Music

先日書いたように、演奏家の違いに身体的感覚を感じるようになったように思いながら、フルトヴェングラーやムターを聴いた1日でした。

私は、クラシック、ジャズ、文学などが関心領域ですが、その中でも、ずいぶんと間口が狭いみたいで、それぞれの関心領域の中でも、好みがずいぶんくっきりとしているように思います。先日書いた、音楽嗜好総体のようなものがあるとして、その大きさは小さいかもしれず、しかしながら中身はぐっと詰まっているような感じかと思います(そう思いたいものです)。なので、理解するのに骨が折れる音楽というものもたくさんあるみたいです。

実は、フルトヴェングラーは、私にとって難しく、なかなか遠ざかっていました。今日、AppleMusic のForYouに表示されたので聴いてみたのですが、やはり難しかったです。ドイツ的な暗い森のようなものを感じるのですが、そこに光が差し込めば、と思うのでした。もっとも、モノラル録音だから、という理由もあるとも思います。

フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン:交響曲全集
MEMORIES (2008-11-25)
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ところがもうひとつ。実は、昔、ムターの《四季》を苦手に思ったことがありました。今から20年ほど前に出た録音だったと思います。ですが、今聞くと、普通に聞くことができるようになりました。

ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」(クラシック・マスターズ)
アンネ=ゾフィー・ムター
ワーナーミュージック・ジャパン (2014-07-16)
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実は、今では大好きなハイティンクも苦手だったことがありました。いまは、大好きけれど。

Beethoven: Symphonies Nos 1-9, Special Edition
London Symphony Orchestra
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その時々で、やはり音楽嗜好は変容するもので、それは、さまざまな音楽体験、あるいはその他のなにかしらの体験があって、そうした体験の積み重ねがあるとき質的変化を生じせしめて、嗜好の転回が起こるのだと思います。

また、かつてからもちろん演奏差異は認識していたとはいえ、そこになにかしらの身体的感覚を感じるようになったのは最近です。ですが、今まではあまりこういう、比較に加えて、嗜好について書くことが憚られる思いでした。でも、身体的感覚とともにであれば、少し考えてみよう、と思ったところです。

まあ、これも当たり前のことではありますが、自分で言語化して考えるということが大事なのだ、とも思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。

Apple Music,Music

仕事の追い込みを続ける日々。個人的には、午前中と夜は絶好調ですが、午後に体が動かなくなります。今日も15時を回った途端に体が動かなくなりましたが、17時を回って途端に回復しました。若くはないので、大変です。。

そんな今日の白眉はこれ。「はじめてのプーレーズ」をAppleMusicで聞きました。《春の祭典》や幻想交響曲など、鋭利な演奏で面白かったです。

ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ 春の祭典
ピエール・ブーレーズ、CSO
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それにしても、ブーレーズらしさ、とか、マゼールらしさ、とか、ショルティらしさ、というものが(いまさらなんですが)、身体的感覚としてわかるようになってきたのは、AppleMusic のおかげなのだと思います。それも、以前とは比べものにならないほど、実感として。かつては、いつも背伸びをしているのではないか、と自分を律しながら、考えていた気がしますが、AppleMusic で何度も何度もいろいろな盤を聴けば、なんとなくひとつの身体的感覚に収斂していくのを感じます。それは、どうやら言語化すると途端に実体を表さなくなるようなものだと思います。なので、身体的感覚のようなもの、と捉えています。
この演奏差異による身体的感覚というのは、本当にジャズとは違うなあ、と思います。ジャズの場合だと、インプロヴァイズの差異、つまり符割の差異という、重大な質的差異があり、その後、そこに付随する様々な差異が現れるわけです。(近代以降の)クラシックを現代において聴くということは、符割の差異は原則なくて(版の違いとか、カデンツァが違うということはありますが)テンポや音色の違い、ニュアンスの違いを語ることになります。それは、なにか、形相と質料の差ほど、違うものではないか、と思うのです。

それを腹の底から感じたの、オーボエを習っていた時に感じたものでした。それまでは平均律とMIDIの世界にいたのに、オーボエといえ音程をコントロールしながら吹くという、アナログでニュアンスに満ちた世界に来てしまったという感覚でした。

まあ、このようなことは、既に何方かが研究しているのだとは思いますが、音楽聞いて30年で、こんなことを思うようになった、ということなのかと思いました。

やはり、ウィークデーはなかなか書けません。が、いつも帰宅の電車で粘ります。粘っていると書くことが出てきて、今日はこうなりました。

それではみなさま、おやすみなさい。

Music

以前にも書きましたが、音楽の嗜好というものは、人それぞれで、決して一致することはないです。

音楽の嗜好の全体を、音楽志向総体、という言葉で表してみます。それは、まるで人を包む大きな球体のようなものです。

たまに、音楽嗜好総体の一部が、他の人の総体と触れ合う時に、そこはかとない歓びを感じるのですが、お互いに話せば話すほど、その触れ合った箇所が互いの総体の中で、ほんのわずかなところだったということに気づき、落胆のような、寂しさのような、複雑な気分を味わうものです。

時に、同じ演奏家や、同じ作曲家がお互いに好みである、ということが分かったとしても、ほかの演奏家や作曲家について話が回らないとか、あるいは、その作曲家の別の作品を互いに知らなかったり、様々な音源を聴いたか聞かないかは、絶対に一致しないのです。

完全に一致する音楽嗜好総体というものは、ありえない理想です。もちろん、論理的にはありえますが、奇跡です。例えば、チンパンジーがデタラメにタイプライターを叩いて聖書を丸ごと打ち出す、というぐらいの奇跡です。

時に、その落胆の中に、相手の音楽嗜好総体の豊かさや大きさへの羨望や、あるいは自分の音楽嗜好総体の小ささへの劣等感や、音楽嗜好総体を膨らますことをおこたった罪悪感に苛まれることがあるのです。

しかし、相手の音楽嗜好総体の全貌を知ることはできません。それは、他者に分かることはないのです。球の全貌を同時に見ることができないように。あるいは、球の中身まで見ることができないように。

かつては、相手の音楽嗜好相対の大きさにおののいたり、自分の音楽嗜好総体が小さいのではないか、と思うことがありましたが、それは幻影のような気がします。常に、相手というものは大きく見えるものです。

などということを、学生のころから知っていればよかったのですが、そうもいきませんでした。

なーんてことを考えながら、仕事場からの帰宅電車を過ごしました。

つれづれのようなエントリー。

今日の東京地方は暑さも一服。法廷深夜時間前までめいいっぱい残業して、なぜか達成感のようなものを感じながら。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日、学習院大学史料館より、こちらをいただきました。写真 1 - 2016-07-05

美しいお葉書です。

それにしても、辻邦生の世界は夢のようです。夢すぎて覚めるのが辛いです。そんな世界です。また夢を見たくなります。

日伊国交樹立150周年記念 園生忌 辻邦生ミニ展示「春の戴冠・嵯峨野明月記」展

春の戴冠と嵯峨野明月記のミニ展示と、7月23日に「辻邦生のボッティチェリ観をめぐって―小説と歴史のあいだで」という講演があります。また、7月29日には「遠い園生」の朗読会があるそうです。

7月15日(金)~8月12日(金)までの開催で、月~土 10:00~17:00が開室時間とのことです。7月31日は日曜日ですが特別開室とのことです。

詳しくはリンク先をご覧ください。

とりいそぎ、おやすみなさい。

Johannes Brahms

先日、コンサートでブラームスの交響曲第1番を聞いたのですが、聴きながら何か、複雑な気分がありました。

ドイツ・ロマン派の真骨頂というべき音楽で、ビルドゥングス・ロマンのような、成長の物語で、まるで、ヘッセのような世界。これも、当時も本当に信じられていて、それが音楽で表現されたのがこの曲ではないか、と思ってしまったのです。

ブラームスの本心はわかりませんが、曲自体を聴くと、本当に純粋で理想へと向かういわゆる人間の成長の物語が聴こえてしまい、ブラームスの純粋さがよくわかったような気がしたのです。

もちろん、ブラームスが本当にそうかどうかはわかりません。ダブルスビークの可能性がありますから。

それでもなお、クララ・シューマンへの複雑な思いを勝手に想像したりして、なにか感慨深いものがありました。

その後、ワーグナー、マーラー、シュトラウスは、(恐らくは)西欧の自壊の前触れを感じとり、音楽自体の崩壊を予感させる作品を生み出し、ロマン派は終焉した、ということなのかと思います。(西欧の自壊:テキストの崩壊=ニーチェ、ユークリッド幾何学の終焉、主体の終焉=フロイト)

しかし、いまでもブラームスが好まれているのは、どこかに近代がなしえたことへの共感が、少しばかりはいまの日本にもあるから、ということなのかも、と思います。どこかへ進歩していこうとする。司馬遼太郎を読むと、それが、危険な方向に行くこともあるとのことですが、逆に日本人らしく「あいまい」に処理できるといいなあとも思います。これも司馬遼太郎の受け売りです。

今日はこちら。
ハイティンクのブラームス交響曲第1番。ロンドン響の弦の響きが力強く、ハイティンクらしい締まった演奏。

Symphonies 1-4 / Double Concerto

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London Symphony Orchestra
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そういえば、日本人の日本人らしさは、様々な文物を吸収するところ、と、司馬遼太郎が書いていたと思います。仏教と神道を融合したり。そうした融合の知恵、「あいまい」に処理できる能力が、もしかすると今でもブラームスを受容しているということと関係があるのかもしれないと思いました。

今日も仕事関係の用事で一日中外出。また明日から早出で働きます。

ではみなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous


昨日、いろんな方々と会って、日常から離れたものに接したので、少し刺激的でした。今日は、少し泳いで、自転車を1時間ばかり漕いでリフレッシュしました。
明日は仕事関連の集まり。明後日は仕事場の新規配属の方への講習の講師をやります。準備はイマイチ。オーバーワーク気味。だだ、オーバーワークかどうかは、人それぞれ。客観的数値化できないの難しいところ。まあ、また明日から頑張ります。

みなさま、おやすみなさい。

Miscellaneous

なんだかほんとうにつれづれなエントリー。

今日、仕事場を出ると、潮の匂いが漂っていました。

たしかに、この時期な東京は、山手線の中の区域まで潮の匂いが入りこんでくることがありました。大学のころにもやはりそうした経験をしたことがあります。東京が海浜の街だということを感じさせます。

東京に来てからそろそろ四半世紀経ちます。そのうち5年ほどは神奈川西部に住んでいたこともありますが、それ以外は東京住まい。最初の頃は都心に近いところに住んでいましたが、それ以外は郊外暮らし。そのほうが気が休まるようになってきました。

東京に来る前は、大阪にいたこともあれば、九州にいたこともあります。東京の郊外になんねんかすんだこともありました。そんななかで、やはり、いちばん肌に合うのは、両親の故郷の感覚であるとか、両親の子供の頃の風景のようなものなのかも、と思います。結局原風景というのは、両親の子供時代の思い出話においてあるものだからではないか、と思うのです。もちろん、私にとっては、という限定付きではあります。

長い間親しんだものは、それだけで価値があります。昔からの友人や、昔から聞いていた音楽というものもやはりそうです。

それがこちら。

Brahms: Symphony no. 1; Song of the Fates
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ブラームスって、本当に純粋なひとだったのではないか、と思います。ロマンはの良き時代、というところでしょうか。。

こうした音楽も昔から聞いているもの。新しいものも取り込みながら、旧きよき友人のような音楽も大事にしていきたいです。

きょうはとりいそぎ。おやすみなさい。