Jazz

はじめに

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どうも暑い。で、ヤングコーンを食べました。初夏が旬だそうです。そろそろ終わりですかね。
暑いのはみなさまも同じだと思います。でも、今年はなんだかこれまでとは暑さの感じ方が変わりました。地球温暖化による気候変動なのか。
ですが、最近は太陽の活動が弱いらしく、長いスパンで見ると今後は寒冷化が進むのではないかと言われているそうです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41356
だからといって、アマゾンの森林を焼き払うことに合理性はありませんけれど。
寒冷化と中国の王朝の興亡はリンクしているそうです。最近の大きな寒冷化は1600年頃だそうで、そういう意味で言うと、明から清へと王朝が変わった次期に当たります。
当時は対岸の火事でしたが、現代においてはどうか。平和が一番ですが、個人の努力でどうこうするにも限界はあります。「嵯峨野明月記」で言われていた、変転する波の中を我々は生きているのです。それが人類史というものです。
とはいえ、手をこまねくのもなにか癪に障りますので、できることはないかしら。なーんてことを考えています。

今日の本題

今日も納涼音楽として、ジャズ系を。旧いアルバムですが、Four Playを聴いています。1993年のアルバムBetween Sheetsです。
おすすめはこちら。Flying east。

それから、Amoroso。リトナーのソロが、リトナーらしくていいです。

なんというか、冷房のキリッと聴いた部屋で聴きたい曲です。ですので納涼系。このころのFourplayのギターは、最近私が執心しているリー・リトナーです。
と、ここまで書いて、改めて思うのは20年前のアルバムということ。きっと今の若い方々には全くシンパシーないんだろうなあ、なんてことを思います。80年代の残滓のようなものを感じる90年代前半の音作りです。こういうプロデュースの仕方って今もあるんでしょうかね。最近の音楽をあまり聴けていないので、というところです。いろいろ聴きたいんだけど、といって動けないのが歯がゆいです。

元の話に戻る

元の話に戻りますが、言うほど気候としては急激に暑くなっているようなことはない、というのが事実のようです。だとすればこの感じ方の違いは何なのでしょうか。
空調が発達したことでしょう。熱交換で屋外に熱が排出されます。効率化で皆神な空調を使うようになりましたし、熱中症対策で空調を使うことが奨励されていますから。
それよりももっと言えるのは体調の変化でしょう。アルコールをやめて、体調は絶好調なはずなんですが、どうも暑さへの耐性が緩んでいるのかもしれません。バテやすくなったのかも。去年もやはりバテバテでしたから。そして去年も同じ時期にやはり禁酒をしてます。全く。。
今日は、とある原稿を書き終えて提出しました。次の原稿は10月。本業系なので少し気が重い。。もうひとつぐらい原稿が来てほしいとも思います。
ではグーテナハトです。

Vocal

ベルリオーズ:抒情的情景「エルミニー」、歌曲集「夏の夜」/ラヴェル:歌曲集「シェエラザード」
ヴェロニク・ジャンス
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本当に暑い一日。
こんな日には涼し気な音楽を聴きたいものです。
というわけで、ベルリオーズの「夏の夜」を聴いています。ベルリオーズの代表作の一つとされているオーケストラによる伴奏付きの歌曲で、ソプラノやメゾソプラノ独唱で歌われることが多いようです。ニコライ・ゲッダなども録音してますので、男声もありのようですね。
曲調は、フランス歌曲らしく典雅で優美なものです。いずれもテオフィル・ゴーチエの詩です。もともとは「死の喜劇」として1838年に出版されたものを、ベルリーズが1840年ごろに作曲しました。薔薇の精、恋人をなくした漁夫の哀歌、去りゆく恋人を歌う歌、墓地の歌、未知の島を歌う歌、などなど幻想小説家としてフランス文学史に名をのこすゴーチエの情感ある詩についた曲ですので、おのずとそうした曲調になります。
NMLでいろいろ聴いていたのですが、今のところ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとヴェロニク・ジャンスの録音がいいなあ、と思います。
今日聞いているのはヴェロニク・ジャンスのほうです。
オッターはメゾですが、ジャンスはソプラノです。ただ、ジャンスのレパートリーをみてみると、《ばらの騎士》のオクタヴィアンや《ナクソス島のアリアドネ》の作曲家などがレパートリーに入っています。メゾのレパートリーとかぶっています。ですので、声質は軽くなく重心の低い落ち着いた声質です。
ジャネット・ベイカーのようなメゾソプラノが歌うと、(私にとっては)少し沈鬱な感じに聞こえてしまい、典雅さが少しなくなってしまう気がしてなりません。落ち着きすぎてしまうのです。それはそれでいいのかもしれず、好みの問題であると思いますが。
ちなみい、ジャンスは《コジ・ファン・トゥッテ》のフィオルディリージや《マイスタージンガー》のエヴァを歌ってもいます。そういう幅広さが素晴らしい方なのでしょう。また、バロックのレパートリーが多い方で、ヘンデル、パーセル、ラモー、リュリなどのレパートリーを持っているようですね。
またそろりと新しいオペラを開拓しないと、とラモー、リュリなどの名前を見ながら思いました。
明日はとある原稿の〆切ですので、これからまたいろいろ考えます。
では早いですがグーテナハトです。

Classical,Movie

いや、もう、この二週間禁酒していましたが、おかげでアルコール耐性がすっかり落ちてしまいました。
昨日は仕事関連の飲みだったのですが、一次会の前のゼロ次会に参加し、一次会、二次会と5時間半飲み続けた結果、今朝はフラフラ。仕事場に行ってみると、みなさんも大変なことになっていました。
しばらくアルコールは本当にやめます。
というわけで、今日はこちらを。ただれた空気はオーヴェルニュの歌で一掃です。

カントルーブ:オーヴェルニュの歌
アップショウ(ドーン)
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私は、アップショウ、キリ・テ・カナワ、ダヴラツの三枚聴きましたが、やはりアップショウが一番かもしれません。ケント・ナガノという日系人指揮者とアメリカ人というフランス人ではない音楽家の演奏なので、普遍的な音楽に消化しているのかもしれない、などと思います。他の演奏の中には、本当に田舎の土臭い感じがする演奏もあり、それはそれでいいのですけれど、アルコールにつかれたあとなどはアップショウ盤がいいですね。
私は、どうもこの盤を聴くとこの映画を思い出します。

マルセル スペシャルエディション [DVD]
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辻先生が進めていた映画でした。南フランスの夏の雰囲気が伝わってくる映画です。マルセルという少年の家族がプロヴァンスで過ごす夏休みを描いた作品です。観たのは10年以上前ですが、今でも折にふれて思い出します。あの強い日差しに灼かれた土の色が忘れられないです。それを観て、セザンヌを思い出すのですね。どこか日本の美術館でみた作品なんですがよく思い出せません。ただ、以下の絵のように土の色がとても美しかったのです。「マルセルの夏」でもやはりこういう土の色が出てきて、セザンヌの色彩とつながったのを記憶しています。

きっとセザンヌやゴッホが過ごした南フランスはこんなかんじだったのかなあ、などと想像します。オーヴェルニュとプロヴァンスは少し離れていますけれどね。
では、グーテナハトです。

Jazz

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暑い日が続きますね。

今日はこちらを聴きながら通勤。リトナーのアルバムです。

 

サックスがビル・エヴァンスで、それが以外でした。ビル・エヴァンスといえば、マイルスに抜擢されたサックス奏者です。私のイメージでは、東海岸のゴツゴツしたジャズをやっているイメージです。たとえば、ランディ・ブレッカーと組んでました。それも、マイケル・ブレッカーの代役として起用されるようなことが多かった気がします。ビル・エヴァンスのサム・スカンク・ファンクみたいな映像もありますし。

なので、意外にもリトナーサウンドにあっていることに驚きました。ビル・エヴァンスがソプラノ・サックスを吹くと、デイブ・リーブマンのようなおどろおどろしさなんですが、なかなかあってます。テナー・サックスを吹くと、メロディアスでなかなか歌ってます。

つうか、ドラムが強力です。ソニー・エモリーって方なんですが、実に重心の低いドラムです。リトナーの流れるフレーズがドラムできちんとバランスをとっているという感じです。

 

結構お勧めかもしれません。

 

最近は、なんだかリトナーを聴くことが多いです。疲れた体にはぴったりなのです。昼休みに聴いてなんか癒やされています。

 

ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。そして、書いたことに絶望したり、おれは駄目だと、そんななまやさしい、甘っちょろい考えを絶対起こしてはいけない。たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。だれかにこてんぱんにやられたって、全然平気。書く喜びがあれば耐えられる。

辻邦生「言葉の箱」
今日は命日ですね。15年目にあたります。新聞記事の切り抜きも時代を感じさせるぐらい変色してきてしまいました。
この文章は、「言葉の箱」という死後出版された講演録からの引用です。CWSという小説家を目指す方の講座があるのですが、そちらに講師として招かれてなんどか講演をされたようで、その模様がこの本に収められています。何度か紹介もしています。

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
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通常、辻先生の講演は、ご自分で書き直しをされてから出版されることが多いのですが、この本は書き直しがありませんので臨場感あります。特にこの最後の部分ですが、逆に言うと、こういうご苦労があった、というふうにもとれるわけです。どこかで読んだのですが、最晩年の頃、なかなかいろいろな場面で取り上げられず、辛い思いをされていたようです。たとえ、そうであっても「絶望」したり「オレは駄目だ」などというような「なまやさしい」「あまっちょろい」考えを起こしてはならない、という強い意志が現れているのだ、と思っています。
たった一回きりの人生を、諦めずに喜びにあふれたものにしないといけないですね。小説を書かない人間にとっても励まされるような気分になる言葉です。
ではグーテナハトです。

Miscellaneous

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この数年、晩酌が欠かせない日々が続いていましたが、この二週間ほど、なんとか家では禁酒できています。
このところ芋づる式に酒量が増えていましたので、そろそろやめないと今後の健康がきつくなる、といのがその理由です。
ですが、予想通りですが、短期的にもいいことが幾つかありました。
一つは、よく眠れるようになったということです。それまでは、夜中に一度は目を覚めしていましたが、そんなことはなくなりました。おかげで、昼間のパフォーマンスも少しは改善した気がします。
また、体重も減っている気がします。これは、カロリーをへらしたり、夕食のタイミングを変えたりなどの理由はあります。
それから、酒代が浮きますので家計にもいいですね。
先日の飲みの席では、ビールのジョッキ二杯でもうたくさん、と思いました。ということは、昔に比べてどんどん弱くなっているということなんでしょう。禁酒してはいますが、すでに体は悪くなっていたりして、などとおもったり。
ちなみに、写真は、LiftというiPhoneアプリです。緑色のところがアルコールを飲まなかった日です。そうでないところは、外で軽く飲みました。オレンジ色は連続記録達成中という意味です。on weekdayと書いてある割には週末も飲まないように努めてます。
ちなみに、最近聞いているのはこちら。ベルリオーズの歌曲「夏の夜」。ゴーチエの詩にベルリオーズが曲をつけています。ベルリオーズに歌曲を聴く機会はこれまで殆どなかったので新鮮です。オケ伴奏版ですので、おのずと気が休まります。いろいろな歌手のバージョンを聞きましたが、やはりアンネ・ゾフィー・フォン・オッター様が一番です。いまのところ。

Berlioz: Les Nuits d'ete, Harold en Italie, Le roi de Thule
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明日は辻邦生先生の命日です。
ではグーテナハト。

Travel

先週に行った川越の喜多院には五百羅漢がありました。

羅漢というのは仏教における聖者の方々、修行者の方々ということだそうです。いろんな修行者の方がいらっしゃいます。まあ、人生というものは娑婆にいても修行のようなもんですので、ここにいらっしゃる方は私たちなんでしょう、とも思います。

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そんななかで、オーボエ吹き(?)を発見。いや、ソプラノサックスかもしれません。

 

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微妙にポーズが違いますが、考える人です。

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こんなふうに修行をする人もいるんですね。

 

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私も、どうやら熱中症になったらしく、微熱と疲労でふうふう言ってます。まったく。。

 

ではグーテナハトです。

Travel

休日でしたが、充実した一日でした。
午後は、新宿でオーボエ・レッスン。今後触れることがあるかもしれませんが、音楽レッスンというのはどんなCDを聴くことよりも音楽を理解することができるよいきっかけです。
夕方からは大学の先輩と一席。
先輩とは、1999年に一緒にドイツ旅行をしたのですが、その時の思い出話に花が咲きました。(まあ、それ以外の話もかなり盛り上がりましたが)
その一つが、ドイツのICEに付けられた名前のことです。
ICEというのは、言うまでもありませんが、ドイツ版新幹線です。以下の写真は当時のものです。おそらくは現在はデザインが変わっているはずです。
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ドイツの特急列車には、日本と同じように愛称がついています。日本で言うと、のぞみ、とか、ひかり、などになるわけですがドイツの場合は人名が付く場合がありました。以下のリンクにはそうした愛称が一覧化されていますが、2002年12月14日まで、と記載がありますので、現在はどうでしょうか
http://www.bahnseite.de/purespace/zugnamen02.html
たとえば、当時、デュッセルドルフからベルリンまで乗ったICEには、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンという名前がついていました(写真ボケてすいません)。これは、ICEのデッキにあった液晶画面の写真です。上から二行目にうっすらと名前が見えます。
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また、ベルリンからフランクフルトまで乗ったICEには、オットー・フォン・ビスマルクという名前がついていました。(写真ぶれていてすいません)
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このヒルデガルド・フォン・ビンゲンに、当時先輩は衝撃を受けていました。ヒルデガルド・フォン・ビンゲンは、12世紀のドイツの女性思想家で、修道院などを創設するなどして活躍した方です。また、作曲家としても知られています。このような思想家の名前を特急電車の愛称につけてしまう、ということに驚いていたわけです。そして多分喜んでおられたとも思います。
こちらが、ヒルデガルドの写真です。

Hildegard von Bingen.jpg
Hildegard von Bingen" by このファイルには作者に関する情報がありません。 – Miniatur aus dem Rupertsberger Codex des Liber Scivias.. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

オットー・フォン・ビスマルクは言うまでもないですね。ドイツ帝国の宰相で、鉄血政策を推進しドイツ統一の立役者の一人です。私は世界史の授業を受けている中で、このビスマルクのリアリズムに基づいた政治手腕に感動した記憶があります。
というわけで、本日はこれまで。グーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

小説への序章

「われわれの意識、われわれの認識、われわれの真理感覚が今日のような状況にあるとき、(外見を目的とするような)遊びがなお許され、まだ精神的に可能で、真剣に取り上げられるべきかどうか。自足的、調和的にまとまった作品そのものが、われわれの社会情勢の不安定さと問題性と不調和とに対して、なお何らかの正当な関係を有しているか」

辻邦生(1976)「小説への序章」河出文藝選書 245ページ
これも辻邦生「小説への序章」にかかれていた、悲痛なまでの芸術的真摯です。倫理と美学の相克に悩んだ辻邦生が昭和36年から昭和41年、つまり1961年から66年にかけて、書いていたことです。歳で言うと36歳から41歳にあたります。
芸術が、社会と如何に関わりを持ち続けるか。乖離してしまうことなく、あるいはあまりに接近することなく、正当に関係を持ち続けることができるか、ということです。
音楽や文学を「社会におけるデザートのようなもの」と評することもあるようです。なくても大丈夫、みたいな。ですが、そうとも一概にはいえないのだ、ということは直感的には分かるのですが、それを述べること自体に抵抗を覚える、あるいは、述べたところで屁理屈にしかならないのではないかというおそれを抱く、などなど難しい問題であるはず。エチカとエステティックの問題です。新カント学派なら「真善美は一致する。だからいいじゃない」というと思いますが。
この本、一昨日から引っ張り出してきて読んでいます。おそらくこれまで一読はしていますが、一読では済まない本だと思ってます。20世紀中盤までのの哲学状況を抑えておかないときちんと読むことができないわけで、ニーチェ、実存、ハイデガーなどが必要です。今となってはこの本で描かれる「現代思想」のあとがあるわけなんですが(構造主義など)、当時の空気を想像しながら読むと楽しいものです。
中身は、楽しいなんて行っていられないぐらいスリリングなんですけどね。
疲労困憊です。暑い一日でした。いつもは昼休みには散歩に出かけますが今日はそれどころではありませんでした。一日中会社にこもってました。
最近眼があまりに疲れます。メガネ屋に行ったら、「老眼ですよ。度を下げましょう」と言われますし。それも恐縮したような感じで言われるもんだから、余計に腹立たしいことこの上ありません。
というか、眼を使いすぎ。スマホで兵器で30分ぐらいはKindle読んでますので、眼が悪くなるに決まっているのです。老眼というより眼精疲労かな、とも思います。そろそろ生活を変えたいものです。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

昨日の続き。考えるうちに、ブログで語りきるのは難仕事だと思いましたが、すこしあがいてみます。

歴史小説論 歴史小説創作ノート (辻邦生歴史小説集成 第12巻)
辻 邦生
岩波書店
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世界を全体的に描くためには、世界のなかに身をおきながら世界を超越しなければならない、とも言います。世界を一つのモデルとして把握する透徹した認識量が必要というわけです。
そうした世界を描くために、外から眺めてそれを叙述するのは、どこまでいっても帰納法的なアプローチしかできません。「嵯峨野明月記」で、全てのものを描こうとしながら命を落とす画家が登場しました。狩野光徳という名前でした。世の中を表現するためにそうした方法をとったのです。ですが、もちろんそんなことはできるわけはないのです。世界のすべてを描くということは、有限な存在の人間にはどだい無理なのですから。
この辺りの議論はかなり難しいのですが、「小説への序章」でも同じようなことが言われていました。
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プルーストやトーマス・マンを取り上げて、物語主体が全体世界を把捉できる可能性を論じているのです。物語主体は常に過去形で物語るわけで、それはすなわち、終末から全体を見遣る主体であり、全体を把捉できるのである、という議論でした。それが、無限拡散する現実を克服し、全体像を恢復する手段である、ということなのです。
私は、これは西田幾多郎の純粋経験のようなものと捉えています。私の理解では、刹那の経験の中に豊かな世界が含まれているのが西田幾多郎の純粋経験だったはず。たしか「善の研究」では統一力というような書かれ方をしているはずです。
物語の中において、個々の要素を描くことが、全体把捉につながるという考え方で、それが小説=物語形式が、世界認識あるいは世界表現の様式として有効なのである、という議論です。
まったくもって科学的な方法でも論理的な方法でもありませんが、そもそも小説は科学でも論理でもないはず。ですが、この個々の要素と全体のつなぎが、辻先生の言う「透徹とした認識力」というもので、書き手が持つ何かしらの能力、ということになるのだと思います。
長くなりすいません。グーテナハトです。