Tsuji Kunio

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Kindleで「春の戴冠」をつまみ読むしていたところ、一つの白眉ともいえる場面にたまたまぶつかりました。プラトンアカデミアの場面です。

 

「私たちはこの世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。<神的なもの>のごく希薄な存在から濃厚な存在まで、その分有度は異なっても、<神的なもの>の改訂によって、この世の一切が観られなければならないのです。

(中略)

フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうるわけです。私たちは帳簿の山を整理しながらも、それが<神的なもの>を表していると観ることができるのです。だからそれに触れれば、帳簿づけが日々のむなしい繰り返しであるとか<暗い窖>へずり落ちてゆくとかいうことは考えられなくなります。なぜなら<神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じることだからです

(中略)

<神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

(中略)

私たちが<神的なもの>を人間存在のすべてに見いだし、<神的なもの>を深めることを哲学の中心課題とすれば、その哲学は、ロレンツォ殿の言われたごときイモラ買収工作をも含む哲学となり得るでしょう。(中略)哲学の仕事は人々の目を<神的なもの>に向けさせることです。朝露を含んだ風が花々の香りを運んでくるように、人々の心のに<神的なもの>を運びこみ、人々に<永遠の浄福>を深く味わわせることにあるのです」

(フィチーノの発言)

「『現在を楽しむことが永遠性を手に入れる正当な方法であることについて』の根拠は、今の発言の中で、過不足なく言い表されている。<現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れることだからです」(バンディーニの発言)

「それは神への道です」(アグリ大司教の発言)

辻邦生「春の戴冠」上 新潮社 1977年 298ページ

プラトンアカデミアでの議論の結論めいたところだけかいつまんで書いてみました。

日々の政務で疲れているロレンツォ、あるいは語り手フェデリゴの父親もやはり、商売に精を出しながらも、手応えをつかめずにいる。それを「暗い窖」へずり落ちてゆくような、という表現で表しています。

それに対して、フィチーノは、結論として、

  • この世のすべてを<神的なもの>の表れとみなければならない。
  • フィオレンツァに包まれた一切が<神的なもの>と見なし得れば、私たちはすべて各自の仕事を通して<神的なもの>に触れうる。
  • <神的なもの>に触れるとは、私たちが強い喜びを感じること。
  • <神的なもの>とは、歓喜の念を味わうことによって、その存在が知られるのです。

と語り、さらに、バンディーニと、アグリ大司教が以下のように語るのです。

  • <現在を楽しむ>とはほかならぬ<神的なもの>に触れること
  • それは神への道です

と。なにか議論がうわ滑って行くような印象なのです。その後、ロレンツォは、じっと自分前を見つめるだけで、その他の参加車は彫像のように身動き一つしない、という描写で締められます。

私は、この議論の結論に、そのまま飛びつくことの出来ない苦悩を感じるのです。それは、その後のフィレンツェの行く末を知っているから、ということもありますが、この最後の参加者の描写にも、なにか底知れぬ憂いのようなものを感じるのです。議論の上滑り、とかきましたが、果たして、この世のすべてが「現在を楽しむ」に帰結するのか、と。この「楽しむ」という言葉に含まれるさまざまな含蓄や解釈もある訳で、いかようにも解釈は出来るのですけれど。とにかく、<暗い窖>へとずり落ちてゆくことをなんとか説明しようとしてル訳ですが、最後に大司教をして「神への道」と語らせるという議論の結末。大司教という立場が、そう語らせたという設定でもあるでしょうし、それはなにかサヴォナローラの登場を暗示させるものでもあります。

こういう、議論の交錯が手に取るように分かると言う点で、辻邦生の手腕は冴え渡っているな、と改めて舌を巻きました。

私は、この「春の戴冠」をこの数ヶ月の間において通読しているわけではなく、過去に読んだ記憶を頼りにしていますので、もしかすると曲解が混ざっているかもしれません。

ただ、記憶をたどったとき、この「春の戴冠」に感じる「美と滅びの感覚」は、筆舌に尽くしがたいものがあります。これがまさに、現実社会において、性急な結論に飛びつくことなく、塹壕戦のように、身を低くして粘り強く戦うということだ、と今は想っています。

神的な美は、現実社会において力を持ち得ないのか? 当然と言えば当然なこの美と現実の相克という命題を巡って、私たちはおそらくは永遠に同じ所を回り続けることになります。ただ、回りながらも、少しでも中心へあるいは上へと近づいていれば良いのに、と思います。

今日は長くなってしまいました。このあたりで。おやすみなさい。

※写真は、桜草っぽいので載せてみました。良い天気でした。

Miscellaneous

新しい時代になりました。令和、と言うその時代の名前に、期待と希望を感じるのは、あるいは感じたいというのは、みな同じだと思います。

令和の「令」

今朝は、4時ごろ目が覚めました。風邪をひいたらしく、喉の痛みがひどく、寝付けなくなりました。やむなく起き上がり、あいにくの曇り空ではありましたが、白々と明ける令和の朝日を感じながら、オンラインで新聞を読んでいたところ、朝日新聞に令和の考案者とされる中西進さんのインタビュー記事が載っていました。

「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号

辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります

(朝日新聞 4月20日「「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号」より)

令和の令と言う文字。この文字の解釈が世間では議論になっていたように思います。命令を想起させるからです。しかし、この記事の中で、中西進さんは、この令と言う事は善と言う意味があると言うふうにいます。命令と言うのは善であることを命ずると言う意味だと言います。この解釈は新鮮でした。

実際に、漢和辞典を調べてみると、

1)神のお告げや、上位者の言いつけ。清らかなお告げの意味を含む

2)起きて、お達し

3)よい(よし)。清らかで美しい

4)おさ(長)

5)遊び事の決まり

6)命令する

と続いていきます。

(「漢字源」より抜粋)

どれが主な意味になるのか。それはおそらくこの「令」と言う漢字が使われた歴史的な背景にまで踏み込まなければ真のところわからないでしょう。漢和辞典をさっと読んだだけでは理解することはできず、碩学の方にだけわかることなのでしょう。

学問の奥深さ

昨日、キルケゴールの本を読みましたが、おそらく1冊読んだだけでは全貌がわからないと言うことが私にはわかっていて、徒労感のようなものを感じました。すでに、哲学書を読むことの空しさのようなものです。数冊読んだだけでは、理解すること、語ることはあたわないのです。おそらくこの「令」と言う漢字について研究し述べることも、同じような労力を要するはずです。

学問の世界は深く広く、常人には想像すらできないものです。その一筋縄ではいかない厳しさを知っているだけに、簡単に結論を下したり、一つの学説や一冊の本にとらわれることの危険性はわかっていいます。といって、何も述べられないと言うことの虚しさもわかっています。このバランスをとりながら、どうやって自らの意見を発信していくか、ということが問われます。

さしあたり、「令和」の「令」は、万葉集での使われ方は中西進さんによれば、「うるわしい」と言う意味のようです。素直に、この典拠従って、この「令」と言う漢字をを麗しいという意味に捉えるのがよさそうです。

終わりに

それにしても、人間と言うものは不思議なものです。時代が変わった、と言うだけで何かに突き動かされるように、ことにチャレンジしていこうとするですから。枠組みであるとか、文化であるとか、言葉であるとか、そうしたものが人間世界におよぼす作用の力強さを改めて感じました。

今日は東京地方も予報が曇りだったにもかかわらず、午前中には日差しが差し込み、新しい時代の初日にふさわしい天気になりました。令和が良い時代になることを願い、私もやれることをやらなければ、と思いました。

冒頭の写真は、先週撮った八重桜。ことほぐには絶好の美しさです。

それでは、みなさまおやすみなさい。

Tsuji Kunio

久々に「北の岬」を読みました。Kindleでも読めますので、仕事場へ向かう電車の中で読みながら、なにかいろいろと考えてしまいました。

この短篇、大まかに言うと、主人公である留学帰りの男と修道女マリー・テレーズの恋愛小説、となってしまうのですが、それだけではありません。

その修道活動のあまりの厳しさに、生まれ故郷を懐かしがってしまう修道女が、自らを罰するためにフォークを自らの身体に突き立てる自傷のシーンが出てくると言う激しさが描かれていたり、修道という理想に関する独白が描かれています。

「至高の頂きに行けば、この至純な永遠の光に触れることが出来ると言うこと」

「それは人間であることの唯一の意味」

「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証しなければならない」

「誰かが最後の一人になるまで、そうしたものが人間の証しのために必要であり、ただ一人の人間がそれを証しすることで、すべての人間が救われるのだ」

といった境地に達しようとする、マリー・テレーズの意志を読むと、一人の人間をこえて、人間全体を高みへと引き上げる意志を感じるのです。恋愛感情を超えて、人類全体の目的へと進もうとしていくマリー・テレーズの姿は、普通に暮らす私たちの周りではあまりみられないのですので、いっそう感銘を感じます。

こうした宗教的な境地とも言える意志は、それに触れたとき、粛然とした思いにとらわれます。そうした意志を感じたとして、人間はそこからどう変わるべきなのか。文学に、人間を変える機能があるということはどういうことか。そのようなことを考えました。

実は、この先もいろいろ考えて書いたのですが、まとまらないので今日はこのあたりで。

初夏のような陽気が続く東京でしたが、このあとまた寒くなってくるようです。やれやれ、と言う感じ。まだもう少し夏は先でしょうか。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近のはやり言葉は「平成最後の」です。昨日も書いたように、今週で平成は終わります。そうした「平成最後」という枕詞も今週が最後で、来週になると、今度は「令和最初の」という言葉が枕詞になるのでしょう。

ところで、日曜日にラジオを聴いていたら、松尾貴史氏が「平成元年に今の事務所に入った。だから平成の年数がそのまま事務所に入った年数になる」という話をされていました。

そうすると、私にとっては、平成元年にあったことはなんだろう、ということを思い起こすと、やはり辻文学になってしまうわけです。

何度も書いているように、1989年の夏に、音楽芸術に連載中の「楽興の時」を読んだのが、辻文学に出会ったきっかけでした。そうすると、ちょうど31年弱になると言うことです。ずいぶん長い間読み続けていますが、どこまで理解出来ているのか、私にはよく分かりません。

すくなくとも、さまざまなレイヤーで、辻文学を捉えています。世界認識のレイヤー、人生のレイヤー。その多義性のようなものが辻文学を読み続ける理由、というのがまずはここで言えることです。

もっと攻めて辻文学を読みたい。今はそう思っています。のこり少ない平成を、そして次の令和を、もっともっと激しく生きなければ。そう強く感じます。

Miscellaneous

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本当に目の回るような4月でした、と書いてみたのですが、そんなことはないです。確かに、夜遅くまで仕事をしていたことは事実ですが(ただ、この夜遅いというのも、相対的な概念。勤務時間の多寡は、その人それぞれによって感覚が変わります)、その仕事が目が回るようなものだったか、というと、そのようなこともなく、これまでやってきたことを繰り返しで、そうそう新鮮味もなく、何だかな、という感じ。そう言う形で消耗するからには、そこになにか意味を見いだせないと厳しいです。

そんな中でも季節は巡ってきます。美しい新緑を見ると心が和みます。今年も春が訪れ、初夏に向かって動物も植物も昆虫も育っています。透き通るような青々しい若葉を見るとそれだけで幸福です。この季節がずっと続けばいいのに、と思いますが、季節の巡りの中で新緑の若葉を見ると言うことにこそ意義深さがあるのだと思います。

かわらない季節はありませんし、かわらない人生もありません。

季節は繰り返しますが、しかし、人生は繰り返しません。

人生を季節に見立てると言う見方もありますが、私は、人生は波だと思っていて、その大きな波のうねりをうまくとらえて生きていくことが必要なのだ、と思います。日々の小さな波もあれば年単位数年単位の波もあります。それは振り返ってみるとそういう波があったなあ、とふりかえるようなものです。この先の見えない波にうまく乗らないと。そう思います。

この消耗の中で次に進む努力が必要だなあ、と。そんな中で、来週で4月が終わり、平成も余すところあと1週間。令和へと時代が移るわけですが、そうした変化が楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

みなさま、いかがお過ごしですか。

なかなか時間が取れない時期が続いていまして、エントリを書くのもままならないのですが、それでもなお、なにか書きたいという思いはおさまりません。文章を書くということは不思議なものです。

今年も桜の時間が訪れています。この週末に近くの桜を見に行きました。季節の移ろいは本当にありがたいものです。この移ろいが永遠に続くように、と思います。

今週は気温の低い日が続いています。次の週末まで桜のがもたないかな、という淡い期待を持っています。

みなさま、どうか、お身体にお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

音楽を聴く愉しみをあらためて発見した気がする。

カンブルランがバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団を振った音源群に入れ込んでしまった。たまたまAppleMusicで見つけて聴いてみると素晴らしい演奏だったのだ。

今日はブルックナーの9番。抑制されていながらその中にたおやかで流麗さが備わった演奏。なにか、ドーリア式の円柱群が聳える旧跡に薔薇が咲きほこる場面を想像してしまう。理知的な感覚の中に、まるで差し色のように輝く美しさが介在してくる感覚。デカルト的論理性の中にモネ的な色彩が織り込まれているのだ。

このカンブルランだが、数年前に実演に接していて、多彩な表情と所作でオケを情感的に引っ張っているのが印象に残っている。オケから荘重な音を引き出そうとするとき、カンブルランはまるでルイ王のようにオケの前に君臨し、オケを統率していた。その挙措は俳優のそれに値する、と思ったのを記憶している。

この音源の中で印象的なのはオーボエの美しさ。何だろうか。この官能的なオーボエは。第一楽章冒頭のオーボエは、なにか身悶えするような官能性に満ちいて、それはもちろんカンブルランの引き出したものなのだが、このオーボエの絶妙なリズム、音色、ビブラートを聴いていると、漆器の名品を愛でるような気持ちになる。どなたがオーボエを吹いておられるのか。少し調べたのだが、残念ながら、バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団は現在は統合されてしまい、すぐにはわからない。是非お名前を知りたい。

さて、今日は年度最後の営業日。週が開けると新元号が発表されるという歴史的な場面に立ち会うことになるのだが、なんだかそう言う実感はない。平成という元号の発表に際しては、昭和に慣れた身には、なにか違和感を感じたものだが、次の元号も、なにか初対面のぎこちなさを感じながらも、少しずつ慣れていくことになるだろう。新たな年度に感じる多く変化を飼い慣らし続けるような感覚を持ち続けたい。

それではおやすみなさい。Gute Nacht.

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帰宅時に通りがかったところの見事なソメイヨシノ。毎年楽しみにしていますが今年も無事に満開を眺めることができました。繚乱と言う言葉がまさにぴったりな風情で、しばらく立ち止まって見遣ってしまいました。

このところ、睡眠が足らず困っていて、なにか土管のような、濡れて匂いのする真っ暗なトンネルを這いながら進んでいるような感じで日々追われていることもあり、桜のことなんて忘れていたのですが、たまたま通りかがって眺めてみると、ありがたくも地球は公転していて、今年も春が来てくれたのだなあ、と思います。

もっとも、この艶やかな桜も、いつかはなくなるわけで、ソメイヨシノの寿命からすると、あとどれぐらいだろう、などと考えてしまいます。美しいものも、いつかはなくなるもの。大峡谷の美も、絵画の美も、オーケストラの美も、いつかは途絶えることがあるわけです。それは物理的にも、あるいは私たちの死によっても。なにか、そう考えると、今ここの美しさがいかに儚いものか、と言うことを感じます。私は、日本の古典に関するリテラシはあまりありませんが、これが「あはれ」というものなのでしょうか。

そんなことを考えながら、家へ向ったのでした。

さしあたり、今日も眠らないと。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生関連エントリーのおしらせ

辻邦生読者グループのご案内

  • 辻邦生の文学がお好きな方、Facebookの辻邦生読者グループ「永遠の書架にたちて」にご参加ください。簡単な質問にお答えいただいた方がご参加いただけます。

Opera,Richard Wagner

ワーグナーのワルキューレ。

オーストリア読みだとこうだけど、ドイツ読みだと、ヴァーグナーのヴァルキューレになる。どちらも正しいようだが、幼い頃は、ウの濁音に憧れて、ヴァーグナーとかヴォルフとかヴィルヘルムとなやたらと言いたい年頃だった記憶がある。

http://www.dokken.or.jp/column/column22.html

それはそうとして、このワルキューレ、あるいはヴァルキューレ。リング四部作の中で一番好きな作品。他の作品は少しばかりとっつきにくい。あえていうなら、《神々の黄昏》のオーケストレーションの素晴らしさ、というのはあるけれど。

10年近く前の新国立劇場のリング上演の知的興奮が懐かしく、当時は、指環のことばかり当ブログに書いていた記憶がある。その後、新国立劇場のバックステージツアーで、ワルキューレ第三幕の小道具(キャスター)が、舞台裏で転用されていると聴き、あのトーキョー・リングはもう見られないのか、と少し寂しくなり。で、数年前に新たなプロダクションが上演されたが、私は諸般の事情によりこの数年オペラを封印しており、フォローできていない。

ともかく、リング四部作を全て実演で見た、というのは、音楽を聴き始めた小学生だか中学生の頃からの夢であり目標であったから、四半世紀後の実現はやはり嬉しかった記憶がある。ただ、それは、すこし拍子抜けするようなものでもあった気もする。意外にも、こじんまりとした世界ではないか、という感覚だった。

どうやら、中学生の頃に読んだトールキンの「指輪物語」のスケール感を求めていたように思うのだ。全6巻に加えて補遺版まであるトールキンの世界観は、恐らくはワーグナーの頭の中にあり、普通に聴いただけでは垣間見ることもできないのだろう。あるいは、ある種の仕事というのは、手がけてみるとあっけなく終わることがあるが、そうした感覚だったのかもしれない。それは、初めて第九を全曲聴いたときのあっけなさ、マーラーの交響曲を全て聴き終えたときのあっけなさ、にも似ていたようにも思えた。聴くだけなら、時間をかければできるものだ。

だが、その先がすごかった。とにかく、キース・ウォーナーの演出からそこに意図された解釈、あるいは自分が思う解釈を必死に考えた時に現れる無限の世界観に圧倒されたわけだ。簡単な例でいうと、ジークフリートは、映画《スーパーマン》のマークのシャツを着ている。そのSは、スーパーマンでありジークフリートでもある。2人とも、親を知ることなく、この地上で育てられた超人、という共通項がある。だから、キース・ウォーナーはあのシャツを着せたのか、とか。この解釈は不完全でもあり、あるいは誤りでもあるのだが、少なくとも、私はそうした解釈をしたという事実が重要だとなのだ、ということ。そういうオペラを観る愉悦を十全に堪能した。

またオペラハウスに行けるのはいつのことになるか…。だが、必ず行くことになるだろうから、その日を楽しみに待つことにしよう。

本当は、ワルキューレのことを書こうと思ったのだが、思いは横滑りして、ついついオペラの愉しみに着地してしまった。昨日から聴いているハイティンクが指揮をする《ワルキューレ》が素晴らしいのだが、そのことについては次のエントリに委ねよう。

おやすみなさい。Gute Nacht.