Richard Strauss

仕事場から港が見えます。晴海埠頭が。かなり遠くではありますが。大型客船が泊まっていたり、南極観測船しらせが泊まっていたりしたこともありました。

今日は、私の勝手な想像では気象庁か水産庁の調査船が泊まっているように見えました。あまり大きくない船でしたが、きっと日本近海か、外洋か乗り出していく船です。内航船ではありません。

ふと思ったのは、勝手ながらも、その船の船長が感じる自由のようなもの。補給さえきちんとできれば、世界中のどこへでも理論上いくことができるという自由。これは、本当にすごいことではないか、と。

これ、MacなりPCなりでツールが揃い、なんでも作れる状況になるような感覚と似ているなあ、と。無限の可能性を得たと感じるあの瞬間と同じ。きっと東京の晴海埠頭からサンフランシスコでも、サンディエゴでも、あるいはナポリでもアルハンゲリスクでも、ケープタウンでもどこでも行けるわけですから。

ただ、現実はそうはいかないです。船もやはり船主の意向次第。ツールが揃っても、すぐに何かができるわけではなく、時間や技術の壁に当たるわけです。

ただ、それでもなお、埠頭に接岸し、船橋から外洋を見やったときに感じるだろう自由と束縛の感覚は、酢いいものでありながらも、酔いしれるものもあるのかもしれず、酔いが醒めるのをわかっていながらなおも酔うということなんだと思います。とことん酔って、その先に何か誰も手にしたことのないものがあると信じたいものです。往々にして、酔いが覚めて良い夢だったということになりかねませんから。

今日はこちら。

Strauss: Orchestral Works
Strauss: Orchestral Works

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シュトラウスの若き日の作品から「ツァラトゥストラはかく語りき」を。この絢爛でありながら皮肉に満ちた音楽は、ダブルスピークのような解釈多様性を持っている気がします。私は、物事全てを字義通り捉えることができません。全てが逆の意味を含み得ることがわかっているからです。そうであっても、意味が正の意味を持つか負の意味を持つのかはフィフティフィフティです。この曲を聴いて、それが本当か嘘かはさておき、少なくとも半分は極度に美しいのだから、それだけでいいのではないでしょうか。

私が若くて若くて、つまりまだ2歳だか3歳だった頃、この曲が大好きだったとのこと。当時はまだ無限の可能性があって、世界に乗り出す可能性もありました。理論的には。つまり、大洋へと出帆する船と同じだったというわけです。

今はどうか。願わくば、大洋を乗り越えている船のように生きているといいたいものですが、はたしてどうか。大洋しか知らなければ、それが太陽かどうかはわからない。あるいは、大洋でないと思っても、それが大洋かどうかもわからない。そんなところでしょうか。

結局、自由かどうかは、わからないということ。あらゆるものはどうとでも取れる。そういうことなんでしょう。

ではみなさま、よい週末を。グーテナハトです、