ほんとうにごめんなさい。今日も短めです。最近調子が悪くて書く時間がありませんね……。
今日もナクソス島のアリアドネでした。本当はベーム盤を聴く予定だったのですが、聴けずじまい。明日こそはベーム盤を聴こうと思います。
後一日で会社も終わりですね。今週末はゆっくり過そうと思います。やることはたくさんあるのですが。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
ほんとうにごめんなさい。今日も短めです。最近調子が悪くて書く時間がありませんね……。
今日もナクソス島のアリアドネでした。本当はベーム盤を聴く予定だったのですが、聴けずじまい。明日こそはベーム盤を聴こうと思います。
後一日で会社も終わりですね。今週末はゆっくり過そうと思います。やることはたくさんあるのですが。
今日も短めになってしまいます。ごめんなさい。
いつものように6時半に起床して会社へ。担当しているプロジェクトが思うように進まなくて難儀しています。なかなか上手くいかないのが世の常ですので、あまり気にしていません。
それから、今日、ある人が「ものをなくしたら、厄が落ちたと思っている」という風に言っていました。僕の後輩のブログにも先日同じようなことが書かれていました。そういえば、僕もものをなくしたら(ボールペンとか)、悪い運気がなくなった、といって自分を落ち着かせたことがあったなあ、と思い出しました。ものをなくしたり落としたりする、というマイナスな事象を、厄が落ちた、というプラスな事象として認識するという方法の威力にあらためて目から鱗が落ちた気分です。ポジティブシンカーにまた一歩近づけたような気がします。
Strauss: Ariadne auf Naxos Richard Strauss、 他 (2001/09/18) Deutsche Grammophon |
今日も「ナクソス島のアリアドネ」を聴きました。マーラーよりも曲想は明るく、時に荘重でもあり、時に愁いを帯びるわけですが、終幕部でアリアドネとバッカスが結ばれる訳で、祝祭的な雰囲気の内に幕を閉じるわけですので、調子のあまり良くないときでも聴くと救われる気分になりますね。そう言う意味で言うと、シュトラウスのオペラで悲劇的に終るものは多くはないなあ、と言うことに気づきました。落としていたら指摘して頂きたいのですが、悲劇的結末を迎えるオペラは、有名なところでは、サロメ、エレクトラぐらいでしょうか?
これだけですと寂しいですので写真を載せようと思います。昨日と同じく、昨年訪れたドレスデンの写真です。アウグスト強王の黄金の像です。
少々帰りが遅くなりました。短めで失礼します。
なにかしら分からない不安を感じた一日でした。この連休は愉しかったですが、思ったよりも疲れていたのかもしれません。そうした不安が昂じるのは疲れている証拠なのです。仕事もちょっとした問題が発生し対処中。なんとか上手く生かせようとしていますが、難しい判断を短時間でしなければならない状況ですね。
それで、すこし疲れたので、シノポリ氏のマーラー10番を聴いたのですが、却って逆効果。それで、思い立って同じくシノポリ氏の「ナクソス島のアリアドネ」を聴いたら、少し立ち直りましたね。やはりシュトラウスに飢えているのかもしれません。明日は「アリアドネ」を聞き込んでみようかな、と思っています。
これで終るのは寂しいので、昨年のドレスデン旅行のなかから写真をピックアップ。ゼンパーオーパー前の広場の騎馬像のシルエットです。
昨夜は友人が遊びに来ました。それでまあ家で飲んだわけですが、お酒を飲むこと自体久しぶりなことでして、少々飲み過ぎてしまいました。ビールは良いとして、その後の泡盛がいけませんでしたね。つい先だって閉店セールをしていたスーパーで買ってきた久米仙、少々飲み過ぎて、朝までアルコールがぬけなかった感じでした。ですが、お昼頃まで休んだらすっきり。やはり蒸留酒は悪い酔い方はしないようですね。とはいえ飲み過ぎたのは事実なので反省しております。まあ、このところほとんど飲んでいませんでしたから、良かったかな、と。
それで、午後には吉田秀和さんの「吉田秀和作曲家論集(1)ブルックナー・マーラー」をぱらぱらとめくっていたのですが、それだけでもうショックを受けてしまう。どうしてこんなに透徹で正直で論理的で詩的な文章を書くことが出来るのでしょうか。心酔してしまいそうです。しかしやはりこここでも僕が楽譜を読めないと言うことが障害になるのでした。今はタスクが多すぎて、そこまで手が回らないだろうというのは分かっているのですが。しばらくこちらも我慢しましょう。
マーラーの交響曲で言えば、レヴァイン盤を勧めておられました。ポリフォニックな新しいマーラーの響きを聴くことが出来るということでした。反してテンシュテット盤はロマン派的マーラーなのだそうです。両方のマーラー全集を聴きたいのはやまやまなのですが、小遣い帳はとっくに赤算ですので、まだちょっと我慢しなければなりません。
先日から聴いているシノポリ氏の振るマーラー9番ですが、どうも切り口が見あたらなくて困っています。遅いテンポでタメを効かせて歌っている演奏だとは思うのですが、決定的にこれだ、という感じを受け取ることが出来ずに困っています。少しマーラーはお休みにした方が良いのかもしれませんね。
昨夜は22時半には就寝しておりました。富士山に行くか行かないか迷いましたが、結局行かずに、友人達が私の家に遊びに来ると言うことで話は決定していたはずだったのですが、その後、ポイント天気予報では、15日夜半(つまり今日の夜半です)には天候が回復するから、行かないか? という話になってしまったのでした。もう富士山には登らないつもりでいたということと、やはり夜中に登るということの危険性、大雨が降った後の山ってどうなんだろう、火曜日仕事があるのに大丈夫なのか、などなどと逡巡してしまいました。
友人達と話をして、結局、今晩、友人達は僕の家に泊ることで決定。ただし、友人達は明日の朝早く出立して、日帰りで富士山頂にアタックするのだそうです。うーん、なんというタフな人々なのだろうか。もっとも、一人は某巨大組織の船乗りで、一人はフルマラソンを何度も経験し富士登山マラソンに毎年出場する強者ですから、私の体力レベルとは全くかけ離れています。
前にも触れましたが、私は、大学時代にはどんなに天気が良くても地下のスタジオで3時間練習し、その後ファミレスで練習の反省会をし続けるといったインドアな男ですから。というわけで、残念ながら富士登山は僕だけキャンセルと言うことになりました。
今回はもともと登ろうとしていた登山道が残雪の影響で使えなかったり、台風が来たり、ということでコンディションが非常に悪かったので、初心者の僕には無理だったという風に諦めるべきでしょう。ですが、来月以降、リベンジをしようと画策中です。先だって大山に登ったときのすがすがしさが忘れられないのですよ。たしかに辛かったですが、山頂に登り切ったという達成感は何にも代え難いものでしたし。
というわけで、名曲300に含まれているシューベルトの「さすらい人幻想曲」を聴いたりしていたのですが、ふとした拍子にプフィツナー(ウィキペディアではプフィッツィナーと表記されています)のヴァイオリンソナタをかけてしまいました。
Sonata for Violin and Piano op. 27 E minor – Bewegt, mit Empfindung
Sonata for Violin and Piano op. 27 E minor – Sehr breit und ausdrucksvoll
Sonata for Violin and Piano op. 27 E minor – Äußerst schwungvoll und feurig
このCD、ジャケットの美しさに魅せられて買いました。ハインリヒ・フォーゲラーの絵なのですが、その物憂げな美しさに酔わされたのです。しかし購入して大正解でした。プフィツナーの曲にそんなに親しんでいるわけではありませんが、このヴァイオリンソナタは名曲だなあ、と思います。特に第三楽章の祝祭的な気分にふれれば、どんなに暗鬱とした気分をも晴れさせる力があるのではないでしょうか。この曲を知人の結婚式のBGMにお勧めしたこともありましたね。
雨が酷く降っていますね。台風が近づいています。梅雨前線も活発ですね。
午前中は近所の眼科で眼鏡の処方箋をつくりました。先だっての会社の健康診断で、右眼の視力だけが落ちていて、左目とアンバランスになっていることが分かりました。どうりで右眼がいつもゴロゴロするわけです。それで、眼科で視力をはかったりしたわけなのですが、なかなかしっくり来る組み合わせがない。右眼を強くすれば、却って目が疲れてしまったり、乱視矯正が難しかったり。あれやこれやで二時間半ぐらいかかってしまいましたが、最後はようやくとしっくり来る形になったと思います。これでもうお昼になってしまいました。本当ならもっと早く終るはずだったのですが。それでいつものカフェで一休みして帰宅。台風情報を確認すると、もう明日夜に登るのはほとんど無理だなあ、と言うことが判明。友人に連絡して、富士登山はキャンセルと言うことに決めました。ですが、友人は広島からわざわざこちらに出向いていると言うこともあって、逢わずに変えるのもどうかな、ということで、明日自宅にお招きすることにしました。というわけで、来客の準備をしているところです。久々の来客なので、部屋を片づけないと……。
というわけで、片づけながら、テンシュテットの振る大地の歌を聴きました。大地の歌、こればかりは本当に10年以上ぶりに聴いた気がします。僕が初めて聴いた大地の歌の指揮者は誰だったでしょうか?20年前にNHK-FMでエアチェックをしたものなのですが、本当に忘れてしまいました。大地の歌は、やはりワルター盤が有名なようですが、テンシュテットの大地の歌も良いものですね。どうしていままでちゃんと聴かなかったのでしょうか。その分別の音楽を聴いていたと言うことなのでしょうが、計画性をもって聴くことも大事ですよね。
それで、かつて取り上げた「名曲300を聴く」にひるがえってみたのですが……、ああ、まだ80曲も聴いていないのでした。300曲到達に向けて入手したりしたものの、聴けていないものが多いです。オペラの予習やマーラー漬が原因なのですが。また聴き始めよう。そしてもっと頑張ろうっと。
Composer | 計 | 既聴 | 割合 |
J・S・バッハ | 13 | 11 | 85% |
R・シュトラウス | 9 | 9 | 100% |
アイヴズ | 1 | 0 | 0% |
イベール | 1 | 1 | 100% |
ヴィヴァルディ | 1 | 1 | 100% |
ウェーバー | 1 | 0 | 0% |
ヴェルディ | 7 | 5 | 71% |
エルガー | 2 | 0 | 0% |
オルフ | 1 | 1 | 100% |
ガーシュウィン | 2 | 1 | 50% |
グリーグ | 2 | 2 | 100% |
グレツキ | 1 | 0 | 0% |
コープランド | 1 | 1 | 100% |
コダーイ | 1 | 0 | 0% |
サティ | 1 | 1 | 100% |
サン=サーンス | 4 | 2 | 50% |
シェーンベルク | 2 | 2 | 100% |
シベリウス | 5 | 4 | 80% |
シューベルト | 12 | 8 | 67% |
シューマン | 11 | 10 | 91% |
ショーソン | 1 | 1 | 100% |
ショスタコーヴィチ | 6 | 5 | 83% |
ショパン | 9 | 4 | 44% |
スカルラッティ | 1 | 0 | 0% |
スクリャービン | 2 | 1 | 50% |
ストラヴィンスキー | 4 | 3 | 75% |
スメタナ | 1 | 1 | 100% |
チャイコフスキー | 7 | 7 | 100% |
チレア | 1 | 0 | 0% |
ディーリアス | 1 | 0 | 0% |
ドヴォルザーク | 5 | 5 | 100% |
ドニゼッティ | 2 | 0 | 0% |
ドビュッシー | 7 | 4 | 57% |
ニールセン | 2 | 2 | 100% |
バーンスタイン | 1 | 0 | 0% |
ハイドン | 7 | 1 | 14% |
パガニーニ | 1 | 0 | 0% |
ハチャトゥリアン | 1 | 0 | 0% |
バルトーク | 3 | 3 | 100% |
ビゼー | 2 | 2 | 100% |
ヒンデミット | 1 | 1 | 100% |
ファリャ | 1 | 1 | 100% |
フォーレ | 3 | 3 | 100% |
プッチーニ | 5 | 5 | 100% |
ブラームス | 13 | 13 | 100% |
フランク | 2 | 2 | 100% |
ブリテン | 1 | 1 | 100% |
ブルックナー | 4 | 4 | 100% |
プロコフィエフ | 5 | 2 | 40% |
ベートーヴェン | 27 | 26 | 96% |
ベルク | 1 | 1 | 100% |
ペルゴレージ | 1 | 1 | 100% |
ベルリオーズ | 2 | 1 | 50% |
ヘンデル | 3 | 2 | 67% |
ホルスト | 1 | 1 | 100% |
ボロディン | 1 | 0 | 0% |
マーラー | 8 | 7 | 88% |
マスカーニ | 1 | 1 | 100% |
ムソルグスキー | 3 | 2 | 67% |
メシアン | 1 | 1 | 100% |
メンデルスゾーン | 6 | 6 | 100% |
モーツァルト | 34 | 20 | 59% |
モンテヴェルディ | 1 | 0 | 0% |
ヤナーチェク | 3 | 2 | 67% |
ヨハン・シュトラウス? | 2 | 1 | 50% |
ラヴェル | 8 | 6 | 75% |
ラフマニノフ | 3 | 3 | 100% |
リスト | 4 | 1 | 25% |
リムスキー=コルサコフ | 1 | 1 | 100% |
レオンカヴァッロ | 1 | 1 | 100% |
レスピーギ | 1 | 1 | 100% |
レハール | 1 | 1 | 100% |
ロッシーニ | 2 | 1 | 50% |
ロドリーゴ | 1 | 1 | 100% |
ワーグナー | 6 | 2 | 33% |
総計 | 300 | 220 | 73% |
プラトンの生誕祭にあわせて、プラトン・アカデミーでは、「饗宴」をもした哲学を語る宴が開かれるのでした。メディチ家当主ロレンツォはもちろん、フィレンツェの碩学の面々があつまり、語り手フェデリゴはその書記役として饗宴の末席に連なることになったのです。
さまざまな問題が語られるのですが、ロレンツォは、こうした哲学的な議論は、アカデミックな場にとどまるだけであってはならず、たとえば、自分がいま手がけようとしているイモラ領の買収といった高度な政治的駆け引きに於いても哲学的な議論が有用でなければならないのだ、と言うのでした。
それをうけてフィチーノは、まさにその通りなのである、とその議論を引き継ぎます。すなわち、<神的なもの>は、世のあらゆるものに分有されていなければならず、たとえば美しい桜草を見るとき、そこに美しさを見いだすのと同じように、政治活動や経済活動に於いても、神的なものが分有されているはずなのだ、というのです。確かに、桜草を見たときに感じる美しさのほうが強いのは、神的なものが桜草には濃く現れているにはちがいないのですが、桜草以外の現世のあらゆる事象に神的なものを見いだそうとするパースペクティブが重要なのだ、と解くのでした。
これは辻邦生師が行っている、この世を支えているのは美しさなのであるが、その美しさとは決して芸術作品などの美しさなどではないのであって、たとえば、日の光や木々のざわめき、鳥のさえずりと言った自然物から、コンクリートの建築や、日々の雑多な作業などを支えているのは「美」なのである、という考え方が現れている部分だと思います。
これを額面通り受け容れることが出来るかどうか、人それぞれだと思います。しかし、以下の点について留意しなければならないのではないでしょうか。辻先生は、美が現実を支えているという構造を現実に体験していると言うよりも、むしろそうした状況を意志している、ということが言えるのではないでしょうか。ちょうど、カントが純粋理性批判に於いて超越論的演繹法という形で、科学が成立するための諸原理を考えたのと同じように、この世を美が支えていなければ、どうなるのだろうか、というある種の直観的な意志に基づいて語っているような気がしてならないのです。そうでなければ、人間世界は成り立たない、という危機感によるものではないか、とも思います。
次回は「窖」について書いてみたいと思います。
昨日まで毎日シノポリ氏の9番を聴いていたのですが、なかなか言葉が思い当たりません。テンポが遅め設定ですが、うねるような重厚な響きに圧倒されているのでしょうか。それとも、僕のなかで違和感を感じないほど寄り添ってくれているのでしょうか。もう少し時間をおいて向き合おうかなと思いました。
というわけで、今日は久しぶりにシュトラウスの「カプリッチョ」を聴いています。何度も紹介したベームさんの指揮による盤です。今回聴いてみていいなあ、と思ったのは、ディースカウさんがオペラについて歌うところ。22トラック目です。以前にも書きましたが、ここで使われる旋律は原稿の音楽のそれと同じなのです。あの気を失うぐらい美しい旋律にディースカウさんの雄々しく個性的な歌い回しが入ってくるところ、素晴らしいですね。ベーム盤は何回聴いたでしょうか。この9ヶ月ほどでもう何十回と聞いているに違いありません。
それにしても、この三週間ぐらいマーラーばかり聴いていましたので、やはり少々疲弊しているようです。マーラーに当たった、とでも表現したらいいのでしょうか。幾ら好きなものでも、三週間も聴き続ければ少し疲れるのは当たり前ですよね。あの美味しい生牡蠣をパリで食べたというのに、夜半にかけて嘔吐し続けたことを思い出しました。美しいもの、美味しいものには気をつけなければなりません。
明日で会社はおしまいです。今週末は14日から15日にかけて富士山に登る予定でしたが、流れました。一つは台風の影響、もう一つは雪解けが遅れていて、登山道が開通していないと言うこと、の二点です。厳密に言えば、山梨県側登山道と御殿場の北よりの登山道は開通しているのですが、予約をした山小屋のある登山道はまだ開通していません。というわけで、15日の夜から開通している登山道から登って、ご来光を頂上で眺めようと思っています。さて、どんな絶景が待っているのでしょうか? 楽しみです。
今日は梅雨中だというのに、綺麗な夕焼けが見えました。少し早めに帰ってきたので見ることが出来たのです。あわててカメラをもって写真を撮ったのですが、ちょっと失敗。ISO800で撮っていたので、ノイズが乗っています。これからは写真を撮る前にISO感度を確認して、撮ってからもISO100にもどすように習慣づけようと思います。
春の戴冠、上巻も半ばを過ぎてきました。小さかったサンドロ(ボッティチェルリ)も、語り手のフェデリゴももう十二分に大人になりました。サンドロはフィリッポ・リッピの工房から別の親方の工房へ入ったのですが、人気が出てきたこともあって独立した工房を構え、肖像画などを描く仕事をしています。語り手のフェデリゴは、フィチィーノに弟子入りし、師匠の原稿の清書をしたり、後輩のギリシア語の先生になったりしています。フェデリゴは結婚していますので、もう20代も半ばにさしかかったところでしょう。
フィレンツェ(文中では、フィオレンツァ)の情勢はといえば、コシモが死に、息子のピエロが死に、孫のロレンツォがメディチ家の当主となりメディチ銀行をやりくりするだけではなく、フィオレンツァの政治的安定と覇権を確保すべく活躍しています。 フィレンツェの主要産業は毛織物なのですが、毛織物を染色するためには、媒介剤となる明礬が不可欠です。ところが、明礬はオランダでとれたり、教皇領でとれたりという感じで、なかなか安定供給が見込まれない状態。毛織物業者の中にも廃業するものが出てきたのですが、そんな折、フィレンツェ領内で明礬鉱が発見され、大騒ぎになります。ところが、明礬鉱が発見されたヴォルテルラの住民が叛乱を起こし、ロレンツォは完膚なまでにヴォルテルラの住民を虐殺するのでした。
一方、サンドロとは言えば、今そこにある桜草を描くのではなく、この桜草を通じてそこに現れている神的なものもを描き出そうとしています。他の親方は「ものから目をそらすな」といった具合に、現実認識を拡張していくことで、そこに美を求めようとするのですが、それはそれでいつしか破綻を来すのは必定なのです。人間の認識能力は有限ですので、認識すればするほど地平は広がり、認識すべきものの多さと大きさに圧倒されることになるのです。いわば経験論的な世界観とでも言いましょうか。サンドロはそうではない。いまここにあるものの背後にある神的なもの、あるいはイデアールなものをとらえて、それを描き出そうとしている。そう言うやり方なのです。この構造には見覚えがありますね。「嵯峨野名月記」の俵屋宗達のスタンスと同じです。あるいは、「小説への序章」で語られる、神の死後に改めて認識される世の不可知性の問題です。バルザックの頃までは、経験によって全世界を把握しようという試みは可能であったかも知れないけれど、いまやその可能性はないのです。そうなると、芸術家はパースペクティブを変えなければならない。帰納的認識から演繹的な認識へといこうしなければ、無限大に連なる世界を表現することなど能わないのです。辻邦生師のなかに一貫して現れるテーマがここにも当然のように登場していて、それを読むたびになぜか甘美な思いをするのです。
たしか、前回読んだときには、サンドロの芸術的信条がもう一二度転回していく、というのを覚えています。これからどのようにサンドロが成長していくのか、そしてフィオレンツァの行く末はいかなるものへとなっていくのか。二度目だというのにわくわくしますね。もちろん、歴史的事実として、このあとサルヴォナーラが登場して、フィオレンツァのルネサンスは小休止を強いられる訳なのですが。
最近、思い立って、フィレンツェの地図をガイドブックからコピーして、読みながら、場所を把握するようになってきました。フィレンツェには行ったことがありませんので、土地勘が全くありません。せめて地図と本でフィレンツェを満喫できればいいな、と思いながら読んでいます。もちろん辻邦生師の文学への理解がいっそう深まることを願っているのは言うまでもありません。