Classical,Concert

ちょっとクリスマス気分を味わいたいというのと、どうしても「花のワルツ」を生演奏で聴きたいという理由で、行って参りました。参考CDはゲルギエフ版です。「くるみ割り人形」といえば、組曲の方が有名ですが、全曲版となると知らない曲がたくさんありますね。まだまだ知らないことはたくさんです。あたりまえですが。

まず、入り口に来て驚いたのは客層の違い。バレエともなればあたりまえでしょうか。小さな女子連れの家族がたくさん。そもそも男性客が少ないらしく、1階のトイレは女性専用に変更されていました。ホワイエにはキッズメークアップコーナーがあって、女の子がマニキュアを無料で入れて貰ったり、終演後の舞台袖の見学会募集(抽選で20名)がなされていたり、と本当にオペラの時とは違う風情。クリスマスの飾り付けでなどで、連れは俄然クリスマス気分で盛り上がっていました。

バレエを見るのは三度目ですが、日本国内で見るのは初めてでした。まずよく分からないのが拍手のタイミング。オペラでもアリアの後に拍手をしたりしますが、バレエの場合は、主役の方が登場するとそこで拍手をするらしい。それから、難しい(と思われる)技を披露したときも拍手をするらしいのです。そもそもバレエなどよく分からないで観に行っておりますので、何が簡単で、何が難しいのかはよく分からないのでした。

それにしてもバレエダンサーの方々の偉大さには感服します。リズム感抜群で、汗が光ぐらいまでの運動量なのに、息を切らせている様にも見えない。しかも笑顔をずっと維持している。信じられません。偉大すぎです。

マーシャ役を演じておられたさいとう美帆さんは、とても上品で素晴らしかったですね。もちろん他の方々も。はじめて見たバレエが、あまり振り付けがそろっていないイメージだったのですが、今回はタイミング乱れるような場面に気づくようなことはありませんでした。よくぞここまで美的世界を構築するものだ、と思います。バレエもたまにはいいなあ、と思いました。とてもべんきょうになりました。

オペラシティはクリスマスモード全開でした。雨は残念でしたが、巨大なクリスマスツリーに圧倒されます。楽しい一日になりました。

DCF_0015

Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691

辻邦生師「雲の宴」は下巻に突入しています。この本は、ミッテラン当選の夜のパリの狂騒から話が始まりますが、辻先生がインスピレーションを受けられたのは、その夜にマリ共和国の黒人の男を見かけたことが契機になっているのだそうです。アフリカの描写がすばらしく、実際に取材にいらっしゃったのかと思い、全集についている年譜を見てみたのですが、どうやら西アフリカへの取材旅行は行っていらっしゃらないのです。そうか、あのアフリカの描写は全て現地での印象ではなく、想像力と調査のたまものなのか、と驚いてしまいます。歴史小説のように自分では行けない場所について書くことの難しさは相当なものではないかと思うのです。

下巻も中盤にさしかかると、物語も俄然緊迫してきます。この本でもやはり性急な改革は失敗するのだ、という鉛のような諦観が感じられ、そうは言っても世の中は「背理」なのであって、それを笑い飛ばさねばならぬ、という「嵯峨野明月記」の主題に戻っていくのでした。ちなみに、この「背理である世の中を笑い飛ばす」というのは、シラーが着想になっている(「人間の背理を笑う高みに立つ」『辻邦生全集第20巻』新潮社、2006年)のだ、ということを全集第20巻の年譜を読んでいて気づきました

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • レーベル: 中央公論社
  • スタジオ: 中央公論社
  • メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 976173

人間は生きているからには愉しむ義務があるのである。辻邦生師のおっしゃるフランス人とは、楽しく生きることを義務としている人のこと。落ち込もうが、非難されようが、意志の力でそうしたマイナス要因をはねのけ、あくまで生きることに打ちこみ愉しむという強靱な精神を持っている人たちであり、それを阻害しようとする者に対して激しい敵意を持つと言うこと。ただただ嫌なことがあったからといって、落ち込んだり怒ったりしないこと。大切に生きること。

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • レーベル: 中央公論社
  • スタジオ: 中央公論社
  • メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 976173

しばらく前に読み終えた「春の風 駆けて」。示唆的な文章が多くて、今の自分にとって大切に思えるところがたくさんあった。畏怖すべき偶然と運命の溶解である。これから2,3回、この本について言及していこうと思う。

意外なほどフランス大統領選挙に関する言及が多い。フランソワ・ミッテランが勝利する1981年の大統領選挙のことで、ちょうどパリ大学で教鞭を執っていた辻邦生師は、新聞報道などを通じて、フランス国民の大統領選挙に対する意識などを分析したりしている。この手法、まるで「春の戴冠」で、語り手フェデリゴが叔父マルコとフィレンツェを巡る政治に思慮を巡らせるのと同じタッチ。なるほど、これぐらい現実政治に対してアクチュアルに関わらなければならないのだな、と反省する。最近は、そうした現実世界のニュースからは距離を置いていたけれど、これからはもう少し関わっていこう、と考えた。

続く

Classical

バッハ:管弦楽組曲(全4曲)
バッハ:管弦楽組曲(全4曲)
  • アーチスト: カメラータ・ベルン
  • 発売元: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • レーベル: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2000/06/21
  • おすすめ度 5.0

最近、つとにバッハをよく聴いている。

それで、大好きな管弦楽組曲第2番を、オーレル・ニコレさんのフルートで。絶品である。気品のある吹き方でいながら、とてもアグレッシブなフレージング。Badinerieが一番有名で一番印象的なのだが、フルートもさることながら、寄り添うような弦楽器の音も美しい。楽器もよく響いているのだろうし、音響や録音も良いのだろう。

録音はベルン放送スタジオにて。エンジニアはピーター・ヴィルモースという方。レーベルはDENON。DENONらしい澄んだ音と言うところだろうか。

Opera



1日遅れですが、15日が勝手にオペラの日、ということで、オペラの話題を。昨年の夏以降、何度となく聞いたシュトラウス最後のオペラ「カプリッチョ」のことから。

カプリッチョにみる音楽の優位性

一体、伯爵夫人マドレーヌは、詩人のオリヴィエが好きなのか、作曲家のフラマンが好きなのか? 二人に求愛されて伯爵夫人は困っている。なかなか決められない。ここでは、伯爵夫人はオペラのメタファになっているのだが、伯爵夫人は、「詩と音楽はわけられないわ」と言ってはいるけれど、実は作曲家フラマンの方が好みなんじゃないかな、と。

オリヴィエには結構冷たかったけれど、フラマンには、明日の11時にお返事するわ、と具体的な日時まで指定してしまう。終幕部でも、オリヴィエが翌日の11時に来るという伝言を執事から聞くと、きっとフラマンはがっかりするわ、とフラマンに気を遣ってみたりしている。シュトラウス自身、作曲家としてはもちろん、文学への高い才能を持っている。インテルメッツォはシュトラウスがリブレットを書いているぐらいだし、ホフマンスタールと堂々と張り合っていることからもよく分る。でも、やっぱりシュトラウスは作曲家なのだ。オペラにおいて、詩と音楽のどちらが優位かと言えば、本音では音楽と言いたいはずなのだ。音楽の優位性を信じていたからこそ、ホフマンスタールとの打ち合わせではまず音楽ありき、という立場で書かれている。だから、フラマンに肩入れをしてもおかしくない。

カプリッチョのリブレットとメタ化

さて、シュトラウスとの綿密な検討をしながら、カプリッチョのリブレットを書いたのはクレメンス・クラウスで、彼も言わずと知れた名指揮者なのであり、結局は音楽家の書いたリブレットなのである。だからといってリブレットの価値が貶められるというわけではない。ギリシア古典を下敷きにした優雅なリブレットはそれだけで価値があるし、物語としてもおもしろいし、オペラを論じる登場人物達への皮肉に満ちた台詞を召使い達に語らせたり、と自己嘲笑的な部分を容れていたりと、なかなか凝った作りなのである。

プロンプターのトープ氏(トープとはモグラという意味)の登場で、オペラ自身の裏側を表側にひっくり返すようなこともやっていて、それを巧く解釈して大いなる成功を収めているのが、ウルフ・シルマーの振ったパリの好演である。

R.シュトラウス 歌劇《カプリッチョ》 パリ・オペラ座 2004年
R.シュトラウス 歌劇《カプリッチョ》 パリ・オペラ座 2004年
  • 発売元: TDKコア
  • レーベル: TDKコア
  • 価格: ¥ 7,140
  • 発売日: 2006/11/22
  • 売上ランキング: 49712

ロバート・カーセンの演出によるこの映像はトープ氏が舞台の下から登場するところから、オペラがメタオペラ(ここではオペラαとしよう)に変わる。その予兆は、伯爵の提案、つまり、この伯爵夫人の誕生日への贈り物としてのオペラ(ここではオペラβとしよう)を考えるプロセス自体をオペラ化(オペラβ化)しよう、という提案においてあらわれている。

月光の音楽の部分は、メタオペラ(オペラα)の対象としてのオペラ(オペラβ)に変貌していて、ボックス席には、伯爵、伯爵夫人、フラマン、オリヴィエ、ラ・ローシュが座って、自分たちが「作った」オペラ(オペラβ)を鑑賞している。それもカプリッチョという題名で、作曲がフラマン、台本がオリヴィエ、演出がラ・ローシュと書かれたスコアの表紙が映し出される。今まで見ていたオペラαが、オペラβを作るためのプロセスであることを印象づける。そして、決まらなかったオペラβの結末は、オペラβに二重に登場する伯爵夫人のモノローグ(オペラαの伯爵夫人は、ボックス席から、オペラβにおいて自分自身が歌うモノローグを聞くことになる)によって、やはり結末は決まらないと告げられるのだ。そうやって結局見ている者を無限の余韻の中に浸らせる。

詩が先か? 音楽が先か?

実際、オペラにおいて詩(すなわちリブレット)と音楽のどちらが優位なのかは分らない。おそらく台本作者は自分が優位だと信じるだろうし、作曲家はそうではないというだろう。

だが、考えてみると、ダ・ポンテはモーツァルトのオペラの台本を書いた作家として語られるわけだし、ジャコーザやイリッカがどんなに美しい物語を書こうとも、まず最初に出てくるのはプッチーニの名前である。ホフマンスタールは、台本作家である以前に文豪だから、世界文学全集に登場しているのであって、オペラ作家としてではない。マクベス、オテロは、シェークスピア劇をオペラ化したわけで、まず先に偉業としてのシェークスピア劇を前提にしている。だが、ファルスタッフで語られるのは、シェークスピアの名前ではなくヴェルディの名前が先。ワーグナーは自分できわめて文学的なリブレットを書いたけれど、偉大な作曲家として名前が残っているわけで、偉大な文学者として名を残しているわけではない(だからといって、文学的才能がなかったというわけではないのだが)。

音楽が先?

結局は、オペラにおいては「外面的」、「経験的」に音楽の方が優位なのではないか、と考えるに至る。それは僕のオペラの聴き方にも現れている。邪道かも知れないが、僕はまずは音楽を覚えるために、何度も何度もリブレットを見ないでオペラを聞き続ける。音楽を覚えた頃にリブレットをみたり、実際に見に行ったりして、台詞と音楽の対応を楽しむという感じ。いや、それどころか、音楽とあらすじだけで楽しんでいることもある(あまり褒められた話ではないのですが)。

オペラは楽しい

ともかく、オペラは楽しい。聞くだけでも楽しいのだから、観るのはもっと楽しい。初めてオペラを観たときのことを思い出す。新国立劇場で観た「セヴィリアの理髪師」の古い演出だったのだが、幕があいた途端にそこにオペラ空間が立上がったことに度肝をぬかれたのだ。それはもちろん演劇空間であっても歌舞伎空間であっても良いのだけれど、ともかくそこにリアル世界とフィクション世界の結節点があることが分ったのだ。リアル世界がどんなに汚れていて濁っていようとも、辻邦生師がおっしゃるように、芸術は現実の悪を乗り切るためにあるのだ、という言葉を信じたくなる。そんな瞬間だった。

笑いもあればシリアスな別れもある。そしてなにより音楽を聞く楽しさ。歌手の声色に酔い、繊細で重厚で流麗な多面的なオーケストラを聞く喜び。オペラを聴き始めてまだ数年そこそこなのだが、それでもここまで楽しめるようになったのだからこの点については本当に幸せなことだな、と感謝するしかない。まだまだ勉強することはたくさんあるし、もっともっと聞き込んでかんがえないといけないのだけれど、頑張ろうという気持にさせてくれるオペラは凄い。オペラに関わる古今東西の方々、本当にありがとうございます。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691

「この世は絶望に満ちているからこそ、芸術の意味が、はっきり見えてくるんです」

辻邦生『雲の宴(上)』朝日文庫、1990年、236頁

今週は、辻邦生師の「雲の宴」を読んでます。「雲の宴」は、朝日新聞に連載された新聞小説です。辻邦生師の新聞小説と言えば、「雲の宴」に加えて、「時の扉」、「光の大地」があります。そのいずれにも言えることだと思うのですが、一般の人々を読者に想定しているのかとても平易な文章で構成されていて、他の辻邦生師の小説群とは呼んだ心地が少し違います。

この「雲の宴」のテーマは、文明が忘れかけている「生きること」の意味だと思うのですが、もちろん一言で集約することなど出来はしません。物語のおもしろさもあれば、舞台の飛躍も素晴らしい。東京はいいとして、パリから、ウィーン、ブカレスト、コンスタンチノープルへと進んでいくのには驚きました。読むのは二度目だというのにすっかり忘れていて面食らってしまったほどです。もっとも10年ぶりぐらいの再読ですので仕方がないと言えば仕方がないのですが。

小説の冒頭で、1980年のフランス大統領選挙でミッテランが勝利した場面が出てきます。「春の光 駆けて」では辻邦生師が実際に遭遇したミッテラン勝利の様子が描かれています。つい先だって読んだばかりでしたので、すこし運命性を感じましたね。

箴言のように随所にちりばめられた言葉に胸を打たれながら呼んでいるのですが、冒頭で引用した部分などは、辻邦生師の芸術への信頼のようなものが語られていて印象的に思います。これと同じことは「嵯峨野明月記」でも言われていますね。辻邦生師自信が、芸術と現実の狭間で苦しんでおられたということを、辻先生の奥様である佐保子さんの講演会で聴いたようにに記憶していますが、ある意味では戦闘的と行って良いほど芸術に打ちこむことで、厳しくて「背理」とでもいえる現実と向き合うのだ、という強い意志の現われだと思っています。

世界はこの20年間でずいぶんと変わりましたが、良い方向に変わって面もあれば、悪化してしまったこともあります。しかし、言えることは、現実は冷厳として我々の前に立ちはだかっていることにはかわりはないのだ、と言うことです。そうした意味に於いても、今「雲の宴」を読むことはアクチュアルなことなのだ、だからこそこんなにものめりこむことが出来るのだ、と言うことなのです。

Italy2007

広場で、けたたましいクラクションが鳴り響く。何かあったのか? と音のみなもとを探るのだが、何も見えない。と、突然デコレートされた自動車が広場に乗り入れてくる。あ、結婚式なのだ、と言うことが分かる。数多の観光客もこれには驚いていて、自動車が乗り付けたヴェッキオ宮殿の入り口に人垣を作り拍手喝采を始める。自動車からは新郎新婦が。ああ、なんてイタリア的なすこしキザめな新郎と、派手な新婦なんだろう、と驚く。派手な二人だったなあ。参列者もかなり派手な感じで、夜の匂いをぷんぷんと匂わせている。

さて、ヴェッキオ宮殿でもセキュリティチェックが厳しいのだが、そのチェックを警察官が一人で行っている。長蛇の列。だが、誰もめげずに並んでいる。宮殿内に入って、チケットを買って階上へ。ああ、ここが大広間なのだ。ここで、コジモが、ロレンツォが演説をふるったのか、と思うと感慨深い。

Italy2007

壇上からの眺め。同じような風景を、メディチの男達も眺めていたに違いない。
Italy2007

Art,European Art

ルネサンス絵画の描写性について、何度か書いたのだが、その文脈では、ルネサンス的なものとして「描写性」を挙げた。遠近法の導入などである。ローマの彫像や遠近法壁画などを復活させたのである。

しかし、改めて考えると、中世絵画には中世絵画なりの意味があって、あえてローマ以来の描写性を放棄したのである。ローマ時代には既に遠近法を用いた絵画があった(※1)のであるにもかかわらず、である。

宗教画として、イエスを大きく、そのほかの人を小さく描いたり、人間離れした表情で描いたり、といった描写や、最後の審判の厳しいイエスの表情など、現実描写ではない部分に宗教的意味を与えていたのだ、と言うことだ。そう言う文脈を念頭に置いてルネサンス芸術を考える必要がある。今年はイタリアでルネサンスの洗礼をを受けたわけだが、そこに至るまでの美術史についても勉強を進めなければならない。

※1 皇帝ネロのドムス・アウレアである。

塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社、2001年、55頁

Classical,Concert

Semperoper

先だって、ドレスデン国立歌劇場(ザクセン州立歌劇場?)のばらの騎士公演に付随して、シュターツカペレ・ドレスデンのメンバーから構成されるドレスデン歌劇場室内管弦楽団 Dresdener Kapellsolisten の公演に行ってきました。僕たちが見たのはプログラム2で、曲目は以下の通りです。

  1. コレッリ 合奏協奏曲ト短調「クリスマス協奏曲」
  2. ヘンデル 「オンブラ・マイ・フ」
  3. モーツァルト ファゴット協奏曲変ロ長調K.191
  4. バッハ 「ヨハネ受難曲」より「融けて流れよ、私の心」
  5. バッハ 「主よ、人の望みの喜びよ」
  6. モーツァルト もてっと「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」

アンコールで、ヴィヴァルディの「冬」が演奏されました。

ソプラノの森麻季さんも出演されていて、透き通る高い声を愉しませてくれましたが、一番の収穫は、コンサートマスターのスザンネ・ブラニーさんのヴァイオリンでしょうか。アンコールで演奏されたヴィヴァルディの「冬」のソロ・ヴァイオリンが凄すぎでした。豊かな倍音の音に加えて、雄々しいともいうべき強烈なフレージングに、観客席が一瞬どよめいたようにも思いました。巧い方っていうのは本当にたくさんいらっしゃるのですね。ブラニーさんは、ドレスデンに生まれてドレスデンで学ばれてドレスデンシュターツカペレの第一ヴァイオリンになられた方ということで、生粋のドレスデン人でいらっしゃるようです。
個人的には、コレッリの合奏協奏曲を聴けたのも収穫でした。この曲は知らなかったのですが、いいですね、コレッリは。CD買おうかな、と思いました。
帰り間際、会場ではシュターツカペレドレスデンのCDや森麻季さんのCDの即売会を見ていたら、ばらの騎士が売っていたので、こころがゆらりと動いたのですが、何とか押しとどめました。森麻季さんのCDはAmazonで買いましたので、またレポートしたいと思います。