ブリテンの「戦争レクイエム」にみる旧約聖書物語
はじめに
写真を。東京湾から撮った写真です。いい季節です。もっと涼しければなおさら。
もっとレタッチの練習をしないと。まだ改善できるはず。
近況関連
このところ仕事が「充実」しまくっていて、ありがたいことです。スリリングな毎日です。しばらくは引き続き充実の予定。
「パルジファル」に行く手を遮られてしまった感があり、すこし留守にしました。
ほんとうは、今週末に二期会の「パルジファル」を見に行くつもりだったんですが、時間的に無理があり断念しました。無念。
戦争レクイエム
それにしても、シンクロニシティだな。。
新国立劇場「ピーター・グライムス」の予習にと資料を物色しているところで、ブリテンの戦争レクイエムの放送があったとは。昨夜深夜のプレミアムシアターで、アンドリス・ネルソンスの指揮にて。録画完了し、今晩から少しずつ見ないと。
バーミンガム市響をアンドリス・ネルソンスが振った映像で、今年の5月30日収録の新しい演奏のようです。
アブラハムのイサク献供の話
戦争レクイエムで私が最も恐ろしく思うのが、この部分です。
旧約聖書の中に、アブラハムが自分の息子であるイサクを生け贄に捧げる場面があります。
神から命じられたので、仕方が無くアブラハムはイサクを生け贄に捧げるべく殺そうとする瞬間に、神がそれをとめるという話です。
大学の先輩によれば、この挿話は、人体実験や臨床試験の倫理学的問題につながる問題なのだそうです。
神の命令に従ってまで自分の子供を殺すという自虐行為がどこまで赦されるのか。真理の探究のために人間を犠牲にすることがどこまで赦されるのか。
あるいは、国の大儀のため戦争に子供達を送り出すことは赦されるのか。
我が子を屠るアブラハム
この「戦争レクイエム」においては、この物語の派生であるウィルフレッド・オーウェンの反戦詩がオッフェルトリウムの歌詞として採用されています。
この中で、最後に神によって助けられるはずのイサクが死に至るという強烈な結末が歌われています。
「その少年に手をかけてはならない。見よ! 角を一匹の雄羊を。彼の代わりにこの高慢な雄羊を捧げよ!」
しかし、アブラハムはそれに従わない。そうではなく、彼は息子を我が手で屠ったのである。
強烈すぎる。
こうやって、人々は我が子を戦争に送るのか、という絶望感です。
きな臭い世の中においては、「神」といった必然の命に従わなければならない理由があると言うことでしょう。それはすなわち、我が子を屠るということまで想定しなければならないわけで、そこまでの覚悟を持って世界を生きなければならないと言うことなのでしょう。そんなことを思います。そこまで覚悟出来ているのか。
この解釈、先輩と話していたときはそこまで気づかなかったんですが、昨今のニュースを見たり、今回改めて考えたりしてようやく解釈がまとまった気がします。
明日から仕事ですが、最近三連休が辛いです。休みは二連休が限界。これ以上休むとリズムが狂います。
飛び石希望でお願いします。
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