Art

先日、といっても、数週間も前のこととなりましたが、国立西洋美術館の松方コレクション展覧会に行ってきました。

仕事を終えた夕方、なにか芥にまみれた精神的状態でしたが、何か日頃の悪行を洗い流すような感覚もあり、所業を反省しながらも、美に触れたひとときでした。

個別の作品には触れませんが、松方コレクションに数えられる作品は、国立西洋美術館に所蔵される作品だけではなく、コレクションから散逸した作品も展示されていて、ああ、こんな作品まで買っていたとは、と感動を新たにしました。

私は、芸術作品こそが、世界の真実と信じていますが、そうした真実の世界が数多の作品群の中に実現しているのをみるのは壮観でした。何か、現実の虚しさを忘れるような思いです。

真実は芸術にあらわれる、というのが私の信念です。

そう思うと日頃のやるせなさも、そんなもんだ、と流せるようになります。

芸術は役に立たない、という向きもありますが、そんなことは全くないです。

何か、芸術に支えられて生きている気もします。

そんなアンニュイな夜。どうかみなさま、ゆっくりおやすみください。グーテ・ナハトです。

Tsuji Kunio

今日は辻邦生が生まれて94年目です。

また、今年は没後20年の節目でもあります。

生きておられたらまだまだたくさんの豊穣な作品群を産んでおられただろうに、と思います。

私が初めて辻邦生作品を読んだのが、1989年の夏ですから、あれから30年、という年でもあります。もちろん、私の先輩の読み手の方もたくさんいらっしゃいます。また、私より若く鋭い読み手の方とも知り合う機会も得ました。本当に、まだまだ辻文学は生きている、と思います。

しかし、このところ、辻文学に親しむことができずにいる、というのが悩みでもあります。さすがにこの生活状況にあって、文学に身を浸すことはままなりません。目まぐるしく動く身の回りの環境の中で、どうやって過ごすべきか、頭を働かせなければならない状況にあって、真実の世界ははるか彼方のように思います。

真実の世界を垣間見ることのできる窓や扉が、文学であり、あるいは芸術である、という直感を得たのはこの数年のことで、そうした窓の隙間から雫のようにしたたる美しさを見逃すことなく見つめ、あるいは時にその真実の雫に触れてみることが、生きる喜びをということなんだと思います。

先日、国立西洋美術館に参りまして、印象派の作品をいくつか見ましたが、やはり、それは、真実の世界への窓のように思え、いつかはあちら側を眺めたいという欲求に駆られました。

辻邦生の文学もやはりそうしたもので、たしかに、暗鬱な結末を迎える「春の戴冠」でさえも、その半ば達する昂揚は筆舌に尽くしがた甘美なものです。そうした甘美な雫にいくばくかでも触れること自体が、何か生きることの意味を感じさせるものです。

そうした甘美さの雫は、文学や芸術の窓からだけではなく、実のところいたるところにある真実の窓から滴り落ちているようにも思います。そうした真実の雫を見逃してはなりません。私も最近は、仕事場との往復に明け暮れ、実用にしか目が向いていなかったように思います。思考が硬直化し、何かさまざまな行き詰まりを感じていたように思います。昨日、自然にふれ、今日の辻邦生生誕祭(?)にあたって、何かさまざまなことが明澄な光の中に戻りつつあるのを感じます。

こうした気分になるのもやはり真実の雫に触れているということなんでしょう。辻先生なら至高体験とおっしゃるかもしれません。

また、これからも辻文学をも読みながらも、一年一年新しいことをやっていくことになる、と思います。

長くなりました。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

先日、以下の記事を読みました。

週に何分以上を自然の中で過ごせば健康さや幸福度が増すのか、その最低ラインが研究で判明
https://gigazine.net/news/20190921-2-hours-a-week-nature/

記事によると、週に2時間程度自然に触れると、健康や幸福感につながるというもの。確かに、最近、全く自然に触れてないなあ、と。

記録を確認すると、最後に「自然」に触れたのは、夏休みに行った房総の海岸以来だなあ、と。真夏は諸事情によりなかなか外出できないのです。

久々に行った近所の「自然」は、実に雄大に思え、広々とした農地を突っ切る畑道を走ったり、久々に湿った林の空気を吸って、気分が良くなった気がします。

今日は2時間弱ほど「自然」の中に居たようで、すこし気分がはれた気がします。で、さまざまな決断ができたのかもしれません。本当に、人間は考えるだけではだめで、身体を動かしたり、外気に触れたりしないと行けないみたいです。

またあすから仕事。すこしは外気に触れるように過ごしてみないと、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

少しご無沙汰になりました。

本当にもう、なかなか時間が取れなくて…。

近況?ですが、最近、アルコールをかなりやめてまして、8月は二回しか飲んでおらず、今月も、一回飲んだだけ。

メリットは、もちろん家計に優しいことと、帰宅してから自分の時間が少しできたこと。

デメリットは、寝る時間が遅くなってしまったこと。アルコール飲んで、さっと寝ていたのですが、やるべきことをられるようになったので、夜更かし気味。

で、スッキリ目覚める?と思いきや、なかなかそうは行きません。アルコールやめて、睡眠時間を取れば、体調は良くなるはずですが、レガシーな仕事なので、帰宅が遅く、手詰まりを感じています。都心に引っ越すと解決するのかしら…。

さて、最近は、イリアーヌ・イリアスを聴くことが多いです。疲れた時はイリアーヌ。ここ15年ほどお世話になっています。気だるいボーカルが本当に素晴らしいです。



さしあたり、週末はカレンダー通り休めるのでありがたいです。

それでは。

Gustav Mahler

今日はハイティンクでマーラー9番を聴いています。バイエルン放送管弦楽団を振った音源。

ハイティンクらしいなあ、と、思います。緊密で硬質。ソリッドという言葉が浮かんできます。ソリッドとは、堅実で、中まで充実している、とありますが、まさにそういう演奏だなあ、と思います。とにかく、きめの細かい絹地を彷彿とさせる演奏。毒味はなく端正で謹厳です。

20年前、ハイティンクのマーラーを聴いて少し苦手意識を持った記憶がありますが、今ではそんなことは感じないです。ハイティンクの指揮はワーグナーやリヒャルト・シュトラウスで随分聞きました。特に、リングとばらの騎士は忘れられないです。

それにしても、金管の響きを、聴くと、リングを思い出してしまいました。ハイティンクのリングの録音もやはりバイエルン放送管弦楽団ですし、マーラーのワーグナーからの引用が効いているのかも、などと。

さて、さまざま大変な日々。日曜日も仕事になってしまいました。まあ、仕方がないのですけれど。最近のテーマは人生のマネージ。さて、これからどうしよう、などと。

と言うわけで、明日一日休んで、日曜日からまた頑張ります。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

昨日は、某有名ライブ盤を聴いてみましたが、私には難しかったので、今日は小澤征爾さんの指揮による録音を聴いています。

響きが豊かな録音だなあ、という印象。あまり、小澤さんとサイトウキネンの録音を聴いたことはないのですが、25年前に、ブラームスをやった時の映像で、本当に弦が綺麗なオケだなあ、と感動したのを覚えています。メンバーは当時とは変わっていると思いますけれど。

マーラーの情感を十全に汲み上げているように思え、なにかそれは、母性的な、何か全てを包み込むような力を感じました。

それにしても、マーラーの9番は、死に関連した主題である、とされてることが多いようですが、本当にそうなのかなあ、と思いながら聞いています。世に問われた芸術作品は、受容する者によって解釈され新たな価値を付与されることになります。別の考え方があっても良いはずだな、と思います。なにか、そのまま既存の考え方ではなく、別の可能性を考えたい、と思います。

というわけで、今日はここまで。

今日は暑い日でしたが、また明日は涼しくなるようです。夏が終わり、寂しい思いの毎日です。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

はじめに

相変わらず聴いているマーラー9番。今回はアバド。この週末からはラトルにかわり、アバドを繰り返し聴いています。

美的高揚のようなもの

第1楽章の高揚は、おそらくは、強烈な美的な衝撃を表していて、それは、芸術美なのか、あるいは愛情につながる衝撃であるかもしれず、という感じです。ベートーヴェンやワーグナーを聴いた衝撃、アルマを一目見た衝撃、そんなことを思いました。第1楽章の16分過ぎあたりの箇所です。

こういう、衝撃的な瞬間というものは、人生において何度か訪れるものですが、そうしたときの、無意識に声を出してしまうそうした瞬間を想像してしまいました。

その後、何か最後の審判のような金管の咆哮とティンパニーの連打があるあたりも、何か示唆的で興味深いです。触れてはいけないものに触れた衝撃。マンの「小フリーデマン氏」のような感じ。

磁器のようなアバドの演奏

それにしても、アバドの指揮は、磁器のような美しさがあります。繊細で白く高貴な磁器が、夕日の差し込宮殿の奥に置いてあって、誰も知ることもないその磁器が、夕陽に照らされることだけに意味があるような、人がその存在を知らなくても、ただ、イデアとしてそこにありさえすれば世界が支えられている、そんな演奏だなあ、と思いました。

おわりに

いまさらマーラー9番とは、本当に遅かったかな、という感覚です。

複利効果と同じように、物事を知るのは、早ければ早いほどメリットがあります。ただ、これまでは、マーラー9番を聴いてもあまり共感できなかったということなんだろうなあ、と思い、まあ、しかるべき時に聴くようになったのではないか、と思うようにします。

それにしても、この激務…。いや、今まで、もっと働いたこともありましたが、まずは身体が持たなくなり、あるいは、何か別のことを手掛けたい、という気分になります。激務からのがれたい、というわけではなく、何かに裨益することをしたい、というそういう気分なのやもしれません。

マーラーを聴くようになったのは、こういう心境の変化とも関係あるのでしょうか、なんてことを考えながら、夜更けの通勤列車で文字を書き連ねています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

はじめに

最近、聴く音楽と言えばマーラーばかりになってしまっています。なんでだろうなあ、と、不思議に思います。依然書いたように、私はマーラーからシュトラウスに移行した、と思っていましたが、どうやら、またマーラーの帰ってきたのかもしれない、と思います。

マーラーの9番はもちろん何十年も前から聴いているのですが、最近になってなにか身体に音楽がしみこんでくるようになってきました。なにか、水位を増したダム湖が一気に決壊するような、そんな感じにも思えます。

ラトル盤を聴きながら考えたこと

聴いているのはラトルがベルリンフィルを振ったもの。

これまでは、第一楽章と第四楽章が好きだなあ、と思いましたが、今回は第三楽章が気になりました。本当に執拗なフーガで、繰り返される調性から外れた旋律は、なんだか不条理な世界で繰り返し生きる人間の業のようなものを感じました。FBにも書きましたが、ニーチェの永劫回帰のような絶望的な感覚でした。

それで、第四楽章でやっとのことで、その絶望から逃れ、浄福の中で安らかに眠っていく、という感じですか。

この音源もやはりラトルらしい演奏で、しなやかに伸縮するテンポの感覚は、この曲のたゆたう感じをうまく表現しているなあ、と思います。もっとも、この曲のたゆたう感じ、という感想もラトルのマーラーだからこそなのかもしれません。

永劫回帰か、と思うと、人生なんてたかだか100年ぐらいで、その100年スパンのなかで何回繰り返せるのか、ともおもいますが、少なくとも私の場合は30年ほどでマーラーに回帰したんだなあ、と思い始めています。昨年の末に10番を聴いたのがそのきっかけかなあ、などと思っています。

すべては落ち着くところに回帰していくのかな、などと思いながら、ただ、いま回帰しているところも、結局は途中経過でしかありませんので、一つの人生の中でも、やはりなにか回転する繰り返しの中で、物事は動いていくのだろうな、と思いますし、人生自体もいくつもありますし、なにかマルチバース理論のような、途方もない広がりを感じたりもしました。

おわりに

暑さも少し和らいできたように思います。なんだか本当に一ヶ月もなく夏が終わりに近づいている寂しさを感じます。夏が好きだ、ということは何回か書きましたが、やはりこの蝉の鳴き声が少しずつ変わってくる感じは、寂しさ以外の者でもありません。夏至も二ヶ月前に過ぎ去り、これからは秋の日のつるべ落とし、となります。

そんななかですが、のこり4ヶ月ほどで、今年の目標をなんとか到達できるように頑張ろうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

シノポリの演奏

先日来聴いているマーラー。

今日はシノポリが振る交響曲第5番を。

シノポリといえば、わたしの中では「マノン・レスコー」なんですが、なんというか、うねりととも、に深みのある甘美な感じをもたらすような、豊満な演奏、という感覚があります。これは、私の中の勝手な感覚で、他の方と共有しうるものではないのだろうなあ、と思います。

指揮者ごとに感じる身体的な感覚

以前にも書きましたが、指揮者ごとに感じる身体的な感覚のようなものがあります。カラヤン、ラトル、アバド、マゼール、デイヴィス、ショルティ、シノポリ、チェリビダッケなどの演奏は昔からよく聴いていますので、なんとなくそうした演奏を聴いたときに感じるものは共通しています。

この感覚は、言語化が難しいのですが、感覚を研ぎ澄ませて、そこに浮かぶ情景や感覚を掴み取る営みは、なかなか刺激的で充実感を覚えるものです。

もしかすると、それば独り善がりとも言えますが、ひとつの創造的行為であるといいな、と勝手に考えています。

シノポリは、前述のように、深みのある甘美、豊満な美しさ、という感じを覚えます。それは、「マノン・レスコー」でミレッラ・フレーニが歌うマノンのイメージが付随しているから、とも思います。

今回聴いているマーラー交響曲第5番も、やはり、深みのある甘さ、という言葉を当てはめたくなりました。甘みと言っても、甘ったるいというものではなく、甘美でいて、そこに何か、ふくよかで、重みと深みのあるもの、もしかすると、それは赤ワインの類いかもしれません。

それは、言葉で表現されるものですが、なにか直接的に五感につながるもののように感じるのです。甘みとか、柔らかさとか、温かみとか、そう言うものです。

音楽を聴いて、こうやって当てはまるイメージと言葉を見つけるのはなかなか刺激的で楽しいものです。願わくは、なにかそこから価値が生まれると良いです。

最後に

今日は、台風10号が日本列島を直撃しました。東京地方は雷雨に見舞われただけで済みましたが、きっと大変だった方も多いと思います。ここからお見舞い申し上げます。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

この週末は、ライトなフュージョンを聴いて、心身を癒していましたが、帰宅途中にふと思い立ち、マーラーに戻ってきました。

交響曲第10番をダニエル・ハーディングの指揮で。

何か、極北という言葉を思い出してしまい、マーラーの極北とか、交響曲の極北とか、そんなことを思いながら聴いています。

芸術の世界は厳しく、時に厳寒ですらありますが、その先にはおそらくはオーロラが天を舞う瞬間があるはずで、それは、なにか人智を超えた神的なものに触れているとさえ思うこともあるでしょう。

そういう瞬間は、芸術家はもちろん、芸術を受容する我々にも時に訪れるものです。

暗い車窓の向こうを、流れる街灯の波を眺めながら、耳から流れ込むマーラーの19世紀ロマンの残滓は、何から冷たい棘のようでもあり、冷たい夜の石畳に横たわっているようでもあり、黴の匂いのする地下道に立ちすくむようでもあり、ともかく、何か、不安と、冷たさと、あるいはそこにある美しいものに触らんとするが触れないようなもどかしさがあります。

この得体の知れない不安は、おそらくはロマンの時代19世紀が刻一刻と遠ざかる感覚で、19年前に、19世紀は、前世紀という称号を剥奪され、パイオニア11号が太陽系から去りゆくように、19世紀の、その精神と記憶が、色と影を失って行くのを感じるからではないか。そんなことを思いながら、乗客のいなくなった車両の中で、小さな画面を見つめ、畢竟の不協和音に聴き入る感じです。

私たちの19世紀はどこへ行ってしまったのか。そんなことを思いながら、列車に揺られています。

今日は早く眠りたくて、早く仕事場を出ようとしましたが無理でした。明日は早く帰宅したいですがどうでしょうか。

それではみなさま、おやすみなさい。