辻邦生「雲の宴」を読んで
- 雲の宴〈上〉
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- 発売元: 朝日新聞社
- レーベル: 朝日新聞社
- スタジオ: 朝日新聞社
- メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1990/01
- 売上ランキング: 565691
- 雲の宴〈下〉
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- 発売元: 朝日新聞社
- レーベル: 朝日新聞社
- スタジオ: 朝日新聞社
- メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1990/02
- 売上ランキング: 671447
かねがね、バルザック、ディケンズ、ドストエフスキーといった小説全盛時代の、作家と読者の熱い関係を、このジャンルの本来的な在り方ではなかろうか、と考えていた。この時期、小説は知的に読まれるものではなく、一喜一憂しながら、主人公と運命を共にしてゆくものだった。小説がこうした本来の一喜一憂性を失ったために、それはいつか認識の道具になり、また文体意識の自閉的存在となっていった。
「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、195ページ
昨週末に「雲の宴」を読了しました。久々に「おもしろい」冒険小説を読んだな、ということもありますし、より根源的な「生きること」を考える契機にもなりました。
すべて心なのよね、この世の幸不幸を決めるのは。物がいくらあったって、心が不満なら、ぜったいに人間て幸福にならないもの
『雲の宴(上)』、朝日文庫、1990年、177ページ
いくら、CD持っていても、本を抱え込んでいても、なけなしの預金があっても、心が不満じゃあ、幸福にはなれないなあ、と。今の境遇を強制的に満足なものである、と認識を変えていくか、あるいは、今の境遇を捨て去って、思うがままに生きていくか、どちらかしかないなあ、と思うのでした。おそらくは前者の道を取ることになるのでしょうけれど。全ての事象は人間の認識であるが故に、認識を変えれば、境遇も変わるという感じでしょうか。
それにしても、この小説は、辻文学の中にあっては異質な光を放っていると思います。そのあたりのことも「永遠の書架にたちて」に所収されている「『雲の宴』を書き終えて」のなかにヒントが書いてありました。辻邦生さんは、いつもは事前にあらすじが決まっていて、そこに向かって書いていくから、だいたいは事前の意図通りに仕上がることが多いのだそうですが、「雲の宴」に関して言えば、そうではなく、登場人物が勝手に動いていったのだそうです。最初は意図通りに戻そうとしたのですが、途中であきらめて、なすがままに書いていったのだそうです(「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、194ページ)。そう言うことを、高橋克彦さんのエッセイでも読んだことがあります。高橋克彦さんは、まず登場人物の身上書を書き上げるのだそうです。そうすると自然に登場人物が行動をはじめるのだとか。そういう憑依的な小説の書かれ方というのも、部外者から見ればとても不思議に見えますが、そうそうあり得ないことでもなさそうです。
確かに、他の辻文学のような堅牢強固な石造りの建造物のような堅さはありませんが、奔放に動き回る登場人物と一緒にパリからルーマニアへいたり、地中海を縦断して西アフリカへと向かう喜びを味わうことができるのです。
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