Tsuji Kunio

久々に「北の岬」を読みました。Kindleでも読めますので、仕事場へ向かう電車の中で読みながら、なにかいろいろと考えてしまいました。

この短篇、大まかに言うと、主人公である留学帰りの男と修道女マリー・テレーズの恋愛小説、となってしまうのですが、それだけではありません。

その修道活動のあまりの厳しさに、生まれ故郷を懐かしがってしまう修道女が、自らを罰するためにフォークを自らの身体に突き立てる自傷のシーンが出てくると言う激しさが描かれていたり、修道という理想に関する独白が描かれています。

「至高の頂きに行けば、この至純な永遠の光に触れることが出来ると言うこと」

「それは人間であることの唯一の意味」

「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証しなければならない」

「誰かが最後の一人になるまで、そうしたものが人間の証しのために必要であり、ただ一人の人間がそれを証しすることで、すべての人間が救われるのだ」

といった境地に達しようとする、マリー・テレーズの意志を読むと、一人の人間をこえて、人間全体を高みへと引き上げる意志を感じるのです。恋愛感情を超えて、人類全体の目的へと進もうとしていくマリー・テレーズの姿は、普通に暮らす私たちの周りではあまりみられないのですので、いっそう感銘を感じます。

こうした宗教的な境地とも言える意志は、それに触れたとき、粛然とした思いにとらわれます。そうした意志を感じたとして、人間はそこからどう変わるべきなのか。文学に、人間を変える機能があるということはどういうことか。そのようなことを考えました。

実は、この先もいろいろ考えて書いたのですが、まとまらないので今日はこのあたりで。

初夏のような陽気が続く東京でしたが、このあとまた寒くなってくるようです。やれやれ、と言う感じ。まだもう少し夏は先でしょうか。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

最近のはやり言葉は「平成最後の」です。昨日も書いたように、今週で平成は終わります。そうした「平成最後」という枕詞も今週が最後で、来週になると、今度は「令和最初の」という言葉が枕詞になるのでしょう。

ところで、日曜日にラジオを聴いていたら、松尾貴史氏が「平成元年に今の事務所に入った。だから平成の年数がそのまま事務所に入った年数になる」という話をされていました。

そうすると、私にとっては、平成元年にあったことはなんだろう、ということを思い起こすと、やはり辻文学になってしまうわけです。

何度も書いているように、1989年の夏に、音楽芸術に連載中の「楽興の時」を読んだのが、辻文学に出会ったきっかけでした。そうすると、ちょうど31年弱になると言うことです。ずいぶん長い間読み続けていますが、どこまで理解出来ているのか、私にはよく分かりません。

すくなくとも、さまざまなレイヤーで、辻文学を捉えています。世界認識のレイヤー、人生のレイヤー。その多義性のようなものが辻文学を読み続ける理由、というのがまずはここで言えることです。

もっと攻めて辻文学を読みたい。今はそう思っています。のこり少ない平成を、そして次の令和を、もっともっと激しく生きなければ。そう強く感じます。

Miscellaneous

Photo

本当に目の回るような4月でした、と書いてみたのですが、そんなことはないです。確かに、夜遅くまで仕事をしていたことは事実ですが(ただ、この夜遅いというのも、相対的な概念。勤務時間の多寡は、その人それぞれによって感覚が変わります)、その仕事が目が回るようなものだったか、というと、そのようなこともなく、これまでやってきたことを繰り返しで、そうそう新鮮味もなく、何だかな、という感じ。そう言う形で消耗するからには、そこになにか意味を見いだせないと厳しいです。

そんな中でも季節は巡ってきます。美しい新緑を見ると心が和みます。今年も春が訪れ、初夏に向かって動物も植物も昆虫も育っています。透き通るような青々しい若葉を見るとそれだけで幸福です。この季節がずっと続けばいいのに、と思いますが、季節の巡りの中で新緑の若葉を見ると言うことにこそ意義深さがあるのだと思います。

かわらない季節はありませんし、かわらない人生もありません。

季節は繰り返しますが、しかし、人生は繰り返しません。

人生を季節に見立てると言う見方もありますが、私は、人生は波だと思っていて、その大きな波のうねりをうまくとらえて生きていくことが必要なのだ、と思います。日々の小さな波もあれば年単位数年単位の波もあります。それは振り返ってみるとそういう波があったなあ、とふりかえるようなものです。この先の見えない波にうまく乗らないと。そう思います。

この消耗の中で次に進む努力が必要だなあ、と。そんな中で、来週で4月が終わり、平成も余すところあと1週間。令和へと時代が移るわけですが、そうした変化が楽しみです。

それではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

みなさま、いかがお過ごしですか。

なかなか時間が取れない時期が続いていまして、エントリを書くのもままならないのですが、それでもなお、なにか書きたいという思いはおさまりません。文章を書くということは不思議なものです。

今年も桜の時間が訪れています。この週末に近くの桜を見に行きました。季節の移ろいは本当にありがたいものです。この移ろいが永遠に続くように、と思います。

今週は気温の低い日が続いています。次の週末まで桜のがもたないかな、という淡い期待を持っています。

みなさま、どうか、お身体にお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Anton Bruckner

音楽を聴く愉しみをあらためて発見した気がする。

カンブルランがバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団を振った音源群に入れ込んでしまった。たまたまAppleMusicで見つけて聴いてみると素晴らしい演奏だったのだ。

今日はブルックナーの9番。抑制されていながらその中にたおやかで流麗さが備わった演奏。なにか、ドーリア式の円柱群が聳える旧跡に薔薇が咲きほこる場面を想像してしまう。理知的な感覚の中に、まるで差し色のように輝く美しさが介在してくる感覚。デカルト的論理性の中にモネ的な色彩が織り込まれているのだ。

このカンブルランだが、数年前に実演に接していて、多彩な表情と所作でオケを情感的に引っ張っているのが印象に残っている。オケから荘重な音を引き出そうとするとき、カンブルランはまるでルイ王のようにオケの前に君臨し、オケを統率していた。その挙措は俳優のそれに値する、と思ったのを記憶している。

この音源の中で印象的なのはオーボエの美しさ。何だろうか。この官能的なオーボエは。第一楽章冒頭のオーボエは、なにか身悶えするような官能性に満ちいて、それはもちろんカンブルランの引き出したものなのだが、このオーボエの絶妙なリズム、音色、ビブラートを聴いていると、漆器の名品を愛でるような気持ちになる。どなたがオーボエを吹いておられるのか。少し調べたのだが、残念ながら、バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団は現在は統合されてしまい、すぐにはわからない。是非お名前を知りたい。

さて、今日は年度最後の営業日。週が開けると新元号が発表されるという歴史的な場面に立ち会うことになるのだが、なんだかそう言う実感はない。平成という元号の発表に際しては、昭和に慣れた身には、なにか違和感を感じたものだが、次の元号も、なにか初対面のぎこちなさを感じながらも、少しずつ慣れていくことになるだろう。新たな年度に感じる多く変化を飼い慣らし続けるような感覚を持ち続けたい。

それではおやすみなさい。Gute Nacht.

Miscellaneous

帰宅時に通りがかったところの見事なソメイヨシノ。毎年楽しみにしていますが今年も無事に満開を眺めることができました。繚乱と言う言葉がまさにぴったりな風情で、しばらく立ち止まって見遣ってしまいました。

このところ、睡眠が足らず困っていて、なにか土管のような、濡れて匂いのする真っ暗なトンネルを這いながら進んでいるような感じで日々追われていることもあり、桜のことなんて忘れていたのですが、たまたま通りかがって眺めてみると、ありがたくも地球は公転していて、今年も春が来てくれたのだなあ、と思います。

もっとも、この艶やかな桜も、いつかはなくなるわけで、ソメイヨシノの寿命からすると、あとどれぐらいだろう、などと考えてしまいます。美しいものも、いつかはなくなるもの。大峡谷の美も、絵画の美も、オーケストラの美も、いつかは途絶えることがあるわけです。それは物理的にも、あるいは私たちの死によっても。なにか、そう考えると、今ここの美しさがいかに儚いものか、と言うことを感じます。私は、日本の古典に関するリテラシはあまりありませんが、これが「あはれ」というものなのでしょうか。

そんなことを考えながら、家へ向ったのでした。

さしあたり、今日も眠らないと。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

辻邦生関連エントリーのおしらせ

辻邦生読者グループのご案内

  • 辻邦生の文学がお好きな方、Facebookの辻邦生読者グループ「永遠の書架にたちて」にご参加ください。簡単な質問にお答えいただいた方がご参加いただけます。

Opera,Richard Wagner

ワーグナーのワルキューレ。

オーストリア読みだとこうだけど、ドイツ読みだと、ヴァーグナーのヴァルキューレになる。どちらも正しいようだが、幼い頃は、ウの濁音に憧れて、ヴァーグナーとかヴォルフとかヴィルヘルムとなやたらと言いたい年頃だった記憶がある。

http://www.dokken.or.jp/column/column22.html

それはそうとして、このワルキューレ、あるいはヴァルキューレ。リング四部作の中で一番好きな作品。他の作品は少しばかりとっつきにくい。あえていうなら、《神々の黄昏》のオーケストレーションの素晴らしさ、というのはあるけれど。

10年近く前の新国立劇場のリング上演の知的興奮が懐かしく、当時は、指環のことばかり当ブログに書いていた記憶がある。その後、新国立劇場のバックステージツアーで、ワルキューレ第三幕の小道具(キャスター)が、舞台裏で転用されていると聴き、あのトーキョー・リングはもう見られないのか、と少し寂しくなり。で、数年前に新たなプロダクションが上演されたが、私は諸般の事情によりこの数年オペラを封印しており、フォローできていない。

ともかく、リング四部作を全て実演で見た、というのは、音楽を聴き始めた小学生だか中学生の頃からの夢であり目標であったから、四半世紀後の実現はやはり嬉しかった記憶がある。ただ、それは、すこし拍子抜けするようなものでもあった気もする。意外にも、こじんまりとした世界ではないか、という感覚だった。

どうやら、中学生の頃に読んだトールキンの「指輪物語」のスケール感を求めていたように思うのだ。全6巻に加えて補遺版まであるトールキンの世界観は、恐らくはワーグナーの頭の中にあり、普通に聴いただけでは垣間見ることもできないのだろう。あるいは、ある種の仕事というのは、手がけてみるとあっけなく終わることがあるが、そうした感覚だったのかもしれない。それは、初めて第九を全曲聴いたときのあっけなさ、マーラーの交響曲を全て聴き終えたときのあっけなさ、にも似ていたようにも思えた。聴くだけなら、時間をかければできるものだ。

だが、その先がすごかった。とにかく、キース・ウォーナーの演出からそこに意図された解釈、あるいは自分が思う解釈を必死に考えた時に現れる無限の世界観に圧倒されたわけだ。簡単な例でいうと、ジークフリートは、映画《スーパーマン》のマークのシャツを着ている。そのSは、スーパーマンでありジークフリートでもある。2人とも、親を知ることなく、この地上で育てられた超人、という共通項がある。だから、キース・ウォーナーはあのシャツを着せたのか、とか。この解釈は不完全でもあり、あるいは誤りでもあるのだが、少なくとも、私はそうした解釈をしたという事実が重要だとなのだ、ということ。そういうオペラを観る愉悦を十全に堪能した。

またオペラハウスに行けるのはいつのことになるか…。だが、必ず行くことになるだろうから、その日を楽しみに待つことにしよう。

本当は、ワルキューレのことを書こうと思ったのだが、思いは横滑りして、ついついオペラの愉しみに着地してしまった。昨日から聴いているハイティンクが指揮をする《ワルキューレ》が素晴らしいのだが、そのことについては次のエントリに委ねよう。

おやすみなさい。Gute Nacht.

Richard Wagner,Vocal

リオバ・ブラウンが歌うヴェーゼンドンク歌曲集を聴いているが、特に、《Schmerzen 心痛》に心が奪われる日々。これだけで辻邦生なら短編を書くだろう。

歌詞はワーグナーの不倫相手のヴェーゼンドンク夫人マチルダで、《トリスタンとイゾルデ》との関連が深い相手でもある。その背徳感を感じる。恋愛とはある種の背徳的な要素を持つものだが、その痛みを感じさせるものだ。まさに、本人たちはそれを感じて、この曲を作ったのだろうし、だから、その後、《トリスタンとイゾルデ》が生まれたのだと思う。

リオバ・ブラウンは、ドイツのメゾ・ソプラノ。だが、イゾルデやマルシャリンなどのソプラノもカバーしているようだ。やはり、イゾルデ歌いが歌うヴェーゼンドンク歌曲集は説得力があるということか。ここから二曲ほど《トリスタンとイゾルデ》に転用されてもいることもあるし。

指揮は、私が敬愛し、何度も(良い意味で)泣かされたペーター・シュナイダー。オーケストレーションはワーグナーではなく、フェリクス・モットル。ブルックナーにも師事したらしい。この深みのある憂愁は本当にたまらない。

シュナイダーの指揮は、柔らかくしなやかで、まるで和音が溶け込むような自然な響きを醸し出す。何度この響きに落涙したことか……。まさに、西欧の響きなんだと思う。欧州のオペラハウス、確かミュンヘンのシュターツ・オーパー、あるいはベルリン・コンツェルトハウスで感じた、ホールにオケの音が柔らかく吸い込まれる感覚を思い出す。新国立劇場で聴いたシュナイダーもやはりそういう響きだった。なんというか、非理性的な意見になるが、この響きが、西欧の響き、というものではないか。まめやかで、そつがなく、洗練され、雑味のない、すっきりとした、それでいて味わい深い響き。西欧を無条件に礼賛するわけではないが、貴重な芸術的所産だ。

こういう日々の一つ一つの感動を、先日も書いたように、まるで飛び石を伝うようにして生きている感覚がある。あるいは、油に覆われた海を必死に泳ぐような時に、一回一回の息継ぎに感謝するような感覚。

書き継げないのは、仕事の帰りが遅く、睡眠が足らなくなっているから。たしかに、これは、油にまみれて泳いでいるような感覚だ。そして、今日はなんとか息継ぎできたということのようだ。

Miscellaneous

今朝は5時半に起きて仕事場へ。で、10時に仕事場を出て、新幹線に乗り新大阪へ。1年半にわたって御世話になった方々に会って、再び新幹線に乗り東京へ向かっています。

ともかく、なにか物寂しい気分になる弾丸大阪行きでした。そんな中で、一瞬、太陽の光を浴びたのが幸福でした。瞬間の幸福、でしょうか。

瞬間瞬間の幸福があるからこそ、人間は生きられると言うことです。その瞬間瞬間の幸福を胸にかき抱いて愛おしむことができるということこそが、人間の強さを形成しています。

聴いているのはブラームス。ヴァントが振った2番、3番、4番を聴いています。意外にもアグレッシブに聞こえてしまうのは、今日の私の気分によるところでしょうか。

ともかく、ブラームス聴きながら、真っ暗な車窓に映る自分の顔を眺めながら、なんて、遠くまで来てしまったのか、と思います。窓に映る自分の顔は、なにか重苦しくもあり、積み重なる疲れの幾重もの膜に覆われているようにも見えます。年齢相応でもあり、あるいは年齢を超えて居るようでもあり。こればかりは私にはどうこういえるものでもありません。

ともかく、むこう半年は大阪に行くことはないでしょう。しかし、その後はきっと定期的に新幹線で関西に向かうことになるんだろうな、とも思います。

それにしても。これからまた、一瞬一瞬に少しだけ見えてくる幸福を踏みしめながら生きていくことになるんだろうな、と思います。最近になって、幸福に生きるコツのようなものが分かってきた気がします。幸福というのは、心意気であったり、あるいは身の回りを整えるということから生まれてくるものなのかも、と思います。

つれづれと書いてしまいましたが、なにか、揺れ動くものが腹落ちしつつあるような気分でもあります。すこしずつ物事を変えていく時期なのかも、と思いました。

明日の東京地方は晴れるようです。良い天気もまた幸福の礎です。明日も晴天を楽しめるよう、今日はゆっくり休みたいです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。