Opera

 本日郵送されてきました。取り急ぎ速報です。

  • 2010年10月==アラベッラ(新制作)★
  • 2010年10月==フィガロの結婚
  • 2010年11月==アンドレア・シェニエ
  • 2011年1月==トリスタンとイゾルデ(新制作)
  • 2011年2月==夕鶴
  • 2011年2月==椿姫
  • 2011年3月==マノン・レスコー(新制作)★
  • 2011年4月==ばらの騎士★
  • 2011年6月==コジ・ファン・トゥッテ(新制作)★
  • 2011年6月==蝶々夫人★

星マークは、私的に非常に気になるもの。シュトラウスにプッチーニをこれだけやられると、高いセット券をはいはい、と買いたくなります。

先日も取り上げたように、ばらの騎士はカミッラ・ニールントさんのようですし。

しかし、事業仕分け的にはどうなるのか。このラインナップ、夢や幻に終わらないように願っています。

Classical,Concert

 今日も東京地方は天気に恵まれました。典型的な冬型です。と言うわけで、まずは少々遅れましたが、初詣へ行って参りました。今年もいつものように湯島天神へ。それが例年よりもたくさんの人手でびっくりです。景気が悪く、商売や就職もままならないこの頃ですので、神様にお願いを、というところかな、と思いまして、カミさんに聴いてみると、確かに人は増えているらしいのですが、賽銭は減っているらしいとのこと。複雑。我々も今年は少々ダウンサイジングしました。

湯島天神の余りの込みように恐懼してしまい、間に合うかどうかドキドキしたのですが、15時からのN響定期にまに何とか間に合いました。小さい頃に昨年なくなられた音楽評論家の黒田恭一さんの「はじめてのクラシック」を読んだのですが、私の音楽生活の根本はこの本かも知れないですね。もう四半世紀も前の記憶です。確かこの本の中で、コンサートには余裕を持って出かけるべし、予習をして行くべし、ということが書いてあって、いまでもコンサートやオペラに行く場合には遅くても40分前には会場に着くようにしていますし、予習も出来るだけするようにしています。やはり余裕を持って会場に到着しないと、音楽を十全には味わえないでしょう。ギリギリに座席についてもすぐに音楽を楽しむのは難しいでしょうし。

そう言う意味で言うと、今日は少々失敗したかな、と思いましたが、結果的には30分前にはNHKホールに到着できましたので、なんとかセーフです。湯島から明治神宮前まで千代田線で一本ですしね。

曲目は以下の通りでした。 

  •  ヨハン・シュトラウスII世 / 喜歌劇「こうもり」序曲
  • ヨーゼフ・シュトラウス / ワルツ「天体の音楽」作品235
  • ヨハン・シュトラウスII世 / 常動曲 作品257
  • ヨハン・シュトラウスII世 / アンネン・ポルカ 作品117
  • ヨハン・シュトラウスII世 / ポルカ「観光列車」作品281
  • ヨハン・シュトラウスII世 / 皇帝円舞曲 作品437
  • (休憩)
  • R. シュトラウス / ブルレスケ*
  • R. シュトラウス / 歌劇「ばらの騎士」組曲

ごらんの通りオール・シュトラウス・プログラム。とはいっても、リヒャルト、ヨハン、ヨーゼフですけれど。とはいえ、全編にわたってウィナーリズムに彩られたもの。「ブルレスケ」は別ですけれどね。

正直言って、尾高さんとN響のコンビでどういったウィーン音楽が表現されるのか、なかなか想像しがたかったのですが、いざ聴いてみるとこれがなかなか面白かったのです。

第一印象は、なんだか凄く雄々しい感じ。男らしいダイナミックな音作りだと思いました。ウィーンの洒脱な感じと言うより、なんだか取っ組み合っているような力強さでした。ですが、意外とそれがよくて、前半はワクワクしながら聴けました。

しかし、ヨハン・シュトラウス二世は良い曲書きますね。むかし、吉田秀和さんの本を読んでいて、「美しき青きドナウ」が和声的にはベートーヴェン等に比べると平易である、なんていうことが書かれているのを見つけた覚えがありますが(私の曲解、記憶違いかもしれません)、音楽を聴く楽しみを与えてくれるという点では、素晴らしい作曲家です。「こうもり」序曲なかですと、まあオペレッタの序曲なのでドラマの場面場面を描写するものなんですけれど、中間部でオーボエが吹くメランコリックなフレーズがたまらなく良いですね。あの旋律、やっぱり音楽を聴き始めた小学生の頃から好きでして、なんだか勝手に想像をふくらませて文章を書いた記憶がよみがえりました。

それから「観光列車」のこと。この曲、演出的にも面白くて、曲が始まる直前に舞台袖から鉄道員の制服を着た方が出ていらして笛を吹いて、出発進行、という感じ。その方はパーカッションの方なんですが、制服を着たまま舞台後方のパーカッションセクションに座ってシンバルを演奏するんですけれど、曲の途中で汽笛を鳴らす場面で、笛を吹いてくれてわかせてくれました。曲が終わったらまた笛を吹いて敬礼。そのあとがおかしくて、その場で制服から燕尾服に着替えたんですね。着替えるあいだ、尾高さんも指揮棒を休めて待っている感じ。見ている僕らにしてみればとてもユーモラスに思えて、みんな笑っていました。なんだか心休まるひととき。

あとこの「観光列車」、サビの途中で転調するところで、トロンボーンが9度の音をならすんですが、あのテンションが気持ちよすぎる。譜面見てませんが、たぶん9度です。

常動曲も面白くて、曲の真っ最中(におもえるようなところで)で尾高さんが指揮棒をおろして振り向いて「いつまでたっても終わらないのでこの辺で」みたいなことをおっしゃってまたまた大笑い。楽しいです。常動曲は演奏も素晴らしかったです。N響の方々はやっぱり巧くて、スリリングな快感を味わいました。

後半はリヒャルト・シュトラウス。ばらの騎士組曲もやっぱり雄々しいです。冒頭部も激しくて激して仕方がない感じ。管楽器の咆吼の連続。

そして、私はまたも陥落しました。最終部の三重唱の部分。あそこだけはもう涙が出てきてとまりません。気分はもうマルシャリン=元帥夫人と一体化している感じでして、この時間という最大の自然力の前に跪かなくてはならない人間の哀しき運命が切なくて仕方がありません。先日の二期会「カプリッチョ」の演出もそうした意図でしただったと考えているのですが、こういう境地は、この歳になったからこそ分かるものでしょう。20代前半の私は絶対理解できなかったはず。そうでなければ、いま私はここにはいません。

それにしても、音楽はある種「ムダ」で、反経済的なものですが、そうした「ムダ」に真剣勝負で取り組む方々がいらっしゃると言うことにある種の希望を持ったひとときでした。すべてを数値化したり時間化するのが美徳となってしまった今日ではありますが、そうでない価値もあるのだなあ、と。先日新聞で読んだことですが、どなたがおっしゃっていたのか失念しましたが、そうした「ムダ」を愛することこそ大事なこともあるはず。そうでなければ、全員ロボットにならなければなりませんので。

まあ、こういうきれい事では済まされない超絶した現実の厳しさがあることはよく分かっておりますし、まるで刃先のうえを歩くような不安感を感じずにはいられない世の中でもありますので、断言することは出来ませんけれど。衣食住があってはじめて、というところは不変でしょうから。

次の実演は少々間が開きますが、いよいよ「ジークフリート」です。

 

Miscellaneous

少々更新に間が飽きましたが、せんだって、NHKニューイヤーオペラコンサートにいって参りました。
お目当ては藤村美穂子さんでしたが、体調不良のため降板しておられました。なにがあったのでしょうか?
先日の新聞記事では、藤村さんは体調管理を徹底することで、単にアジア人であることを理由にすきあらば蹴落とそうと付け狙う方々に弱味を見せないのだ、ということが紹介されていたのですけれど。

このコンサートでの一番の収穫は、福井敬さんのオテロでした。オテロといえば、ヴェネチア海軍の猛将でムーア人であるという負い目に打ち克ちのしあがってきた巨大な人物です。しかし福井さんのオテロ像はそうではありませんでした。凄まじい猜疑心をあらわにしたナーバスなオテロでした。微細なピッチコントロールがそうした表情付けを補完していて効果的でした。
視覚面で言うと、衣装がに意匠を凝らそうという意図が見られまして面白い感じでした。まあ、個人がもつイメージというのはさまざまですね。
というわけで、少々遅くなりますしたが、私の2010年聞き始めはこんな感じでした。
次回はN響定期でばらの騎士組曲を聴きます。

Classical

昨日から仕事でしたが、なんだかへたれた状態。気合いいれないと。どうも年末までの忙しさの反動かしら。まあ認められることが全くない作業に奉仕するのも我慢我慢であります。
というわけで今日は癒しを求めてシベリウスの交響曲を一番から順番に。EMIの廉価ボックスセットにて。ベルグルントの指揮による定番の演奏です。いつも思うのは、明らかにドイツ、イタリア、オーストリア音楽と旋律の質的な相違があるということです。
せんだってデ・ジャヴとかパロディのことを書きましたが、そうしたなにかを想起させるような規範が私の中にはあまりないです。私にとっては、シベリウスもいまだ知らぬ絶景を豊かに含んだ別世界と言えましょうか。音楽は無限ですが有視界飛行できる範囲は限られているわけで、あとどれだけ飛べるかは努力次第でしょう。
ヤナチェクの音楽はチェコ語の音韻を譜面化していると言われますが、やはりその土地土地固有の音韻情報と旋律の結び付きは大きなものがあるでしょう。ラップは米語でやるからカッコいいとか。

話題がそれました。先日、ラジオのクラシック番組を聴きました。幸田浩子さんが出ておられました。番組に温泉コーナーがあって癒しの音楽が紹介されていました。先日はエルガーでした。今日の私にとってはシベリウスが温泉であります。

この世知辛く、すさんだ、不条理で汚濁に満ちた、猜疑と嫉妬がうずめき、偽善と傲りの自己顕示が飛び交う私の職場にあっては、私にとってはもう温泉だと言えましょう。

澄みきった冷たい空気がみちあふれ、遥か遠くの銀嶺の彼方は、琥珀色からモーヴ色へ優しく、だがせまりくる闇夜への凛々しさをも兼ね備えているかんじで、あの空のしたにはアテナ神の典雅清冽な軍勢が行軍しているに違いありません。
そんな白昼夢に遊ぶことのできる音楽でした。

まだまだ学ぶべきことは多いですね。

では。

Classical

えーと、私はフランス語は分かりませんが、デジャヴがフランス語であることは知っておりますので、こんな題名。間違っていたらこっそり教えてください。

先日の続きです。先日はこちら。うだうだ長い文章になっちまいました。それでもせっかく書いた我が子を見捨てるわけには行きませんので載せちゃいます。次の段落からが先日の続きです。

さて、クラシックに話を戻すと、とはいいながらも、必ずしもメインストリームではないようなところでは、クラシック音楽の新曲が日々飛躍し続けておりますね。現代音楽がひとまず思い浮かびますが、もう一つは映画音楽などでしょうか。武満徹も映画音楽をたくさん作っておりますし、池辺晋一郎さんもそうですね(「独眼竜正宗」のテーマは最高!)。

そう言うわけで、やっぱりクラシック音楽は、過去の新解釈を産み出すと言う方向性が一般的ではなかろうかと思うのです。

もちろん、クラシック以外においても星の数ほどの曲があると思いますが、そこでも今後同じことが起こる可能性は否定できません。J-POPを聴くとそうした兆候がすでに現れております。今現在のJ-POP、旋律的にはデジャヴなことがおおいですので。演歌もそうでしょうね。

もっとも、J-POPも演歌も歌詞に重きを置いているということになれば、J-POP・演歌においては、音楽はただの添え物でしょうから、それでも良いのかも知れませんし、商業音楽においてはクラシック以上に解釈性、カスタマイズ度が上がっておりますので、もう少しは大丈夫かと思います。つまり、楽器の編成を変えたり、楽器を増やしたり、シンセサイザーを使ったり、サンプリングを使ったり……などなど、まだまだ未開地は残されておりましょう。

もっとも、「デジャヴ」感それ自体を価値あるものと見る考えもあるでしょう。人は自分の経験を通して外界を認識している、というあの考え方です。バッパー(チャーリー・パーカーを代表とするビバップ、すなわち第二次大戦直後のジャズシーンにおいて、インプロヴァイズにて多用されたフレーズ群を再構成して演奏をするミュージシャンのこと)は、むしろそうしたデジャヴ感を武器にしているとも言えます。必ずしもマンネリズムは悪ではありません。でなければ水戸黄門が1964年から35年間にもわたって放映されているわけはないのですから。

ここまでくると、私の大好きな「引用」とか「パロディズム」まで来ております。これはもう意図したデジャヴですので、その引用の巧みさに大きく肯う感じとなります。先に挙げたバッパー達の作る音楽もある種の引用美ですので否定はいたしません。

先日の「名曲探偵アマデウス」でショスタコーヴィチ交響曲第五番が取り上げられておりました。あの曲はいわゆる「社会主義リアリズム」的音楽として、ソヴィエト共産主義へのショスタコーヴィチなりの跪き、だというのが建前ですが、まあ、みなさまご存じの通り、ショスタコーヴィチの本心はそんなものではなかったわけです。それで、それをどうやって表現したか。引用、あるいはパロディなわけでして、第四楽章の冒頭の金管のフレーズは、「カルメン」のハバネラの歌詞「信じるな!」の部分の短三度である、ということが紹介されておりました。これはもう江戸時代のマリア観音的状態とも言えるでしょう。

抑圧された社会にあっては本心を表現することはあたわず、ただただ引用やパロディを盾にした表現をしているわけです。これは、音楽だけじゃなく文学もそうだと思います。忠臣蔵の舞台は確か室町期だったはず。討ち入りを大手を振って取り上げることが出来るぐらい自由な社会ではなかったので、そうやって話しを入れ替えたんですね。これも引用やらパロディの一種では。

と言うわけで、クラシックの中でも少々外れたところにあると言えるかと思われる映画音楽(ドラマ音楽)から、湯浅譲治が作曲した、大河ドラマ「徳川慶喜」のサウンドトラックをきいてみましょう。。もう10年ぐらい前になりましょうかね。今は「坂の上の雲」で秋山真之を演じる本木雅弘が主人公の徳川慶喜を演じました。ちょうどいろいろあったころで、なかなか見られなかったのですが、オープニングテーマに大きなインプレッションを感じたのを覚えていました。早速サウンドトラックを買いに走りました。

このテーマ、オケの曲なのですが、使われている旋律には日本の伝統音楽が活かされています。五音音階的ななフレーズがフルートとオーボエなどで演奏されたあと、切れ目なくメインテーマに入っていくのですが、ここのヴァイオリンのフレーズがものすごく良いのですよ。雄大な広がりをもった希望に溢れた旋律。この旋律は何度も膨らみながら高揚へと達します。この旋律の下で支えるコントラバスとチェロのリフが泣けて仕方がない。こういうベースラインを聴くと、ベースって本当に大事だ、と思います。その高揚は、再び日本的五音階に遮られてエンディングへと向かいます。最後の幾ばくかの寂寥感は、全うできずに大政奉還となった徳川慶喜の無念の思いでしょう。

この曲を聴くと確かに少々「デジャヴ」ですが、先に触れたようにそれだからといって、退屈な音楽ではありません。湯浅さんのオーケストレーションの巧みさががっちりと底辺を固めておりますし、引用の範囲でありましょうから、とても素晴らしい音楽に仕上がっております。もう入手困難やも知れませんが、機会があればぜひぜひ。

 

Miscellaneous

 まだ2009年の総括も出来ていないのに、よろしいでしょうか。。。

  1. 仕事頑張ろう。これできないと、他が何も続かないので。まあ、仕事と言ってもいろいろありますけれど。
  2. 本百冊を目指しましょう。一昨年は70冊、昨年は58冊、今年はせめて一昨年を超えたい! 100冊となると、一ヶ月に9冊読まないと行けない。週に2冊以上。頑張ろう。
  3. プロジェクトFFBを完遂。これ、恥ずかしくて書けない。年甲斐もなく、という感じなので。きついなあ。
  4. プロジェクトTを完遂。これも恥ずかしくて書けません。でも頑張らんと。
  5. ブログの更新回数を増やしましょう。毎日は厳しくとも、せめて一週間に4回は更新したいなあ。毎日書かかないと文章力が減衰してしまいますので。内容的にも、いろいろと改善のアイディアもあるのですが、取りかかれず。少しずつよくしていこうと思います。
  6. 体重減らそう。体脂肪率減らそう。もうすでに太っていますが、せめて体脂肪率を20%未満にしたいものでございます。きっと夏は富士山に登ると思いますので、そのときにこの体では登頂できないと思います。
  7. と言うわけで、ジムに毎週行こう! 特別な用事がない限り、毎週土曜日にジムに行くことにしていますので、今年もそのルールを守りましょう
  8. 風邪引かないように。自己管理せんとなあ。もう歳なので体を冷やしたり、無理に体を動かすのは厳禁です。

今年は、昨年よりも緩くしてみました。さて、1年後にはどうなるか。笑って振り返りたいです。頑張ろう!!

Classical

さて、いつのまにやら年は明けておりました。あけましておめでとうございます。

2009年の振り返りも終わらぬままでございました。回顧録的にまた書いてみたいと思います。

昨年の私にとっての大事件、それはペーター・シュナイダー!!です。

今年の1月、ペーター・シュナイダーさんが来日し、東京フィルを振りました。「ばら騎士組曲」と、オケ編曲版の「ニーベルングの指環」。このときもやはり泣き濡れた演奏会。シュナイダーさんには泣かされっぱなしです。それから、今年のバイロイト音楽祭でもシュナイダーさんは「トリスタンとイゾルデ」を振られたのですが、これはウェブラジオでエアチェックしました。この音源、一ヶ月ぐらい繰り返し繰り返し聞き続けていました。ここまで一人の指揮者に惚れたのは初めての経験かもしれません。

昨日、タワレコでシュナイダーさんのCDラインナップを聴いたのですが、買うことができるのはヘップナーとブラウンのCD2枚だけらしい。そのうちの一枚、ヘップナーのCDはこちら。とはいえ、ヘップナーが主人公ですので、やはりシュナイダーさんを十全に味わうというわけには参りません。

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と思いましたが、UKのアマゾンに行くと、ローエングリンのDVDが売っていた。最近ポンド安傾向なので注文してしまいました。

それから、来年のバイロイトも楽しみです。

このコーナー、まだまだ続きます。