Gustav Mahler

冷え込んだ朝でした。とにかく、久方ぶりの冬という感じでした。とはいえ、いつもの冬のおとずれより随分と遅き感じです。

とはいえ、どうやら明日から日の入りの時間は早くなるようです。今日の東京の日の入りは16時27分。明日は16時28分です。代わりに、というわけではないですが、日の出の時間はまだまだこれから遅くなります。

本当に夏が楽しみです。ただ、この秋にかならず身体を壊すというのは、広義の夏バテではないか、と疑ってるもいます。気をつけないと。

で、寒い朝、仕事場に向かう電車て聴いたのが、アバドの降るマーラーの5番。

この曲、さまざま解釈があるのだと思いますが、アバドの演奏から痛烈に感じたのは、官能と死という言葉でした。愛情とはそういうものなんでしょう。結局、最後は、何かしらの死で終わるわけです。最近読んだ辻邦生「黄金の時刻の滴り」を読んで、何か感性の間口が広がってしまったようです。人間の原初的なものを、特に第1楽章と第2楽章に感じた気がします。恐れ、妬み、悩み、苦しみのような感情が、直接心臓に差し込んできたのでした。第3楽章以降は明るい色調に徐々に彩られつつあるのですが、今は、それよりも第1楽章と第2楽章を聴きたいです。

アバドの指揮は、この退廃とも言えるような、暗く蒼い闇の中に冷たく光る石畳と銀色の街灯が連なる街の風景を思い起こさせました。あるいは夢の中に出てくる見知らぬ街の記憶なのかも知らないです。もう一人の自分が住む街とも言えそうです。

明日の夜から東京は雨のようです。冷たい雨になりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

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寒い一日。

体調を戻すため、昨日も今日も家で過ごしました。

夕方、少し時間が出来たので、聞いたのは、キース・ジャレットのパリコンサート。

1988年10月17日の録音。30年前の録音ですか……。キース・ジャレットのソロコンサートと言えば、ケルンコンサートが一番有名だと思いますが、私はパリが一番好きです。ウィーンもケルンもスカラも好きですけれど。

何か、儚い美しさを感じる演奏、と思います。パリはパリでも、雨に濡れるパリという感じ。パリに行ったことはありますが、パリは雨だったかどうだか。マレ地区の安いホテルに泊まって、夜道をバスティーユオペラに向かったことを覚えています。

今日の東京の日の入りは16時半。17時になると藍色の水の中に沈んでいる感じがします。きっと雨のパリも、藍色の水に浸っていて、街路を行く車のテールランプの赤い光が、まるで魚の群れのように見えるのでは、と思います。

さて、明日からまたウィークデー。みなさまもお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

12月に入りましたが、寒さもあまり感じることなく過ごしていましたが、そろそろ寒くなりつつあるようです。

実は、今週も関連事案で体調の急変があり療養しました。経験のないことなので、医師の言うことを聞くだけでした。夜間の救急外来など、これまで経験の無いことばかりで、とてもたくさんのことを学びました。ですが、これからが大変で、今はただ途方に暮れています。これからどうやって復旧しようか、という感じです。

とにかく、病が去ると、次に来るのは疲れですね。先日も、リハビリにと思い、洗濯物を干したのですが、それだけでくたびれて臥せってしまうという感じ。病院で座っているだけで辛い感じでした。本当に健康は大切ですが、どんなきっかけでなにが起こるか分からない、ということも感じました。もうあまり無理は出来ないのか、と想うと、寂しさを感じます。やるべきことを早くやらないと、とも思いました。

それで、夜もなかなか眠れませんが、そんな時の楽しみで見つけたのが、Kindle Paperwhite(2014年購入)を布団に持ち込んで読むということです。おかげで少し読書が進みました。

で、こちら。辻邦生「黄金の時刻の滴り」です。

Kindleではまだ半分と少しだけしかです。リルケ、カフカ、ヘミングウェイ、マンなどの文豪をテーマにした短編集です。

物語的にもとても面白いのですが、実のところ文学に関する考察が小説の中に含まれています。あとがきで辻邦生も書いていますが、文学論では書けない小説家(つまり取り上げられた文豪たち)の世界が描かれている、といえそうです。

ですが、小説家の世界を書いているのは辻邦生ですから、辻邦生が「自問自答」しながら書いているということになり、辻邦生の思う小説家の創作手法が書かれていることになります。

例えば、モームをテーマにした「丘の上の家」では、フィレンツェを舞台に、推理小説の組み立て方が描かれています。

また、カフカをテーマにした「黄昏の門を過ぎて」では、カフカのドッペルゲンガーが、コンサートや図書館、娼家で目撃されるという設定になっていて、小説家(=芸術家)が、人間のグロテスクな悲劇、奇怪な、不条理な、滑稽ないかがわしい生というものに形を与えるのだ、というようなことをカフカに語らせるのです。それは、なにか辻邦生の創作の秘密を文豪に語らせているようにも思えるのでした。

それにしても、Kindle Paperwhite 、ほとんど使っていませんでしたが、先日の療養生活以来、愛用しています。このあたりの話は、また機会があれば。

それでは皆様、良い土曜の夜をお過ごしください。お休みなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

はじめに

11月23日のエントリーで「風邪気味」と書いておりましたが、風邪どころか、急性扁桃炎でして、入院寸前のおおごとになってしまいました。

どなたかの参考になるかも知れませんので、以下記録して書いておこうと思いました。あくまでわたしの個人的な経験ですので、参考にとどめていただきたいと思います。医療機関で診察を受け指示に従ってください。

言えることは、とにかくいつもと違うことがあれば、すぐにお医者の診察を受けるべし、です。

11月20日(火)

明け方、軽い喉の痛みを感じました。いつもの風邪の前兆のように感じました。やれやれ、今年は何度も風邪をひくな、と思い、マスクをかけて出掛けたのでした。夕方、出張先の会議中、悪寒と熱っぽさを感じました。翌日、打ち合わせ予定だった後輩に「明日、風邪で休んだら悪いね」と冗談を言って帰宅しました。

11月21日(水)

特に喉の痛みは変わらず、37度近辺の微熱のみ。これでは仕事場を休めないね、と思い出発。今から思えば、朝の電車で、嫌な汗をかいていたのがいつもの風邪とはちがう点でしたが、微熱のせいだと思っていました。で、変わらず、仕事。帰宅すると、37度5分ほどで、風邪薬を飲んで就寝。

11月22日(木)

朝、熱は36度台に下がっていたので、まあ、また仕事に行けるね、ということで、出発。この日は肉体的には少しハードでした。午後、出張で外出し、また仕事場に戻って打ち合わせ、という感じ。少し疲れていましたが、まあ、なんとかこなして帰宅。熱はそんなに上がっていません。

11月23日(金)

23日は勤労感謝の日。祝日なので、かかりつけ医はおやすみ。で、午前中は外出し、午後は昼寝。ただ、そろそろ喉の痛みが激しくなっていて、食事が食べにくくなってきたように感じました。

11月24日(土)

明け方、喉の痛みが激しくなり、どうにも眠りが浅くなる感じ。仕事場で論争をする夢を見たりしました。で、朝一にかかりつけ医(内科)へ。

喉が痛く、微熱が続く、と言って診てもらうと、扁桃炎ですね、という想像していなかった診断でした。かつて父からは、「患者は病名を言うな。病名を言うと医者から嫌われる」と言われていましたので、この日も「風邪をひきまして」と言いそうになるのを控えて、よかったな、と思ったり。

で、溶連菌の検査。どうも、腎炎になる可能性や、他の人にうつる可能性があるとのこと。結果は陰性。ペニシリン系の抗生剤と痛み止め、うがい薬、トローチを出してもらい、帰宅。これで、なんとか週末に良くなりそう、とホッとして、帰宅。さっそく、抗生剤を飲んで、痛み止めを飲み、休ませてもらいました。ですが、どうも良くなる気配はありません。熱も37度前後を行ったりきたり。

食事も喉を通りにくく、おかゆを食べるのみ。痛み止めがないと、唾液すら飲み込めない状況。鎮痛剤が切れた夜は本当につらい状況でした。

11月25日(日)

明け方、酷い喉の痛み。たまらず指定以上に鎮痛剤を飲まざるを得ません。熱も38度近くまであがってしまいます。

おかしい。何かがおかしい。

夜になると、熱は38度を超え始めます。口の中をみてみると、口蓋垂付近が酷く腫れ上がっていて、いままで見たことのない状態に。

身体を横たえると、腫れ上がった口蓋垂が気道を塞ぐらしく、呼吸が出来なくなる状態。痛みは、鎮痛剤でなんとかするにせよ、呼吸が出来ないのは本当に問題。救急車を呼ぼうか迷いました。熱も38度を超えていて、つらい状況。

11月26日(月)

かかりつけ医へ朝一番で駆け込みました。喉の中をみた途端、内科では埒があかず、耳鼻咽喉科、それも総合病院の耳鼻咽喉科へすぐに行けとなりました。看護師さんがいくつかの総合病院に電話であたってもらいましたが、なかなか診てくれない感じ。すこし遠い総合病院でようやく診てくれることになり、バスを使って1時間ほどかけて病院に到着。

血圧と心拍を看護師に測ってもらうと、いつもより高いです。Apple Watch の高心拍警報も出続けていて、やれやれ、と言う感じ。

耳鼻咽喉科の先生、まずは水が飲めるか、と聴かれ、飲めます、と答えました。次に、口の中を覗くなり、「これから喉の検査をしますが、検査次第では、入院することもありますがよろしいか?」とおっしゃる。実際のところ、昨夜の感じだと、入院しかないな、と思っていたので、承諾。で、検査は、鼻からファイバースコープを通して、気道が確保されているかを確認。それから、喉頭に腫れが生じていないか確認。ここで問題がなかったので、さしあたり入院は免れました。

後から調べると、喉頭(食道と肺をつなぐ)が腫れて気道が確保できないと呼吸困難となり気管切開(首に直接穴を開ける)ことになるらしく、それを確認していたものと思われます。

で、抗生剤を増量しつつ、腫れを抑えるステロイド剤が追加されました。翌日に診察の予約。腫れが広がっていないか確認したい、とのこと。

で、帰宅し、安静に過ごしました。夜は、少しだけ、楽になった感覚はありましたが、やはり寝ていると、喉が塞がれる感覚があって、身体を起こして眠ったり、頭を高く持ち上げて眠ったり、と、なかなか落ち着いて眠れませんでした。

11月27日(火)

朝起きて、口の中を診てみると、少しだけ腫れが収まっているように思いました。医者の予約は9時30分から。9時過ぎに病院に着くとすぐに診察開始。腫れは喉頭には達しておらず、想定通り、と言うことで、投薬を継続とのこと。

仕事に行って良いか、尋ねると、「若いし、食事もとれてはいるけどね……」というフレーズを二回繰り返される。で、「まあ、入院を迷うぐらいだから、自宅安静で」と言うことになり、仕事場へ行くのは次の診察までは諦めました。

それにしても、とにかく、喉が痛いです。鎮痛剤を飲まなければ、水を飲むのことも出来ません。

11月28日(水)

明け方は、まだ2時間おきに目が覚める状況。喉の痛みと呼吸のしづらさがその原因。昼間はひたすら安静。ロキソニンを昼間飲んでしまうと、夜はカロナールで乗り切るしかないのですが、カロナールは、効果のある時間がロキソニンより短いので、夜がつらくなるわけです。

で、この日から、昼間はカロナールを使い、夜はロキソニンを使うことにしました。21時過ぎにロキソニンを飲んで就寝。夜中の2時半頃、喉の痛みが激しく起きたタイミングでロキソニンを飲んで、また眠る、という感じ。そうすると、睡眠時間が4時間程度はまとまってとれるようになったというわけです。この日を境に、治るかも、という実感がわきました。

11月29日(木)

ひたすら安静。このあたりから、のどの腫れがおさまりはじめ、眠りについてもなんとか呼吸が出来るようになってきた感じがしました。

11月30日(金)

午前中に診察。腫れも引いており、もう大丈夫です、とのこと。若いと治りが早いね、というコメントもあり。なるほど、若いのか、と勝手に納得。若いという評価もあくまで相対的なものでしかありませんが。

診断書を書いてもらい、晴れて放免。ただ、抗生剤は飲みきること、とのこと。Webなどを検索して呼んでいる中で分かったのは、抗生剤を勝手にやめると、再発リスクがあるらしいです。

午後は粛々と安静に過ごしました。ただ、妙な疲れを感じました。病気疲れなのか、あるいは薬の副作用か。

12月1日(土)

久々に長い時間眠れました。痛みも少し減って、食事もずいぶんとれるようになってきました。しかし、疲労感が半端ないです。おそらくは抗生剤の副作用ではないか、と想像しています。

就寝後、夜中に身体が気持ち悪くて起きてしまいました。シャワーを浴びると身体に発疹が。これはおそらくは抗生剤の副作用かと思われます。

さしあたりおしまい

きりがないのでここまで。おもったより長くなってしまいました。

とにかく、つらい一週間でした。今は、痛みがなくなりつつあり、なにか喉元過ぎれば熱さを忘れる、という感も否めませんが、薬の副作用も出始めていて、やれやれ、と言う感じです。週明けからはたまった仕事もあるし、など。

結局は、風邪をずいぶん引き続けていたところに、疲労が相まって、かかってしまった、と言うことなんでしょう。毎年この時期に風邪は引きますので、きをつけているつもりですが、思ったより疲れていたと言うことなのかな、と。こちらの文脈では、もう若くはないので、ということになるのだと思いました。

みなさまもどうかお気をつけください。

Richard Strauss

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東京は、快晴。寒い一日でしたが、日光を浴びるだけでも元気になります。

10月から、風邪を断続的に引いています。なおったとおもったらまた風邪を引く、という感じ。今週も、やはり微熱と喉の痛みが続き、食事を取るのがつらい感じ。やれやれ。

今日も午前中に出かけましたが、午後はさすがにダウンし、午睡をとり、あれ、しかし仕事をしないとと思い、起き上がったときに聴いたのがこちら。ジュゼッペ・シノポリが降る《ツァラトゥストラはかく語りき》。

 


シノポリの指揮になにか雄大さを感じるのですが、それは、あれ、こんなところで? というところで、テンポを緩めたりするからです。私、実は、今日CDを聴いたときに、これマゼール?と思ったりもしました。マゼールもやはり意表をつくテンポどりをみせてくれることがあります。もちろん、全体として、テンポが緩めで、それが雄大さを感じさせる、ということもあるでしょう。

いつも思うのですが、私はイタリア人が振るドイツ音楽が好きだなあ、ということ。アバド、ジュリーニ、シノポリが振る、ブラームス、シュトラウス、ブルックナーを好んで聴いてます。チェリビダッケもルーマニア系ということで、ラテン系と言えるのかも(これもかつてブログに書いた記憶あり)。

それにしても、シュトラウスは本当に素敵です。複雑に絡み合った旋律が空に舞い上がっていくさまは、ゴシック教会のようでもあり、あるいは近代高層ビル群のようでもあります。その美しさは、美しさそのものというよりも、洒脱さや皮肉も含まれていて、実に興味深いのです。この《ツァラトゥストラはかく語りき》もどういう意図で作曲されたのか……。

ちなみに、この曲は私が小さい頃(3歳頃)、一番お気に入りの曲だったそうです。この曲を流しながら、図鑑を二冊重ねた上に乗って、鉛筆を振り回していたとか。指揮者のマネごとをしていたようです。いまでははみだしサラリーマンですが、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

今日は、日本は冬型の気圧配置だったそうですが、みなさまもどうかお風邪など召しませぬよう。おやすみなさい。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

暗い一日。とにかく暗く寒い一日。

と言うのも、なにかどんよりと暗い空。やれやれ。夏の快晴が恋しくてたまりません。

こんな時に聞きたくなるのはやはりショスタコーヴィチ。暗い気分の時には、暗く寄り添ってくれる音楽がありがたいです。ロストロポーヴィチが振る交響曲第10番。Apple Musicで聴いています。

ショスタコーヴィチの交響曲のなかで一番親しんでいるのはこの10番だと思います。第一楽章の沈鬱さが、なにか人間の根源にある苦しみや悩みを代弁しているように思うのです。これも少し前に書いたと思いますが、タレントのマツコ・デラックスさんが、夜中にショスタコーヴィチを聴く、と言う話をされていたのをテレビで観たことがあります。その気持ち、本当によく分かるのです。なにか普遍的な人間というものを描いているなあ、といつもおもいます。

それは、政治犯がただひたすら運河を掘り続けるとか、そういうものだと思います。政治犯はもちろん逃げることは極めて難しいのですが、現代に生きるということも、程度の差はあれ、逃げ場のない苦しみのなかで、もがき苦しむと言うことにおいてはあまり違いはないのではないか、と思うこともあります。

本当はその場を離れるべきなのに、離れることが出来ない、という感覚。それは、目に見えない鎖で手足が縛られていて、ただただスコップで地面に穴を掘り続けている、と言うことのようでもあります。運河が開通するのが先か、あるいは力尽きるのが先か。どちらが先かは運命しか知らない、そういう感覚です。

そんなことをショスタコーヴィチを聴きながら思いました。

今日は、朝から面倒なことがありつつも、午後に少し出張。戻ってまた仕事。風邪をまだ引いていて、最近は微熱が続いているので、電車では座席に座り身体を癒やしていました。秋はつらい。早く夏が来ないかな、と思います。

明日から三連休。仕事のある方も、仕事のない方も、明日は勤労感謝の日です。感謝されたことはあまりありませんが、働くと言うことをかんがえてみても良いのかも。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

早いもので、今年も11月21日が来てしまいました。11月21日は辻佐保子さんの誕生日。冬も間近に迫り、東京の日の入り時間は16時半頃。ついこの間まで夏だったと言うのに、と思います。

いつも言っていますが、早く夏にならないかな、と思います。さしあたりは、正月めがけて頑張らないと、と思いました。

で、読んでいるのが「安土往還記」です。3回か4回か、それぐらい読んでいると思います。

それにしても、ほんとうに西欧合理主義的な織田信長像が見事で息をのみます。戦争ですら芸術(アルテ)として捉えられるのではないでしょうか。かずかずの残虐的な戦後処理(比叡山の焼き討ちなど)ですら、そうです。

主人公は、言うまでもありませんが、イタリア人で、新大陸で戦闘を経験したことのある人物。織田信長が長篠の戦いで使った三段構えの戦法も、このイタリア人の支援があったから、という設定になっていて、いまから500年前にあっても、なにか西欧とのつながりがあったという事実が、不思議なようでもあり、あるいは、だからこそ現在と500年前が地続きであるようにも思うわけで、物語世界と現実がつながっていることを身体で感じてしまうわけです。じつに見事な設定です。九鬼水軍の装甲船もやはりこのイタリア人の手になるもの、という設定も(史実には当たっていませんが)実に見事です。

西欧合理主義的、と言う観点で言うと、石山本願寺を攻め下すために、遠大な計画をもってそれに当たる、というところも、実に合理主義的です。鉄砲を供給している雑賀を征服し、前述のように九鬼水軍を鍛え、包囲網に城を築き、じわじわと締め上げる。これを読んで、何か、米ソ冷戦の末期に、アメリカがソ連をじわりと追い込んだという史実を思い出したのです。スター・ウォーズ計画をでっち上げてソ連を宇宙開発競争・軍拡競争に引き込み、原油価格をサウジと組んで引き下げ、あわせてアフガニスタンで疲弊させる、という遠大な戦略を彷彿とさせるのです。

史実はどうかは分かりません。しかし、残念なことに事実というものは歴史の中で失われるものです。歴史小説によって描かれる事実は、おそらくは実際にあったこととは離れているのかも知れませんが、それはそれで一つの真実として世界に屹立しうる訳です。そういう意味では、この安土往還記における織田信長は、ひとつの合理主義的な人物として、リアリティがある人物として、小説世界に確固として存在していると思います。

ただ、どうもこうした西欧合理主義的な織田信長像も、時代の要請において、どうあるべきなのか、ということまで考えなくてはいけないのではないか、とも思うのです。果たして、現代において、織田信長的な西欧合理主義の意味は何なのだろうか、と。1970年代から現在までの40年に何があったのか。その歴史的経緯を踏まえた評価を行わなくては、とも思います。冷戦の二極化から、現在の多極化の時代において、なにが言えるのか。

この後、そうした時代の視点に気づかせてくれた辻先生の文章をとりあげようと思っています。

今日は長くなりました。どうか、みなさまお身体に気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

Miscellaneous

この一週間近く、このブログ書けませんでしたが、実は辻先生のことばかり考えていました。

実は、先日、とあるグループで辻先生について発表的なものをしたんですが、まあ、巧くいかなかったなあ、と。いつも仕事場でやっているように、骨子だけスライドを作って、話をしましたが、進行上、早く終わらせたかったと言うこともあって、うまく説明できず、と言う感じ。

さらには、プロジェクタの性能がいまいちで(私が持って行ったもの)、画面とからめてうまく説明出来なかったなあ、という思いもありました。

人文系も発表は、大学以来なので、20年ぶりぐらい。振り返るとかなりチャレンジングだったと思います。私は哲学系でしたが、哲学よりも文学のほうがいっそう概念が揺れます。そこをなにか大学時代の記憶をたよりに哲学的なアプローチで攻めてしまった感もあり、方法論として間違っていたようにも感じました。

言葉は、言葉として発語した時点でその意味が揺れるように思います。そうした言葉の揺れの中から、お互いの共通点を探っていくわけですが、そんな中でもあるのに、どうもターム(専門用語)に甘えてしまった感もあります。と反省することばかりでございました。

ただ、個人的には、新たな発見をたくさんしてしまいまして、とても勉強になったのです。そういう意味では素晴らしい機会をいただきました。内容はこちらにも機会があれば出そうと思いますが、どうでしょうか……。

会も終わりに近づいた頃、会場には夕陽が差し込んでいました。その時に、かけた音楽が、グンドラ・ヤノヴィッツが歌う《四つの最後の歌》のなかから、Im Abendrotを聴いたときには胸がいっぱいになりました。CDをBOSEのWAVEシステムで聴いたのですが、深みのある音で素晴らしかったです。しばし時を忘れた感覚。Apple Musicで聴くのとは全く違います。

それにしても、寒くなるのは嫌なものです。また風邪をひいてしまいました。10月のあたまからずっと風邪気味な気がします。暖かくしているつもりですが、やれやれ。

それではみなさまも風邪をひかれぬようご注意ください。おやすみなさい。

Miscellaneous

今日はほんとうにつれづれを書きます。

最近、思いもよらないことがたくさん起きるのです。想定外ばかり。その措定外がやることをすこしずつ増やしていく……。新しいことをやると、まあそんなものなのですが、制御できないことが多過ぎで、難しいですね。

ともかく、いろいろなことが少しずつ動き始めている気がします。くじけず頑張らないと。

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それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Jazz

あまり、くたびれた、とか、疲れた、とか、書かないようにしています。

ただ、今日は、特にくたびれた、という感じがします。細かいことは書きませんが、まあ、くたびれた、という感覚。この、感覚は、肉体的というよりは、むしろ精神的なもので、今日がとりわけ、というものではなく、10年以上溜め込んだくたびれが浮き出してきたような、そんな感じ。

で、いつものようにプールで10分ほどクロールで泳ぎ、帰宅。夜半前の暗い道で、Apple Musicのプレイリストを聞いていたら出てきたのが、ウォルト・ワイスコフでした。

昔、Apple Musicで聴いていたのでレコメンドされたのだと思います。ピアノはブラッド・メルドー。聞いた瞬間に、あ、こっちが本物の世界だ、と思いました。サックスのノンビブラートのロングトーンも素晴らしい。しばらく聞き惚れてしまいました。くたびれた中で、ふと、なにか柔らかい羽毛のようなものに触れた気がしました。

私の中では、あらゆる美こそが、本当の世界で、美と美はあちら側の本当の世界でつながっている、ということになっています。おそらくこのアルバムを聞いた瞬間、あちら側の世界に心が触れたのだと思います。芸術とはそういうものなのかもなあ、と最近思っています。

明日も引き続きくたびれる予定。しかしながら、もしかすると今日のような美と触れられるかもしれないです。楽しみです。

それでは、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。