Richard Strauss: Der Rosenkavalier Gottfried Hornik、 他 (1990/10/25) Deutsche Grammophon |
新国立劇場のばらの騎士、6月9日に迫ってきました。 というわけで、予習を。 葉っぱに埃がついたので水をかけて払ってやったでちブログさんでもベーム盤が取り上げられていました。ベーム盤は聴いてみたいのですが、いったんはiPodに入っていたカラヤン盤(新しい方)を聴きました。
- 伯爵夫人はシントウさん
- オクタヴィアンはパルツァさん
- オックス男爵は大好きなクルト・モルさん
このオペラで僕的に一番理解が深まっていないのが第一楽章の後半、伯爵夫人とオクタヴィアンの二重唱のところです。ここばかりはほかの部分に比べて、理解が弱いなあ、と思ったので、帰りの電車の中で集中的に聴きました(今日はとても疲れて半分眠ってしまったのですが)。それで家に帰ってからも聴いています。 伯爵夫人の歌詞のなかからいくつか抜粋してみます。
時とともに流れていくものがどんなに弱いかを、感じないではいられない気持なの。このことは私の心に深く食い込んでいく。
時というものはね、カンカン、時というものはすべての物を変えはしない。でも、時は不思議なもの。ただ夢中で生きているときは全く無に過ぎない。でも突然、時のほか何物も気に留めないようになるの。
カンカン、今日か明日かはしらないけれど、あなたは去っていく。別の人のために──私よりももっと若く、もっと美しい人のために私を捨ててしまう。
このあたりの音楽的盛り上がり方、本当に素敵です。シュトラウスらしい品のある美しさ、です。 それにしても、伯爵夫人の言うこと、本当にそうです。時間こそ最大の自然力で、我々は決してそれにあらがえない。そのことを30代になった伯爵夫人はよく知っているのですが、オクタヴィアンはまだよくわからない。若者たちがそうであるように、まだ無限に時間があるように思っているからなのでしょう。私たちもきっと同じ経験をしているはずなのです。かつてはオクタヴィアンだったが、そのうちに伯爵夫人の気持が分かるようになる。まるで、若い頃はオクタヴィアンを歌った歌手が、歳を重ねて伯爵夫人を歌うようになる、ということを物語っているようですね。
「ばらの騎士」は、2003年の夏に、上野で二期会の公演があったのを見たことがあるだけです。あとはクライバーさんがウィーンで振ったDVDを見たぐらいです。ですが、今年は二回も見られますからね。楽しみです。
今朝は、気合いを入れて4時に起きて一仕事しようと思ったのですが、一時間であまりに眠たくてダウン。布団に潜ってしまいました。6時半には起きていつものように会社に行ったのですが、かなり悔しいです。今朝は多少準備に失敗した感があるので、明日は準備を万全に早起きしたいと思います。昨日の後輩のプレゼン、なんとか最後まで言ったようです。今日少し相談をしてフォローをしてなんとか完了。よかったです。この後輩が結構やる気もありますし、かわいい奴なんですね。