「春の戴冠」のひとつのモチーフが「永遠の桜草」でした。桜草という美の「原型」をどうやって永遠に保持するのかという問題と理解しています。あるいは、それは、イデアールな美のようなもの、美そのもののようなもの、絶対的な美のような超越的な観念があって、それが、例えば桜草において分有されていて、という文脈で捉えています。私のいささか単純な理解なのかもしれません。
そうした、イデアールな何かを目指すことが神的なものへと繋がる道で、「暗い窖」という言葉で示されるような虚無への墜落に対抗するものだ、ということだと思っています。
先日、この「春の戴冠」の終局の場面を読んでいた時に、この「原型」という言葉が、逆の意味で使われている、ということに気づき、背筋が凍る思いでした、それは、やはりサヴォナローラの騒ぎが起こったのちに、サンドロが語る言葉の中にあります。
原型の繰返しじゃないだろうか。いかにも次々と出来事が起り、その都度 、びっくりするようなことばかりだけれど、もっとよく考えると、ただ同じ原型が、別の意匠をまとって現われるにすぎないんだ。ぼくらはそうした幾つかの出来事の原型を持っていて、それがぐるぐる廻転して現われるのを見ているんだ。
まるで、桜草が、イデアールな美を分有しているように、サヴォナローラをめぐる騒ぎも、やはり「原型」の繰り返しの一つに過ぎないということ。つまり、結局は、同じことが繰り返されるということ。逆に言えば、何も変わらないということ。先日も書いたように、「嵯峨野明月記」で、本阿弥光悦が加賀に赴いて、冬の日本海の波濤を見て、世の中の動きというものはこの波のように繰り返し繰り返し打ち付けるものだ、と悟るシーンがあったと記憶しています。あの諦念と同じものを感じます。
また何か薄暗い諦念のようなものになってしまいますが、様々な歴史は繰り返さざるをえないのだ、ということなのでしょうか。良いものも悪いものも。
歴史は終わったということを感じることがあります。ここでいう「歴史」というのは、ヘーゲル的な、進歩する歴史なわけですが、そうした進歩する歴史が終わるということは、過去への回帰が生じるということなのでしょうか。願わくば螺旋系に上昇する歴史であってほしい、と思います。
今週に入って風邪をひいてしまいました。東京は、この一週間急に寒くなりましたので。ですが、今日、梅雨があけ、夏が戻ってきました。やっと東京も夏ですが、うまく乗り切りたいです。
それではみなさま、おやすみなさい。