Symphony

 なんだか頭がすっきりしない一日でした。必死にパルジファルを聞こうとするのですが、なんとも心が落ち着きません。

こういうときはなにを聞くべきか? 

私はモーツァルトをえらびました。ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデン(SKD)を振った交響曲第40番と41番のカップリングCDです。

しかし、SKDの音は素晴らしい。それは甘さではありません。冷徹で真摯で厳格な様式美としてのモーツァルトを支える堅牢な美しさです。もちろんブロムシュテットの、構築美を際だたせる厳しく精緻な棒がそれを支えているのは間違いありません。

私はある種の癒しをもとめてiPodのホイールを回したのですが、癒されるどころかカツを入れられた気分です。背筋がのびて頭もすっきりとして、文章を書けるほどに精神的復旧を成し遂げました。

テンポの設定は中庸かそれより少し遅いぐらい。過剰なアゴーギク、テンポ・ルバートは用いていません。それがなお謹厳な性格を際だたせています。 昨今の演奏(といっても新国中心ですが)はこのアゴーギク的な要素が極めて目立つように思います。私が指揮者でもやはりそうすると思います。

しかしながら、おそらくはこのCDにおいては以下の二つの理由により、イン・テンポが肯定されるべきでしょう。

まずはそれがモーツァルトであるということ。もちろんバロック音楽のようにイン・テンポの必然性を強くは持ちませんが、それでもなお過剰なアゴーギクは聞くものにとってあまりに過剰な刺激となる恐れがあります。モーツァルはプッチーニでもシュトラウスでもありません。ましてや松田聖子でもありませんので。モーツァルトの持つなかば明快で爽快ともいえる和声はを際だたせるのにテンポの変化による拡大、マグニファイアは過剰な装飾なのです。

もう一点あるとすれば、それはやはりブロムシュテットの音楽性とかセンスとでもいうべきものでしょう。私が昨年感涙に溺れる思いをしたペーター・シュナイダーが41番を振ったときのことを思い出したのです。シュナイダーの指揮は透き通る軽やかな舞踏のようなサウンドでして、このブロムシュテット盤とは多少違うものがあります。ですが共通しているのは、おそらくは両者ともほぼイン・テンポの演奏だったのです。あのワーグナーやシュトラウスで音をためにためて一気に感興を放出するようなシュナイダーが、です。

おそらくはモーツァルトをイン・テンポで振るセンスというものが、私の中で確固たるものとして確立されているのだと思うのです。私は、このブロムシュテット盤やペーター・シュナイの指揮に「まめやか」という形容詞を使いたくて仕方がないのです。この言葉、たしかゲーテの「ファウスト」最終部でファウストが語る言葉でしたが、その言葉がぴったりとくる演奏でした。

申し添えますと、デュナミークはきちんと使っておられておりまして、それは見事なものです。