アバドの交響曲第5番を聞きながら思うロマン派音楽のことなど。
短いエントリー(と思った長くなりそう)。
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帰宅時に聞いたアバドのマーラー交響曲第5番が素晴らしくて。
アバド、艶が合って、ダイナミックな演奏で、なんだか本当に懐かしい気分になりました。
まだまだ美しさが信じられた20世紀の所産、という感じ。
マーラーの時代は、まだまだ美的なものへと迫っていくことができた気がします。そしてなお、平和の喜びに溢れていた1990年代、バーンスタインが、ベートーヴェンの歓喜の歌の「フロイデ=喜び」を「フライハイト=自由」を読み替えて歌わせることが許されてしまうような時代。夢のような時代。
いや、これはもう、何か、自分が齢を重ねて、世の中がわかってしまったように思ったが故に、かつてのようなまだ歴史があった頃を思い出した時に感じる懐かしさのようなものなんだと思います。
私は、クラシック音楽の中でも18世紀古典派以降のクラシックというものは、そこに政治的啓蒙主義から市民革命へと向かうイデオロギーがあった、と思っています。そう感じたのは、ヨハン・シュトラウス《こうもり》を新国立劇場で見て思ったのでした。あの、ウィナーワルツのヨハン・シュトラウスの傑作オペラに、多様な政治的意図が満ち溢れているということを、気づいてしまったわけです。ここにはそれを書くことはあえてしません。それは、おそらくは、現在の日本においては当たり前すぎてわからないのだけれど、当時の状況に思いを寄せた時に、そこに溢れている政治的意図のようなものを見て取ってしまい、そこで様々なものに糸が通るような思いを感じたのでした。
リヒャルト・シュトラウスの死、いや、そうではなく、リヒャルト・シュトラウスのメタモルフォーゼンの最後、ベートーヴェンの葬送行進曲のフレーズをを書いたところで、ロマン派は終焉を迎え、以降世界は変わったのではないか。何か、そうした思いを感じるわけです。
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言葉が言葉通りとならず、美的なものが美ではなく、あるいは、真善美というイデアがない時代にあって、何が規範となるのか。その答えが懐中にあったとしてもここには書くことはできないでしょう。ただ言えることは、大きなことではなく、小さなことから美しさを作ることしかできない、ということです。世界は変わりません。ですが、自分は変われます。そういうことなんだと思います。
ますます冬が近づく今日この頃。皆様もどうかお身体にお気をつけて。
おやすみなさい。グーテナハトです。
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