なんだかつれづればかり。まようことしきり。
11月になって、寒くなりましたが、写真は、さきの週末の秋晴れに生えるケヤキ。じょじょに葉も落ち冬ぞなえです。
たくさんのことがやらなければならず。まあできることは限られているもで、目の前のものを粛々と片付けるだけですが、まあそれだけでも大変です。またすこしずつ夜更かしするようになってしまったし……。
そんな中、すこしこの本を読んでこころをやすめました。あすからまたがんばらないと。
おやすみなさい。グーテナハトです。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
なんだかつれづればかり。まようことしきり。
11月になって、寒くなりましたが、写真は、さきの週末の秋晴れに生えるケヤキ。じょじょに葉も落ち冬ぞなえです。
たくさんのことがやらなければならず。まあできることは限られているもで、目の前のものを粛々と片付けるだけですが、まあそれだけでも大変です。またすこしずつ夜更かしするようになってしまったし……。
そんな中、すこしこの本を読んでこころをやすめました。あすからまたがんばらないと。
おやすみなさい。グーテナハトです。
11月になりました。深まる秋。
相応しい曲は何だろう?と思いました。
思いついたのが、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」や「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。
で、マゼール盤をAppleMusicで。
マゼール盤は、巨大な演奏、という印象をかつては持っていましたが、今日聞くと、なにか音の輪郭がくっきりしたイメージで、つやのある果物が並んでいるのを眺めているような気分になりました。オレンジやチェリーが輝いていくつも並んでいるような、それも露店で、太陽の光を浴びているような、そんな感覚を持ちました。マゼールのオリジナリティは本当に素晴らしいです。
それにしても、いろいろあるこのごろ。頑張らないと。
おやすみなさい。グーテナハトです。
今日、日中、出張で都内から多摩方面へ移動しました。
途中目に入った紅葉。色づき始めた紅葉のグラデーションが青空に映えてとても美しいです。
今年の秋は一度限りです。秋の素晴らしさ。ただ、さみしさも感じます。
今年の夏は暑かったですが、振り返ると意外に元気だった気がします。その反動でなにか放心してしまっている気もします。歳を重ねると時間が経つのが速くなりますが(最近は速いことにも慣れました)、季節の巡りもあっという間ですので、気をつけて過ごさないと。
それでは。
昔、マツコ・デラックスが、「夜中にショスタコーヴィチを聴くのよ」という話をしていたのを聴いたことがあります。
確かに、真夜中に、一人でショスタコーヴィチの緩徐楽章を聴くという贅沢はなににも代え難い気がします。
私のショスタコーヴィチ体験は、記憶に残っている限りでは、ロジェストヴェンスキーが振るこの交響曲第10番です。NHK-FMで放送されていたのをエアチェックしました。SONYのHF-60というノーマルテープ両面に入れたのですね。第二楽章の一番カッコいいところでリバースがかかり悔しかったのを覚えています。
とにかく、第一楽章の深みは実に素晴らしくて、今聴いてもなにか心を打つものがあります。なにか小説のネタがたくさん詰まっているような、そんな気がします。強制収容所のイメージなのか、あるいは、深い森の中で暮らす木樵の物語か、あるいは都会の古い高層マンションの最上階で長い間一人で暮らす老人の物語か。
音楽のなかに意味を見いだすのは、危険なことではありますが、音楽体験が、作り手と聴き手の共同作業である、ということを踏まえつつ、そこになにかを感じ取ることがあってもいいのでは、と思います。
史実においては、戦争終結後の勝利の交響曲として期待されていた交響曲第9番があまりに短く軽い交響曲だったと言うことで、批判にさらされたショスタコーヴィチが、スターリン死去の後に、短期間で作曲したのがこの交響曲である、とされています。まあ本当はどうだったのかは、誰も知り得ないわけですけれど。
まあ、孤独と苦悩が描かれているんだろうなあ、とうことを漠然と考えています。
さて、10月最後の週末も終わり。明日からまた仕事。まるで毎週末に息継ぎをしている感じです。いつまで続くのか。
それではみなさま、よい日曜日の夜をお過ごしください。グーテナハトです。
辻邦生「安土往還記」は、織田信長の戦いを描いた歴史小説です。
以前はいつ読んだのか、記憶がなかったのですが、このブログの記事を調べてみると、2006年に取り上げているようですので、12年前にはなにかしら読んだということと思います。
https://museum.projectmnh.com/2006/12/04225449.php
友人に勧めて喜ばれたりもしましたので、個人的には思い出深い小説でもあります。
今回12年ぶりに読んでみると、初期辻邦生の精密な表現に心打たれるのでした。いくばくか長い文章が連なる文体は、大寺院の甍の列のようにも思います。整然と輝き、それでいてその奥には神的なものが隠されているような。
読むのが何度目になるのか、分かりませんが、読み進めてみようと思います。新たな発見があるものではないか、とワクワクしています。
うちには、新潮文庫が二冊あります。左は1977年。右は1972年。アマゾンの画像とも違うものです。古い1972年のほうが痛みが少ないので、こちらを読むことにしました。定価は120円。古本での購入時は50円。中を開くと活字がとても小さく、いまだと活字を大きく印刷し、倍の太さになるでしょう。値段もきっと高くなるでしょう。本は高くなったなあ、と思います。
さて、やっと終わった今週。しばし休んでまた戦わないと。
それではみなさま、十月最後の週末をお楽しみください。
おやすみなさい。グーテナハトです。
ふらっと、聴いてしまったのが運の尽き。
ショスタコーヴィチの交響曲第10番は底なし沼のようで、足を取られたら最後、ずぶずぶと深みにはまって行ってしまった。
暗く古い森。湿った空気を嗅ぎながら、進んでいくと、最後は、歓喜なのかパロディなのか、華々しい歓呼に迎えられる。何を信じればいいのか分からない。
そんな曲だな、と思う。
幼い頃は、ただ「カッコいい」というイメージだったが、齢を重ねると、裏側が見えてくるもの。カッコいいものには騙されてはいけない。
演奏は、ベルリンフィルをカラヤンが振ったもの。私のデフォルト盤はロジェストヴェンスキーなので、カラヤン盤はすこしスマートに聞こえる、と言う印象。これもやはりカラヤンというのは……という先入観によるものかもしれないけれど。
明日で、今週も終わるけれど、まだまだ戦いは続く。この戦い、どうもショスタコーヴィチ的な戦い、と思う。詳しくは書けないけれど……。
それではおやすみなさい。グーテナハトです。
今週、ふとしたきっかけでマックス・リヒターを聴いています。
クラシックというか、ミニマルというか、アンビエントと言うか。
かなり気に入ってしまい、これからも継続的に聴こうと考えています。
今日聴いていたのはこちら。The Blue Notebooks。2004年の作品。
イラク戦争を含めた暴力への批判をこめたアルバムのようです。こういう表現の方法もあるのか、ととても感銘を受けています。
なんだか映画音楽のようで、聴いているだけで、いろいろな情景が浮かんできてしまいます。
ただただ、だれも読まない手紙をタイプライターで打ち続ける女性。曇り空、白い大理石の壁、プラタナス、湿った風……。
それにしても、終わりのない戦い。どこもかしこも。
みなさまも秋の夜長をお楽しみください。
おやすみなさい。グーテナハトです。
昨日に引き続き辻邦生「のちの思いに」を。
「のちの思いに」、よく考えると最後まで通しで読んだのは初めてかもしれない、と思いました。
若い頃、辻先生はよく笑われていたとのこと。森有正が、80歳になったら笑わなくなるのでは、と評したそうです。で、現に最近笑うことが少なくなった、と辻先生が述懐されているのですが、このシーン、読むのがつらく思いました。晩年、事故に遭われたこともあり、身体が動かなくなっておられたそうで、やはり、この「のちの思いに」を書いておられた頃は、さまざまお辛い状況だったのだろうなあ、と思ったのでした。
後書きで、辻佐保子さんは、「お互いに覚えていることが奇妙に食い違う旅の光景をあれこれと語り合い、記憶と忘却が交錯するありさまを改めて不思議に思った」と書かれています。記憶はときに変質し、別のものに変わっていきます。まるで、金属が鋳造されなおすように(ジークフリートが、ノートゥングを鍛え直すように)、記憶は変わるのかもしれませんが、ほかの人とすりあわせをしない限り、記憶が変わっていることにすら気がつきません。おそらくは、記憶そのものが真実に変わっていくのでしょう。そうした記憶を元に、歴史が語られ、歴史書となり、それが真実になっていくこともあるのでしょうから、なにか記憶への畏れのようなものを感じずにはいられません。
おそらくは、人の数だけ記憶があり、人の数だけ歴史があるのだが、語られる歴史はそのなかの一つでしかない、といった感覚を最近は持っています。
長くなりましたが、今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。
昨日に続き、「のちの思いに」を読んでいます。辻佐保子さんの後書きには、「御世話になった方々へのお別れ」という趣旨のことが書いてありますが、辻先生が出会ったたくさんの人々との出会いが綴られています。
とくに、衝撃だったのは、辻先生のお母様が、避暑地の松原湖にみえたときの話。辻先生とお母様が二人で山登りを楽しみ、美しい池の畔で休んでいるとき「もう母はここに二度とくることはないのだ」という思いに達するのです。この達観、私には、人生の、あるいは記憶の悲しさ、とまずは思いました。それは非情であり容赦ないものではあるのですが、がゆえに、今、ここの大切さ、を認識すると言うことなのだと思います。
先日、「言葉が輝くとき」のなかから、「かりそめに過ぎて」というリルケの詩を取り上げました。かけがえのない体験というものは、おそらくは、記憶の中に生き続けるのだろう、と思います。
そういえば、2000年頃だったか、夜中に帰宅しているときに「あ、きっとこの瞬間をいつか忘れることになるだろう」と直観した瞬間を記憶しています。しかし、忘れることはなく、あの瞬間を今でも覚えています。それは、詩的ななかけがえのある瞬間というわけではありませんが、おそらくは一生涯あの微分点のような瞬間を覚えているはず。
いろいろ考えること数多……。
さしあたり、今日はここまでです。
東京地方は久々の快晴だったように思います。先週一週間は、なんだかずっと仕事場にこもって仕事をしていた、あるいは、外の風景を観る余裕もなくすごしたような気もします。
さすがにハードな一週間の後で、週末は、少しゆっくりさせてもらいましたが、今度は家の仕事が出来ませんので、難儀だなあ、と思います。
そんな中で、すこしばかり辻邦生「のちの思いに」を少しつまみ読みして、すこししんみりとした感じです。。最後のフィクションとなってしまったこの作品は、自伝的な風合いで、大学入学から、フランス留学、帰国後のことが描かれています。
と、かんがえたところで、先に書いた「しんみり」という言葉はあまりに軽すぎる、とも思いました。人生と記憶の素晴らしさと悲しさ、というところでしょうか。重いテーマです。
結局、つれづれを書くつもりが、辻先生のことを書いてしまいました。
明日からまた戦わないと。
それではみなさま、おやすみなさい。