プッチーニの最初のオペラ「妖精ヴィッリ」は、ソンツォーニョオペラ作曲コンテストに出品され、落選したものだった。
このコンクールは出版印刷会社経営するエドゥアルト・ソンツォーニョが企画したものだった。ソンツォーニョ社はもともと、文学作品の廉価版を出版したり、共和党の月刊誌にも関わっていた。
エドゥアルトはそれにも飽きたらず、音楽情報誌「イル・テアトロ・イルストラート」を作った。そこでオペラ作曲コンクールを催したのだった。
第一回目の優勝者は、ルイージ・ボレッリ「アンナとグァルベルト」、グリエルモ・セッリの「北の妖精」であった。プッチーニの妖精ヴィッリは落選したのだが、これには背景がありそうだ。というのは、プッチーニは遅筆で、締切間際に提出し、しかも乱筆であったから、というのだ。人間はまずは体裁から入るから、中身が良くても体裁が悪すぎては氷化されないと言うことになる。
ソンツォーニョ社はプッチーニを見いだすことが出来なかった。
だが、第二回目のコンクールにおいて、ソンツーニョ社は金の卵をてに入れたのだ。
マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」である。
これが「ヴェリズモオペラ」のブームのはじまりはここにあった。そして、そのブームがプッチーニに「トスカ」を作曲させる要因の一つになったのだ。
一方、落選した「妖精ヴィッリ」を目にとめたジュリオ・リコルディがプッチーニを見いだしたのだ。ソンツツォーニョ社はライヴァルのリコルディに塩を送ったことになる。
また、第一回目の入選者はどうなったのだろう。人生の哀楽をみる一つのエピソードがある。
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