ピータ・グライムズ評を読んで話したこと。

はじめに

音楽評論家の白石美雪さんの評が、10月16日朝日新聞夕刊に載りました。そのあたりのこと、を少し書いてみたい思います。

 

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この中で、今回のパフォーマンスを「個をつぶす集団を鋭く表現」と評価しています。合唱団の動きの質の大きさなども含めて。

 

断定無罪なピーター・グライムズ

逆に、ピーター・グライムズに不気味さがない、という点が指摘されていました。

本来であれば、殺人を犯したのではないか、という不気味さがもっとあってしかるべきではないか、ということ。

でないと、エレンがピーターを見限って「私たちは失敗したのよ We’ve failed」という理由が見あたらないというのです。

 

うーん、なるほど。

 

確かに、今回のプロダクションでは、ピーター・グライムズは絶対に徒弟を殺していない、と思いました。

だから、グライムズは、全くの潔白で、集団に圧迫される被害者としての側面しか持っていなかったと、言えます。

 

もし、そうでなく、グライムズが殺人を犯した可能性が示唆されているような演出であれば、物語としてもっと複雑で玄妙なものになっていた可能性もありました。

解釈多義性

実は、日曜日に、カミさんをつれてもう一度観に行ったのですが、カミさんもやはりそう言う意見だったようです。

カミさん曰く「解釈多義性がもっとあればね」とのこと。

カミさんは音楽ではなく物語と演出に集中していたらしく、なおさらそのように思ったのかもしれません。

 

難しいなあ。

 

解釈多義性はおっしゃるとおりかも。

 

もっとも、私は、理由はなくてもいいと思っています。世界が非論理であるならば、物語に論理がなくても許されるというのが私の意見です。

昔、小説教室についてのテレビを観たことがあったのですが、物語を作らせながらもそこに論理性が出現すると鋭い批判が飛び交ったのを思い出しました。

もっとも、今回のプロダクションはそこまで論理が破綻していたかというとそこまでではなかったとも思いますが。。

結論めいたもの

その場その場の体験、物語と視覚効果とそれを支える音楽の一瞬の煌めきが大事なんだろうなあ、などと。

物語と演出だけの舞台ならばそうかもしれませんが、音楽が加わると、全く様相がかわるのだなあ、ということだと思います。デュオニソス的とされた所以もここにあるのかもしれません。

それからもう一つ。

視覚面に加えて聴覚面もあることで、あんなにも強烈な体験が生まれたのだなあ、と思います。

シュトラウスの「カプリッチョ」ではないですが、音楽と詩と演出は切り離すことの出来ないものなのでしょう。って、紋切り型のまとめですが、まあそれがいったんは妥当な結論だと思います。

 

それではまた。フォースとともにあらんことを。