Miscellaneous

今日、会社は規定の公休。とあるところで、ビックバンドを聴きました。30分ほどのパフォーマンスでしたが、なかなか楽しかったです。

迫力いっぱいでした。トランペットのハイトーンを聞けたり、2ドラムのパフォーマンスをみたり。ボーカルも居て、なかなか楽しかったのです。あまりミスらしいミスもなかったですし、立派な演奏でしたし、なにより楽しい演奏でした。

ただ、30分のステージでしたので仕方がないのかもしれませんが、30分間フルスロットルの演奏でしたので、ちょっと疲れたかも。。

大学時代の先輩が昔言っていたことを思い出しました。「デヴィッド・サンボーンのライブは凄い。バラードとアップテンポの曲を交互にやるんだ」

音楽は生演奏で聴けるのがとても幸せです。録音音源とは違い、その場で演奏者の緊張感が直に伝わってきます。これが醍醐味です。

今日は短く(じつは一日遅れ)。おやすみなさい。

Miscellaneous

9月、初旬から出張や懇親会が続きました。最終週にとある報告があり、そちらの準備。で、その報告関連の残務を10月に引き続き。と思ったら、10月中旬にも報告があって。。みたいな感じで、ちょっと睡眠時間も減り気味。そんな感じで今日は一日休ませてもらいました。

昨日のNHKスペシャルで、AIを使って健康寿命の要因を探る、という番組がありました。健康寿命を延ばすためには本や雑誌などを読むことが重要、とのこと。健康寿命が長いとされる山梨県の図書館が取材されていました。県民85万人に対して、のべ99万人が図書館を利用しているとか。これは戦後間もない頃から学校に司書が配置されていて読書週間が着いているからではとのこと。現在でも、全国平均59%の学校司書配置率が100%近いそうです。

本を読むためには、図書館に行ったり、本屋に行ったり、ということで外出が増えて、健康になる、とのことですが、それだけではなく、さまざまな知的刺激をうけることも健康に良いと言うことのようです。読書すれば、健康に関する情報も入ってくるでしょうし、頭も使いますし、きっと健康に良いと言うことなんでしょう。

個人的には本が好きというよりも、なんでも知らないと、という強迫観念のようなものに追い立てられるように、本を読んだり、雑誌を読んだり、ネット記事を読んだりしている気がします。楽しむ読書という感覚は、高校時代で終わってしまったなあ。楽しむと言うより、何かを探している、ということのようです。

仕事がつまってしまうと、本を読む時間が取れなくなり、睡眠時間も減ります。健康寿命もきっと短くなるのだろうなあ、と。歳を重ねると仕事の質も変えないと、とあらためて思いました。

仕事を切り上げて、本を読んで、睡眠時間を取れば、健康になるはず。確かに、そういう時期もあったなあ、などと思ってますが、まあ、同調圧力の強い日本社会ではなかなか難しいですね。

明日ももう少し本やら雑誌やらもっと読まないと、とあらためて思いました。でも、早く寝ないと、とも。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Art,Jazz

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まず、ジャズの話です。

今日、家族で話していたこと。演奏のよしあし、あるいは好みというのはどうやれば分かるのだろう、という問いに対して答えるとすれば、大学の文化祭などのジャズサークルの演奏を一日中あるいは、期間中、ずっと聞いているのがいいですよ、となるなあ、ということ。

これは私の実体験ですが、大学2年生の時だったか、三日間の文化祭の期間中、すべての演奏を朝から夕方まで聞いていました。午前中は、1年生や2年生などまだ経験の浅いバンドが出てきて、午後になると3年生や4年生の上手いバンド、夕方とか、あるいは最終日になると、OBのバンドや時にプロなどが登場します。そうすると、自ずと、経験の浅いバンドと上手いバンドの差というものがよく分かるようになります。で、その演奏について、友人たちと夜にあーだーこーだ話をする、というのが良いのかなあ、と。

よく「とにかく上質な演奏を聴け」というアドバイスがありますが、上質な演奏だけを聴くと、それが当たり前になってしまい、ほかとの差違がわからないように思うのです。経験の浅い演奏と経験のある演奏を聞いて、批評とまでは行かずとも、誰かと語ること、あるいは自分なりに考えをまとめること、というのが、大切で、振り返ってみると、あの三日間で私はなにかジャズがわかった気がしたように思います。実際にどうかはまだ分かりません。ただ、楽しんだり、ほかの方とジャズについて会話が出来るようになった、と思います。

あるいは、これは、どんな芸術についてもおなじ、とも思います。

ヨーロッパに旅行に行って、美術館に入ると、もちろんそこの目玉の絵画というものがあるのですが、それ以外の絵画も想像を超える量が飾られています。このブログのタイトル画像(2018/10/14現在)は、ドレスデンの絵画館です。中央の絵は、ラファエロの「システィナの聖母」。実に有名な絵画。その他の絵画ももちろん有名ですため息がでるものでしたが、いろいろな違いを感じた記憶もあります。ラファエロが一点ある中で、私が知らないだけなのかもしれませんが、日本ではあまり語られない画家の作品がたくさん並んでいるわけです。そうすると、やはりそこにある何かしらの差違というものを感じずにはいられないというときがあるのです。それはもちろん優劣をつけるということではありません。しかし、個人的好みという観点で言うと、なにか違いを感じます。日本で行われる企画展でもたまにそういう差違を感じることがありますが、あのヨーロッパの美術館にある絵画の数と、その数のなかで感じる差違というものは知らなかったものでした。

とにかく、音楽であっても、文学であっても、絵画であっても、有名なものや良いとされているものだけしか相手にしない、という方法ではなく、さまざまなものをたくさん聞いたり、読んだり、見たりして、その差違を感じ言葉にする、ということが、目を養うと言うことなんだなあ、ということをあらためて思い出しました。

Johannes Brahms

以前、ブラームス2番を聴き続けていた時期がありました。

あれ以来、ブラ2が指揮者を考える基準、リファレンス音源のようになっています。

カラヤン、アバド、ショルティ、チェリビダッケ、ヴァント、ラトル、バレンボイムなど聴いてきましたが、また新たな音源を聴いています。

アンドリアス・ネルソンス。1978年生まれ。ラトビア出身。ボストン交響楽団の音楽監督になっています。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターにも就任中。

私は、かつてベルリンフィルのデジタルコンサートホールで、アンドリアス・ネルソンスが降るリヒャルト・シュトラウスを観たことがります。あれは、たしか「ばらの騎士組曲」だったか? その姿を見て、カルロス・クライバーを連想したのでした。音楽と一体になった喜びを身体中から発散していました。湧き上がるような動きと、はち切れんばかりの笑顔。音楽をする幸福感が素晴らしく、心の底から素晴らしいなあ、と思ったのを覚えています。

そのアンドリアス・ネルソンスのブラームスは、実に端正でした。テンポは中庸かあるいは少し遅めでもあります。ずいぶんのびやかに歌うところは歌い上げています。ねっとりとした感興も感じます。録音が良いというのもあるのでしょうけれど、アンサンブルが実にクリアです。モーツァルトを聴いているようにも思います。例えば、第一楽章の中間部のフーガ、実に美しく、ジュピター交響曲のようでもあります。

(そういえば、チェリビダッケのブラ2は、ブルックナーのように聞こえたのを思い出しました)

長くなりました。短くてもいいから数多く、というのがモットー。あまり書いていると、本を読む時間がなくなりますので、気をつけないと。

それではみなさま、おやすみなさい。良い週末を。グーテナハトです。

Jazz

昨日の続き。

Nearness of youはマイケル・ブレッカーのアルバム。2000年にリリースされた。もう18年にもなるのか、という驚きとともに、この文章を書いている。

Nearness of youは全曲バラードのアルバム。2007年に白血病でこの世を去ったマイケル・ブレッカーが、どういう思いでこのアルバムを作ったのかはよく分からない。

そして、このアルバムにジェームス・テイラーがThe Nearness of you、そして、Don’t Let Me Be Lonely Tonightの両曲にボーカルとして参加している。

このDon’t Let Me Be Lonely Tonightが、あのジェームス・テイラーのOne man dogに収められているのだ。One man dog は1972年のアルバム。若かりしマイケル・ブレッカーが参加しジェームス・テイラーと共演。そして、2000年のNearness of youでも、もちろんマイケル・ブレッカーと共演している。

ジェームス・テイラーの歌声は、歌い上げたり、こぶしを入れたりしない。ビブラートも抑制気味。静かで淡い歌声。恋人に別れを告げられ、それでもなお、嘘でもいいからそばにいて欲しいと願う、哀切な歌詞。それを、なにか冷めた感覚で眺めるように、歌っている。

これがいつか覚める夢であるかのように。恋人が去ったのが夢であるかのように。だが、おそらくは、それは夢ではなく、過ぎた時間は決して戻ることはない。そういう諦念を感じる歌声だ。

このNearness of youに収められたDon’t Let Me Be Lonely Tonightを聴いて、改めて、1972年のOne Man Dogに収められたDon’t Let Me Be Lonely Tonightを聴き直した。古い録音。マイケル・ブレッカーの音も違う。アレンジもなにか少し明るみを帯びたものだ。だが、そのインプロヴァイズは、リリック=叙情的でもある。跳躍する音階はなにかスリリングでもある。

四半世紀たってようやく先輩の思いを理解した気がする。

このDon’t Let Me Be Lonely Tonight、さまざまなアーテイストにカバーされている。エリック・クラプトン、アイズレー・ブラザーズ、ダイアン・シュア。

Don’t Let Me Be Lonely Tonight、名曲だ。

Jazz

ジェームス・テイラー。この歌手をなぜ聴くのか、というと、マイケル・ブレッカーとの繋がりがあるから

このOne man dogというアルバム。

大学1年の時に、マイケル・ブレッカーが好きだった私にこのアルバムを貸してくれたのだが、全く理解できなかった。当時は、またボーカルの入った楽曲を聴くことができなかった。そして、ロックというジャンルへの理解もなかった。当時聴いていたのは、フュージョンと呼ばれるジャズ、アート・ペッパー、そしてクラシックを作曲家と楽曲別に聴いているだけだった。

だから、One man dogもカセットテープにダビングをして先輩に返し、その後聴くことはなかった。

その後、時は流れ、マイケル・ブレッカーは一枚のアルバムを出した。Nearness of you、だ。

つづく

Piano

短くても良いので、少しずつなにかをブログを書こう、とあらためて決心しました。書きたいことはあるけれど、言葉に出すと逃げて行ってしまう感覚に捕らわれています。ですが、書くこと自体が大切なのでは、と。

ピアニストが毎日ピアノを弾くように、小説家は文章を毎日書きます。

私は小説家ではありませんが、それでもなお、文章を書くことが大好きで、人生において大切なことだと思っています。

小説家であろうとなかろうと、文章を読んで書くことは、生きていく上で必要なことだ、と改めて想っています。

さて、先日、とある方からCDをいただきました。スカルラッティのソナタ集。ワイセンベルクのピアノ。スカルラッティといえば、ソナチネ?というぐらい、あまり聴いてこなかった作曲家。CDをいただかなければ、聴く機会はなかったのでは、と。静謐で典雅、そして均整美にあふれる音楽。後期ロマン派ばかり聴いていた耳には新鮮です。なにか、冷たい水に手を浸したときの心地良さ、驚きのようなものを感じました。

ワイセンベルク、すばらしいです。ですが、残念ながら、私はまだピアニストの演奏を身体的感覚で掴むことは出来ておりません。それに応じた文章表現もなかなか難しい。これは本当に残念。いろいろ聞き比べてみないと

スカルラッティのソナタ集。初めて聞いたけれど、典雅な均整美にため息が出ます。ワイセンベルク、素晴らしい。

今日はいろいろ書いてばかりで本を読むことは出来ない一日。明日は何が読めるかな。

それではみなさま、お休みなさい。グーテナハトです。

Movie

先日、BSで放映されていた映画《男と女》をみました。

有名なタイトル音楽はもちろん知っていますが、実際の映画を見たのはお恥ずかしいことに初めてでした。なるほど、こういう映画だったのか、と。もっとドロドロとした愛憎劇を予想していたのですが。

とにかく映像が美しくて驚きました。ドーヴィルの風景がとてもとても美しく、なんだか夢の中の世界のようでした。夕暮れの海岸。暗くうねる鉛色のイギリス海峡。

ドーヴィルはノルマンディーの海岸の保養地です。プルーストの失われた時を求めてのカブールの近くでもありますし、あるいは辻邦生の短篇の舞台となっているル・アーブルの近くでもあり、これまで文学の中で慣れ親しんだ土地の風情を感じました。

さらには音楽の美しさ。シャンソンというか、ジャズというか、ボサノバというか、クラシックと言うか、とにかく映画の中の情感と音楽が緊密にマッチしていて、音楽だけで映画の中に込められている感興を感じることができます。

それにしても、出てくる登場人物達が、全身全霊を込めて生きているということに感銘を受けました。

主人公ジャン・ルイは高名なレーサーです。そしてもう一人の主人公であるアンヌの夫はスタントマン。いずれも危険と隣り合わせの仕事です。

以下、ネタバレ。

ジャン・ルイの妻は、ル・マン耐久レースで事故にあったジャン・ルイを心配するあまり、発狂して自殺すると言う設定。そしてらアンヌの夫は、爆破シーン撮影中に事故で亡くなっているという悲劇。夫にあるいは仕事に全身全霊を捧げた末の出来事。

さらに、ジャン・ルイもアンヌもすごいです。

アンヌは、知りあって間もないというのに、モンテ・カルロのレースに勝利したジャン・ルイに「愛している」という電報を売ってしまう。電報を受け取ったジャン・ルイは、モンテ・カルロからドーヴィルまで、フランスを一晩で横断して会いに行きます。
(この夜間のフランス横断は、なにか辻邦生の短篇「夜」を思わせるアイディアです)

それに祖手も、これが生きると言う事なんだな、と思います。この危うさに身を焦がしながらも、自分の情感に従って生きていくと言うありかた。これが辻邦生の言う「全身的に生きる」という事ではないのか、と思います。こんな生き方、日本では無理だなあ、と思います。が、せめてイデアールな世界のこととして心の中に大切にしまっておきたいものだ、と思います。

さて、ともあれ、明日からまた1週間が始まりますが、列島は台風縦断中です。東京地方もいよいよ風が激しく、窓の隙間から風が吹き込むかんだかいうなり声がしていて、幾分か心が乱れます。みなさま、どうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

ぼくは時どき思うことがある──ぼくらはもと大胆に、生きることを十全に引き受けて、ヒロイックに生きなければならないのではないか、と。

大胆に、ヒロイックに生きるとは、太陽や風や海や大地に直結して、<いま・ここ>を全身的に生きることだ。街を歩いているなら、街の中に全身的に入りこんでいる。食事をしているなら、食事の楽しさの中に全身的に入りこんでいる──ぼくはそういう生き方をヒロイックと呼びたいのだ。

「夏の光満ちて」186ページ

おそらくは14年ほど前に呼んだときに、鉛筆で印をつけていたところ、やはり今読んでも心に響くなあ、と思いました。

さまざまな試練や苦難と言うものが、生きると言うことにひもついています。現に、先日も仕事場で巧くいかないことがあるわけです。組織を代表して持っていた説明が炎上して、会議中に被弾したり。ただ、そういう経験すらも、なにか清々しく感じられるなあ、と。楽しくはありませんが、まあ、何かにその瞬間は入り込んでいることは確かです。

全身的に入り込む、というテーゼは、なにか勇気を与えてくれるようにも思います。全身的に入り込めば、まだまだ生きられるのではないか、言う感じです。人生は長く短い。この瞬間瞬間を全身で生きないと、と強く思いました。

さて、この週末台風が来るようです。被害がなければ良いのですが。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

9月24日は辻邦生の誕生日。1925年生まれですので、今年で生誕93年です。時が経つのは速く、さまざまなものが現実から記憶へ、そして歴史へと移り変わっていきます。おそらくは、後世においては辻邦生と同時期に生きてきたことをなにか愛おしく思うことがあるかもしれません。例えば、私の父が、少年向け伝記に登場するシュバイツァーのような偉人と同時期を生きていたことに憧憬を覚えるかのように。

最近、辻邦生「夏の光満ちて」を再読しています。と言っても、前に読んだのはおそらくは(記憶が正しければ)2004年頃と思います。14年前ですか。早いものです。

1980年に辻邦生はデカルト街に部屋を借りて、パリ大学で教鞭をとります。その一年間の日記が、文芸誌「海」に連載されていました。それが単行本となって刊行されているわけです。

とにかく、冒頭の東京からパリへ向かう高揚感とか、パリで部屋を借りて、調度品を整えるシーンとか、新車を買ってシャルトルまでドライブに行くシーンとか。読んでいるこちら側も、何かパリで過ごしている気分になります。

そのなかで、とても印象的だったのは、パリはローマを模倣している、というもの。ギリシア・ローマを模倣するがそこにフランスらしい優雅典雅がある、という一節。パンテオンのような事大主義的な建造物について言及している箇所における一節でした。

ナポレオンが皇帝になったのは、もちろん、西ローマ帝国の皇帝の継承なわけで、そういう観点でローマを模倣する、という解釈もあります。ですが、「背教者ユリアヌス」を読み、そこにあったローマの精神の普遍性のような議論を知っていたとすれば、それは、何か、建築だけではなく、精神のあり方にあるのだ、と思うわけです。

それは、辻邦生の一貫したギリシア・ローマへの尊敬や憧憬があるのだなあ、とも思います。それは、「背教者ユリアヌス」はもちろん、「春の戴冠」における新プラトン主義を思い出すものです。

この「パリはローマを模倣している」という一節で、パリを愛した辻邦生を貫くギリシア・ローマを体感した気がします。まるで、背中をなでるとき、その向こう側にある脊椎を感じる、といったような気分でした。

さて、最近あまり書けておりませんでした。一人の時間を少しずつ作り、いろいろと進めています。今後はもう少し書けるようにしたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。