講談社文芸文庫に入っている辻邦生先生の「城/ある晩年」というを読みました。
目録のとおり、講談社から辻先生の本が出ているのは、これだけだと思います。なぜだかよく分りませんが……。所収されている数ある短編のなかから真っ先に読んだのは、大好きな「サラマンカの手帖から」でした。この小説については何度も取り上げているような気がしますが、それぐらい好きなのだ、ということです。
主人公はパリに来ている日本人、恋人とおぼしき女性もおそらく日本人でしょう。日本人であることが述べられているのは、文中において一カ所のみ。示唆されているのも一カ所(サラマンカでは同国人に出遭わない、といったくだり)のみです。
なぜ、この小説を読んでこんなにも感動するのか、いろいろ考えています。 まず主人公と女は、あることで悩んでいる模様。おそらくは、子供をあきらめたと言うところなのでしょう。それを女はとても後悔しているし、罪悪感を感じている。主人公の男もやはり同じ気持ちを女ほどでないにしても持っている。だから、「誰だって、過失はある。そのたびに何もかも投げだしたら、一生かかっても人は何もできやしない」
という名文や、「おれたちだって幸福になる権利があるんだ」
という名文において、必死にその過失と対決しているのです。
サラマンカでは、若い踊り子の情熱的な舞踏であったり、その踊り子が盗みをはたらき、警察署から出てくる場面に出くわしたり、地酒を飲んだり、旅館主の夫婦の落ち着いた暮らしぶりをみたり、灼熱の太陽を浴びたりするのですが、そうした体験で、二人は徐々に恢復していきます。 たとえば、踊り子の姿をみて以下のように女が言います。
「私ね、あんなに熱中し、没入できるものがこの世にあることを、なんだか教えられたみたいな気がするの。いままであんなふうに熱中したことがなかったみたい。熱中する前にさめちゃって、ぶつぶつ言ってたみたいな感じね」
現代人的な「分別」とでもいいましょうか、そうしたものが、熱中することを妨げていた。そうではなく、もっと人生に没入していかなければならない、ということを行っているのだと思います。
さらに、終幕部に続きます。 盗みをはたらいた踊り子の娘が、オレンジを齧りながら、警察署からでてくる。それも堂々と。それは「野生の獣のような純粋な感じ」
と表現されています。野生の獣は、日々生きるために対決しています。そうした空気を踊り子の娘が持っていたわけですね。 そして、この下りへ入っていきます。もう何度もこのブログに書いているかもしれませんが、ここだけはどうしても書かないわけにはいきません。
「オレンジを齧っていたね。あれが生きるってことかもしれない」 「オレンジを齧るのね、裸足で」 「そうだ、オレンジを齧るんだ。裸足でね、そして何かにむかってゆくのさ」
この主人公達は、冒頭においては、もう生きることが辛くて仕方がない風だったのです。それはある種の後悔の念や罪悪感によるものだと思うのですが、正面から対決し、生きていこうとしている。そういうある種の解決感、もちろん生やさしい解決などではなく、現実や社会との対決という、途方もなく辛苦に満ちた解決への道程が含まれていると思うのですが、対決する意志、野生の獣のような強い意志をもって生きようとする剛毅な態度への志向を感じるのです。
そう思うと、日頃、生きるためとはいえ、従順になって、まるで柵に囲まれた羊のように生きている自分って何なのだろうか、と思わずには居られません。柵の中にはオオカミは入ってきませんが、柵の外にでることは決してありません。
…… 少々、思考が暗くなっていますね。どうやら昨日の失敗が尾を引いているようです。 僕も、少し休んだ方が良いのかもしれません。
今日はフォーレを聴いています。プラッソンの振る管弦楽全集の第二巻です。
トゥールーズ・カピトール国立管弦楽団 シュターデ(フレデリカ・フォン) トゥルーズ・カピトール国立管弦楽団 フォーレ プラッソン(ミシェル) アリックス・ブルボン・ボーカル・アンサンブル ゲッダ(ニコライ)
東芝EMI (1997/03/05)
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僕はいつも第一巻を聴くことが多いので、第二巻を新鮮な気分で聴くことが出来ました。よかったのは チェロと管弦楽のためのエレジー ハ短調 作品24 ピアノと管弦楽のための幻想曲 ト長調 作品111 ですね。フランスのエスプリって感じだなあ、と。
今日も、昨日のショックから完全に立ち直れていなくて、少々憂鬱な一日だったのですが、このCDを聴いてなぐさめられた気分です。いいですね、フォーレ。
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