Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
辻邦生全集〈9〉小説9

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辻 邦生
新潮社 (2005/02)
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辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
辻 邦生
新潮社 (2005/03)
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春の戴冠を読んでいます。ようやく上巻の半分ぐらいまで来ました。前回読んだときよりも読む速度が早まった感じ。おそらくは読書時間が昔より増えたからだと思います。というのも、昔は会社の近くに住んでいましたので、通勤時間に本を読むと言うことができなかったからです。家が近いと、遅くまで仕事をしてしまいがちですし、疲れていると部屋で本を読もうにも、臥せってしまうことが多かったのでした。当時は明け方まで働くこともありましたからね。それに比べれば最近は早く帰らせて貰っています。ともかく、そう言う具合で読み進めているのですが、二回目ということもあって、内容を朧気にも覚えていますし、あるいは、覚えのないエピソードに遭遇して、嬉しくなったりしています。 ちょっとしたことですが、印象的なところ。マルコ・ヴェスプッチとシモネッタの婚礼の場面で、知り合いの親方がフェデリゴに目をつぶって遠くから挨拶をするシーンがあるのですよ。こんなシーンです。

叔父カルロの競争相手の毛織物製造業者ベンボも片眼をつぶって、遠くから私へ挨拶した。

春の戴冠 144頁 ここを読んでため息が出ましたよ。そうそう、そうなんですよ。日本人は目をつぶって挨拶する風習などあまりありませんね。もしそんなことをしたら気障な奴、と言われるに違いないのです。ですが、外国ではありますよね。映画でも観ますし、旅行中も見たことがあるような気がします。日本にはない風習であるからこそ、この一文を書かれたとことで、大きな現実性が付加されるわけですね。

語り手であるフェデリゴは、商人マッテオの息子です。マッテオは、事業に砕身しながらも、夜にはギリシア語で古典を読むという習慣を持っています。マッテオは、商売を営む現実人でありながら、ギリシア古典に親しむ理想的な人文主義者でもあるのです。マッテオのようなスタンスを撮る人間がフィオレンツァには多いのだ、という設定になっています。

現実と理想とのバランスに於いて生きるというスタイルは、「嵯峨野明月記」の角倉素庵の生き方と似ていますね。彼もやはり人文の世界で典籍に親しみながらも、ある時決意して家業に力を注ぐようになる。その二つのバランスを苦しみながらもやり遂げようとする。マッテオ達と同じなのです。その二つの世界は相容れないものではないのだ、とフェデリゴに語るのが、ルネサンス期のプラトン哲学者のフィチーノです。彼は、二つの世界を一つにまとめることが大事なのであって、現実に生きる人間こそ、理想の世界を忘れてはならないし、理想の世界に生きる人間も現実の世界を忘れてはならないのです。現実にぶつかって、株取引でもうけたり、営業成績ナンバーワンいなろうとも、一度、人は死ぬのだという宿命にぶち当たったときに、それを乗り越えるためには、一度理想世界、人文界を見遣らずには居られなくなるのだ、というわけです。

私たちもそうですよね。生きるために会社で働かなければならない。利益を上げるためには、ある種のカラクリを使わねばならない。それが善意にもとるものだったとしてもです。それでも、眼差しは本に向いていたり、音楽に向いていたり、哲学に向いていたりする。そのバランスをとることに苦慮する毎日を送っている。そうしたアクチュアルな問題をマッテオの生き様に投影させている。そう言うことなのだと思います。

一介の会社員に過ぎない私などがこういうテーマを読むと、どうしても自分に投影して見ざるを得なくなります。辻邦生師自体、大学院に通いながらも、日産ディーゼルで嘱託として働いていたと言うこともあったり、戦争が終って、文学の力に疑問を持ち、実務的な世界にあこがれていた時代があった、ということもあって、現実と理想のバランスのテーマは頻出していると思います。このテーマを考えてくれているということが、僕が辻邦生師を愛する理由の一つであると思います。

すこし、現実と理想を安易に使用した感もありますが、そんなことを思いながら読んでいます。
今回は、本の読み方も工夫しています。気になるところには付箋を入れていますし、気になるエピソードはなんとか書き出そうとしています。こうした長編を読むのは、勢いで読んでしまいがちなところもあるのですが、あとで全体を把握するためには、備忘録的なものがあった方が良いなあ、と思っています。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)
福田 和也
PHP研究所 (2004/07)
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福田和也さんの「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」では、本に折り目を付けて、あとから書き抜くという方法が紹介されていますが、これも試してみたのですが、私の場合読んでいるときに、すでに関連する物事が沸々と沸き上がってきて、すぐにメモをしないと忘れてしまうのですね。本来なら、本の中に書き込めばいいのですが(現に書き込んでいる本もありますが)、さすがに重厚な単行本に書き込みをする勇気をまだ持てずにいます。本来なら、すぐにでも書き込むべきなのでしょうけれど。あるいは、折り目を付けてしまうのが良いのかもしれませんが。それが無理なので、やむなく付箋を貼りつつ、メモをとりながら本を読むようにしています。もっと言い読み方があればよいのですが、昔から試行錯誤しながらまだ迷いがぬぐえません。

Classical

昨日書きましたように、7月4日(水)のコンサートに行って参りました。オペラシティコンサートホールに行くのは久しぶりです。2年ぶりぐらいでしょうか。コンコースの両脇にはLEDで数字が表示される独特な装飾は相変わらずす。今年で10年目になるようです。昔、ここでアンサンブル・モデルンの圧倒的な公演を聴いたのが思い出されます。もう9年も前のことですね。 Opera City Opera City

曲目のご紹介

前半

  • フォーレ:<レクイエム>より「ピエ・イエズ」
  • バッハ:<マタイ受難曲>より「皆によいことをしてくださったのです〜愛の御心から」
  •  バッハ:<ヨハネ受難曲>より「融けて流れよ、私の心」
  •  ワーグナー(リスト編曲):イゾルデの愛と死(ピアノソロ)
  •  リヒャルト・シュトラウス:解き放たれた心
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「眠りのとき」
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「夕映えのとき」

後半

  • ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「私の公爵様」
  •  ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「田舎娘を演じるときは」
  •  ラフマニノフ:ヴォカリーズ(ピアノソロ) プ
  • ッチーニ:<ジャンニ・スキッキ>より「私のいとしいお父さん」
  •  山田耕筰:曼珠沙華
  •  山田耕筰:からたちの花
  •  ヴェルディ:<椿姫>より「不思議だわ…花から花へ」

アンコール

  • グノー:アヴェ・マリア
  •  成田為三:浜辺の歌
  •  プッチーニ:<ボエーム>より ムゼッタのワルツ
  •  ドニゼッティ:<シャモニーのリンダ>より「私の心の光」

前半は、少々堅めの曲が並びましたが、冒頭のフォーレで、その高音の美しさに圧倒されました。森麻季さんの声も美しいのですが、ホールの残響音も素晴らしくて、石造りの教会のなかで聴いているような感じを受けました。高音の倍音も豊かに聞こえました。陶磁器のような美しさですね。低い音程もふくよかで素晴らしい。

それにしても、本当に絶妙で巧みなピッチコントロールだと思います。僕は、管楽器をやっているので、少々ピッチの狂いは分かる方だと勝手に思っていますが、ピッチが不安定になったな、と思ったのは一回だけだったように思います。

一番感動したのは、「私の公爵様」ですね。この曲、恥ずかしながら20年ぶりぐらいに聴いたのですが、いやあ、幼い頃を思い出して、少々涙ぐむ感じです。ウィーンの洒脱な感じを身体全体で表現しながら歌っておられました。

昨日も書きましたが、山田耕筰「曼珠沙華」の哀切な歌唱は絶品でした。こんなにも暗い情念に溢れた歌をも自家薬籠中にされておられる森麻季さんに感服したのでありました。


昨日、「信じられないこと」云々を書きましたが、それは明日にしましょう。今日書くのは少々気が引けますので。


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Classical

愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集 愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集
森麻季 (2006/10/25)
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こんばんは。
今日は少し遅い時間に更新していますので、今日こそは短めに終らせようと思います。

というのも、本日は、オペラシティコンサートホールで開催された森麻季さんのリサイタルに行って参りました。詳しい話は明日書きたいと思いますが、二時間満喫してきました。プログラムですが、前半は、フォーレやバッハの宗教曲と、シュトラウスの歌曲で厳粛な趣、後半はヨハン・シュトラウスの「こうもり」や、「ジャンニ・スキッキ」、山田耕筰、ヴェルディといった、親しみやすい曲、華やかな曲で構成されていました。

後半の「こうもり」は本当に巧かったですね。それから、山田耕筰の「曼珠沙華」の哀切でいながら刃物を突きつけられたような異様な迫力も凄かったです。新境地かもしれません。

アンコールは4曲。同じみのグノーの「アヴェマリア」、ムゼッタのワルツ、浜辺の歌、ドニゼッティでした。

今日聴いて思ったこと。

  1. 予習は、計画的にきちんとしましょう。まあ、今回はプログラムが急に変わったりしたので、限界はあったのかもしれませんし、歌曲を網羅して予習するのも少々難しいかもしれませんが。
  2. 無理をしてでも良い席を取った方が良いかもしれませんね。今日の席は身を乗り出さないと見られない席でしたので、聴く姿勢が少し難しかったです。
  3. オペラグラス、双眼鏡は、オペラではないときも持って行った方が良いですね。歌っている表情などを見るのも、生演奏ならではですし、特に歌曲のリサイタルなどでは、歌手の方がある種の憑依状態になっていますので、感動も深まると思います。
  4. それから常識ですが、開演時間の少し前には、会場に到着しておくこと。これだけはきちんと守っています。大急ぎで会場にはいって席に着くと、周りにも迷惑ですし、すぐに音楽世界に入っていけないと思います。ある程度余裕を持って(遅くとも30分前)、会場の席について、音楽が始まる前の余韻を楽しみ、聴く準備をしていくべきでしょう。音楽の善し悪しは、演奏家だけに依存するわけではありません。聴く手がどうコンディションを作り上げていくか、にもかかっているのです。

なんてことに、これからは(これからも)気をつけていこうと思います。

それから、今日はほとんど信じられないことが終盤に起こりました。演奏家の方々のことではありません。観客のことです。明日は、もう少しつっこんだ感想を書くのと、その「信じられないこと」について書いてみたいと思います。

今日は短めですが、これで失礼します。お休みなさい。

Tsuji Kunio

Haru
今日は、往路、復路ともに辻邦生師の「春の戴冠」を読むことができました。昨日は30頁弱しか読めませんでしたが、今日は40頁強ぐらい読めたと思います。サンドロ(ボッティチェルリ)と語り手のフェデリゴが徐々に大人になっていく部分です。コシモ・デ・メディチが登場し、策謀を巡らせてフィレンツェの実権を握っていくあたりまで行きました。その中で、芸術と実務の対立や、フィリッポ・リッピの華やかな生き様を賞賛するあたり、それからサンドロ現実の美しさの有限性に気付き悩み始めるところ、などを経てきました。それから謎の薬剤師トマソの登場や、コシモとの出会いなどなど、今日もいろいろあった一日でした。


今日も吉田秀和さんのビデオを見ました。桐朋学園の前身の子供のための音楽教室をつくられたり、二十世紀音楽研究会をつくられたりしたのですね。武満さんが「Ring」という作品を発表されたときにどれだけ感動したかと言うことを話しておられました。

グールドやアルゲリッチの評価の先鞭を付けられた吉田さんは、そのことを、何万もの魚の中から、これぞと言う魚を見つけるのが楽しいのだ、ちょうど釣人が、だれもつらない様な場所で魚を釣り上げたような喜びなのだ、という具合に喩えていらっしゃいました。

それから、音楽の本質は、良い機会(オーディオ)でなくても分かると思う、ともおっしゃっていました。逆に、音楽の本質をつかめないのにオーディオに投資をしても無駄だ、ともおっしゃっていました。僕自身、iPodとヘッドフォンにしかお金をかけていなくて、オーディオにはあまり頓着しない方(というか、経済的理由からできないのですが)なので、その言葉は多いに励みになりました。

チェリビダッケのチャイコフスキー5番を聴きながら、チェリビダッケは遅いというのは分かっているけれど、そこから、何が生まれてくるのか、どういう面白み、音楽の愉しみ、予想外なことが出てくるのかを見つけるのが、僕の楽しみなのだ、とおっしゃっていました。

音楽を聴かれるときは、畳の部屋で聴かれているのですが、スコアを見ながら、メモをとりながら(おそらく欧文で)聴かれていました。やはりスコアが読めないいけないなあ、と思いました。まあ何を望むかと言うことにもよると思うのですが。


また会社で少々失敗を。本当は味方にしなければならない方を敵に回したかもしれない。考えすぎはよくありませんが、まだ少々おとなしくしておいた方がよいようです。仕方がない。あすからは気持を切り替えて行きましょう。


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Gustav Mahler

今日は少し短めです。

マーラー:交響曲第9番
マーラー:交響曲第9番

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ブーレーズ(ピエール) シカゴ交響楽団 マーラー
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ブーレーズのマーラー9番を聴きました。これは、もうほとんどベルクの「ルル組曲」にきこえてしまいます。冒頭2分45秒過ぎあたりからの、弦楽合奏にトランペットがかぶってくるあたりからの音作り、これは、もう「ルル組曲」の世界です。マーラーの音楽の中には、過去と未来の作曲家がかいま見えると言いますが、ブーレーズはまさにマーラーの音楽の中にベルクを見せてくれたと行っても良いと思います。

ブーレーズは、テンポは動かしているのですが、アバドのようにドラスティックに歌わせるためにテンポをいじることはしていないようです。よく言われるようにとても冷静な音楽作りです。やはり大陸合理論の故郷、フランス生まれですね。きちんとリズムを刻んでいて、テンポを粘っこく動かしません。素っ気ないと言えば素っ気ないのですが、思った以上にこういう音作りが好きなことに気づきました。

イメージで聴いてはならないな、と言い聞かせながら聴きました。後でも書きますが、ブーレーズといって連想されるイメージをできるだけ排除して、先入観なく聴こうとしました。ところが、やはりどうしても冷徹な現代の都会のようなイメージが浮かんでくるのです。スタイリッシュで、洒脱で、メカニカルで、冷静で、人気のない感じ、です。僕の中のブーレーズの先入観を肯うしかない、と言う感じでした。

ちなみに、ブーレーズのルル組曲はこちらを愛聴しております。ルルの悲鳴がめちゃくちゃ怖いです。一人で夜聴くと、下手なホラー映画よりもこっちの方が怖いです。まあ、「ルル」自体、ホラー映画のようなものなのですが。

Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite
Alban Berg、 他 (1991/01/14)
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吉田秀和さんの特集番組を見ました。日曜日の22時からNHK教育テレビで放映されていたのを録画したのです。今日は最初の30分弱ぐらいを見たところでストップ。続きは明日以降になりそうです。

音楽を言葉に置き換えるということのすばらしさを語っておられました。並大抵の難しさではないのだ、とおっしゃっています。ですが、ぴったり当てはまる言葉や文章が見つかるときの快感と言ったら並大抵のものではないともおっしゃっていました。

僕もこうしてブログで音楽感想を書いておりますが、ぴったりとした言葉をきちんとかけているのかどうか、とても不安になることがあります。それから、たとえばブーレーズの指揮は都会的、メカニカル、といったような先入観に囚われたまま聴いているのではないか、カラヤンと言えば流麗な美しさ、という風に語られることが多いですが、そうした事前の知識の色眼鏡をかけて音楽を聴いていないか、あるいは、色眼鏡をかけたまま文章を書いていないか、ということがとても気になります。

「主題と変奏」、僕も読んだことがあるはずですが、ほとんど忘れてしまった感がありますね。また読まなければならなそうです。ああ、読む本がたくさんあります。ありがたいことです。でもいつ読むんやろか……。寸暇を惜しんで読まねばなりません。


今日の往路は、辻邦生師の「春の戴冠」の再読を始めました。これも再読せねばせねば、とずっと思い続けていたのですが、ようやく手に取ることができたという感じです。30頁ほど読んだだけでもうお腹一杯です。あまりにも素晴らしすぎて、何から離したらいいのか分からないぐらいなのです。とにかく、なかなか進みません。一つ一つの描写が美しくて、ゆっくり味わいたいと思うと言うことと、思想的な背景や、辻邦生師がどうやら悩んでいた「現実と芸術の結節」という問題が最初から取り上げられていて、自分自身の問題と重なり合うような気がして、思いを巡らせたりしていると、あっという間に電車が駅に着いてしまうと言う感じでした。

春の戴冠、本当に長い作品で、僕の感覚だと「背教者ユリアヌス」よりも長いのではないか、と言う感じを持っています。さらに、この作品を難しくしているのは、フィチーノなどのルネサンス期の哲学思想が多く盛り込まれていると言うことです。この点については、先日哲学科の先輩から話を聞いて参考書を教えて貰いました。佐藤三夫さんという方の著作と、クリステラーという方の著作の二冊です。おそらくは、辻先生もこの参考書を読んでいたのではないか、と先輩はおっしゃっていました。

でも、ほんとうにこの作品を日本人が書いたというのは、俄には信じがたいものがありますね。イタリアルネサンスをここまで流麗に美しく描かれるとは世界レベルの偉業だと思うのです。辻邦生師を初めて読んだときのことを思い出しました。日本人でもこういうふうに西欧での出来事を書いてもいいんだ、書くことができるんだ、という驚きでした。辻邦生師の文学が好きになった理由の一つがここにあります。

春の戴冠については、残念ながら文庫本は出ていません。僕は、最初に出版された版で読んでいます。これから読まれる方は全集を買うことになるのかな、と思います。


今日は短い、と言いながらこんなに書いてしまいました。ちょっと時計が気になる時間になってきました。今日はこのあたりで失礼しようと思います。また書いていきますので、よろしければおたちよりください。


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Classical

今日は、「勝手にドヴォルザークの日」に参加します。

とは言っても、僕のドヴォルザークCDの保有状況はお寒いものであることに気づきました。カセットテープにエアチェックしていた時代にはもう少し聴いていたと思うのですが、この10年間ぐらいは、集中して聴いたことがないなあ、とちょっと反省しました。 とはいえ、何かないかな、ということで、本当はスタバート・マーテルを聴いて書こうと思ったのですが、時間がなくなってしまいました。

と言うわけで、ノイマンがチェコフィルを振った「スラヴ舞曲」を聴いております。 この曲は、本当に思い出深い曲です。始めて聴いたのは、カラヤンがベルリンフィルを振った盤で、こハンガリー舞曲とカップリングされたグラモフォンのカセットテープを聴きまくった思い出があります。中学生前半ぐらいでしょうか。いわゆるドイツ音楽とは違う旋律に異国情緒を感じておりました。当時トールキンをむさぼり読んでいまして、この曲を聴きながら読むのが楽しみでもありました。

このCDにはカラヤン盤には収録されていなかった曲もいくつか収録してありまして、新鮮な気分で聴いています。ノイマンの指揮はカラヤン盤よりテンポが遅めではありますが、舞曲のノリといいましょうか、リズムを巧くタメている部分が感じらます。やはりネイティヴが振られる民族舞曲は違うなあ、という印象です。カラヤン盤を、おそらくは極度に純化されている音楽に例えるならば、ノイマン盤は、民族的記憶が肉化した音楽である、とでも言うべきでしょうか。

それにしても、最も有名と思われる第10番「マズルカ」は本当に良いですね。ああ、初めてこの曲を聴いたきっかけを急に思い出しました。小学生のころだと思います。当時住んでいた大分市に矢崎彦太郎さんがいらして(オケは失念。申し訳ありません)「新世界より」を振ったあとに、この曲をアンコールで振られたのでした。まだ40歳にもなっておられない時期で、本当に若々しくいらしたのを思い出しました。アンコールの冒頭「今日は2曲アンコールで演奏します」とおっしゃって、1曲終った後に「公約通りもう1曲演奏します」とおっしゃって会場の笑いを誘っていました。こういうことは良く覚えているものです。

かつて、チェコのプラハに行ったことがあります。プラハの国立博物館が夕陽に当たってバラ色に輝いていたのが昨日のように思い出しますね。もう何年も前の話ですが。また行きたいな、と思って、クローネ硬貨を財布に入れているのですが、あれ以来再訪できていません。夢にまで出てくるぐらいだったのですが、なかなか時間やきっかけがないものです。

ceska ceska

当時はまだ東欧の雰囲気残っていたのですが、きっともう喪われていると思います。それに物価が安かった! 観光スポットは高かったのですが、泊った部屋の近く、住宅街の中の食堂では、当時日本円で300円ぐらいでお腹一杯食べた記憶があります。観光スポットのレストランは反対に凄かったです。頼みもしないのにデザート持ってきたりして……。

写真を載せてみました。当時はまだデジカメがありませんでした。コンパクトカメラで撮ったものをスキャナで読み込んでみました。
 Prag
プラハ城から撮りました。

Prag
同じくプラハ城から。

Prag
城内の聖堂に描かれた壁画。

Prag

城内のヴィート大聖堂です。

プラハにまつわる歴史は、喜ばしいものから悲しいものまで複雑に入り組んだモザイク画のような様相があって、なかなか忘れることができません。いつかまた訪れるときのために勉強し続けたいものです。頑張ろうっと。

ちょっと脱線気味でしたが、おかげさまでドヴォルザークを聴くことが出来ました。ありがとうございました。


今日は8時に起きました。さすがに昨日の疲れはなかなか癒えません。午前中は近所のカフェで一仕事。しかし、iPodを持って行くのを忘れてしまいました。疲れているときはミスが増えるようです。気をつけなければなりません。午後は帰宅して昼寝をしようと思ったのですが、なかなか寝付けず。そのまま起きていろいろと溜まったやるべきことをこなしておりました。そんなこんなで、ブログを書いているところです。明日からは仕事ですが、午後になって酷くなってきた筋肉痛にどこまで耐えられるでしょうか……。ああ、翌日に筋肉痛が出るぐらいで良かったです。二日後に出るまでに衰えていなくて良かったですね。でも本当に静かな日曜日を過すことができました。ドヴォルザークも聴けましたし。本当にありがたいことですね。


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Miscellaneous

神奈川県伊勢原市と秦野市の境にある大山(おおやま)に登ってきました。 朝8時過ぎに、小田急線秦野駅に集合(といっても二人だけですが)。一緒に登ったのは中学校以来の友人なのですが、フルマラソンを走る強者で、毎年7月開催の富士登山マラソンにも出場しているというアウトドアな男。私はといえば、高校以来、運動、ましてや登山などする機会などなく、やったことと言えば、休日の3時間、地下の音楽スタジオでバンドの練習をしているようなインドアな男。というわけで、一緒に登ってもらったという方が正しい言い方だと思います。

Ohyama バスが登山口の蓑毛バス停に着いたのは9時前ぐらい。そこから一気に登り始めた、といいたいところですが、登り初めて5分でもう息絶え絶えな状態に。高校の頃の登山のイメージがあって、それに準じて登ろうとしたようなのですが、今の僕にはあまりにハイペースだったようです。みるみるうちにペースダウン。しかも、登山道は石がごろごろした急峻なもの。友人に言わせても、なかなか急な道だったようで、登山が久方振りの僕にとって厳しいものであったことは言うまでもありません。10分ぐらいはゼイゼイ言いながら登って、デッドポイントを過ぎたあたりから、すこし落ち着いたのですが、苦しいことは言うまでもありませんでした。本当は、いろいろ写真を撮ろうと思ってデジカメを持って行ったのですが、そんな余裕はもとよりなく、かえってデジカメの重さが苦痛に感じられるぐらい。ああ、持って行かなければ良かったと思いました(でも持って行って良かった。もっと撮れば良かったです……)。

Ohyama Ohyama Ohyama 3,40分間隔で休みながら、標高差900メートルぐらいを登って、11時過ぎにようやく山頂へ。途中で平坦な道も少しありましたが、基本的にはかなり厳しい上り坂が続いていて、山頂に立って一安心。ですが、天候のほうは微妙な具合でして、山頂では雨がふていましたし、ガスが流れているのが見える感じ。山頂には大山阿夫利神社の上社があって、参拝。記念写真を撮って、食事。登り切ったあとの食事というのも良いものですね。

食事をして少し軽くなった荷物に喜びながら、今度は下り坂。ここでも、高校時代の記憶に準じて一気に下ろうとするのですが、ものの数分も経たないうちに膝に痛みを覚える……。マジですか……。こんなにも衰えているとは知らなかった。そこからは、ペースダウンをして、段差の少ない道を選んで選んでそろりそろりと降りていきます。もちろん登りよりも気持ち的にも体力的にもとても楽でしたが、頭を使いながら降りないとなあ、という感じ。

実は、昨日(金曜日)の帰り道に、ストックを買ったのですよ。お店の人に相談して2本買ったのですが、これ、買っていって大正解でした。登り道も足だけではなく手を使って登ることができましたし、下りでも、足にかかる負担を手に分散することができましたので、膝への負担は軽くなっていたはず。それに、ストックがなかったら2,3回は転倒していたと思います。雨に濡れた登山道は気をつけてはいても滑りやすいです。ストックに支えられて何とか助かりました。ストックを持っていなかった友人もさすがに一回転びましたからね。

Ohyama Ohyama Ohyama そんなこんなで、標高700メートルぐらいの大山阿夫利神社の下社に到着。立派な社殿です。本来ならここからも歩いて降りるところだったのですが、膝への負担も考えて、ケーブルカーで下山。助かりました。

ちなみにルートはこんな感じです。

http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=659057573cdcd8454dc11f438b282657

小田急伊勢原駅までバスで30分ぐらい(意外と遠いですね)。友人の提案で、隣駅の鶴巻温泉まで小田急で移動。駅からそう遠くない「弘法の里湯」という秦野市営の温泉施設へ行きました。ここがまた良いんですよ。市営というので古いのかな、と思ったら、とても新しい施設で、気持ちよく温泉につかることができました。温泉に少々つかりすぎてのぼせてしまい、フラフラしたあと、2階の休憩所で一休み。友人はマッサージ機で体を休めていました。僕はというと、ところてんを食べてお昼寝。夕方までゆっくり休んで、施設内の蕎麦屋で夕食を食べて解散。

家に帰ると、思った以上に疲れているのに驚きました。体痛いです。というわけでそのまま眠りへ直行。朝まで12時間近く眠り続けたというわけです。

実は、次回の登山も決まっていまして、7月14日からの連休に富士山に行くことになっております。今回一緒に登ってくれた友人と、広島の船会社(?)に勤めるこれまた高校の友人と三人で。今回は標高差900メートルでしたが、次回は標高差1500メートル弱を登ることになります。果たして大丈夫なのでしょうか? 気を遣ってくれて無理のないスケジュールにはなっていますが。また明日からも昼休みは森を歩いて鍛え続けることにします。あるいは、会社の階段を上るトレーニングをした方が良いのでしょうか?? 不安がつのる今日この頃でありました。

というわけで、この日は音楽を聴けずじまい。昼寝しながら「影のない女」の皇帝の独唱や、「誰も寝てはならぬ」や、「月光の音楽」を聴きはしたのですけれど。

Gustav Mahler

Gustav Mahler

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」/亡き子をしのぶ歌/リュッケルトの詩による5つの歌
ルートビッヒ(クリスタ) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 マーラー カラヤン(ヘルベルト・フォン)
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今朝も、通勤からマーラーをおもむろに聴き始めました。ブーレーズではなく、カラヤンの6番です。朝から「悲劇的」かあ……。でも、朝の方が頭さえているから良いかなあ、と思っていました。カラヤンのテンポはアバドに比べて速い。第一楽章の疾走感はカラヤンならではでしょうか。感心したのは、冒頭の小太鼓。スネアドラムとも言うと思うのですが、その音色とリズム間が強烈に素晴らしく、そこだけ何度か聴き直しました。そのほかにもホルンがグリッサンドのような音を綺麗に出していたりしていてとてもスタイリッシュです。第二楽章は一転してアバドよりもテンポが遅いイメージ。でもグリグリと強烈なハーモニーを繰り出してきますね。往路はここまで。さすがに朝からマーラーは少し厳しいので、スムーズジャズに切り替えて、会社前の鋭気を養いました。

復路、バスが雨で遅れて、いつもの電車に乗れない。仕方がないので1本遅い電車に乗ることになったのですが、旧式の車両で、クーラーがまともに効かない。生ぬるい風が天上から垂れ下がっていて、乗車率100%の人いきれでむんむんしている。そんな中で6番聴くのはちと厳しい。正直途中でギブアップ。これってマーラー疲れでしょうかね。

 それで気を取り直して、シュトラウスの「ばらの騎士」を聴いてみると、まあ、なんて美しい! と感歎するのでした。決してマーラーが美しくないといっているわけではありません。マーラーは本当に美しい。だが本当に醜い。この世は双頭の鷲のように美と醜が混在している世界。マーラーの交響曲はそうした現実の二面性を内包している。最近読んだ新聞で、憂鬱にならないコツが紹介されていたのだが、そのうち一つは「報道番組をみないこと」でした。現実に向き合うと言うことは、それほど精神面に厳しい負荷を与えるわけで、そうした負荷をマーラーの交響曲を聴くと感じることもしばしばなのです。しかし、それが魅力なのではないでしょうか? だからこそ、あんなに個性的な交響曲群が屹立しているのです。そして、柴田南雄さんのおっしゃるように、60年代以降のポストモダンの潮流の中でマーラーの交響曲群が世界へ再浮上し始めているのです。


さて、突然ですが、明日登山にいくことになりました。丹沢山系のうち、小田急線の伊勢原駅が最寄りの大山(オオヤマと読みます)に、古い友人と一緒に出かけることにしたのです。もう15年ぐらい山になんて登っていません。とても不安ですが、何とか頑張ってきます。良い写真が撮れましたら、ブログにアップしたいと思います。明日、期待していてください。写真も頑張ります。


いつもご覧になって頂き大変感謝しています。毎日更新できるように頑張ります。今月はまだ落としていません(少し遅刻もありましたが……)。これは、僕がブログを始めてから、初の快挙かもしれません。

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Gustav Mahler

Gustav Mahler

マーラー:交響曲全集 マーラー:交響曲全集
オムニバス(クラシック)、アルノルト・シェーンベルク合唱団 他 (1995/07/07)
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本当にマーラー漬の毎日です。今日も昨日同様マーラーの5番を聴いております。第1楽章のちょうど真ん中あたり(アバド盤だと6分30秒付近)の、うねるような弦楽器の旋律に魅了されたり、第2楽章のもの悲しいチェロの噎び泣きに泣いたり、第3楽章のウィナーワルツに心を躍らされたり、第4楽章の静謐な雰囲気に浸って泣いてみたり、第5楽章の陽気な風情にすこし肩すかしを食らわされたり、と言う感じです。繰り返しになりますが、アバド氏の指揮はよく歌っていて良いですね。

というわけで、いったんアバド氏のマーラー全集は今日でひとくくりしようと思います。明日は、ブーレーズの9番を図書館から借りてきましたので、それを聴いてみたいと思います。


Shibata_Mahler

グスタフ・マーラー―現代音楽への道 グスタフ・マーラー―現代音楽への道
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岩波書店

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今日の帰りは、マーラーの5番を聴きながら、また柴田南雄さんの「グスタフ・マーラー」を読みました。マーラーの音楽史的な位置づけを再確認しました。

古典的交響曲と言えば、ブルックナーやブラームスで成熟した、音楽形式を重視したものです。一方で、ベルリオーズの幻想交響曲や、リストの交響詩、ワーグナーの楽劇において、表現重視の音楽形式もあるわけです。その両者を統合したのがマーラーである、という解釈をとられています。「巨人」はもともとは交響詩でしたし、2番、3番も合唱付きの標題音楽です。にも関わらず「交響曲」なのです。形式的な交響曲というジャンルに、交響詩的表題を導入したのがマーラーで、マーラーは交響曲の形式を破壊し新たな概念へと昇華させた、という解釈です。マーラーの後継者であろうショスタコーヴィチも15曲の交響曲を書いていますが、通底した交響曲的様式というものはないのです。さらに言えば、シェーンベルクは、弦楽四重奏曲に声楽を導入し両者を結びつけ、逆にベルクはオペラに形式を導入したと言えるでしょう。

図に表わすと以下のような感じでしょうか。
Mahler
融合を果たしたマーラー以降の作曲家をまとめてみるとこんな感じでしょうか。

  • マーラー;合唱付き交響曲、交響詩として発表された交響曲(交響詩と交響曲の融合、合唱との融合)
  • シェーンベルク:浄められた夜、弦楽四重奏曲第二番(カルテットと声楽の融合)
  • ベルク;ヴォツェック、ルル(オペラに器楽の形式を導入)

本当に勉強になりました。引き続きほかの本も含めて読み込んでいきたいと思っています。


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Gustav Mahler

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マーラー:交響曲全集 マーラー:交響曲全集
オムニバス(クラシック)、アルノルト・シェーンベルク合唱団 他 (1995/07/07)
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今日はあまり音楽を聴けませんでした。帰りはアバド氏が振るマーラーの5番を聴いていたのですが、疲れて寝入ってしまい、前半部分をあまり聴けず。かろうじてアダージェットから目を覚まして聴いていました。アバドはやっぱりテンポの緩急をつけつつ、ゆっくりと歌っている(カンタービレでいいんでしょうか?)という感じです。アバド氏は、リハーサルでは、口頭で指示をせず、身振りで指示を与えて終ってしまうというのですが、どうしてこんなにもオケを掌握できるのか、本当に不思議です。指揮をされる方は本当に偉大だと思います。


Saru
さて、現れたのはサルなのだそうです。といっても、僕は残念ながら遭遇していません。この一週間、サルが付近で目撃されているそうで、散歩道の入り口に立て看板がされていました。しかし、会社の近くにサルが出没しているなんて、想像するだけで笑ってしまいます。まあ関東の端に位置していますので、そういうものなのでしょうか。意外と近くに自然が残っていると言うことですね。


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