いテンポが作り出す圧倒的破壊力。
それで、チェリビダッケのCDが、生前の彼の意図に反して(まあ、息子さんのイオアン・チェリビダッケ氏の言い分──海賊版に対抗するため──というのもわかりますけれど)、次々と発売されるのを、網にかかる魚のようにどんどん買っていった次第。ブルックナー全集の巨大ケースも買いました。あはは。
それで、今日の久々のブラームス。やはり遅いのですが、それがもう感動的というか衝撃的というか。甘さなんてこれっぽっちもない厳しさ。昔、チェリビダッケがミサ曲第三番のリハで、マーガレット・プライスを詰めている恐怖の映像を思い出しました(「気を悪くしましたか?」とチェリもプライスにその後気を遣うのですけれね)。ここまで遅いのに失速しない高揚力は感動的です。なんだか若い頃を思い出してきました。
さて、週末は飛ぶように去り、また明日から仕事ですが、なかなか休憩所が見つかりません。でも、頑張ります。
ところで、本日時点の読書状況ですが、目標達成ということになりそうです。雑誌数を加算すると、雑誌一冊0.25冊換算で、ちょうど9冊を突破したというところでしょうか。明日から読む本も決まっています。楽しみ。
レオンハルト、プティットバンドのミサ曲ロ短調
なんともかんとも忙しい一週間でした。私の仕事の進め方に問題があるのかしら……。まあ、仕事に限らない話ですが、うまく生きると言うことは、やらないことを決めることである、とどなたかがおっしゃっているのを聴いたことがあります。それから、岩波文庫の解説に、良い読書家は悪書を読まないと言うことである、ということが書いてあったのを覚えています。高校時代の私は、ああ、これは岩波文庫だけを読め、ということなのだな、と勝手に解釈していましたが、結果は岩波文庫ばかり読むわけはなく、ハヤカワ文庫に走っていたんですけれど。これ、今でも変わらないです。岩波文庫を最後に読んだのはいつだろう。社会人になってから「ワイマールのロッテ」を読んだのが最後かもしれない。。。
ともかく、今日は朝早く目覚めました。やはり早朝となると、バロックでしょうかね。単純にNHK-FMの「朝のバロック」の影響ですが。
中学生か高校生の頃、合唱音楽にはまったことがありました。モーツァルトのレクイエム、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲、バッハのヨハネ受難曲などなど、鬼気狂ったことがありました。私は残念ながらキリスト者ではありませんが、それでもミサ曲の醸成する荘厳で神々しい空気には畏怖を感じていました。キリスト教についての基礎知識もないまま、キリエとか、クレドとか、オッフェルトリウムなんていうラテン語の輝きだけが印象深かったのを覚えています。
バッハのミサ曲ロ短調も、やはり中学生の頃に聴いたのが初めてでしたでしょう。90分のカセットテープに録音しました。演奏はどなただったか、忘れてしまいました。しかし、この曲も大好きな合唱曲の一つになりましたね。
そういうわけで、先だって入手したグスタフ・レオンハルト、オランダ・コレギウム・ムジクム・バッハ合唱団、ラ・プティット・バンドの演奏を聴いております。
古楽演奏のテンポは速めに設定されることが多いように思いますが、この演奏も私の印象よりも少し速いテンポで展開していきます。録音は高音ののびが美しく、清澄な空気をよく伝えてくれています。バロック音楽は基本的にはインテンポな音楽ですが、この演奏ももちろんこれにならったもの。
ジャック・ルーシェが、バッハの音楽をジャズに編曲して演奏していますが、あれは、インテンポなバッハだからこそできたものだと思っています。ジャズも基本的にはインテンポな音楽ですので、そういう意味で両者はきわめて親和性が高いのです。
この演奏ももちろんインテンポですが、冷静な演奏は実にすばらしいものです。私のデフォルト印象よりも速いテンポで展開していくのでそのイメージがとても面白くて、個人的にはスリルさえ感じます。
今週は本当にヘトヘトで、どうしようか、と思ったぐらいでしたが、こうして早起きしてバッハを聴くと、なんだか心現れる気分。週末の開放感もあいまって、いい気分になってきました。申し訳ありませんが、土日は仕事を忘れてリフレッシュすることにします。そんな甘いことを言っている場合ではないかもしれませんが。
内田幹樹さん「パイロット・イン・コマンド」で仮想旅行
最近はまっているのが内田幹樹さんのエッセイや小説群です。
私は実のところ飛行機好きでしてとくにこの数年間はちょっと単なる好きを通り越してきた感じです。私の場合、音楽も小説にある種仕事的な意味を感じてしまうことが多く、重圧すら感じることもあります。最近はずいぶん楽になりましたが。
まあ、社会人になって初めて行ったドイツ旅行の幸福な思い出もありましょうね。12時間のフライトは、これまでの人生の中でもっとも自由を感じた12時間だったと思います。なにもできない不自由が与える自由とはいささか逆説的ですけれど。
当時のANAのフランクフルト便はがらがらで、ビールやらワインのおかわりもできたし、座席三つを占有して横になることもできました。シベリア上空から北の空に白くうっすらと燃えるオーロラもみました。
そんなANAの欧州線を舞台にしたパイロット・イン・コマンドですが、久々に奥深いミステリを呼んだ感じです。ミステリは謎解きなわけで、推理小説であれば犯人が最大の謎なわけです。ふつうの小説ですと解に至るまでの道筋が単線だったり、あまりに見通しのよい景色に少々物足りなさを感じるのですが、味のある小説、いや、映画やらドラマといった物語的要素をもつもので味わい深いものであれば、線路は当然複線以上で渓谷の中を縦横無尽に走り回り、いくつもの分岐を持つターミナルに何度も何度も停車します。これこそ物語の愉しみ。まあ、最先端の文学ですと、そんなことは歯牙にもかけないのかもしれませんが。
とにかく、パイロット・イン・コマンドはそうした物語の愉楽を十全に味わわせてくれる作品でした。昨日から読み始めて今朝方読み終わりましたが、あまりに最後が気になったので会社のゲートをくぐる時間が50分ほど遅れました。始業は9時ですが、いつもですと7時45分には机についています。今日は8時半過ぎに机についたかんじ。
実は、内田幹樹さんの小説はすでに2冊読んでいます。「査察機長」と「操縦不能」なのですが、いずれもおもしろかった。これらについてはまた別の機会に書きたいと思います。
あらすじ。
ロシアや南米の裏組織とつながりのある男がロンドンで逮捕され日本に移送されることになった。日本インターナショナル航空020便ヒースロー発成田行に護送されることになる。荒くれ個性派の砧(きぬた)機長、朝霧機長、そして主人公の副操縦士の江波の3名のクルーがそれを知ったのは出発直前。離陸したボーイング747-400はバードストライク(鳥との衝突)に見回れながらも無事に離陸するが、キャビンアテンダント達は、クレーマーの機乗や、トイレにいくつも捨てられているライフジャケットを見つけ気が気ではない。護送中の男は、ハイジャックを試みようと心に決める。江波は砧の癇癪に耐えながら半日に及ぶシベリア横断に挑むのだが……。
パイロット・イン・コマンドとは、その時点で決定権を持つパイロットのこと。今回でいうと砧機長がそれに当たりますが、2時間スパンで3名のクルーが二人ずつ操縦を担当しますので、通例はそうなんですけれどね。
張り巡らされた伏線を愉しみながらクルーと一緒にフライトをしている気分で実の爽快です。時にその伏線が袋小路へと導くこともあるのですが、種明かしはフライトが終わってからですね。
一昨年「ハッピー・フライト」という映画がありましたが、内田幹樹さんのこの「パイロットイン・コマンド」と「操縦不能」を下敷きにしているんだなあ、ということがわかりました。もっと早くに読んでおきたかった本でした。
日本の航空小説は内田幹樹さんや福本和也さんなどがいらっしゃいますが、海外にもすばらしい作家がいらっしゃるようなので、これからもまだまだ楽しめそうです。まだまだくたばるわけにはいきません。
しかしなんと言うことでしょう。"wiki":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%B9%B9%E6%A8%B9によれば亡くなっておられるとのこと。本当なら至極残念。パイロットは非常に過酷な職業で、定年後5年ぐらいでなくなる方が多いとのことだそうですので本当かもしれません。ちなみに、うちの会社も定年後寿命が短いそうですが。
Movabletype 5.01導入しましたが。
先だって記事にもしましたが、ブログをMovabletype 4.2から5.01へバージョンアップしました。バージョンアップするといろいろ不具合が起きることがあります。前回は、コメントできないという状態になりましてご迷惑をおかけしました。何かお気づきの点があればメールかtwitterでお知らせいただけますと助かります。
Movabletypeとの出会いは、2003年夏にさかのぼります。まだウェブログなんて一部の方がご存じであったに過ぎない時代です。あの頃はまだウェブ日記全盛でした。早速XREAサーバーを借りて、Movabletypeのバージョン2を導入してみたのがこのウェブログの全身のMuseum::Shushiでございました。もう6年前のこと。記事の内容はお恥ずかしくてお恥ずかしくて。
Movabletype多機能なのはいいのですが、非常に重いのが難点です。借りているサーバーに負荷かけているはずで申し訳ない感じ。ですが、いまさらWordpressに移行するのは面倒ですし、Movabletypeのタグなんかも結構勉強したので、今更移行する気にもならない。もうすこしMoa\vabletypeとつきあっていこうと思っています。
コケティッシュなロットが聞ける「インテルメッツォ」のDVD
先だって購入した、シュトラウス「インテルメッツォ」DVD、前半部分を観ました。先だってNHKホールで上品で高貴な伯爵夫人マドレーヌを演じたロットが、「インテルメッツォ」でどんなパウリーネ、いやいや、クリスティーネを演じてくださるのか、どきどきしていましたが、いやあ、ロット、コケティッシュな風を演じていますが、上品さは失わないませんね。
それにしてもこのパフォーマンスを再生したとたんに、また感動しました。シュトラウスの音楽のすばらしさによるのはもちろんのこと。このオペラはたしか2004年の夏に新国中劇場で観たのですよ。釜洞さんのソプラノ、多田羅さんのバリトン、そして指揮は若杉さん。あのときの「インテルメッツォ」の楽しさを思い出して、なおいっそうのロットのクオリティの高さに驚き感動したわけです。冒頭の朝の場面でロベルトとクリスティーネがちょっとした諍いをする場面にでさえ、なぜか涙ぐみそうになるという状態でした。
このオペラは、サヴァリッシュ盤があって、そこではルチア・ポップとディースカウが歌うというすばらしいキャスティングが聞けるのですが、それに負けず劣らずのすばらしさ。
それからもう一つ驚きが。このDVDのパフォーマンスはグラインドボーンの映像(おそらく1983年)なのですが、歌詞が英語なのですよ。私は数分間気づきませんでした。それほど、英語の訳詞が音楽にマッチしていた驚き。英語だと気づいたのは、サブタイトルを表示させたからわかったという有様でした。ですが、どうしてこんなに音楽とマッチするのか。やはり英語の祖先はドイツ語ですからね。おそらくは単語の発音の長さなどが似ているのではないか、などと思いました。
「インテルメッツォ」の音源で簡単に入手できるのがサヴァリッシュ盤だけだっただけに、このフェリシティ・ロットのDVD(指揮はグスタフ・キューンです)は貴重です。
MT 5.01にアップデート
なんとか、Movable Type 5.01にアップデートしました。これまでとウェブ・ブログの関係が変わりましたので、公開URLの設定に手こずりました。おそらくバグだと思いますが、運用で回避しました。というわけで、このエントリーが初のMT5.01でのポストということに。うまくいきますでしょうか?
ブロムシュテットのブルックナー8番
今日は昨日より調子がよいです。仕事も進み出したし会議でのプレゼンも終わりましたので。ですが、人が集まればいがみ合い憎みあうのは仕方がない。人間の感情は実に興味深く奥深い。そもそも自分の感情の動きもおもしろいのですから。
さて、こういうちと疲れたときにはなにを聞くべきか。
今日の答えはブロムシュテットのブルックナー交響曲第八番です。
実は、2005年にブロムシュテットがゲヴァントハウスを率いて来日したときにブルックナー交響曲第五番の実演に接していたりしております。あのときのブルックナーはそうそう忘れられるものではありませんでした。座席がかなり前だったこともあって、オケのピアノからフォルテまでを十全に味わい尽くしました。ブルックナーとはこんなにも力強く雄々しく咆吼する獅子のごとき自然の計り知れぬ力を秘めたものだったとは。こればかりはCDで聞いていただけではわからないことです。
ブルックナーについて語ることほど難しいものはありません。有名な評論家の方ご意見があったり、ブルックナーにのめり込み一家言を持つ方がたくさんいらっしゃる。ノヴァーク版やハース版といった違いも勘案せねばならず、多くの大指揮者が名盤を残していて、それらをすべて網羅し理解しなければなにをも語る資格はないのではないか、という悲壮な状況に陥るのが関の山なのです。
それでも、私はチェリビダッケ、ジュリーニ、シュリーヒトなどを聞いていた時代がありましたね。もう十年以上前のこと。それ以降はすこしブルックナーから遠ざかっていたのです。オペラに開眼したという理由もありますけれど。
そして今日、私がiPodのホイールを回してたどり着いたのがブロムシュテットが振るブルックナー交響曲第八番というわけです。 昨日ぼろ切れのようになって電車に乗っていたのですが、ブロムシュテットのモーツァルトに叩き直されましたので、今日もブロムシュテットにカツを入れてもらおうと思った次第。
これがまたすばらしい演奏。シュターツカペレ・ドレスデンとはちがうライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の中音域の豊かな伸びやかさ。そしてなによりブロムシュテットのデュナミークの巧みさ。
実演で聴いた五番では、あまりのダイナミクスレンジに驚かされました。もちろんそうした驚愕をiPodとBOSEのクワイエット・コンフォートの組み合わせで期待するのは筋違いでしょう。けれども実演を聴いた私には、ブロムシュテットがなにをやりたいのかが分かるな気がするのです。CDではPAである程度のサウンドの調整が行われていますのでピアノとフォルテの差違は気をつけないと惰性に流されるままになる恐れもあります。けれども、ここでブロムシュテットがどういう音を出そうとしているのかが一瞬頭の中に光が通り過ぎるような感覚があるのです。
ブロムシュテットの音楽ですがやはり「まめやか」でありながらも、そこに抒情性といったロマンティシズムがくっきりと現れています。テンポはそうは目立たないもののここでは微妙に動かしているのが分かります。ピアノの部分で低速飛行をしてみせる様は失速すれすれで技を披露するアクロバティカルなものといってもいいのではないでしょうか。
さて、今日もだいぶ書きすぎました。おかげで本を読めておりません。そちらも頑張らねば。
読書計画を具体化してみる。
最近寝不足でしょうか。夜は23時頃に眠るのですが、朝の4時にはもう目が覚めてしまいます。日曜日の朝はもっと酷くて、22時に眠ったのに、目が覚めたのは2時。もう寝付けなくなりましたので、PCで作業をしてしまいました。とはいえやっぱり眠たくて、午睡ならぬ朝睡を30分ほど。それからいつものカフェに来てまた仕事をしようか、というところです。
久々に本の話。
念頭に、今年こそ年間100冊を読みたいと目標を定めました。一ヶ月に8冊読むと96冊ですので、少々足りません。というわけで、一ヶ月に9冊読むという目標に細分化しました。と言うわけで、このブログの右側に目標達成状況が分かるようになっています。
となりますと、30÷9=3.33333、ということですので、三日に一冊読まないといけません。
この目標、会社勤めにはちと辛い。それから、読むべき本が、巨大なる世界文学レベルとなると、歯が立たないです。たとえば、トーマス・マンの「ファウスト博士」は岩波文庫ですと上中下の三巻になりますが、これを10日で読まねばならないとなると、すこしハードルが高い。私の場合読書時間の捻出はどうしても通勤中になりますので、疲労困憊な状態で読むのはかなり難しい。年のせいもありましょうか。最近は、疲れて帰宅時には眠ってしまうことが多くなりましたし、先週の金曜日は眠っていて二駅乗り過ごしましたし。。。
まあ、あまり自虐的になったり、どこかの会社のように達成不可能な目標にすると全く意味がありませんので、そういうわけでちょっと緩めます。でも冊数は緩めませんよ。
まず、全部読了しなくてもよしとしましょう。やはり相性の悪い本はありますので、そうした本を最後まで読む時間があれば他の本を読むべきでしょうから。 文学作品に限らなくても良いことにしましょう。それも一応カウントに入れます。
次に、仕事の本(コンピュータとか経済など)もカウントしてもいいですかね? これは今までもしてましたけれど。ちょっと資格試験を受けねばならなくなったので、勉強の本を読むことになりそうですので。
それから、少し迷ったのですが、雑誌も数えても良いでしょうかね? 私は文芸誌は余り読みませんが、その他の趣味系雑誌はよく読みます。それもかなり頻繁に。しかも湯船に浸かりながら読むんですけれどね。これが極上。ですが、すこし罪悪感があるので、雑誌は0.25冊に数えましょう。ただし、これは右がワンカウントには加わりませんので、毎月補正します。
英語文書をいれるのはちょっと迷いました。仕事(?)系で、よく英語のマニュアルを読むんですが、これで通勤時間を費やしてしまうこともありますので。でもまあ、これは読書じゃないのでやめておきましょう。
と言うわけで、こうした感じでやっていきましょう。今週はさしあたり2冊読みました。雑誌は4冊ほど? あと6~7冊を半月で読まなければなりません。今月は達成できるように頑張ります。
ブロムシュテットのモーツァルト
なんだか頭がすっきりしない一日でした。必死にパルジファルを聞こうとするのですが、なんとも心が落ち着きません。
こういうときはなにを聞くべきか?
私はモーツァルトをえらびました。ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデン(SKD)を振った交響曲第40番と41番のカップリングCDです。
しかし、SKDの音は素晴らしい。それは甘さではありません。冷徹で真摯で厳格な様式美としてのモーツァルトを支える堅牢な美しさです。もちろんブロムシュテットの、構築美を際だたせる厳しく精緻な棒がそれを支えているのは間違いありません。
私はある種の癒しをもとめてiPodのホイールを回したのですが、癒されるどころかカツを入れられた気分です。背筋がのびて頭もすっきりとして、文章を書けるほどに精神的復旧を成し遂げました。
テンポの設定は中庸かそれより少し遅いぐらい。過剰なアゴーギク、テンポ・ルバートは用いていません。それがなお謹厳な性格を際だたせています。 昨今の演奏(といっても新国中心ですが)はこのアゴーギク的な要素が極めて目立つように思います。私が指揮者でもやはりそうすると思います。
しかしながら、おそらくはこのCDにおいては以下の二つの理由により、イン・テンポが肯定されるべきでしょう。
まずはそれがモーツァルトであるということ。もちろんバロック音楽のようにイン・テンポの必然性を強くは持ちませんが、それでもなお過剰なアゴーギクは聞くものにとってあまりに過剰な刺激となる恐れがあります。モーツァルはプッチーニでもシュトラウスでもありません。ましてや松田聖子でもありませんので。モーツァルトの持つなかば明快で爽快ともいえる和声はを際だたせるのにテンポの変化による拡大、マグニファイアは過剰な装飾なのです。
もう一点あるとすれば、それはやはりブロムシュテットの音楽性とかセンスとでもいうべきものでしょう。私が昨年感涙に溺れる思いをしたペーター・シュナイダーが41番を振ったときのことを思い出したのです。シュナイダーの指揮は透き通る軽やかな舞踏のようなサウンドでして、このブロムシュテット盤とは多少違うものがあります。ですが共通しているのは、おそらくは両者ともほぼイン・テンポの演奏だったのです。あのワーグナーやシュトラウスで音をためにためて一気に感興を放出するようなシュナイダーが、です。
おそらくはモーツァルトをイン・テンポで振るセンスというものが、私の中で確固たるものとして確立されているのだと思うのです。私は、このブロムシュテット盤やペーター・シュナイの指揮に「まめやか」という形容詞を使いたくて仕方がないのです。この言葉、たしかゲーテの「ファウスト」最終部でファウストが語る言葉でしたが、その言葉がぴったりとくる演奏でした。
申し添えますと、デュナミークはきちんと使っておられておりまして、それは見事なものです。